ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 有田に降りた 5

2014年10月07日 21時28分55秒 | ウォーキング

山口王子のあるところは小さな公園になっていました。



この王子は昔は「蕪坂山口王子」
という名前で御幸記に登場しますが、
それ以前の西暦1100年代には
記述のない王子です。



また江戸時代には
「鏑鎚(かぶつち)王子」
ともいわれ、名前が変遷した王子ですが、
根強く残っているのは
山から下りてきてホッとした参詣者には
ありがたい王子だったのでしょう。

ふもとの方を眺めると、
有田川対岸のミカン山が見えていて、



山を下りてきた直後の

「熊野はまだ見えぬか」

という上皇たちの言葉が聞こえてきそうな気がします。

スタートして2時間20分。
そろそろここでお昼が近づいてきました。

近世になる少し前まで、
この王子社の周辺に茶店が3軒あったそうです。
そんな記述をみているとお腹が空いてきましたが、
スタンプを押して



もうひと踏ん張り歩きましょう。

ふたたび歩き始めて
振り返ってみると、
今降りてきたばかりの山がそびえています。



あまりにもクネクネと降りてきたので、
どこをどう通ってきたのやらさっぱりわかりませんでした。

ここにもあった沓掛の上り口で見かけた
丸太のガードレールを眺めながら、



しばらく歩いていると



久々の自販機登場です(写真撮り忘れました)。
峠の向こう、市坪地区で見かけて以来です。
このコースは汗も大量に出ますので、
ここを歩くとき、水は必携です。

有田ミカンジュースとか入っているかな
と思ったけれど、普通の自販機でした。

さて、伏原の墓に到着しました。



この墓のいわれは本当にかわいそうです。

今でこそこうして楽しく熊野古道を歩いていますが、
昔はやはりある意味命がけの旅でした。
再生信仰の地を訪ねて歩くのですから、
身体に何らかの異変がある人などもいたかもしれません。
いつ果てるとも分からないわが身を案じて、
もし行き倒れたらこれで私を葬ってください
という意味で服の中にお金を縫いこんでいたそうです。
たぶん三途の川の渡し賃である六文銭も
縫いこんであったのでしょう。
それが当時の旅人のたしなみでもありました。

追いはぎが旅人を襲って、
服を強奪していくのも、
そんなお金が目当てだったのに違いありません。

そしてそんな心配通りに、
参詣の途中息絶えた人も多く、
道中のあちこちに祀られてあったそうです。

それを、ここに集めてきて弔ったのが、
この伏原の墓です。

墓石には遠く静岡から来た旅人や
福知山から来た旅人の名前も刻まれているそうです。

帰路ならまだしも、復路であれば
さぞや無念の死であったでしょう。

今の旅人の無事を見守ってくださいと祈りつつ、
合掌しておきました。

ようやく町らしいところに出てきました。



久しぶりの信号のある交差点の
角にあったのが「熊野古道ふれあい広場」です。



熊野古道の様々な案内板や、



あずまや、トイレもある



立派な休憩所でしたので、
ここで昼飯にすることにしました。

おお~、ここの自販機は
売られている飲み物は普通ですが、
空き缶入れがこんなことになっています。



きっとこれは有田市長の陰謀に違いありません。
有田の望月市長は若くて元気な市長です。
その市長が実は箕島高校野球部出身なんです。

一度お会いした時に、
野球で甲子園のグランドには立てなかったけど、
市長になって甲子園で始球式をしたときには
「市長になってよかったあ」とつくづく思ったそうです。

その明るさで有田を元気で活発な街に
してほしいと思います。

そんなことを思い出しながら、
お昼の用意をしました。

今日の昼飯はこれ。



海南のコンビニで買い、
ここまで背中のリュックで熟成させてきました。

ベンチもきれいでなかなか居心地もよく、
食後のコーヒーまでしっかりいただいてしまいました。

これで、今回の熊野古道歩きはほぼ終了です。

このあとは、この時点で読了までもう少しとなっていた
有吉佐和子の小説「有田川」ゆかりの場所を
訪ねようと思っています。

その話があと一話続きます。