ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

お絵描き教室その1

2013年10月31日 21時34分33秒 | お絵かき

前回報告した、
ボランティアの講師による
お絵描き教室に参加してきました。

今日のテーマは
鉛筆の使い方とデッサン。

天気も良かったので、
ジムの近所の公園に歩いて行き、
思い思いのスケッチをすることになりました。

メンバーの中には、
自分の水彩画の作品を
持ってこられている方もおられ、
その作品のレベルの高さに驚きました。

水彩画の特徴を見事に生かし、
静物画を描かれていたのですが、
ぼかし具合、にじみ具合が絶妙で、
「こんな絵が描きたい!」と思いましたね。

ベンチに腰かけたところの、
地面近くに「ヤブガラシ」が生えていました。
植物に関しては、
こちらが講師になって
「これは鳥足状複葉という
少し珍しい葉っぱの付き方をするブドウ科の植物です」
とウンチクをたれて解説すると、
じゃそれを描こうということになりました。

それに先立って、
6Bから6Hまでの14種類の鉛筆を使って、
筆圧と濃さの加減を知るためのレッスンをやりました。

その一部がこれ。



これをするのは
鉛筆によるデッサンでは有効なそうです。

そしてこの作業の結果を見るだけでも、
描く力がわかるそうです。

そのあとは自分の好みの濃さの鉛筆を使い、
絵を描きはじめます。
doironはBを選びました。

葉柄が三つに分かれ、
そのうちの二本が
途中で二股に分かれているという
鳥足状複葉については
doironの説明でわかってくれたようです。
しかしそれだけでは、描けません。
葉っぱの縁は、どのようになっているのか、
葉脈はどのように流れているのか、
縁のギザギザはどれくらいとんがっているのか、
などを皆さん持参の虫眼鏡で
観察しながら描いていきます。

植物画を描くときには、
このような作業はとても大切で、
例えば樹木全体を描くときでも、
細かい部分はちゃんと押さえておかないと
どこかでウソになってしまうからです。
と、講師の方は力説されていました。

そうして、鉛筆で描いたヤブガラシがこれ。



講師の方に教えていただいたおかげで、
なんとなくそれらしく描けて大満足でした。

こんな風に、
絵に描く題材として捉えてみようとすると、
身の回りには無限の題材があるなあと思いました。

他にも水彩絵の具の場合、
色を混ぜるのはこうするのだとか、
印を押すのはこういう考えで位置を決めるのだとか、
いろいろと目からウロコのお絵描き教室でした。

次回が楽しみです。


遅咲きの貴婦人

2013年10月30日 22時12分50秒 | 自然

公園を歩いていても、
街でオジチャリに乗っていても、
あちこちから香ってくるのが

キンモクセイ

毎年、祭りの頃にいっぱい花をつけて、
目と耳を楽しませてくれます。
あの香りをかぐと、
祭りのあの興奮がよみがえってきます。
トイレで芳香剤のにおいをかいでもよみがえります。
と、もうひとつこの香りでよみがえるのが、
スーちゃんの事件。

満開のキンモクセイの香る庭で、
転倒したのがきっかけで
介護になってしまったからです。
それは、この香りのdoironにとってのマイナス面です。

香りにまつわる思い出は数々あります。

粉っぽいにおいをかぐと、
未だに大学時代の研究室を思い出します。
凝集性紛体の挙動・・・これが卒論のテーマでしたっけ。

また、ウエットスーツのゴムの香りをかぐと、
トライアスロンのスタート前の
波打ち際での緊張がよみがえります。

沈丁花の香りは・・・
ムスクの香りは・・・


とまあ、いろいろあるわけですが、
今年のキンモクセイの香りは
いつもより強いように思います。

夏の暑さが影響したのか、
花の時期が後ろにずれたたようです。
そんな遅咲きだったがゆえに
精一杯「わが世の秋」を
満喫しているのでしょう。
その姿がこれ。



金木犀のその姿は、
冬は固い枯葉の鎧をまとい、
夏の間の暑苦しいまでの緑に覆われた姿と違って、
オレンジ色の花で飾られたその姿は
愛嬌のある、それでいて上品な貴婦人のようです。

絵に描こうと思いましたが、
なかなかこれがね難しい。

あの微妙な貴婦人ぶりを表現するには、
まだまだ腕は未熟でした。
だって、写真に撮ってもうまく表現できないくらいですもんね。







見たようには絵には描けても、
香りまでは描けませんしね。

画紙からキンモクセイの香りが
香ってくるような絵を描けたらなあ、
なんて思っています。

そうそう今度、ジム友と一緒に、
絵に心得のある人が、
ボランティアで開いてくれている
お絵かき教室に参加してきます。

折しもテーマは、「樹木のスケッチ」らしく楽しみです。

趣味で始めたお絵かきですが、
デッサンも少し学び
水彩テクニックも少し憶えて
少しずつ花開きつつあることを
実感し始めている今日この頃。

キンモクセイが「遅咲きの貴婦人」なら、
退職画家は「遅咲きのおじさん」を目指します。

「おじさん」には「遅咲き」しかありませんけどね・・・


恐るべし、〇〇

2013年10月29日 21時12分22秒 | 最近の出来事

堺から再開シリーズのおまけ編の前に
昨日体験した「恐るべし」の出来事を
記しておこう。


ここんとこ街道歩きや街ブラで柿の木を見るたびに、
気持ちを焦らせていた。

御坊の実家に実っているであろう柿の収穫に、
先週行くはずだったのが
台風とそれに伴う悪天候で
のびのびになっていたからだ。

早いと熟しておらず、
遅いと多くが鳥の餌食になってしまうので、
頃合いが難しい。

こちらの町や山の柿の状況を見ながら
タイミングを見計らっていくのだ。
もちろん、ここから100km以上南にあることも考慮してね。

で、予想したタイミングを一週間遅らせて、
今日行ってきた。

途中で見る柿もほどよく熟している。
これはちょうどいいかもと思いながら
車を走らせた。

午前10時ころ到着をし、
真っ先に見てみると、
なってるなってる。
ウハハ~
ちょうど頃合いのおいしそうな柿がなっていた。

しかし、昨年に比べて
量は半分くらいかなあ。

そこには二本の柿の木があるけど、
どちらも不作のようでした。





雑草は豊作やのになあ。



着くなりミセスは家の掃除と片付け、
doironは庭の管理だ。
まず、スズメバチの巣がないことを確認
その後長靴を履いて
柿の木の周りの下草を、
チョキチョキと両手で切る大きな剪定ばさみで刈った。

雑草の中でも引っ付き虫が大敵なのだ。
以前、スニーカーがパアになるほど
ひどい目に合っていたから、
長靴は必需品だ。

アメリカセンダングサやイノコズチを
ツワブキの花などを切らないように気をつけながら駆除。

この時、二軒隣のお兄さんが、
垣根越しにこちらを興味深く眺めていた。

きれいになって、
活動しやくすなったところで、
さっそく柿の収穫に取り掛かった。

複雑に絡みつくツル植物に邪魔されながらも、
最後に鳥のために
それぞれの木に実をひとつずつを残して収穫。

あーあ、50肩、いや60肩にはつらい作業だこと。

こうして苦労して収穫した柿がこれ。



当然我が家では食べきれないので、
施設、病院にいる老親と
日ごろお世話になっている人達に
おすそ分け行脚をすることになるだろう。

そのあと、空き地の雑草とりは
シルバーに任せるつもりだったけど、
近所迷惑にならないように、
セイタカアワダチソウだけでも倒しておこうと、
先ほどの剪定ばさみで
一本一本チョキチョキと汗まみれで倒していたら、
先ほどのお兄さんがやってきて

「おいやん、これ使い」

といって、草刈り機を置いていった。

ちょちょ、ちょっと待って。

実はこの草刈り機は
ほとんど使ったことがない。
したがってエンジンのかけ方すら知らないので、
親切ついでに教えてもらった。

「こうやるんよ」といいエンジン点火

ブイーン~。

勢いよく先端の丸のこが回り始めた。

「これが、アクセルね。ほんで、こうして減速。」
とお気軽におっしゃってくれるのだが、
なかなかこれが手ごわい。

細かい砂や切れ端が
こちらをめがけて飛んでくる。
へっぴり腰でやっているのを見かねた兄ちゃんが、
「こうやるんやで」と見本を見せてくれた。
みるみる地面が見えてくる。

恐るべし、草刈り機。

なんとまあ見事な
とほめちぎって
たくさんやってもらおうと
一瞬画策したのだが、

「わいはこれを仕事にしてんねん」だと。

家は二軒隣のお兄さんだ。
これは!とひらめいた。

「それやったら仕事でここもやってくれへん?」と頼むと、
二つ返事でOKをもらった。
あとは値段交渉だ。
和歌山弁と泉州弁が火花を散らした。

向こうの言い値の内訳を聞いて
(和歌山弁はよく知らないからうまく書けません)
最終的に、泉州弁で
「しゃーけど、交通費いらんやん」と2千円値切り、交渉成立。

シルバー価格の4分の1以下で、
草刈りの他
植木の剪定、ごみの処分までやってもらえるようになった。

ラッキー。

これはいいぞとさっそくミセスに報告したら、
何やら洗面所でごそごそしている。

なんと、ゴキブリホイホイを踏んづけて、
靴下が捕まって取れないのだという。

確かにいくら引っ張ってもはがれない。



そのあと先ほどの兄さんが、
名刺を持って訪ねてきてくれたのだが、
ミセスは片足靴下、片足素足で対応していた。

帰ったあと、「足見てたで。絶対変な奥さんやと思ってたで」
と言ってやったら、慌てて靴下脱いでたけど
時すでに遅し。

「代わりに僕が足元見て
値段交渉しといたったで」
となぐさめてあげ、直後
「でもいっそ、素足で捕まって、
ゴキブリホイホイを引きずりながら
歩いていた方がもっと面白がられたのに」
と言ってやった。

恐るべし、ゴキブリホイホイ。

庭は今週中にきれいにしてくれるそうです。
メールをお待ちしております。


堺から再開、熊野街道 6

2013年10月28日 21時44分15秒 | ウォーキング

立派な看板からぐるっと回っていくと、
等乃伎神社の入り口に出ます。

周辺の派手な看板と違って、
境内は静かな感じですが、
そんな中で社務所周辺は別世界の雰囲気でした。
とっても賑やかだったのです。

それではいよいよ
「よそでは手に入りにくい」お守りと御対面です。

見ると、実にたくさんのお守りが
所狭しと並べられています。
1ヵ所がこれ。



商売繁盛、無病息災はまあありがちですね。
どこでも手に入るでしょう。
でも「カラオケ上達」となると、
かなりピンポイントなお願いですねえ。
持っていたら、声が出るようになる?
音程がしっかりとれるようになる?
そんな願いを聞く神様も大変です。

すべてがうまくいく「へのかっぱ守」にいたっては、
もうすべてのお守りを凌駕しているではないですか。
これひとつあれば十分ですね。

なるほど、たしかに
「よそでは手に入りにくい」お守りです。

横を見ると、病気別に非常に細かく
22種類の病気封じのお守りが設定されています。



親父の場合、あれとこれとそれとあっちとこっちと・・・
10種類は必要かもしれません。

doironはやはりこれですね。



書斎の本棚にありがたく掲げておくことにします。

こんなスポーツ勝守もありました。



でもね、残念ながら「マラソン」「トライアスロン」などはありませんでしたね。

他にもいろいろありましたが、
神社に来てあまり楽しんでいてはいけません。

気持ちを切り替えて、
ちゃんとお詣りしてきました。



十分目的を果たして、再び街道へと戻ります。

街道への戻り道は
神社の裏を流れる富木川が
村中を縫うように流れているのを眺めながら、
車の通れないような細い路地を歩いていきます。

まるで迷路のようです。

途中のあばら家のひさしには、こんなものが・・・



小型スズメバチの巣です。
女王バチが巣別れをして、
単独で巣をつくるときに
まずこんな形の巣をつくることがあるそうです。

これはチャンス!
中には1匹しかおりません。

ジダンにリベンジしてもらいましょう。

13号線に出て、清掃工場の大きな煙突が見えたら左折します。

広々とし、そしてのどかな道を歩いていきます。



遠くに、こんもりした小さな山が見えましたが、
黄金塚古墳です。

全長100m近い立派な古墳で、
一説には卑弥呼に関連した出土品も見つかったとか。
近くにこんな立派な古墳があったとは驚きです。
国の史跡になっています。

そのまま広い道を行くと間違いです。

街道は途中から右斜めに続く細い道に入っていきます。



見所もあまりないので、
このあたりでは知らないうちに
長い距離を歩いていたことが後でわかりました。

今回の終点も近づいてきましたので、
速度はテクテクからスタスタになっていきました。

ここから先はしばらく、とても街道らしい道が続きます。
こんな感じ。



おおっと、これはすごい。



店の入り口ガラスに張ってあるのは、
全部お酒のラベルです。
酒なら何でもそろいそうですね。

こんなお店を発見するのも、
街道歩きの醍醐味のひとつです。

左手に「和泉国三宮」の聖神社大鳥居が見えた時が、
八軒家浜から続く熊野街道が、
久米田までつながった瞬間です。



あとは、久米田~泉佐野まで歩けば、
大阪府内はほぼ完踏です
(山中渓~雄の山峠が残っています)。

この後、以前に訪ねた「篠田王子」、「平松王子」も再訪し、





家まで約16キロのウォーキング終了です。

そうそう、小栗判官が夜通し歩いて、
このあたりで夜が明けたという
「明けの坂」を前回紹介できなかったので、
載せておきましょう。



夏の間暑くて街道歩きを中断してましたが、
これからまた、仕事の合間に
街道、山を精力的に歩こうと決意しつつ、
堺から再開シリーズ、
あと一話おまけを残して終了です。

お付き合いありがとうございました


堺から再開、熊野街道 5

2013年10月27日 21時39分43秒 | ウォーキング

熊野街道が、
旧王子を通るルートであれば
通過するであろう旧地名を持つ地域に
立派な道標が立っています。

1本はこれ。



「右 わけ妙泉寺」と書かれてあります。



側面には是より一里半と書かれてあり、
和泉の和気町にある妙泉寺まで
距離的には大体そんなものです。

道標というより、お寺の広告看板みたいなものでしょうか。

しかし、この妙泉寺が
あちこちの道標に登場するのはなぜでしょう。

一度妙泉寺を訪れてみましたが、
さほど寺構えも大きくない普通のお寺なんです。

もしかしたら、PR予算を多くとっていた寺だったりして。

これもいずれ調べて見なくてはいけないと思っています。

そしてもう一つは、
明治35年に大阪府が建てた道標です。



「右 伯太 牛滝 岸和田 和歌山」と書かれ、

左側面には



「右 堺 住吉 大阪 左 三林 父鬼 槇尾 天野」と書かれてあります。

書かれてある地名からして
牛滝街道から移設されたものではないかと思われます。

さらに東に少し寄り道すると、
頭に笠石を乗せた立派な道標があります。



そこには



「右ハ しのだみち みづまみち うしたきみち」、
「左ハ まきのおみち よこやまみち ふどうみち」と書かれ、
「さかいへいちり」とも書かれておりました。

堂々たる要衝ぶりですね。

ろくな地図もない時代に、
きっとたくさんの人が
この道標に導かれたのだと思います。

そんな道標を眺めたあと
再度東の商店街に戻り、
テクテクと南下していきますと
旧13号線の交差点、「上(かみ)」の交差点に出ます。

熊野街道はそのまま真っ直ぐ続いていくように見えますが(矢印)、



それは「父鬼街道」です。

父鬼、鍋谷峠を経て和歌山の下笠田の西で
紀州大和街道につながっている
長い街道の起点がこの「上」の交差点です。

熊野街道は、右折れするように
旧13号線に沿ってしばらく歩道を歩きます。

歩いていると、道沿いに
神社の立て看板が出てきます。



それもあちこちにあります。

「等乃伎(とのぎ)神社」の看板です。

JRの富木駅の近くにあるこの神社の存在は知っていましたが、
訪れるのは初めてです。

気になる由緒をよいしょと確認してみますと・・・。

近くを流れる「兎寸河(とぎがわ)」のほとりに、
立派な楠の巨木があったそうです。
その巨木ぶりは、朝日を受けると影が淡路島まで届き、
夕日を受ければ高安山を超えて影が伸びたそうです。

古事記や続日本記にも記載がみられ、
藤原家の偉いお人がやってきて
住み着いたところから「殿来(とのき)」と名付けられたというのが、
おおざっぱな由緒です。

この神社は前から気にはなってたんです。

その理由は、看板に書かれたこの言葉

「よそでは手に入りにくいお守り」

に反応していたからです。

なので今回の街道歩きで
訪れるのを楽しみにしていた場所のひとつでした。

さあ、手に入りにくいお守りとは
一体どんなお守りだろう。

もしかしたらとても大きくて
手に入りにくいのかもと思いながら、
街道を少し外れて西の村中に入っていきました。

いよいよ初対面です。

近づくにつれ看板も増え、
こんな看板も現れました。



「ははーん、さては手に入りにくいお守りとはこのステッカーのことなのか」
とも思いましたが、これではあまりにご当地すぎます。

入手の必要性を感じません。

もっと別のお守りでありますように
と願いながら、たどり着いたのが、ここ。



神社の看板にもその言葉が記載されています。

はてさていったいどんなお守りが待っているのか
ワクワクしながら次回に続きます。


堺から再開、熊野街道 4

2013年10月26日 21時15分02秒 | ウォーキング

熊野詣の旅について、
藤原定家が書いた「熊野御幸記」には
このあたりの王子を
「大鳥居新王子」と記しているそうです。

その王子跡というのが、
ある資料では大鳥神社の本殿東側にある
「大鳥美波比(みはひ)神社」であるとされています。

ここです。





なぜこの神社が王子跡なのかというと、
天照大神を祭神としていることから
王子社にふさわしいとされているそうです。
ちょっと理由としては弱いような気がします。

それもそのはず、
ある時旧北王子村の祭りで
この美波比神社の札が掲げられていることに気付いた人がいます。
そこから調べたところ、
ある個人宅に「美波比神社旧址」
と書かれた石碑があることがわかったそうです。

もし美波比神社がそこなら
位置も変わります。

で、さらに調べたところその石碑が
元々あった場所が昭和30年頃に撮影された
風景写真に偶然写っていることがわかったのです。
このことは当時の新聞に載っているそうです。
ぜひとも見てみたいと思ってます。

そうして、当時、美波比神社のあった跡が特定され、
それが今の旧NTT鳳支店の辺りであることがわかっています。

どうやらそのあたりが、
大鳥居新王子跡という説が有力だそうです。

でも「新」ということは
「旧」王子もあるはずです。

その旧大鳥居王子は、
宮池を埋め立てて造った
鳳小学校付近だという説もありますが
定かではありません。

もし熊野街道が「新」王子を通るなら、
神石市之町で不自然に折れ曲がった街道も、
そのまま真っ直ぐ自然につながりますし、

「旧」王子が推定の場所であれば
「大鳥神社」の大鳥居の前の道の延長線上で、
道標のいくつかある道を通ることになるので、
どちらとも言えないし、どちらも正解なのかもしれません。

旧と新の時代で街道が推移していったということでしょう。

これ以上に新事実はないようで、
そのあたりはまだあいまいなままだそうです。

王子跡といい、神社の盛衰といい、
調べるにつれ、こういう歴史は複雑に入り組み、
歴史の迷宮に迷い込みそうになります。

とりあえず王子のことは押さえましたし
このへんで切り上げるようにして、
街道を進んでいきましょう。


神社を出るとほどなく、
JR阪和線の踏切が見えます。


「たぬき寿司」などという気になる看板を眺めながら
ここを渡ると鳳本通商店街に入っていきます。



このあたりで歩き始めて7.5キロ
二時間ほど歩いて
お昼も少し過ぎたので
腹ごしらえをすることにしました。

入ったのは商店街の中ほどにあり、
この10月にオープンしたばかりという
このお店。



ヘルシーなお惣菜の定食を
生ビールでおいしくいただきました。
この季節とはいえ、歩いていると小汗をかくので
生ビールは最高ですな。



このあたりは祭りの加減もあって、
旧地名で呼ばれることが多いようです。

公民館の名前もそういう旧名称が冠されていました。

北王子会館の前にはやはり、
熊野街道の立派な石碑もあって、
「王子」がこのあたりにあった旨のことが書かれてありました。



また、長承寺の地名も残っていて
薬師堂の前にはこんな「長承寺雷井戸」も残っていました。



雷を閉じ込めたといわれる井戸のいわれは、
和泉の西福寺にある「雷井戸」のそれと
ほとんど同じものでした。

きっとこのあたりも雷被害が多かったのでしょう。

現に大鳥神社の社殿も
明治38年の落雷で焼失しております。

「雷井戸」といわれる井戸は
日本の各地で見られます。

静岡県や熊本県にも「雷井戸」があるそうで、
どうもこれは井戸にフタをすると、
中で水の湧く音がゴロゴロなったりするところから
きているんでしょうね。

そんな北王子、長承寺など旧地名の村中には、
立派な道標も何本か残されています。

それはまた次回に続きます。


堺から再開、熊野街道 3

2013年10月25日 21時52分53秒 | ウォーキング

笑姿(えびす)様を祀る石津神社に架かる戎橋を渡り、
しばらく堺区と西区の境界となっている街道を南下します。

ホテル街をかすめ、
パチンコ屋、風呂屋などが居並ぶ歓楽街を抜けると
「神石市之町」の交差点に到着します。



この交差点は、6叉路となっており迷いやすいポイントです。
道はそのまま30号線、
通称13号線の東側にまっすぐ続いていくように見えますが、
設置された看板や
次の目的地鳳大社への経路を考えると、
30号線の西側の道を行くべきだということがわかります。

割合地元なので、この辺りはある程度の土地勘もありますのでね。

大きな病院の横を通り、
石標を見ながら歩いていくと、



大阪高石線との交差点に出ます。

その交差点の名前が、なんと「鳳小栗街道」です。



そうです、このブログの読者ならもうお分かりですよね。
熊野街道はこのあたりでは
「小栗街道」と呼ばれています。

交差点には立派な道しるべが2基もあります・・・
あれ?1基しかない・・



と思って探してみますと、
交差点を渡ったところの草むらに
すっぽりと隠れていました。



鳳大社が近づくにつれ、
街道沿いの家も、
なんとなく古めかしく立派なのが増えてきます。



虫籠窓や鍾馗さんはないようでしたが、
こんな家もありました。



そしてもうこのあたりから鳳大社の社叢が見えてきます。

ここが和泉国一宮の鳳大社、
正式名称は「大鳥神社」です。



訪れたのが22日だったので
「にいび」という市がたっておりました。

あれ?ちょっと待ってくださいよ。
先日、泉大津の勅使道を歩いた時に、
泉井上神社を「和泉国一宮」と紹介したはずです。



一体どうなっているのかと調べてみますと、
「大鳥神社」は確かに「和泉国一宮」でした。

そして、勅使道で紹介したように
「同二宮」は泉穴師神社。
ついでに「同三宮」が
これも一度紹介した「聖神社」、
「同四宮」が積川神社、
「同五宮」が日根神社です。

どれもこれもこれまでに
何度かこのブログに出てきた名前ですね。

では、泉井上神社は「何宮」なのか?
というと、上記五社を合祀している
「惣社」だったんですね。

だからこの神社を「一宮」というのも
「二宮」というのも、間違いではない、
とこういうわけだったのです。

当時、国府から歩いて2,3分のところにあるその神社を
「惣社」(「総社」ともいいます)にさせたのは、
もしかしたら遠くまで出向くことを面倒に思った
国府にいるお役人のわがままだったのかもしれません。

ま、それはさておき、大鳥神社の話に戻ります。

名前の由来は、
日本武尊の魂の化身である白鳥が、
大鳥連(おおとりむらじ)の住むこの地に舞い降り、
そこに社を建てて祀ったことからきているそうです。

境内には、白鳥が舞い降りた地が
一夜にして森になったという
「千種森」という神域があります。

先ごろ引退した宮崎駿の名作
「となりのトトロ」に、トトロの力で
ある夜一日にしてどんぐりから芽が出て
ぐんぐん伸びて森になるというシーンがありますが、
こういう伝説がもとになっているのかもしれません。

宮崎駿の作品を深く観賞すると、
こういう歴史的伝説を基にしているストーリーを
随所に発見します。

ま、それはこちらの勝手な思い込みなのかもしれませんが・・・。

さて、街道をはずれて大鳥神社の奥深くにまで入ってきたのは、
お詣りのほかにももう一つ理由があります。

この神社の奥深くに、
熊野街道の王子のひとつ

「大鳥居新王子」

があるとされているからです。

今回歩いた区間にあるまだ見ぬ王子はここだけですが、
この王子にも諸説ありまして、
その話は次回以降に続きます。


堺から再開、熊野街道 2

2013年10月24日 21時32分18秒 | ウォーキング

石津神社に到着したのは、11時05分。



歩き始めて40分くらいでした。

この石津神社は、
以前「紀州街道」を歩いた時に訪れた
石津太神社に比定されています。

境内にはこんな石も置かれてました。



しかし、どちらが本社で
どちらが分社もしくは御旅所なのかは
定かではないそうです。

主祭神は両社とも同じくえびす様です。

海から流れ着いたえびす様が
そこに5色の石を置いたのが始まりといわれています。

なので、「石津」なんだそうです。

ということは、このあたりは
船着き場の一つでもあり
治水の発達していない昔なら
時に海の水が流れ込む「津」であり、
湿地っぽかったことが想像されます。

えびすとはそうあの七福神で
鯛と釣竿を持っているあの神様ですね。

「えびす」にあてられる漢字は、
夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須と様々で、
七色の漢字を持つ神様です。
七福神の中では唯一国産の神様だといわれています。

大阪では「えべっさん」とも呼ばれています。

ちなみにビールは
「YEBISU」と表記します。
アブサンの大好物のビールです。
頭に「Y」がつくのは、
えびすをひらがなで書くときに
「ゑびす」になったり、カタカナでも「ヱビス」に
なったりするからでしょう。

ところが鳥居をくぐって



まず目に入る石標には
「笑姿」と書かれてあります。



これも「えびす」にあてられた漢字なんですね。

この石津神社は、
江戸時代に刊行された
「和泉名所図会」にも描かれています。



神社のすぐ南側には石津川が描かれ、
大きな橋が架かっています。

これは、これから渡ろうとしている街道上の「戎橋」と違って、
もう少し上流に架かっていたそうです。

石津川はよく反乱をし、
流れを変える暴れ川だったことが
この絵からもわかります。

絵をもう少しよく見てみると、
神社から橋を渡って道が左右に分かれています。
この道を右折し、田んぼのあぜ道のように
くいっと曲がって描かれているのが、
熊野街道だといわれています。

だから位置的にこの橋が
「戎橋」でないことがわかるそうです。

神社で二礼二拍1礼を済まし、
ふと横を見ると、
こんな写真が貼ってありました。



なんでも8月にあった
賽銭泥棒の犯行時の連続写真だそうです。
ま、こんなことまでして捕まえなくても、
本人にはきっと神罰が当たっていることでしょう。

それとえびす様は耳が遠かったといわれています。
なので、お願い事を
もっとよく聞き届けていただくためには、
御神体に近いところで、
大きな音をたててもらうのがいいと、
社殿の南側にこんな板が据えられていました。



カンカンカンと3度叩いて
音をたててからお願いするとよいそうです。
もちろんそうしておきました。

そうそう、ここの狛犬は、
口の中や耳たぶが朱に塗られ、
とってもゴージャスでした。



願い事をよく聴くので、
しっかりお願いしましょうというのを
表現しているのですかねえ。

石津神社を出ますと、
道はここで国道26号と別れて、
石津川の堤防に向かって
坂道を登っていきます。



その先に架かっているのが「戎橋」です。



この名前には馴染みがありますね。
あの道頓堀川に架かる
心斎橋筋の橋と同じ名前です。

あちらは、今宮戎に詣でる道に架かる橋として
そういう名前になっているというのが有力な説なんですが、
ここは間違いなく石津神社にお参りする
参詣道の橋として、
江戸時代に架けられた橋の名前を引き継いでいます。

橋下げた刻まれた橋の名前も、
その部分だけが古い石でできていました。
昔のを用いているんでしょう。



この橋の上から見ると、
石津川も結構深い川であることがわかります。





昔の人が渡ろうとした時に、
橋の位置、ひいては川の流れに
街道ルートが左右されであろうことがよくわかります。

また次回に続きます。


堺から再開、熊野街道 1

2013年10月23日 21時15分23秒 | ウォーキング

熊野街道は堺市内ではどこを通っていたのか
というのは、諸説紛々で
これといって決まった道を指しているわけではありません。
原因のひとつは地理的なものによります。
大和川のつけ替え、湿地の存在、
暴れ川といわれた石津川の変遷もあるし、
もっと細かいところでは
40以上も存在する古墳の堀からの
余水がもたらす地形の変化などもありました。

また、堺が商業都市として
大きく発達してきたという
歴史上の変遷も人々の流れを変え、
それに沿って街道も変遷していった
という時間的な変化もあります。

そんなあいまいな堺市内のルートについては、
いろんな人がいろんな推考を試みていますが、
そこまで突っ込んで書くには全く力不足なので、

今回は、大阪府が街道ウォーキングマップとして
作成されたパンフレット「熊野街道」の推奨ルートを歩きました。



そのマップでは、御幸時代には
間違いなく古墳周辺を通っていたであろうルートと
堺市街の発展後に歩いたであろうルートを、
御陵通で不自然に結んでいますが、



そのルート沿いにはやはり見所も多く、
道標も整備されているので
そこを通ることにしたのです。
諸説については折々に触れていくことにします。

さて、今回は
とにかく熊野街道を、八軒家浜から山中渓までの
大阪府内ルートを一本道でつなぎたいため、
かつて歩いたルートとの接点から歩き始めることにします。

以前に歩いた堺市内ルートとの接点といいますと、
南海本線湊駅から



山之口橋までを
助走ならぬ助歩とし、
そこから街道に入っていくことになります。

ここがその山之口橋です。



堺の熊野街道を語るときに、
必ず名前の挙がる橋だけに、
欄干にはそのモニュメントが設置されています。



橋の上に立つと、
これから歩く街道が
スーパーの横から続いています。



歩き始めたのは10時27分でした。

大きな仕事を終え、さっぱりした気分で
久しぶりの街道歩きにワクワクしながら南下していきます。

すなわち熊野詣の往路ですね。

道には随所に、以前からすっかりおなじみの
「歴史の道」シリーズの道標が堺市によって立てられています。





資料では300mほど歩いた少し西側、
阪堺電車の東湊駅近くに
道標があることになっているのですが、
見つかりませんでした。

残念!

初っ端がこれでは先が思いやられます。

気を取り直して南下を続けていきますと、
浜寺石津町の辺りで、
国道26号線に出ます。
そのまま道は国道の向こうに続いているように見えますので、
街道を分断した代わりに、
立派な歩道橋が付けられていました。

歩道橋を降りたところにあるのが、

「一里塚地蔵」です。

ここは大和川から4キロ、
すなわち1里のところにあるため、
一里塚といわれていました。

山でも丘でもなく、単なる土の塊のようであったといわれていて、



そこには地蔵が祀られ



「一里山地蔵尊」として、
地域の人に親しまれているそうです。

街道はそこから一旦、
26号線の一本東側の道を南下していきます。
石標の写真を撮っていると、
通行人の女性が
「写真を撮ってあげましょか」
と声をかけてくれたので、
道標と一緒に写していただきました。



夏から一気に秋が深まった感のある今日この頃です。
春にTVで放映された時にも来ていたこのウェアを
タンスから引っ張り出してきました。
これを着ると、さあ歩くぞと気合が入ります。

さらに南下していきますと、





道は再度26号線と合流します。
ここから、ほんのしばらく交通量の多い
国道の歩道を南下しますと、
本日最初の神社「石津神社」に到着します。

次回に続きます。


入院はいったい何度目だろ?

2013年10月22日 21時50分33秒 | 生活

いよいよ秋の街道歩きを再開し
小汗をかいて気持ちよく帰ってくると
どうも親父の様子がおかしいとミセスが言う。

声をかけると
顔に脂汗をにじませながら
「は、腹が痛い」という。
その時点で横になっていたので
起こそうとすると
どうにも起き上がれない。
そして症状は時々刻々と悪化していったので
これは、もう救急搬送しかないと判断し
119番に電話をかけた。

最近の救急車は
近くに来ると
ピーポーの音を小さくしてくれるんじゃね。
それでも日中だったので
近所の人が何人か出てきた。
これはもう説明責任があろうかと
簡単にみなさんに説明して救急車に乗り込んだ。

車内で詳しく状況を説明しつつ
電話で病院を当たってくれたら
二件目にかけた市立病院がヒットした。
1件目にかけたかかりつけの
入院歴の多い病院は満床で断られたが
二件目のそこは受け入れてくれるという。

さっそく救急車はサイレンを鳴らして
そこのけドライブ。
担ぎ込まれた救急処置室の前で
こんなこともあろうかと持っていった
文庫本が10ページくらい進んだところで
ドクターが説明にきてくれた。

何らかの事情で
尿道が詰まっておしっこが
出ていなかったみたいで
一気にドバっと出たら途端に楽になったそうでした。

親父の場合
尿カテ、ペースメーカー、チタンボルト等が
身体に埋め込まれサイボーグ状態なので
そのうちの一つ、尿カテが故障したようだ。

念のため、血液検査をしますので
結果を見てからどうするか判断しましょう
といわれ、そこから実に
文庫本100ページくらい待って
ようやく医者の説明が始まりました。

「この数値とこの数値が
めちゃめちゃ高いですねえ。
電解質のバランスも悪いし
このまま帰っていただくことは無理ですねえ」だと。

結局入院となりました。

入院に当たっては
最近の事から
血縁の事までいろいろと聞かれます。
現在飲んでる薬の10種類は
ソラで言えるのですが
既往歴となると大変です。
肩、大腿骨の骨折から始まり
心不全、がん、糖尿、高血圧、前立腺と
親父の華々しい既往歴を
イチから説明するのに
どれほど時間がかかったことか。
思わず「詳しくはWEBで」と
言いたくなりました。

それも、担当の看護師が
替わるたびに同じように聞かれるのと
何度も類似の書類を書かされます。

しまいにゃ、身内の病歴も
いっぱい書かされるので
「友達がスズメバチに刺されました。」
と書いてしまいそうになりましたぜ。

アレルギー、ぜんそくなどの項目の欄には
「特異体質ですか?」
と聞いてくる質問もあったので
はいに丸をして、「91歳であんなに元気なのは
ある意味、特異体質です」と
書きそうにもなりました。

とまあそんな具合に
突っ込みどころ満載でしたな。

それにしても、既往歴の中で
この病気は何歳のとき?とか聞かれても
全然正確には覚えていないものやね。
自分の病気でもあいまいなくらいやもんな。
なので、おやじの既往歴は
これを機会に
ブログを遡って調べておかなくては
と思っています。
まさに「詳しくはWEBで」ですねえ。

朝から、熊野街道の堺~和泉の
全長16キロを歩き
帰ってきた途端に病院とは、トホホです。

今日は身体も精神も
ええ修行になったと思うようにします。

街道シリーズはデータを整理出来次第
掲載します~