ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 有田に降りた 3

2014年10月04日 21時43分20秒 | ウォーキング

坂道が一旦平坦道になった頃、
沓掛の児童会館に到着します。



ここには、
沓掛の松、弘法井戸、そして「爪書地蔵」の説明板がありました。



沓掛の松のいわれは昨日書きました。
爪書地蔵はこのあとで出てきます。
弘法井戸とは、
弘法大使が地面を杖でトントンと突いて、
ここを掘りなさいと言われ
掘ってみたらそこから水が湧いてきた
という井戸だそうです。

以前大和三山を歩いている時に、
畝傍山の麓にも
同じいわれの井戸がありましたね。

弘法大師もdoiron同様、
あちこちに出没していたのですね。

え?お前と一緒にするなって?
まったくその通り!

沓掛の集落を抜けると、山道に入っていきます。
地面も土の道となり、
道の脇に咲く野草も山のそれになってきます。

これは「ヤブマメ」。



蚊柱が立つ竹やぶを抜けて、



登りきったところが「拝ノ峠」です。
あまりにも傾斜が急で







登っている人がみんな伏して拝んでいるように
見えたところからつけられた名前だそうです。

え?こんな山道に車が来ました。
しかも、シルバーマークを貼り付けた車で、
高齢者夫婦が不安そうな顔をして
通り過ぎていきます。

熊野古道の「拝ノ峠」と入力して
ナビに導かれてきたのでしょうか。
山かげに消えて行ったあの車は、
この先大丈夫だったろうかと心配してしまいました。

急な坂を登り終えて、
熊野ブルーの標識に沿って右折しますと



蕪坂の分岐に出ます。



このあたりに昔は茶店があったそうですが、
なんとまあ水とかどうしたのでしょうか。

「蕪坂」の名前は、昔「鏑(かぶら)矢」で鹿を射た
ことからつけられたといわれています。
では、なぜ戦場で合図代わりになるくらい
射た時に音の響く「鏑矢」を用いたのでしょうか。

それはむかし、
このあたりは天狗の住む山であるといわれるほど
不気味な山だったそうで、
矢の音響で威嚇をしたり、
邪を払ったりするためだったといわれています。

そういえば、
なんとなく暗く不気味な峠です。

その上「走行注意」「この先 宮原方面通り抜けできません」



の看板がいっそう不安を募らせます。

先ほどの車はいよいよ焦ったでしょう。
でもどこにも車は止まっておらず、
どこに行ったのでしょうか。
まさか、幻覚?

ブルブル、おーこわ。
先を急ぎましょう。

いくらなんでも歩行者までは
通行止めじゃなかろうと、
突入していきますと、
こんな防護柵に出会いました。



みればその下の道に
あの熊野ブルーの標識が立っているではないですか。



グルグル巻かれた針金をもどいて、
侵入していくことにしました。

道は、荒い石畳だったりして、
古道のオーラを放っています。
そんな道を進みながら歩いていくと



またしてもゲートが・・・
このあたりよほどイノシシが頻出するんでしょうねえ。

鏑矢も使いたいところです。

あ、みえました。これは下津の海でしょう。
当然ですが、今の景色と昔の景色は
ほとんど変わらないようです。
これが今の景色



そしてこれが、その場所の看板にあった
紀伊国名所図会に描かれたここからの景色



それからもわかるように、港は昔からあったようです。
では、それらの港をつなぐ道はなかったんでしょうか。

海沿いはこんなに登りもないだろうに
何ゆえ熊野古道はこんな山の中を進むのでしょうか。
ましてや、もののけが横行しているような山道なのに、
よほど紀ノ川や有田川の川幅の最も広い
河口を渡る危険を避けて
歩きたかったのでしょうかねえ。

遠くに海を見ながらそんなことを考えてしまいました。

広くなった山道を行くと、
大きな木の根元にかすかに
徳本上人の文字が残っている石が
置かれているのがいい雰囲気ですねえ。



看板には、
「これより有田市宮原畑地内」とあります。



「宮原」や「畑」はあの小説「有田川」にも出てくる地名です。

かつて、ルネの練習会で
一度通っているはずなんですが、
全く記憶がありません。

どんなところなんだろうと期待に
腹を膨らませながら、
じゃなかった、
胸を膨らませながら
下りていくことにしましょう。

続く