ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

病院関係進歩しました

2019年08月31日 21時26分15秒 | 最近の出来事

2010年12月の
宝塚マラソンでの出来事以来、
doironは定期的に病院通いを
続けている。

おかげで後遺症もなく、
人並みの暮らしを(?)
続けていましたねえ。

でもそんな中で2015年の
10月には別の脳の病気になり、
まあこれも後遺症はほとんどなく
今は合わせて病院で診てもらっている
のが最近までの状況でした。

長いなあ、あんなことがあって
もうすぐ9年が経つんやねえ。
おかげでいまは運動を消費税並みに
10%まで減量するとともに、
病院通いで高額な薬を処方されながら、
体調を維持している状態だ。

しかしまあほかにも、
避けられないことに加齢もあるし、
体重増もあるし、もっと効果的なことも
しないとなあと思っている今日この頃ではある。

で、先日今夏の検診に病院へ行ったのだ。
血液検査をし、その結果糖分が若干高め
ということもあるのだが、
今回の血の状態を見て医者が
「doironさんの病気に支障のある部分は、
もう長い間落ち着いているようですね。
なので、年一回の検査のほかは
近所の町医者で見てもらう
くらいでいいでしょう」と言います。

「へえそうなんですか」

「N野さん医院に紹介状を書くので、
ふだんはそっちへ行ってください」とのこと。

ああ、これって病状が
落ち着いているってことなのか
と思っていたら、
さらに「今飲んでいる薬のうち
一つ薬を減らしましょう」とのこと。

「ウヒャ~、これは進歩ということやなあ。」

しかも値段の高い目の薬が
減るとのことだ。
これはもう薬が減って
また一つ大人になった
ということなんだろうて。

その後二週間ぐらいで
紹介状が病院から送られてきたので、
それを持って新しい近所の
指定された医院へ行くことにした。

ここは息子が小さいころに
行ってたことのある医院だ。

入ってしばらくしたら診察に呼ばれたね。
紹介書を見ながら医者は

「これはこれは大変な目にあいましたねえ」
と話しかけてきます。

「でもすごくうまく助かりましたねえ。
最近の体調はどうですか」と質問されたので、
「ああ特に気になる症状も
出ていません。運動はそこそこしてるし、
体重のついたのが今は一番の症状です」
と答えておきました。

「でもまあdoironさんの病気だったら、
嫌気性のスポーツをやるのは
良くないですよ。
好気性がいいですからね」だって。

はいはい、もともとはもう好気性の
スポーツしかしてないからね。

トライアスロンやウルトラマラソンを
嫌気的にやってたら、
もう一万回以上死んでいるでしょうって。

「軽く自転車こいだり、歩いたり、
じわじわ走ったりと
そんな感じでいいですよねえ」
と確認はしておきました。
「軽く」、と「じわじわ」の程度が
問題なんでしょうけどね。

まあ薬が減ったこともあるし、
しばらくは一か月単位で
来てくださいとのこと。

病院に行って診察されて
途中にあるかかりつけの
薬局で薬をもらって約1時間。

近いのでしばらくは
そんな感じで通うことになりそうです。

まあ今のところ順調に
推移しているというそんなお話でした。


首藤さんの初盆参り

2019年08月30日 21時29分53秒 | 最近の出来事

まもなく首藤さんのお骨を
納骨にT本さんと涸沢へ出かけます。
生前時にそんな話を
本人としていたので、それの実現です。

涸沢といっても、バスでちょろっと行って
納骨してくるというわけではありません。
涸沢へ行くのですから
丸々一日歩いてそこへいくのです。

上高地にバスでつき
涸沢と徳澤の山小屋に
一泊を予約しました。
まあその時のことはまたちゃんと書きましょう。

その山行きのためにT本さんと
打ち合わせも必要やなあ
と思っていたのですが、
首藤さんが亡くなって
今年の初盆参りに行きつつ
打ち合わせをしよう
ということになりました。

T本さんは和歌山市に住んではる人です。
首藤さんの奥さんに連絡し、
初盆参りのお願いをして
日程をいただきました。

その日程で、昔プールやマラソンで
お世話になった人々に
連絡をしたところ8名が
参加することになりました。

当日は首藤さんの家の近所の
スーパーに集まり押しかけていきました。

T本さんは車で、そして後は
自転車での参加です。
doironはついでにスーパーに
買い物に行きとミセスをたきつけて
送ってもらいました。

男性5名、女性3名のメンバーです。



首藤さんのおうちは
マンションの最上階に
庭付きの最高の部屋に
住んではりました。

マンションに入って行き、
コールをすると入り口を
開けてくれはります。
とその時にエレベーター横の
階段が気になりましたね。

晩年、首藤さんは膝も痛めてはりましたが、
病気と闘うためには体力も必要だと、
この階段を上り下りしているねん
といってはりました。

昔は大峰の山を、
登山道もない斜面を登ったり下りたり
していたのを思い出します。
月日の流れはすごいものですねえ。

その階段もねえ、
だんだん回数が減ってきたよと、
エイでお酒を飲みながら
言ってはりましたなあ。

部屋に行くと首藤さんの仏壇には
お供え物がいっぱい置かれていました。

我々は線香をおさめさせていただきました。

あとは、doironが描いた絵も
お粗末ですがお渡ししました。

こんな絵です。



首藤さんは本当にクールに
生きてはりましたが、
心底優しい人でした。
そんな彼の印象をそれなりに
表現したものです。

奥さんは絵が好きで、
部屋には有名な人の絵が
いくつも飾られています。
何百万もするような絵も
飾られてあるんですよ。

そんな中に恥ずかしいのですが、
まあ今の私に表現できる
精一杯でありました。

みんなで順番にお参りをした後は、
奥さんがありがたいことに
軽いお食事を用意してくれました。
それを囲みながら、
いろんな思い出話をしましたよ。

僕が書いた絵を見ながら
奥さんが昔話をしてくれます。

へ~首藤さんてそんな人やったんやあと、
飲み屋で1500回くらい一緒に
飲んだのに知らないことだらけでしたね。

そして最後に奥さんは、

「主人がなくなる二日前に、
手帳にこんなことを書いて見せてくれました」
といって示してくれたのは
首藤さんの奥さんへの最後の手紙でした。

趣旨は
「こんな僕を最後まで愛してくれてありがとう」
というものでした。

たどたどしい字で本当は
もっと長いんですが、
趣旨はそんな感じです。

いろいろと話をして初盆を終え、
奥さんに感謝しつつ帰宅しました。

そしてその夜の事です。
こんな夢を見ました。

家のなかでdoironが椅子に座っていると、
首藤さんが走って我が家に
ビールを飲みに来るのです。

走ってくる途中で出会った
ラン友なんかの話をしながら、
暑い暑いといっては
持ってきたTシャツに着替えてはります。

そんな着替え作業が何回も続きます。

ああ、あのTシャツは奥さんが
用意してくれているんや
という感じを見せたかったのでしょうかねえ。

初盆というお参り時に、
強烈に彼の夢を見ました。
きっと、きっと、お盆ということで
こちらに帰っていたんでしょうねえ。

「首藤さん、doironもしっかりと
現役時のあなたに負けないように、
一生懸命に生きていきますよ」
と、そんな熱い一杯を椅子に座って
交わしたようなお盆の夢でした。

首藤さん、来週、眺めのいい所に
T本さんと散骨してきますからねえ。


泉州マラソンコースを歩いた15

2019年08月29日 20時54分21秒 | ウォーキング

コースはイオンの前を通っていきます。
こんな商店も泉州マラソンの時は
集客が減るんでしょうねえ。
ご迷惑をおかけしています。

さてこの交差点が「樽井浜口北口」の
折り返し地点です。



そしてどうやらこの辺りが
37km地点のようですねえ。
地面に距離表示のマークが打ってあります。

くるりんと回ると、
大きな橋がそびえて待っていますよ。



遠くの方にはりんくうの
ゲートタワーホテルも。

最後の5キロです。



このあたりから距離表示には
「あと何キロ」の表示が始まります。
ここがあと5kmの表示です。
気持ちを切らしたら大変ですよ。

海辺の大きな橋はレース時には寒いです。
そしてここには第7収容の
予告看板が立ちます。



ここで収容されるのはつらいですねえ。



完走か収容かの瀬戸際です。
頑張っていきましょう。
このあたりは歩いていても
道がにぎやかです。

以前の表記が鼠色のペンキで
あちこち消されていたりします。
紛れてわからなくならないように
しっかりと見ていきましょう。



ここが38km地点です。
道路の右に書かれてあったりするので、
通過する車の様子を見ながら
横断して撮影していきます。



195m歩いたところで、
これが「あと4キロ」の表示です。



これくらいになってくると、
この195mの長いこと!



その先で泉南マリンブリッジを
渡っていくのですが、
道路と歩道が離れています。



大丈夫かなあと思いつつ、
上部の方に差し掛かったところで
道の向こうに39km地点の
記載が見つかりました。



結局ここまでで見つからなかったのは
32km地点と34km地点でしたねえ。

選手の方で、レース時に
何か見つけたら教えてくださいねえ。
あ、この辺じゃそんな余裕はないかなあ。

でもねえ歩きは楽です。
プラプラと、暢気に歩いていたら
景色がきれいですねえ。



ちょっと海は昨日の雨で
濁っていますが、
遠くに関空が見えていたり、
東の方には和泉山脈の山々が
見えていたりします。



あ、これが「あと3キロ」ですねえ。



ゴールがどんどん迫ってきます。
そしてここが最後の第7収容ですねえ。



39.4キロで4時間40分。
キロ7分7秒のペースです。
ここで収容は本当につらいでしょうねえ。
もうあと三キロもないんですよ。
何とか走らせてやってくださいよ
という感じです。

そしてそこから最後の橋を
登っていきます。



ウンコラショと上がったところが



40km地点です。



ああ~フルマラソンが
この距離だったらとっくに
サブスリーだからよかったのになあ
とdoironはいつもここで
考えこんでしまいます。

さああと二キロです。
がんばれがんばれ。

最後の急な橋ももう終わりますよ。



ここが41kmで、
その先にあと1キロの表示です。



ベストの時はここであと3時間まで
4分の時がありましたが、
この先で両足がつってしまった
ことがありましたねえ。
あの時は3時間3分台でしたねえ。

りんくう道路から公園内に入るところで
最近doironはいつも応援していますよ。

41kmの地点があったということは
42km地点も記載があるかなあ
と思ったら、いやあ、ありました。



りんくう公園内に入ってきて、
ゴールに向かって最後のカーブを
曲がる直前です。



ここが42km地点です。
そして最後のゴールがここです。



Fはフィニッシュでしょうねえ。
Oはよくわかりません。





そして道路の両端にはこんな矢印も
書かれてありました。



「doironの歩きもゴールです~」

いやあ、スタートからよく
この猛暑の中を歩いてきましたねえ。

でも道路に距離とかが記載してあって
楽しい歩きでしたねえ。
夏の暑い中、ゆっくり歩くには
ぴったりでした。

ーーーーーーー

泉州マラソンも今年で26回を迎えました。
doironは第1回大会から
18回大会くらいまで出ていたと思います。

その前の千亀利マラソンも
出ていましたから20回くらいは
走っているでしょう。

たぶん自分の原点のマラソン大会
だったと思うので、
そこを歩いたのはとてもいい経験でした。

次回はトレイルランの原点である
町石道の大会でも歩いてみようかな。
またその時は読んでみてください。

泉州マラソン歩き、これでお開きです。


泉州マラソンコースを歩いた14

2019年08月28日 20時52分27秒 | ウォーキング

さあ、今回が最後の
泉州マラソンコース歩きです。

りんくうまで車でやってきて、
駐車場に車をとめましょう。
りんくうの駅から少し離れた地点に行くと、
一日500円程度の駐車場が
たくさんありますね。

関空から旅行で行く時なんかは
こんなところに車をとめておくのも
いいかも知れません。

さあでは前回の続きですから
33km地点のところに戻りましょう。



ここですね。



ここから海向いて歩いていきますと、



田尻スカイブリッジの下を
くぐっていきます。



ここからコースはUターンして



ブリッジの上に登っていきます。





この泉州マラソンの最大の特徴が、
この田尻スカイブリッジと
泉南マリンブリッジを渡ることです。

しかもここは往復コースなので
それぞれ二回ずつ、合計4回
この大きな橋をこえていきます。

ウヒャー、最大の難所がここの
三角コーンをおりかえしたら
始まっていきますよ。

歩いていくのはレースのように
車道をいくのではなく、
横にかかっている歩行者用の
橋を渡らなければなりません。



その橋が、車道とまったく
一致しているわけではないので、



どうも34km地点は
そんな歩けなかった間に
あるようですので
見つけることができませんでした。

残念ですねえ。

その先の岡田北交差点が
第6収容地点です。





漢字を見たら収関地点と書かれていますよ。
なんか意味がよくわかりませんね。

まあとにかく第6収容地点で、
距離は34.4kmで
4時間5分が閉鎖時間。

キロ7分7秒のペースですねえ。
ここには第7収容地点とも
書かれています。

この先をおり返して来たら、
その時もここが制限タイムに
入るわけですねえ。

その時点はまた先のところで書きましょう。
そこを離れて進んでいったら、
おおここが35kmの地点です。



ここは二つ目の橋である
泉南マリンブリッジの登り口です。
しんどいですねえ。



ここが平地だったら、
かなりタイムも変わるはずです。

そしてここには、
多分この記載はスペシャルドリンクの
配布場所でしょうねえ。



35.3km地点です。

ああ最後のスペシャルエイドですねえ。
以前、泉州マラソンに出るというジム友に
「スペシャル作って!お願い」
といわれたので、僕が生まれて
二番目に作ったスペシャルがこれでした。



本人からこれくらいの大きさで
目立つものをという希望です。
そこに針金とヒャッキンの飾りをつけて、
これにドリンクボトルを
後でつけて完成です。
こんな感じでした。

実は初めてのスペシャルドリンクは、
制限3時間20分の
福井の大会に出たときに作りました。
ボトルにスポーツドリンクを入れ、
上部の方に目立つようにと
ゼリーを付けてたら
バランスが悪く全部
ひっくり返っていたという
苦い記憶があります。
ちびまる子ちゃんの絵を
うまく張り付けたボトルだったのに
目立ちませんでした。

まあこの泉州の時はうまくできましたね。
頑張って進んでいきましょう。


ああこれは第6給水の案内ですねえ。
スペシャルを置いていない人は、
ここは水分とバナナがあるはずです。
あと7kmと少しのところです。

おなかが空いていたら
食べておきたいところですねえ。

でもdoironは特にロングの大会では
コーラがあるので、糖分補給は
ほとんどがコーラによるものでした。

トライアスロンなんかも
ほとんどがそんな感じで、
コカ・コーラさんには随分と
助けていただきましたねえ。
人生のお供でした。

泉州マラソンも昔は嫌いじゃない
「エネルゲン」なんて飲み物を
置いていたのですが、
今はどうなんでしょう。
その辺は走っていないので
よくわかりません。

そうして橋を越えて補給を
いろいろと考えながら行くと、
ここが36km地点です。





その後にもこんな鼠色のペイントが
二つありましたが、





黄色がやはり目立っていますから
これが正解のようですねえ。

続く


碁という世界3

2019年08月27日 21時10分27秒 | 最近の出来事

最近の囲碁界をにぎわしている一人に、
仲邑菫さんがいる。
年齢的にはまだ10歳なのだが、
今は碁の初段。
何ともうプロなんだそうだ。



史上最年少のプロで、
最近はプロの戦いで勝利も納めている。
実際、碁の世界は強い人間は、
もうこれくらいの年から
強いといわれている。

小説にも出てきた江戸時代の碁の4家も、
内弟子に取るのはこれくらいの
年齢からが多いそうだ。
20歳になって強くても、
伸びがないので興味をあまり
しめさなかったそうだ。

家の嫡男ではない碁好きな子どもは、
こうして4家の内弟子となることは
最上の喜びだったと聞く。

仲邑さんは今の年でももう
母親と週末に韓国に行き、
そこで碁を打っていたそうです。
国際的でもあるわけですね。

彼女のプロ入り試験の対局をした
張栩九段は



「9歳でこれだけ打てるとは衝撃的だった。」
と語っているそうだし、
記念対局をした井山裕太九段は



「自分の方が途中までハッキリ苦しい展開だった。」
と述べたそうだ。

プロの採用制度で、
9段のプロ棋士2名の推薦を
受けているそうなので、
彼女の今後の動きにもこれからは注目ですね。

碁についてはまだ疑問に思うことが
いっぱいあります。

先番が圧倒的に有利といわれる囲碁で、
いまはどういうルールが
採用されているのかなんかも
これから勉強していきましょう。
それともう一つ疑問は、
対戦後に陣地を確かめてみると、
5目勝ちとか出てくるのですが、
たまには二目半勝ちとか出てきます。

陣地は1個ずつ数えるはずなのに、
どうして半目勝ちなんて出てくるのでしょうか。
これもわからないことのひとつです。

まあテニスで得点が15、30
のあと何故40なのか、
というような疑問みたいなもんですかねえ。
ちがうかな。

最近はまだ「幻庵」という小説の
下巻を呼んでいますが、

もう一つ碁に関して読んでいる
ものがあります。

それは漫画です。

和泉の図書館で借りてきて
読んでいる碁の漫画「ヒカルの碁」です。



まあ設定は昔の碁打ちの亡霊が
出てくるという漫画らしい設定なんですが、
主人公そのものがだんだん
強くなってくるというのが
小説に書かれた設定によく似ています。

強い人と碁を打っていると
どんどん強くなってくるという部分です。

あ、そうそうもう一つ碁に関して
わからないことがあったな。
それは何日も前に打った碁を、
すべて頭の中にのこしていて
碁盤を再生できるというものです。

19×19の碁面ですから、
すべて打ったら361目あるわけで、



それを最初からすべて覚えている
というのがまたこれもよくわからないことです。
doironだったら脳梗塞再発ですね。

ま、それはさておきその漫画に
ところどころ出てくる場面が、
小説の場面と妙に一致
していたりするのが面白いです。

寝る前に布団の中でこんな
漫画を読んだりすると、
なんか変な夢を見そうですが、
碁そのもののルールなんかが
よくわからないものですから、
まだ井山本因坊と碁盤で戦っている
なあんて夢なんかは見ていないです。

しかしまあ、いろんな形で
表現されている碁の世界。
碁そのものの複雑さや
妖艶さもなみなみならぬものもあるようで、
世間の片隅でちらっと眺めつつ、
知識も少しづつ増やして
楽しんでいこうと思っている
doironなのでした。


碁という世界2

2019年08月26日 20時49分24秒 | 最近の出来事

碁は「碁譜」という形で残されている。
昔の碁譜も多く残っている。
当時は最も強いといわれている
二人の戦いなんかは
本になったりしたようだが、
これもまた19×19の碁面の
印刷など当時の技術ではむつかしく、
さほど発展はしていないようだが、
印刷されていなくても
時代ごとの碁譜は残っているものが多い。



日付、対戦者、場所などが記載され、
後の世でも当時の戦いが
想像されたりするわけだ。
最近の碁はタイトル戦なんかを見ると
短くて3時間、長くて16時間という
時間制限の中で行われることが多いのだが、
昔はそんな時間制はない。
そりゃそうだろう、
江戸時代なんて時計が
ほとんどなかったものね。

で、昔の人の碁譜なんか見ると、
打掛を経て3日かかって
刺すなんてこともよくあったみたいだ。

まあそれだけ長考になることが多かったようだ。

今のプロが、当時の碁譜なんかを見ると
とてもじゃないがあんな手は
怖くて打てないというような
手が多いそうだ。
短時間での碁が訳が分からなくなるほどの
すごい手が多かったといってるらしい。

碁の試合の様子なんかが、
その本の中には書かれている。



ある一手が突然に碁盤を
戦争にしてしまうようなことも
多かったようだ。

そして碁は打つ人によって
性格がよくあらわれるという。

その小説の一角にこんな表現があった。

「碁打ちにはいろいろなタイプがある。
厚みを築いて豪快な攻めで
追い込んでいくタイプもあれば、
足早に地を稼ぎ相手の攻めを
しのぎ切るというタイプ。
そしてヨミを主体にして
徹底的に戦い抜く碁」など、
そのタイプは様々なんだそうだ。

その戦っていく姿から
碁打ちの性格を推し量り、
小説は進んでいくのだが、
なかなかにその小説は、
doiron的には面白かった。

碁ってこんなに複雑怪奇な
ゲームでそれを取り巻く人々の
生き方はすさまじいものが
あったんやなあと感心している。

じゃあ、doironの周りで
そういう人がいなかったかというと、
それがいたのだ。
程度の差はあるだろうが、
碁が好きで免状も持っており、
自宅での碁教室も行える人が
とても身近にいた。

それは、親父である。

そういう碁の世界を知らないまま育った
doironは「親父って碁が好きだったんやなあ」
くらいにしか思っていなかった。
免状も段付きだったのはわかるが、
何段まであったのかは知らない。
免状はすべて棺桶の中に入れてしまったのだ。

大きな碁盤や碁石もすべて義兄に差し上げた。
こどもの頃、親父に碁を
教えてもらいそうになったことがあるが、
もうわけがわからなくて
あっという間にさじを投げたことがある。
それ以来、碁は打ったことがない。

親父のように碁が好きで、
碁に触れていたら
免状なんかももらえたかもしれないのに、
息子はマラソン、ウルトラマラソン、
トライアスロンなどというスポーツに熱心で、
何の免許ももらえないまま
病気と加齢でやめたという
おっさんになってしまっている。

頑張ったからそれでいいかもしれないけど
親父の教育にもっと熱心に答えていたら
そういう碁の世界にも
少し触れることができたのになあ
と今になったら考えてしまなあ。

じゃそんな中で、親父の碁って
いったいどんな碁だったんだろうって
考えてしまった。

doironが親父の性格を顧みた場合だと、
守りに守ってここというときに
攻めに転じるそんな碁だったかなあ
とそんな想像をしてしまうのだ。

親父の碁の姿を知っている人が、
わが村に一人いる。
たまに家にやってきては
親父と碁を打っていた人だ。

そのうちにその人に
「親父の碁ってどんなんやった?」
と聞いてみようと思ったりしている。

「いやあいやらしい碁でねえ。
今日は勝ったぞと思っていたら、
知らない間に負けていた」
なあんて返ってきたりしてね。

京都で本因坊の発祥を知り、



少しづつ碁の世界に触れていったdoiron。
今から碁そのものをするというのも
ちょっと無理がありすぎる。
勉強の時間もいっぱいかかるだろうし、
こう見えていろいろと忙しい人なのだ。

親父の降れていた世界が
どんな世界だったのか。
今の碁打ちのタイトル戦なんかを
興味を持って眺めながら、
これからは碁ともうちょっと
前向きに触れていくことに
しようと考えているわけだ。

 


碁という世界1

2019年08月25日 21時09分11秒 | 最近の出来事

泉州マラソン最後の歩きに入る前に
最近少しdoironの頭の中で
もう一つ話題になっていることに
触れておきましょう。
それは「碁」というゲームなのだ。

ーーーーーーー

西国三十三ヵ所を巡礼しに、
京都にある19番札所の
革堂へ行った時の事だ。

京都市役所から古いお店が
並ぶ寺町通を北上していくと、
道端に看板がひとつ立っていた。



囲碁「本因坊」発祥の地と
書かれている。
このあたりの寂光寺の
塔頭(大寺や名刹に寄り添って建てられた院)
である「本因坊」に住んでいた
日海は碁が強く信長、秀吉、家康に
仕えて碁を教えていた。

碁打ちには石高が与えられ、
このころから碁は中国や
韓国に比べて大変強くなった
といわれている。

日海はその後本因坊算砂と名乗り、
本因坊家を作っていった。

そのほかの3家の安井家・井上家・林家
とともに日本の囲碁を
支えていったということだ。

しかし第21世本因坊の秀哉は、
本因坊は本当に碁に秀でたものが
次ぐべきだとして、1939年に
行われた本因坊戦により、
関山氏が本因坊の座に就いたといわれている。

そんないわれをこの三十三ヵ所歩きの
中で知ることになった。

今は井山裕太が8期連続で
本因坊を名乗り永世本因坊となっている。
その永世本因坊を名乗れるものは
井山をのぞけばこれまで5名。
碁の事は全く知らないdoironでも
12期本因坊をやった「趙治勲」
の名は知っている。

井山は将棋の7つの全タイトルを
制覇している。
将棋の羽生に次ぐ快挙で、
羽生と二人して国民栄誉賞を受けているのだ。

囲碁のことについてのルールなどは
doironはほとんど知らない。
ただ相手を囲んで陣地を
稼ぐものくらいしか知らないのだ。

でもこうしていろんな歴史なんかを
学んでいくと、その世界に
少しずつ興味を持ち始めた。

ああ、きっと人生をかけた
いろんな大会があったのだろうなあ。

中国、韓国との関係なんかも
いろいろあったのだろう。

最近開発されてきた
コンピューターの囲碁ソフトの
話題なんかも少し学んだだけで、
いろんな出来事が出てきて面白い。

まあ囲碁の戦い方なんかは
よく知らないので、勝負そのものよりも
それにかかる人々の歴史が
面白いのかもしれない。
とまあそんなことを考えつつ、
ある日図書館に行くと
面白い本を見つけた。

「幻庵」という百田尚樹の小説だ。

この小説が書きたかったのだ
という作者の声が、本に結びつけられた
帯に書かれてあった。

「たとえこの身が潰えようとも」

そんな壮絶な碁の戦いが
繰り広げられていくのだ。
早速借りて読んでみることにした。
400ページ以上ある厚手の本で、
上下巻の2冠になっている。



とりあえずは上巻だ。
まず最初にコンピューターのことなどが出て、
本因坊が始まった頃のところから
碁の戦いが書き始められている。

そして複雑なルールもある。

碁というのは先番が圧倒的に
強いといわれていること、
それに対しての置き碁の事や
勝負のことなどいろんな
ルールが定められている。

よくわかろうとして読んでいくが、
碁に対しての知識がほとんど
ないモノだからなかなか頭に
入ってこないのだ。

まあその辺は読みながら
身についていくかなと思い、
読み進めていった。

すると、こんどはいろんな登場人物が出てくる。
それも碁の上達に合わせて
名前も変わっていくから
ややこしいことこの上ない。

この人とさっきの人が
戦ったらどうなるの?
と思って解説部分を見てみたら
なんと同じ人物だった
ということもあった。
ちゃんと書かれてあったのだろうが、
どうもその辺は加齢と脳梗塞後の頭では
きちんと残っていなかったりするのだ。

4家の戦いは「御城碁」といって、
権力者の前での戦いや
碁好きな侍の屋敷での戦いなどで
行われていく。

この物語がまあいろんな
碁を打つ人の人生と絡めて
うまいこと書かれていて、
碁の中身はわからなくても
意外に面白かったりするのです。

続く


令和元年村の地蔵盆

2019年08月24日 21時13分43秒 | 最近の出来事

泉州マラソンは少しお休み。

ーーーーーーー

23日は地蔵盆でした。
我が町には全ての団体からは独立して、
地元の地蔵講という団体があります。
村の北のはずれにある地蔵さんを
大切に守ろうという会です。

毎年ここの鈴紐にはdoironの
名前の入ったひもが更新されて
ぶら下がります。
最近は孫の名前の入ったひもも
一緒に吊り下げられます。

ではこの団体に入るには
どうしたらよいかというと、
年齢的に60歳が近くなってきたら、
この地蔵講への入会の打診が始まります。

じゃ、入会するよとなった時に
年齢順で新入会の役が回ってきます。

「頭屋(とうや)」という役です。

その人がその年の地蔵盆をすべて賄うのです。

以前は村の女性たちも
すべて借り出して、買ってきた大量のご飯を
おにぎりにして、お参りの後に配っていました。

もっと昔はそんなご飯も
チンチロリンといわれるかまどで
炊いていたそうです。

このおにぎり作りが、
それはそれは大変で
若いお母さんたちはまだまだ
いう通りに動いてくれますが、
昔からの高齢のお母さんたちの
扱いが大変です。

60になるかならないかの
頭屋はおばさん達には
まったく子ども扱いで、
ワイワイガヤガヤとかき回されたりします。

まあそうすることで、
今度は村の人たちとの交流も深まり、
自治会とかの役もこなせるように
なったりするのです。

しかし残念ながらそんな頭屋の世代も
時代とともに減ってきます。
世代の薄い年代になってきました。

また最近の状況の中では、
独身の頭屋も出てくるようになり、
なかなかおにぎり作りの指図も
むつかしくなってくるという始末です。
地蔵の新しい服も頭屋が作ります。
昨年の頭屋はミシンを勉強して
自分でそれを作ったそうです。
そんなことをしているから
頭屋はいつも地蔵の前で
地蔵の姿が気になって仕方なかったそうです。

その頭屋は働きながらも
親の介護をしているおっさんでした。
なので昨年からおにぎりを握る
という作業をなくそうとしました。
色々業者をあたった結果、
なんと握ったおにぎりを
買った方が安くなるという
ことがわかりました。

なので昨年からと同様に、
今年もおにぎりを買おう
ということになりました。
二個入りおにぎりパックで
沢庵が入ったものを800パック買います。

そうすることで
経費が安くなりますし、
女性陣に手間をかけさすこともなく
大いに手間が省けます。
今年の頭屋も楽でいいわあと
喜んでいたのですが、
重鎮の方たちのなかには、
そういう手間を省くのはけしからん!
などと息巻く人も出てきたのです。

なんかこうなると、
何となく講の居心地が悪くなります。

地蔵講は現在そんな事情を
内部に抱えているわけだ。

それでも23日は地蔵盆の日です。
盆のお参りは淡々と行われます。

頭屋でも何でもないdoiron家では
この日はまず早朝5時から、
少し前に整備した提灯枠に
提灯をつるしに行きます。



我が家ではdoiron本人の提灯と
孫の提灯の二つです。
地蔵に行きますと、
すでに二家族の提灯がつるされていました。
孫が一気に8人になった家と
4人になった家です。

あ、どちらもマージャン友達の家です

その横に吊り下げておきます。
そしてそのあとは、地蔵の前に
テントを立てて、お参り場所を
作成します。



その後供物や飾りを整えたら、
今年は村のお寺で弁当かこんで宴会です。
このお寺は何年も前に
火事になって焼けたのですが、
全焼だったのにこの仏像たちは
燃えずに済んだという
奇跡が起こったお寺でした。



空海さんや阿弥陀如来、
お不動さんとかが
ちゃんと残っているのです。



ビールや酒は飲み放題なので
宴会はとても盛り上がるのですよ。
あとで行われるお参りでは
もうふらふらになっているものがいます。



それでも本当に坊さんがやってきて
30分のお参りがすんだら、
さあていよいよおにぎり配りです。

午後7時スタートで
押し寄せてくる村の人々に、
こんなおにぎりを配ります。



ハアハアと配り終わったら、
今度は供物を地蔵講の参加者で分けて
解散となります。

立てたテントなんかは雨でぬれたので、
講の人の土地で足だけ折って乾かして
後日片付けとなります。

こうして丸一日地蔵の周りで
村の人間たちがたわむれた
地蔵盆はほぼ終了です。

村のはずれで、村をそして村の子どもたちを
守りつつ5体の地蔵は、
すっきりときれいに磨かれ
新しい帯を結ばれて
また一年間しっかりと立ち続けてくれるのです。


泉州マラソンコースを歩いた13

2019年08月23日 21時16分34秒 | ウォーキング

南海電車の高架をこえて少し行くと、
空連道が見えてきますので、
その下を左折していきます。



曲がってすぐくらいのところが
29キロ地点でした。





ここから空連道の下を
りんくうとは反対向きに走っていきます。

そしてdoironはもう知っているのです。
この空連道をくぐるあたりの
緩いけれども足にガクッと来る
アップダウンがちかづいてきます。





ああだいたいあの辺から地獄が始まります。
その地獄入り口の坂道がこれです。

歩いてたらなんてことはないのに、
この坂道を上ろうとしたら
一気に足が疲れているのを実感します。

こういうのが嫌でねえ。
マラソンの練習ではほんとに
ロングの練習をこなしてきました。
月間600km以上走ったのに、
目標達成はダメでしたねえ。

マラソンで持久力を鍛えよう
と思ったらもっと走らないと
いけないのかなあ。
でもそんな走ってない人でも
3時間切るしなあ。
やはり練習の質なんでしょうねえ。

空連道をりんくうの方に走っていきますと、
この辺も応援が多くなってきます。
30km到達時間を見たら、
だいたいその人のゴールが
見えてくるというもんでしょうねえ。



その30kmがここです。



doironの30kmのベストは
2時間2分10秒。
まあ泉州マラソンの時だと
たいがい早くて2時間10分
くらいだったと思います。

以前この30kmのところで
僕より20歳くらい若い男の子が
後ろに着きました。

「すみません。いいペースで走ってはるので
後ろについていいですか」
と声をかけてきます。

「ええけど、わしももういっぱいいっぱいやで」
と言いながら二人で走っていきます。

「僕ねえ3時間10分切るのが
今回の目的なんです。
それが自己記録なんです」と
はあはあと言ってきます。

「まあこのままがんばっていけば
10分は切れるやろう」と
引っ張ってやりました。

彼はその後残念ながら
37キロ地点くらいの折り返しで
離れていきました。

ゴールしてから見つけて
話をしたら結局3時間12分だったと
しょげていました。

ここがその30kmの先の、
多分スペシャルドリンクの
配布場所なんですかねえ。

20kmの地点にも
わからない目印があったので、
あそこが最初のスペシャルドリンク
かもしれませんね。

そしてそこを過ぎて、
関空に向かってさらに走っていくと、
やがて道は突き当りとなります。
コースはここを左折です。



するとすぐに31kmを迎えます。



ああ、もうすこし行けば
右手にアスリートショップタイムの
エイドがありますねえ。



店長に代わってずっと昔の知り合いの
藤T君がやってくれています。
一年に一度彼とはいつも
そこであっていましたねえ。

そのあたりのエイドのところぐらいから、
doironはいつも応援&写真撮影です。



もう10キロ地点くらいと違って
皆さんここではかなり疲弊してはりますねえ。
ジム友なんかはここで渡してね
とドリンクと食べ物を預かってますので、
カバンを広げて応援をしています。

そこを過ぎると、一時期働いていた
高齢者施設の裏あたりに行きます。



もう今はそこはホテルになってますけどね。

で、このへんで32キロかあ
と思うあたりでかなりマークを探しましたが、



その記載は見つかりません。



あ、これか?

うう、違います。

するとその先でもう33kmの
地点にたどり着いてしまいました。



むむ、残念。

32km地点は見つけられませんでした。

この日は暑くて暑くて、
もうこの辺でかなり脳に疲れが見えます。
今回はもうここからりんくう駅へと戻りましょう。



ということで次回はりんくうの
田尻スカイブリッジのところから
スタートですね。

次回は車でやってきて
このあたりに駐車して
向かうかと考えつつ、

猛暑の中、今回は終わりです。


泉州マラソンコースを歩いた12

2019年08月22日 21時42分38秒 | ウォーキング

前回、携帯の行方不明で
3キロくらい歩いて
鶴原で中断しました。
その携帯は車の中に
忘れていたので良かったです。

あのドジ旅の時にトイレで
落として一旦なくなって
いたんとはえらい違いです。
最初から持っていなかったのですねえ。
今回はしっかりと歩いていきましょう。

松ノ浜から電車に乗って
鶴原へと向かいます。
こういう電車の乗り方だと、
結局すべて各駅停車で
ごとんごとんと行くのですね。

でも今回の歩きの目標は
りんくうまでですから
電車でいくのが効率的でいいですね。

鶴原の駅から歩き始めましょう。



ここが鶴原。
駅前に「みがわり地蔵」が立っています。



調べたら殉職した駅掌を弔うもので、
非番者で地蔵盆をおこない
労働災害防止と安全輸送を誓っているそうだ。

そこから海の方に向かって
歩いていくと旧国道26号線に出ていく。



前回はここから帰ったので、
泉州マラソン歩きの続きはここからだ。

おっ、歩きだしてすぐに
何か黄色いものが・・・。



う~ん、これは違いますねえ。
でもこういうのは一体何なんでしょうねえ。

道路関係の仕事をしたことがないので、
さっぱりわかりません。



右に曲がると臨海道路、
左に曲がると井原里の駅が近づいてくると、
そこが26km地点です。



そしてこの辺りから海の方を見ますと、
イコラモールという
ショッピングセンターが見えてきます。



ここでは友達の淳ちゃんが
眼鏡屋(愛眼)で働いていますよ。
お近くの方はぜひご利用してみてくださいね。
丁寧に説明してくれる人ですから~。

そしてそのあたりで
「佐野川」を越えていきます。



さあ、いよいよこの辺りから



ゴール近辺の地点となる
りんくうのゲートタワービルが見えてきました。



普通だったら
ああ、ゴールはあそこだあとなりそうですが、
泉州マラソンはそうではないですね。
ずっと向こうまで走って
帰ってくるコースですから、
逆にちょっとショックかなあ。

でもまああの近くまでは
一旦行かないといけないから頑張りましょう。
ここにはまた二キロほど先の
第5収容の予告看板が立つのでしょう。



え~っと、この辺まで来ると
路面の黄色いペンキ跡も気になりますねえ。



これが距離表示の印?
そういえば路肩に27kmと書かれていますが、



なんかペンキが灰色ですねえ。
むむ、色が変わるのかと思っていたら、
その先にちゃんと黄色の



27キロがありました。



鼠色は以前のコースの時の印なんでしょうねえ。

上に灰色のペンキを塗って
隠そうとしていますが、
この消し方は気になりますよねえ。
ペケとか書いておいてほしいものです。

その証拠にここにはなんと
ずっと以前の31キロ
なんていう看板もありますよ。



これが本当だったらうれしいのになあ。

で、泉佐野の駅下がりを過ぎ、



こんな以前の表記に騙されないように



進んでいって、ここで28キロの
表示を見つけます。



ああ、この辺では昔K芝君が
応援していたりしたなあ。



なんかゼリーをもらったような気がします。

まあもう20年くらい前の話ですから、
記憶もあいまいになっているでしょうねえ。

さあてコースはこの後、
空連道を左折して進んでいきます。



この辺りに第5収容地点があるはずなんですが、
ちょっと地面の記載は見つからなかったですねえ。

この地点で制限は3時間25分。
距離は28.9km地点ですから
ペース的にはキロ7分5秒くらいですねえ。

このマラソンのゴールが5時間だとしたら、
ペースはキロ7分6秒くらいですから、
もういっぱいいっぱいですねえ。
ここでやめたらゴールも近いしなあと、
そんならくちんな考えも
自分の心にブレーキをかけてしまいますねえ。

まあなんとかそんな自分に打ち勝って、
空連道を左折していきましょう。