ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

安土だ城 2

2014年10月22日 21時34分39秒 | ウォーキング

織田信長の像が建つ駅の北側から、





まずは3か所の湧水場所に向かう。



おっと、このマン蓋は
撮って置かねばなるまいて。



信長が旗印につかっている
明の通貨「永楽通宝」を盛り込んである。

安土には琵琶湖最大の内湖である西の湖がある。
内湖とは、琵琶湖周辺の水域で
琵琶湖と水路等でつながる湖のことを言う。

安土の里に降った雨が伏流水となってある場所で湧きあがり、
川となって内湖に注いでいる。

そんな湧水の見られる場所が、
駅に近いところに3か所ある。

ひとつが「音堂川(おとんどがわ)の湧水」。



てくてくと歩いて近づいていくと、
ボコボコと水の湧く音が聞こえてくるほど
豊富な水量が水中に噴出している。

そんな場所は、水面近くに降りて行けるような
構造になっていて、地域の人達の
洗い場にもなっている。

折しも、一人の高齢の女性が
一輪車に積んだ収穫したばかりのような
かぶら大根を洗っている光景に遭遇した。



こんなタイミングのいいことはない。

取材をしていると告げて
写真を撮らせてくださいとお願いしたら、
こころよく承諾してくれた。

旅雑誌などでもよく見る光景だから、
きっとこういう依頼も多いのだろう。

それにしてもいいタイミングだった。

湧水の中には大きなコイも飼われていた。



養殖しているのかもしれないが、
湧水に異常があった時の
センサーの働きもさせているんだろう。

その近くにあるのが「梅の川」。



今は水が湧いていなかったが、
曲水仕立てに石を組み上げて、
水が汲めるようになっている。

昔、信長の歌人が珍しいお茶を難波から仕入れてきて、
この水で茶を点てたところ信長が喜び、
以後、彼が茶会を催すときは
必ずここの水を使ったといういわれがある。

そして少し離れたところに、
このあたりで一番大きい北川湧水があるというので見に行った。

地図にある通り、
家と川の間にある草むらのような道を通り、



西の湖に向かう流れの先に



こんな小さな鉄の橋が架かっているので



それを渡る。
まるで猫になったような気分だ。

なおも車の通れないような細い道を歩き、



車道を一本横切ると北川湧水にたどり着く。



この湧水は円満地蔵の足下から、
何か所も湧き上がっており、
湧いている箇所には石臼が置かれてある。



ここには誰もいなかったが、
足湯ならぬ足涌(あしゆ)が設けられていて、



地元の人達は夏は冷たく冬は暖かい
といわれる湧水の恩恵に授かっている。

湧水場は毎週日曜日に掃除をしている旨が、
地蔵のところに書かれてあった。



恩恵は感謝と努力のたまものなんやね。

このあたりは、寺内町といわれるだけあって、
古い街並みの中を地図を良く見ながら、
クネクネと抜けていくと・・
おおこれは巨大な張子の虎と馬が並べられている。



かなり大きく不気味なので、
これを見た子供はきっと
「トラウマ」になるというのがオチなんだろうて。

小学校の横道を抜けると
二車線の道路に出るので
それを左折してしばらく歩道を歩く。



そして下街道と名付けられた道に右折して入っていく。

この時気付いたのだが、
このあたりは屋根の軒下や
壁や梁を濃いエンジ色で塗っている家が多い。



この家も写真ではわかりにくいが、
エンジで縁どられている。

その彩りは何となく信長の色彩の趣味を連想させた。

道の向こうに大きな鳥居が見えている。



どうやらこの道は活津彦根神社の参道に通じているようだ。

こんなお旅所も道路わきにあり、



地蔵をいくつか見て歩いていると、



やがて「セミナリヨ跡」の案内に出会う。



仏教は異常なまでの残酷さで排斥した信長だったが、
キリシタンには寛大であった。

彼が信頼した宣教師オルガンティノが、
高山右近などの援助を受けて建てた
日本で最初のキリシタン神学校の跡が水郷の脇に残っている。

続く。