ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 香り高き区間 3

2014年10月31日 21時44分29秒 | ウォーキング

「くまの古道歴史民俗資料館」には、



熊野御幸を現代風に解釈したパネルが展示されていました。

例えば、京都を出発した御幸の一行が
何日にどこを通過し、
どこに泊まったのかというのが
日にちを追って絵で展示されていたり、



同行した藤原定家が何時に起きて何時に出発し、
何時に到着して何時に寝たのかといった
ある一日のスケジュールなども
展示になっていました。



一日に約50キロを進む御幸が京都を出て、
京都に帰るまで約1か月を要したそうです。

それでも、集団での移動であったことや
当時の交通手段を考えれば
ずいぶん早いスピードで移動していたのですね。
先触れの人や荷物係、馬や籠の手配
渡しの手配や宿の手配をする人など
おつきの人々の苦労がしのばれます。

書籍コーナーには興味深い資料もあったのですが、
欲しいなと思う本は展示のみで販売されていないようでした。

このあと訪れる予定の「糸我峠」の茶屋の展示前で、
doironも一服。
写真を撮っていただきました。



え~、服装は全く違いますが、
髪型はよく似ているでしょ。

資料館を出て、しばらく行くと
あの中将姫も居たということで、
先ほどの得生寺の山号にもなっている
雲雀(ひばり)山への登山道入り口があります。



ところで、お寺の名前には
比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺のように、
寺号の上に山号がついてますよねえ。

調べてみますと、専門用語が多すぎて
詳しくはわかりませんが、
どうも中国の影響も看過できないそうです。

ただ日本には日本独特の宗教観、
例えば死者は裏山を登って行く
などの庶民の宗教観がその上に強くあるので、
山号は仏教の日本的展開の中で生まれ、
普及していったといわれています。

ちなみに、飛鳥時代などに創建された
法隆寺や唐招提寺には山号はないそうです。

熊野古道は好奇心を持って歩くと
いろんな勉強になるもんですな。
熊野に着くころには上人と呼ばれているかもしれません。

それにしても雲雀(ひばり)山とは
のどかな山号ですね。
中将姫の人柄がうかがえるようです。

その先にあったのが、
これまで何度も登場した徳本上人の名号碑です。



熊野古道のみならず、
紀州街道や大和三山の麓のお寺にも立っていました。

名号碑の横には道標も立っており、



「左 くまの」と刻まれています。

別の面には「中将姫寺へ三丁」ともあります。



糸我の地域にはこのような道標が多く残っています。
広々とした有田川から山の中に入っていく道だから、
旅人も道が心配になったので頻繁にたてたのでしょうか。

道標に沿って左の道をゆきますと、
道にみかんがよく転がっています。



さすがにみかんの産地ですね。
道理で吹く風にもそこはかとなく
みかんの香りが漂うはずです。

お、ここまでくると標高は20mを越えます。



津波に注意ではなく河川の氾濫に注意とあります。
いくらなんでもここまで有田川が
氾濫することは考えにくいのですがね。

みかん畑の間の道を進んでいくと、
糸我王子の看板がありました。



民家の壁にも案内が貼り付けられています。



ここがその「糸我王子社」。



例の熊野ブルーの案内も八咫烏を刻んだ石も
他の王子同様に健在です。



道はその先で山麓らしく二股分岐が続きますが、
木で作られた熊野古道の看板が親切に立っています。



とくにこの分岐には、
その看板と共に、
「糸我の道標」と呼ばれる道標石も立っています。



またその向かいには糸我王子社跡の石碑もあります。



先の糸我王子社と微妙に位置が異なりますが、
どちらが正しいのか、
あるいはこのあたり一帯を指すのか
その辺はよくわかりません。

さあ、ここからしばらくは、
急なコンクリートの登り道が続きます。



どんどん高度を稼いでいくので、



振り返るたびに糸我の町が小さくなっていきます。



そして例のシンプルすぎる案内に沿って



山道に入っていくと、



途中にこんなあずまやがあったりし、



糸我峠はもうすぐです。

続く


熊野古道 香り高き区間 2

2014年10月30日 21時40分35秒 | ウォーキング

さて、先の看板に書かれてあった
「中将姫」とはどういうお人なのでしょうか。



調べてみました。

すると悲しい過去をおもちなんですね。
実母が亡くなった後、
やってきた継母に虐待をされ
殺されそうにまでなったそうです。

そして逃げ出した彼女に、
刺客を放たれたのですが、
その刺客が中将姫の人徳にうたれ
逆に彼女を守ることになったそうです。

その後彼女は29歳で入滅するまでに
当麻寺の曼荼羅を織るなど
熱心に仏教に帰依し、数々の実績を残しています。

その彼女の眠るのが、ここ雲雀山「得生寺」です。

この「得生寺」は、小説「有田川」にも出てきます。

中将姫を偲んで、毎年5月に行われるのが

「中将姫会式」。

別名は糸我の会式ともいわれます。
地元の子どもたちが二十五菩薩の姿で、
境内を練供養するというその会式に、
主人公の千代が、かつて一緒に住んでいた妹の姿を
見に行くくだりでは読んでいてもドキドキしました。

その会式は今も続けられており、
和歌山県の無形文化財に指定されているとのことです。
一度見てみたいものです。

会式にお練りをする女の子は、
良家の子女が多かったそうです。
俗にいう「ええしの子」ですな。
なので、嫁見するなら糸我の会式
と歌にも詠われています。

ではお寺に入っていきましょう。



境内にはちょっとした言葉が
各所に掲げられています。
来年のカレンダーの参考にしましょう。





なかなか、熱心なお寺のようですし、
お堂に参ってグルリンパと境内を見て回った印象は、
静かないいお寺でした。





そこを出るとすぐにあるのが「糸我の一里塚」です。



そういえば大阪の貝塚市内にも一里塚が残っていました。
あそこは、天満の八軒屋浜を起点とした一里塚でしたが、
ここ糸我の一里塚は、
紀州藩が設けたもので、和歌山城下を起点にしています。
ここから五里というから約20キロ離れているとのことですね。

その一里塚の少し先に、道標があります。



「すぐ熊野」と刻んであります。



この表記についてdoironはこれまで誤解をしていました。
「すぐ」というのは「直ちに」という
そばにあるような意味の「すぐ」ではなく、
「真っすぐ」の「すぐ」だったのですね。
この道標のことについて調べている時に、
そんな説明に出会いました。
う~ん、そうかあ。勉強になりました。

他の面には「すぐ紀三井寺」も刻まれています。



その道標のそばにあるのが

「糸我稲荷神社」。



こういうところにはたいてい説明書きが掲げられています。
しかし、これをその場ですべて読んでいると
歩行に時間がかかって仕方がありません。

写真に撮って帰宅後にじっくりと読むのですが、
たまに「え~そんないわれがあるの?」
というような記述があって、
しまった、もっとちゃんと見ておけばよかった
と後悔することもよくあります。

この糸我稲荷にも日本最古の稲荷であるとの説もあり、
それが鳥居の扁額に書かれてある
「本朝最初」からも伺えるとのことを
帰宅後に読んだ説明書きで知りました。

で、撮影してきた写真を見たら、
良かったあ、その扁額が写っているではないですか。

これ。



やはりこまめに写真は撮っておくものですね。

古道を少し離れて右に入っていくと、
本日最初のスタンプポイントである、
「くまの古道歴史民俗資料館」があります。
その道すがらにあるのが

「白河法皇みくるまをよせたまひし旧跡」。



糸我稲荷には今も樹齢500年以上といわれる
楠の大木があり、それは熊野詣が盛んだったころからも
あっただろうといわれています。
そんなクスノキの樹陰を好んでか、
ここに駕籠を止めて休憩したという旧跡です。

資料館には当時のかごを再現したものであるとか、
熊野御幸記を今風にアレンジした日程表などが置かれてあるそうです。

入ってみましょう。

続く


熊野古道 香り高き区間 1

2014年10月29日 21時37分39秒 | ウォーキング

さて、これからの熊野古道は
いよいよdoironの未踏の区間になります。

といっても、以前に通ったのは、
大勢で走りながら駆け抜け、
何もじっくり見ていなかったので、
歩行としては未踏に近かったのですがね。

さあ、熊野に向かって一歩ずつ歩を進めていきましょう。

湯浅まで車で行き、電車で引き返して
「紀伊宮原」の駅のホームに降り立ったのが午前9時前。



高い秋の空とどことなくみかんの香りのする
さわやかな風が出迎えてくれました。

早速ナビをセットして、歩行開始です。

今回歩いたのはこんなコース。



全長約9キロの区間です。

駅を出て、有田川に向かいます。

すると民家の軒先にこんな募集広告が・・・



「ミカン採りさん募集」時給1000円~1600円。

お金をいただいてミカン狩りができるんだって。
う~ん、いいじゃないですか。
近かったら働きに行くのになあ。

でも、採るのが甘いミカンとはいえ
仕事は甘くはないわな。

みかん農家はどこも高齢化しているのでしょうか。
広告の最後に書いてあった

「助けて・・」

が切実であることを物語っていますね。

有田川の堤防に上がる道のところに
「札場地蔵」があります。



川が増水したときには、
ここに「本日川止め」の札が掲げられたことから
この名前になっています。

その地蔵の背後に、
立派な宝篋印塔が建っています。



前回紹介した、小説「有田川」のラストシーンで登場する
昭和28年の大水害で亡くなられた人々の
供養のために建てられてあるようです。

ススキやアキノノゲシが秋の香りを感じさせます。



風に揺れる道を堤防上に出ていくと、
国道480号を渡ったところにあるのが天神社。



ここに、紀伊国名所図会に描かれた



「宮原の渡し場」がありました。

歩いたこの日は釣り人が川の中に入って、



あれはアユ釣りかなあ、
竿を出してる姿が見られたほど
流れも穏やかでしたが、



時に凶暴に暴れ狂うようなこの川の渡しは、
もちろん札場地蔵での制止もあったけど、
ちょっとした雨でも増水しただろうから
さぞや大変だったことでしょう。

それを物語るのが当時の船賃。
それは川の水の状況によって
大きく変動したそうです。

平常時は大体2文、
三途の川の渡し賃(6文)より安い値段でしたが、
増水時には10文と跳ね上がったそうです。

熊野御幸の時にここで足止めをくらった上皇たちは
天神社の前で仮宮を設けたそうで、
そこは「お茶屋の芝」といわれているそうです。

痕跡を探してみましたが、見つかりませんでした。

そんな渡し場のところには
今は歩道もある



こんな立派な橋が架かっています。



宮原橋です。

現代の旅人doironは快適に川を越えていきます。
ミカンの香りの中にどことなく
潮の香りも混ざっているような気がします。

振り返ると背後に、
前回下ってきた拝ノ峠のある山々が見渡せました。



渡り終えた南詰をこんな小さな道標を見てすぐに左折し、



道はいにしえの姿を想像させる
大きな楠の脇の堤防を進んでいきます。



例のシンプルすぎる案内も、



なんとなくすんなりと解読できるようになりました。

それに沿って堤防を下り、



国道42号に出たところに、
こんな立派な看板が立っています。



これから国道42号を通るときは、
この看板が熊野古道の目印になりますねえ。

国道を渡ると、またまた例の案内看板です。



もう間違うことはありません。

おっ、これは飛び出し小僧ならぬ、
飛び出しアンパンマンです。



飛び出して交通事故に遭ったら、
アンコが出ちゃうぞ~という警告ですね。
そしてその先には駆け込みショクパンマンが・・・。



アンパンマンのライバル
アンポンタン、じゃなかった
バイキンマンやドキンちゃんも探したけどいなかったなあ。

doiron的にはあのカレーパンマンの
いつもアワワワとなってる口が好きなんですけど。

ま、どうでもいいか。

では、名所旧跡の
香り高い得生寺に到着です。

続く。


ライター目線で

2014年10月28日 21時37分35秒 | 仕事

本日は仕事。

歩くブログがついつい長くなるので
歩いてばかりしているように見えますが
仕事もやっているんです。
ただ、あまり仕事のことは書けないのでね。

今日は、ライターとして記者会見出席時に
どんなことを考えて仕事に臨んでいるのか
その辺の自分自身のことを中心に書いてみます。

もうすぐオープンとなる大型商業施設の
プレス発表に出席をしてきた。

ライターという仕事についてから最も大規模な
プレス発表の取材である。

なので、どんな服装で臨めばいいのだろう、
とそこから悩んでしまった。

そこでかつての仕事で見ていた
新聞記者たちのいでたちを思い出してみた。

記者は大体、フォーマルすぎない程度に正装である。
中にはジャンパーのようなものを
はおる者もいたが、
プレス発表となるとたいてい
正装をしてこられていたように記憶している。

もう何せ、2年半以上前なので
記憶が薄れかけているけどね。

ところが、カメラマンや音声さん達はというと、
ジーンズにラフなシャツと、
これは全くのカジュアルを絵に描いたような服装だ。

ま、動きやすいということを重視しているのだろう。

で、doironはというと、
ローカル社なので、
記者でもありカメラマンでもあるわけだから、
悩みどころである。

結局、綿パンに柄物のワイシャツ、
その上に若干カジュアルなジャケットと
ちゅーと半端ないでたちで出席をすることになった。

そしてバッグは、
これも昔を思い出してリュックにしたのだが、
最近は黒い大きめのショルダーを
持っている記者が多いようです。

パソコンを持ち運びしたりするからかもしれません。

そうして会場で全体を見渡すと、
全体的にみなさんスマート(体型ではないよ)ないでたちで
doironはかなりレトロな雰囲気をかもして、
少し浮いていたかもしれません。

ま、いいや。
記事は誰にも負けず今どき風に書いてやるからさ。
その辺は大新聞社に比べてかなり自由だからね。

そして写真は、施設の空気まで焼きこんでやる、
そんな気持ちで渾身のシャッターを押したよ。

今はデジカメだからすぐに確認できるから
その点とても助かりますな。

そうしてかれこれ3時間、カメラを装着した三脚を持って
会見後
施設内をウロウロしてきたのでありました。

帰宅して写真を見ながら早速記事を作成。

この辺はブログと手順は同じだな。

ただ気楽に書いてるブログと違うのは、
絶対間違いがあってはならないことと、
憶測も入れてはならないということ。

それを肝に銘じて夕方までに記事を完成させ、
編集へメールでポチッと送っときました。

明日の各社の新聞が楽しみやな。
(わが社の新聞が出るのはもう少し先です)

さあ、会見であの質問をしたあの社は
どんな記事に仕上げるつもりだろう。
doironは負けずにしっかり書けているだろうか。
そして写真はどこをどう撮影しているのだろう。
記事の大きさはいかほどか。

ライター目線で新聞を読むのも面白いもんなんだ。


木枯らし一号が吹いた日に

2014年10月27日 21時17分59秒 | 生活

知り合いからいろんなものをいただきます。
山口の萩を走った人からは
こんなお酒をいただきました。



「獺祭(だっさい)」といいます。
とってもフルーティで日本酒とは思えない
口当たりにはまいってしまいました。

ワインも別のお土産に何本かいただきました。

そして最近、北海道から届いたねん
と「ジャガイモ」をおすそわけいただきました。

ポテトサラダにしようと思ったのですが、
減量を誓い合ってる友達から
「野菜スープにした方がええやん」とアドバイスをいただきましので、
今回は北海道産ジャガイモ、泉州産玉ねぎ、
韓国チョリソー、京都産長ネギで
野菜スープつまり「ポトフ」を作ってみることにしました。

最近は家庭内での介護がなくなったので、
料理当番がまわってくる機会も少なくなっていました。

しかし、本日たまたまミセスが
福祉委員の用事で作業がたくさんあるとのことでしたので、
料理当番をしてあげることにしました。
それに本日予定していた山行も
昨夜の雨で中止したので、
ちょうどよかったということもありました。

夕方に明日の取材の打ち合わせをした後
取りかかりました。

先ず用意したのがこれ。



大きめのジャガイモ2個と普通のたまねぎを1個。
ネギは1本です。

先ずジャガイモを、皮むき手袋でゴシゴシしますと、



新鮮なのですぐにむけました。

たまねぎは大きく4つに切り分けるだけです。



チョリソーには斜めに切り目を入れます。
これで下ごしらえはOK。



鍋に水を入れ、沸いてきた来たところで
固形のコンソメスープを二個投入し、
そこへ玉ねぎ、ネギ、チョリソーを投入。
強火で沸騰してきたら火を小さくして
しばらくことことと煮ます。

その間に近所の公園をぐるっと
ひと廻りの散歩に出かけます。

帰ってきたら、8等分くらいに切ったジャガイモを投入し、
塩と胡椒を少々入れます。

もうこれであとはジャガイモが崩れる前に火を止めるだけです。



使用した包丁やまな板を洗い、
夕刊を読みつつタイミングをはかります。

そしてできたのがこれ。



どうですウマそうでしょ。

ミセスが、じゃ今夜は発泡酒はやめてビールにしよかな
というので、
「あのねえ、今回の味付けは高級ワイン、
高級日本酒にあわせた味付けになってるからね」
というと
「勝手に言っとき」やて。

結局、最初に書いた大事に大事に飲んでいるお酒
「獺祭」とお気に入りの
「五一わいん」のロゼでいただきました。



普段何気なく食べてるポトフでも
自分で作ると一味違ってきますね。

女の人からは、
自分で作った料理はあまりうれしくない
という声をよく聞きます。

男はたまにつくるから
あまりそう思わないんでしょうかね。

大阪に木枯らし一号が吹いたこの日に、
主にいただき物で作った料理は
心も体も温まる暖かさでした。


今日は大阪マラソン2014

2014年10月26日 21時15分04秒 | マラソン

「今度の日曜日に大阪マラソンに行ってくるわ」
とミセスに告げると間髪入れず

「走るの?」と聞かれました。
いやいやまだフルを走れるような
身分ではないし。

「友達の応援やで」
というと「なら行ってき」と今日は
快く(?)送り出してくれました。

出没場所は全部で5カ所。
地の利を生かして動き回りました。
最後にゴール会場に向かう
電車の超混雑にはまいりましたが
何とかゴールで知り合いと合流。

その人のゴールタイムを予測していたのですが
ネットタイムで誤差は1分。
まあ、応援の身としては
充実した結果となりました。

ただ、ランナーが今どこを走っているか
確認できるという位置情報サービスには
サロマの経験から期待していたのですが
アクセスが多すぎたのか
ほとんど役に立たずでした。
今後の応援のためにも
その辺を課題として
大会側にはぜひ改善してほしいものです。

それにしても暑い大会でした。
応援も何かと疲れるものです。
これまでさんざん応援していただいた
ありがたさを実感しましたね。

走った皆さん
応援の皆さん
お疲れ様でした。
汗をいっぱいかいた後の
打ち上げのビールは格別に回りますね~
てことで、今夜はもうおやすみなさい


安土だ城 5

2014年10月25日 21時49分22秒 | ウォーキング

大手口のところに戻ると、
りっぱな休憩所があった。



なかには安土城の1/7の模型が置かれ、



奥には座って休憩できるイスと
テーブルが数セット置かれてある。

doironが入った時も数組の
サイクリングらしいグループが座り込んでいた。

駅前の無料駐車場に次いで、
好感度のメーターがググッと上がったな。

ここらで歩き始めてから約3時間。

時刻は13時を大きく回っているので、
お腹が空いてきた。

しかし、その周辺にはお店などもなく、
広々とした田園地帯が広がっているだけである。



すきっ腹を抱えて、このコースで唯一の食堂である

「文芸の郷レストラン」

に向かった。

山歩きの時は基本的に弁当を持参し、
街歩きの時は外食にしているのだが、
食堂関係ももう少しリサーチしておいた方がよさそうだ。

剥げかけた導きペイントや



遠くに見えているのに
「すぐそこ」と書かれた嘘っぱち看板に沿って、



田園地帯を進みJR琵琶湖線の線路をくぐると、
立派な「安土城考古博物館」が
こんな小さなdoironの目にも飛び込んでくる。



かなり立派な建物だ。

もし立ち寄ったらおそらく建物内を全部回るのに、
どんなに早くても1時間はかかるだろう。

団体バスもたくさん来ているようだし、
ここはdoiron苦手の大混雑を避けてスルーすることにした。
もともとお目当ては、何といっても
「文芸の郷レストラン」だったしね。

それはこの博物館や展示館、





スポーツ施設のある複合エリアの
少し奥まったところにあった。

メニューを見てはげしくひかれたのが



「戦国焼定食」と「安土御膳」。

結局、空腹感と品数の多さで後者にした。



えー、トレイの中に何やら銀色に光る物体が乗っていますが、
良い子のみんなは深く考えないようにしようね。

食事中・・・食事中・・・。

さて、お腹がいっぱいになったところで、歩行再開だ。

外に出たところで、記念写真をパチリ。



比較的スズメバチの脅威が少ない街歩きなので、
この日の服装は全体に黒っぽくしている。

公園の東側の遊歩道を南下。



薬師霊場である桑實寺(くわのみでら)との
分岐近くにはこんな道標が立っていた。



もう時間も時間なのでその寺には行かず、
駅方面に向かって歩くことにした。
そのコースからは、先ほど登ってきた
安土山が田園の向こうにそびえていた。



この景色が、本日一番印象深い景色だったかな。

これからは、歩行をしたときに
一番印象に残った光景を
「ベストシーン」と名付けて紹介することにしようと、
その時思った。

このベストシーンが、
導きペイントのモデルになっているに違いない。



おっ、これは面白い。



標語の頭の一文字が
「とまと」になっている。

大変よくできました。

妙にしっかりした「飛び出し小僧」や



「飛び出し信長」、



「飛び出しビール」(?)



を眺めながら歩いていく道には、
こんな名前が付けられていた。



「びわ湖よし笛ロード」。

そう今回は近くに行かなかったけど、
「西の湖」は琵琶湖周辺地域の中の
最大の「よし」の生息地域だそうだから、
こんな名前を付けているのだろう。

いくつか点在する地蔵を眺めながら、





住宅地の細い道を歩いてようやく駅に到着。

今回の歩行距離は、約12キロ。
昼食時間も入れて4時間半の旅でした。

安土の空は高く、琵琶湖を渡って流れる風は心地よく、
遠い戦国時代の湖東の喧騒を思い描きながら
歩いた楽しい時間でありました。

「安土だ城」、終わりだじょう~。


安土だ城 4

2014年10月24日 21時47分35秒 | ウォーキング

普通、城の中心部は「天守」といわれるのだが、
ここ安土城だけは「天主」といわれている。

城の中に寺を設けるなど、
信長は自らを神格化しようとしたといわれていることから、
「天主」の表記もその支配欲の表れなのかもしれない。

その天主に近い二の丸跡まで来ると、
傾斜は比較的緩やかになる。



そこにあるのが「織田信長公本廟」。

つまり墓である。

石垣でぐるりを固め、
がっちりと組まれた石組の中に信長は眠っている。



でもねえ、たしか高野山にも
信長の墓があったよなあ。

調べてみたら、供養塔も含めて
信長の墓所というのは20か所以上あるそうだ。

でもでも本能寺の変の後、彼の死体は
確か見つかってなかったはず。
それだけにさまざまな伝承がある。

話もその遺骨も伝承にのっとって
各地に散らばったというのだからまるで仏舎利のようだ。
だとすれば自らを神格化しようとした
信長の遺志に沿うのかもね。

二の丸を過ぎると本丸御殿の跡に出る。



本丸といっても天主ではなく、
ここは後の調査で清涼殿と同様の構造であることから、
天皇を迎えるための建物ではなかったかといわれている。

うっそうとした杉木立の中に、
点々と残る礎石が往時の姿を浮かび上がらせる・・・
なあんて、doironの想像力は
そんなにたくましくはない。

本丸を過ぎると、次はいよいよ天主だ。

石段を登って行くと、



もうこれ以上は高いところがないという広場に出る。

ここにも礎石が残っている。



それを調査し、当時の宣教師が
本国へ送った安土城の説明文書などから
天主のおおよその姿が復元されている。

この安土山一帯は平成元年から
20年にわたって発掘調査が行われ、
主要な部分はほぼ発掘を終えたものの、
まだ全体の20%に過ぎず、
その調査の途中で予算が途絶えた。

残りを調査するには50~100年程度かかるということで、
それは後世にゆだねられることになったそうだ。

建物の姿をdoironの乏しい想像力で思い描くことはできないが、
礎石の周りを歩いてみると、
遠くに琵琶湖、安土城下から西の湖まで見渡せる、





素晴らしいロケーションであることはわかった。

琵琶湖の向こうにある京をにらみ、
天下に思いをはせていた信長の心境は
何となく感じる事が出来た。

おっと、ここにはジダンの天敵がおるようだ。



お城に営巣したスズメバチの巣は、
家来が命がけで駆除したのかねえ。

いや、それどころか冷静に考えると、
天主で使う水や食材、日用品なども
すべてあの急な石段を登って持ち上がったんだろうし、
急ぎの文書なんかも
それこそ必死に駆け上がって届けたんだろう。

お寺の坊主や宅急便も・・・もういいか。

いずれにしても当時のことを考えると、
洗濯物はどこに干したんだろうか、
汚水処理はどうしたのか
など次々疑問が湧いてくる。

みんな家来がやったんでしょうが、
とにかく気の毒なことだったんだろうね。

そんな俗っぽいことを考えながら
天主を後にした。

下山路は二の丸の辺りから、
百々橋口の方へ降りていく。

天主は消失したが、今も当時のまま残っているのが、
三重塔と



楼門だ。



この三重塔の横には、
近年発掘調査された草原があり、
そこから西の湖を眺めることができる。

百々橋口の方へ降りていく道には
フェンスがされていて、
上からも下りていくことができなくなっており、
仕方なく左折して、登り始めた大手口の方へと進んでいく。



このあたりは多分まだ発掘調査されていないようで、
手つかずの山道となっている。

ふと、足下を見た時に、
こんな石を見つけた。



キリシタンに寛容だった信長の元には、
宣教師もたびたび訪れ、
世界の広さを信長に伝えたそうだが、
足下に埋もれそうになっていた石に
十字が刻まれているように見えたことは
何かそういうことと関連があるのだろうか。

再発掘はいつになるかわからないが、
その結果もまた楽しみにしていよう。

続く


安土だ城 3

2014年10月23日 21時46分31秒 | ウォーキング

神学校=“セミナリヨ”

これをアルファベットで綴ってみると
「seminario」。

なるほど、セミナーやゼミナールと同一語源なわけだ。

安土城にいた信長が、
ここで演奏されるオルガンの音にひかれて、
足を運んだともいわれている。

そのセミナリヨ跡は、
桜の植えられた小さな公園になっている。







奥に進んでいくと、この公園に面して流れる水郷がある。



大阪~淀川~琵琶湖~西の湖を経て、
南蛮文化がここに渡来したということになる。

こんな小さな公園なのに、
公園横に駐車場が設けられているのは、



訪れる観光客が多いことを物語っている。
時の権力に翻弄されつつ、
最後には焼き討ちにされたこの神学校跡地は、
キリスト教の信者の人には
ある意味聖地のひとつなのかもしれない。

ここはやはり、合掌ではなく
「アーメン」と祈っておきましょう。

さあ、前もって調べてあった
主なところはおさえたところで、
いよいよ安土城に向かいましょう。



ここが、各地の湧水を集めて西の湖へ
流れてゆく安土川にかかる百々橋(どどばし)。
これを渡ると、安土城の百々橋口に出る。



しかしこの石段は現在使用禁止となっており、



大手門の方に回らないといけない。

と、その前に百々橋が架かっている
安土川を「歩行者・自転車優先道路」に沿って
しばらく下ってみよう。



各所で川に降りられる石組がいくつも見られた。



ただ、今は川の水も濁っているし
あまり使われていないようにみえる。

昔は、この川が採水、洗浄、運搬など
庶民の暮らしのライフラインだったのにちがいない。

安土城の百々橋口は、
そんな庶民の暮らしと直結する
重要な登城口であったことが伺える。

もう一度百々橋にもどり、
城のある安土山の山すそを左回りで歩いていくと、



大手口に到着する。



「拝観料」500円を払って、中に入ると、・・・

ドヒャー!

急こう配の幅位広い石段が、
ドーンと真っ直ぐ登って行くようにつけられ、
先に登って行った人たちが小さく見える。



今の季節だからまだいいものの、
真夏だったらあごから汗がしたたり落ちるだろう。

実はこの大手口から続く登城路は、
どちらかといえば城の大きさを誇示するようにつけられた、
「見せる石段」だったそうだ。

石段が不安定なので、
足下を見ながら登って行くと・・・

おや?こんなものが。



よく見ると石段のひとつが石仏でした。

こんなのが随所にあります。



並べてから彫ったのか、
彫ったものを並べたのかわかりません。

そういえば、姫路城の石段にも、
石臼が使われたりしてたっけ。

石段の左右には、
信長の家来の屋敷跡がある。

左には羽柴秀吉邸、



右には前田利家邸。



織田信澄邸や森蘭丸邸の跡もある。



彼らは合戦の時はここから出陣したのでしょうか。

でも、ここではたと疑問が。

戦国武将たちはこんな馬でも下りにくいような急な石段を、
重い甲冑をつけてどのように上り下りしたんだろうか。

信長にいたっては山頂から下りてきたことになる。

もし自分の脚で上り下りしたのなら
意外に戦国武将はアスリートだったのかもしれない。

たとえ駕籠かみこしのように担がれて下りたにしても、
さぞや乗り心地は悪かっただろうし、
日常でも「上で信長さんが呼んでるよ」と伝令を受けても、
参上つかまつるまで
さぞや息が切れたことだろうて。

とすれば、水や物資の運搬も大変だったに違いない。

背中にじっとりと汗がにじんだ頃
黒金門祉に到着する。



ここにあったのが、この仏足石。



建てられてあった説明によると、
石段にあった石仏同様、
集められた石の中に紛れていたものだそうだ。

家臣がひまに任せて彫ったものではなかったんやね。

そろそろ天主に近づいてきたようだ。

続く


安土だ城 2

2014年10月22日 21時34分39秒 | ウォーキング

織田信長の像が建つ駅の北側から、





まずは3か所の湧水場所に向かう。



おっと、このマン蓋は
撮って置かねばなるまいて。



信長が旗印につかっている
明の通貨「永楽通宝」を盛り込んである。

安土には琵琶湖最大の内湖である西の湖がある。
内湖とは、琵琶湖周辺の水域で
琵琶湖と水路等でつながる湖のことを言う。

安土の里に降った雨が伏流水となってある場所で湧きあがり、
川となって内湖に注いでいる。

そんな湧水の見られる場所が、
駅に近いところに3か所ある。

ひとつが「音堂川(おとんどがわ)の湧水」。



てくてくと歩いて近づいていくと、
ボコボコと水の湧く音が聞こえてくるほど
豊富な水量が水中に噴出している。

そんな場所は、水面近くに降りて行けるような
構造になっていて、地域の人達の
洗い場にもなっている。

折しも、一人の高齢の女性が
一輪車に積んだ収穫したばかりのような
かぶら大根を洗っている光景に遭遇した。



こんなタイミングのいいことはない。

取材をしていると告げて
写真を撮らせてくださいとお願いしたら、
こころよく承諾してくれた。

旅雑誌などでもよく見る光景だから、
きっとこういう依頼も多いのだろう。

それにしてもいいタイミングだった。

湧水の中には大きなコイも飼われていた。



養殖しているのかもしれないが、
湧水に異常があった時の
センサーの働きもさせているんだろう。

その近くにあるのが「梅の川」。



今は水が湧いていなかったが、
曲水仕立てに石を組み上げて、
水が汲めるようになっている。

昔、信長の歌人が珍しいお茶を難波から仕入れてきて、
この水で茶を点てたところ信長が喜び、
以後、彼が茶会を催すときは
必ずここの水を使ったといういわれがある。

そして少し離れたところに、
このあたりで一番大きい北川湧水があるというので見に行った。

地図にある通り、
家と川の間にある草むらのような道を通り、



西の湖に向かう流れの先に



こんな小さな鉄の橋が架かっているので



それを渡る。
まるで猫になったような気分だ。

なおも車の通れないような細い道を歩き、



車道を一本横切ると北川湧水にたどり着く。



この湧水は円満地蔵の足下から、
何か所も湧き上がっており、
湧いている箇所には石臼が置かれてある。



ここには誰もいなかったが、
足湯ならぬ足涌(あしゆ)が設けられていて、



地元の人達は夏は冷たく冬は暖かい
といわれる湧水の恩恵に授かっている。

湧水場は毎週日曜日に掃除をしている旨が、
地蔵のところに書かれてあった。



恩恵は感謝と努力のたまものなんやね。

このあたりは、寺内町といわれるだけあって、
古い街並みの中を地図を良く見ながら、
クネクネと抜けていくと・・
おおこれは巨大な張子の虎と馬が並べられている。



かなり大きく不気味なので、
これを見た子供はきっと
「トラウマ」になるというのがオチなんだろうて。

小学校の横道を抜けると
二車線の道路に出るので
それを左折してしばらく歩道を歩く。



そして下街道と名付けられた道に右折して入っていく。

この時気付いたのだが、
このあたりは屋根の軒下や
壁や梁を濃いエンジ色で塗っている家が多い。



この家も写真ではわかりにくいが、
エンジで縁どられている。

その彩りは何となく信長の色彩の趣味を連想させた。

道の向こうに大きな鳥居が見えている。



どうやらこの道は活津彦根神社の参道に通じているようだ。

こんなお旅所も道路わきにあり、



地蔵をいくつか見て歩いていると、



やがて「セミナリヨ跡」の案内に出会う。



仏教は異常なまでの残酷さで排斥した信長だったが、
キリシタンには寛大であった。

彼が信頼した宣教師オルガンティノが、
高山右近などの援助を受けて建てた
日本で最初のキリシタン神学校の跡が水郷の脇に残っている。

続く。