ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

大和三山ミステリー歩行6

2014年05月31日 21時24分58秒 | ウォーキング

八釣山地蔵尊のある下八釣町から



木之本町を抜けていきます。
とても味わいのあるのどかな道で、
道端では大勢のジダンもたわむれています。



振り返ると、長く寝そべったように横たう
天の香久山が昼寝をしているようでした。



道は高殿町に入っていきます。
この「高殿」という町名こそが、
日本で最初で最大の都城・藤原京の存在を裏付ける
言葉のタイムカプセルだったのです。
かつて字名に「高殿」という地名が含まれていた地域で、
「おおみやど」といわれていた
小高い土壇があったそうです。

昭和10年に実施されたそこの発掘調査から
藤原宮跡の所在が確認されていったとのことです。



694年に飛鳥から遷都され
710年に平城京に移るまで
ここが日本の政治の中心地だったそうですが、
今から1300年くらいの前の都の位置が
昭和初期までよくわからなかったのも、
この地域にまつわる様々なミステリーに
埋もれていたのかもしれません。

高い御殿が建っていたから
「高殿」の地名が残っていたんですね。

ここでは今も発掘は続いています。



この場所に都を置いた理由の一つに、
大和三山をすべて望める地であったことが挙げられます。

これが畝傍山。



そして香久山。



最後に耳成山です。



そしてもう一つ理由があるとも言われています。
それは大和三山が形成する
二等辺三角形の頂点である畝傍山と
この藤原宮をつないだ直線上に
三輪山があるという説です。

さらにもっとマニアックに、
周辺に点在する春日社などを
直線でつなぐと剣を持った古代人の姿になる
というものや、
星座のオリオン座になぞらえる説まであります。



未知の部分が多いだけに、
様々なそれらしい憶測が渦巻いています。

ここがその高殿があったという
大極殿があった場所です。



持統天皇と文武天皇が統治した
藤原宮であることを示す石碑です。



藤原京を治めたのはもう一人
元明天皇もおられますが、
その名はありませんでした。

「万葉集」の鴨君足人の注に、
「藤原宮大極殿の地を鴨公と言う。」とあります。

確かにそこには「鴨公神社」という玉垣がありました。



鴨とは変わった名前ですが、
「鴨長明」といえば、
ははーんと思われると思います。

藤原宮址を後にして
車が頻繁に通る道路を横切り、
桜並木の続く醍醐池のふちを歩いていきますと、



池の北西の隅に標高72.6mの四等三角点がありました。



地籍調査の測量基準点ですね。

ちなみに三角点は五等まであるのですが、
五等は海の岩礁などに設けられるものだそうで、
ほとんどが四等にされて
現在は沖縄の小島3か所に残るのみだそうです。

池の堤防を降りて醍醐の町の中に入っていきます。



ここまで来ると、最後の耳成山も
かなり間近に見えてきます。

耳成山は標高139.2mで、
大和三山の中では最も低い山です。

火山活動と浸食によってできた山だといわれています。

1説には、もっと小さな小山だったのを
土を盛ることで大きくし、
大和三山が二等辺三角形になるように
造営された山であるとも言われています。

それゆえか三山の中ではもっとも形の整った山容を持っており、



人の頭になぞらえて
耳が無い山のように見えるところから
その名前がついたといわれています。

ちなみに万葉集では
「耳梨山」とも言われているそうです。

また、同様に麓にはかつて
「口なしの井戸」や「目隠し川」もあったそうです。
耳と口と目の名前がついてます。

さすれば、本薬師寺にあった
「聞かざる石」もあながち関係がないともいいきれませんね。

山の麓には池があって



公園が整備されています。

そこで小休止した後、
いよいよ大和三山の最後の山に登山開始です。

続く。


大和三山ミステリー歩行5

2014年05月30日 21時32分00秒 | ウォーキング

月の誕生石。それがこれ。



大きな石が森の中に忽然と現れます。
果たしてその名前の由来はどういうことなのか。

そこの説明によりますと、
ここにあった大きな石が
次第に膨らみ始め、
ある時、石の表面に腹帯をまいたような
白い筋が出てきたそうです。



それからも石は膨らみ続け、
地元の人たちは
「石が子どもを産むんだ」
と言っておったそうです。

するとある夜、山の方から
赤ちゃんの泣き声が聞こえたので
村の人たちが「石の赤ちゃんが生まれた」
と思って見に行くとすっかり石がしぼんでいたそうです。

赤ちゃんはどこに?
と探したところ香具山の上に
ぽっかりと月が現れたので、
こんな名前になったそうです。

赤ちゃん石を探したのではなく、
空に浮かぶ月を石の赤ちゃんだとする壮大な発想は、
この地に漂う神代の神秘の名残が
そうさせたのかもしれません。

気になったのは他にも「蛇つなぎ石」というのもありましたが、



残りの距離と時間を考えてパスしました。

帰ってから調べてみたらこのあたりには、
巨石にまつわる史跡がいくつも点在しているようです。

さすがにミステリーに満ちた地域です。

脇道から元に戻って香具山の麓の村を下っていくと、



遠くに次の目的地である耳成山が見えてきました。

遠くとはいえ、歩き始めた頃に比べたら
ずいぶん近くになりました。

あそこまで大体一時間半くらいかかりそうです。

歩行後の温泉のことを考えたら、
宴会まではぴったり間に合いそうな距離です。

最近はさすがにこれだけ歩いていると、
見た目の隔たりと歩行に要する時間の感覚が
かなり身についてきたように思います。

てくてくマップをたよりに田んぼの中の道を
てくてく歩いていくと、道端に大きな石が建っていました。

八釣山地蔵尊の道標です。



そしてその横には、
香具山から下りてきたときに見たのと同じ
「天香山埴安伝稱地道」の石碑です。



こちらの石には指をさす手が
浮き彫りにされています。
しかも掌をこちらに向けた
凝った彫り方をしています。
行ってみましょう。

これが八釣山地蔵尊。



えらく立派な地蔵尊ですねえ。
興福寺という寺の境内に
地蔵尊が祀られています。

仏法を嫌っていた物部氏が、
飛鳥の橘寺に火を放って焼いたとき、
金堂に安置してあった地蔵菩薩が、
香具山の頂上に逃れて行き、
それを知った聖徳太子が
香具山の山麓に寺を建立して
地蔵を祀ったと言われています。

飛鳥をチャリンコで巡った時の記憶がよみがえります。

橘寺は田道間守(たじまのかみ)が持ち帰った
不老不死の橘を境内に植えたことに由来しています。

田道間守は先日行ったカニカニツアーのブログで
丹後地方の羽衣伝説で出てきましたね。

あの時は不老不死の薬はお酒だったのですが、
ここでは橘の実になっているのがミステリーですねえ。

伝言ゲームのように伝承は変遷していきます。

その興福寺境内には、
四国八十八ヶ所霊場の
お砂踏み場もありました。



そこを歩くと八十八ヶ所をめぐったのと
同じ功徳があるとのお得なところです。

まあ、それはおいときましょう。

寺の正面には、道を隔てて
畝尾(うねお)坐健土安神社があります。
さらにこの神社の奥には
「畝尾都多本神社」という名前の神社もあります。
この「畝尾」が「うねび」と読めるところから、
奈良三山の呼び名は
昔と今は異なっているのではないか
という説もあるようですが、
最近はあまり言われていないようです。

さてここで先ほどの石標について考えてみましょう。

「天香山埴安伝稱地道」の中の「埴安」なのですが
「埴」は粘土質の土のことで、
「安」はというと土をこねるという意味があります。

最初に登った畝傍山頂にあった
「埴取」の聖地は
祭事に使う神器を作るためのものでした。

ここもそれに関連しているのでしょう。

調べてみると今でこそ
住吉大社は畝傍山で埴取をしていますが、
昔は香久山で採取していたそうです。

香具山の西にあったと言われる
「埴安池」もきっと土をこねるための
水を採取する池だったのでしょう。

もしかしたら、先ほどのアカウキクサの池も、



香具山の南にあったけど
その名残なのかもしれません。

埴取神事のことひとつとっても、
この地域の伝承はミステリーに満ちています。

いずれにしても、
こういった小さなミステリーが
いくつも重なって、
古代史の神秘性を演出していることは確かでしょう。

その古代史の中心ともいえる
「藤原宮跡」をこの後通過します。

続く


大和三山ミステリー歩行4

2014年05月29日 21時40分31秒 | ウォーキング

山の麓には道標が立っています。



かろうじて読めたのは
「すぐかぐやま」の文字だけでした。

お寺の門前にも石標が・・・



と思って、よく見ると



熊野古道で頻繁に見かけた
徳本上人の筆跡に酷似しています。

多分、徳本の弟子が上人の筆跡をまねて書き、
そんな石碑も各地に残っている
とのことでしたので、
これもそんな石標のひとつでしょう。

それにしても泉南の日限地蔵といい、
奈良のこの徳本上人名号碑といい、
いろんなところで、
これまで熊野古道で見てきたものと
重なるものが点在しているものです。

看板に沿って、天岩戸神社の方に向かいます。



そちらが登山口です。

その天岩戸神社がこれ。



集落の中の細い道を抜けると、





登山道が始まります。





「大和三山は有名な山です」
と書かれてありましたが、



有名でなくても自然を荒らしてはいけませんし
火の用心もしなくてはいけません。

その下の紙には
「竹ひこばえの処理をしています」
と書いてありました。

「竹ひこばえ」と聞けば、
都会の人は「ああ、何か有害なハエでも飛んでいて
薬をまいているんだろう」と思うかもしれません。

そうではなくて「ひこばえ」とは
切り株や根元から生えてくる若芽のことを言います。

要するに竹林の整備をしているということなんですね。

道標はしっかりしています。



それにそって歩けば
10分足らずで山頂に到着します。

それにしてもここも芋虫とやぶ蚊が大量です。

いやがうえにも落ち着きのない
早足になってしまいます。

山頂には「國常立命神社」があります。



向かって右が竜王神で
社殿の前に甕が埋められています。
いわゆる、雨乞いの神様です。

ここへ来る前の太子堂の井戸にまつわる話しといい、
広大な奈良盆地のこのあたりは
水不足に困ることが多かったんでしょうね。

その神社の前の広場の一角から、
木枝の間に畝傍山を垣間見ることができます。



それはまるで、
沖縄の斉場御嶽のサングーイの奥から
久高島を眺めるような景色でした。
そうそこはまぎれもなくパワースポットでした。

そんな景色を眺めただけで、
山頂では芋虫を避けつつ、
蚊にも襲われてゆっくりすることもできず、
早々に下山道に向かいました。





下りきったところが、
天香山(あまのかぐやま)神社です。



「具」が抜けているわけではありません。
粉とキャベツだけの
昔の一銭焼きじゃあるまいし。
三文字でこう読みます。

そうそう、「かぐやま」の標記には
「香具山」と「香久山」があります。
ミステリーですねえ。
なわけないか。

名勝としての標記は
「香具山」ですが、国土地理院や駅名など
おおやけには「香久山」が使われているだけのことです。

doironの氏神の曽根神社も
名勝としては「曾禰神社」なのです。

山から下りてくると、
蚊もいないのでホッとします。

ホッとしたら、
またもやあちこちが気になります。

これが「波波迦の木」。



古代亀甲占いに用いた木で、
これに溝を彫った板(波波迦)を作って
使ったといわれています。

ちなみに波波迦は和名で、
今風にいうとウワミズザクラのことです。



おや、民家の屋根の上に何かが座っています。



どう見ても鍾馗さんではありません。
烏帽子を被ったやんごとなき人のような姿に見えました。
これも古代史ミステリーか。

ため池が、おお~アカウキクサに覆われています。



これまで街道歩きで
いろんなため池を見てきましたが、
これは初めてです。

全国的に個体数としては
かなり減っていると聞いておりますが、
このあたりには多いのでしょうか。

池面が地面のように見えました。

チェックしておきましょう。

その池の横にはこんな石が建っていました。



「富士大権現」と刻まれています。
三山のうち唯一火山によって生成されたのではない
この山の麓にのみ
富士権現があるというのも、
なんとなくミステリーですねえ。

この富士大権現の入り口には

「天香山埴安伝稱地道」



と刻まれた石が建っています。
これは何だ?と思いつつも
その時はとりあえず写真だけ撮っておいたのですが、
実はこの石は同じものが
あとにも登場しますので
調べた結果はまたのちほど紹介しましょう。

それよりも何よりももっと気になったのが、
道案内に書かれてあった「月の誕生石」です。



その名前はあまりに大げさで、
まやかしと神秘さとをあわせもっています。

ミステリー歩行ツアーとしては
是非行ってみなくてはなりません。

それは脇道に入って山の中を



2,3分歩いたところにありました。



続く。


大和三山ミステリー歩行3

2014年05月28日 21時31分22秒 | ウォーキング

橿原考古学研究所の看板にひかれてしまいましたが、



今回は先が長いので寄りませんでした。

プチ桧皮葺の駅舎を持つ近鉄の
「畝傍御陵前駅」



の地下道をくぐり食堂を探しましたが、
これと言ってひかれるお店がありません。

しかたなくこの先の「中街道」と言われる
国道169号のコンビニにでも行くか
と思っていたら、こんな看板が
doironの大きな目に入りました。



これは行かねばなりません。

お昼は久々に豪華なこんな定食です。



あまり食べ過ぎても夜の酒席に差支えてはいけませんが、
コスパで選ぶとこのメニューになりました。

みそラーメンと塩味天津飯の定食です。

一人なのでカウンターに座ると、
同年代らしき男性が声をかけてきました。

「歩いてるんですか?」
「はい。大和三山をめぐっています」と言うと、

非常に話が弾んで、楽しい昼食となりました。

最後にその地元らしき男性に「橿原考古学研究所の
付属博物館がとても面白いから寄って行けば」
とハゲしく勧められましたが、
今日は先があるのでと断ると残念そうでした。

近いうちにぜひとも行ってみたいと思います。

昼食を終えて再び歩き始めると、
前方に大和三山の二つ目、
「天の香具山」が見えてきました。

他の二つと違って目立たない山容ですが、
三山の中ではもっとも有名な山と言っていいでしょう。

なぜ有名かと言うと、
様々な歌に歌われているからです。

「春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の
 衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)」

あまりにも有名な持統天皇の歌です。

また三山の中では唯一「天」という言葉が
頭に着くところからも
もっとも神聖視されていた山だと言われています。

標高は152m、多武峰から続く山並みが
奈良平野に突き出た岬のようになった先端に座っているお山です。

他の2山が火山であるのに対して
こちらはそうではありません。

隆起と浸食のみで形成された山と言っていいでしょう。
おっと、その前にこのルートで
見逃してはならない史跡のひとつである
「本薬師寺跡」に到着です。



境内には、かつてここにあった
薬師寺の礎石がずらっと並んでいます。



藤原京の薬師寺と言われた寺院で、
平城京遷都で今の薬師寺にとって代わられた存在です。

境内には、様々な石造物が安置されていますが、
中でも最も興味を引いたのがこの猿の石です。



「見ざる 言わざる 聞かざる」のうちのひとつ
「聞かざる」が彫られています。

人の言うことなんか聞かないよとばかりに、
耳を押さえています。

あれ、じゃそれは耳成ってこと?
とにわかミステリーファンは
色めき立ってしまうわけです。

そんなんはミステリーどころか
「見捨てりー」です。

そこを出てすぐに、
田んぼの中にパワースポットらしき一角がありました。



行ってみましょう。

そこがかつての薬師寺東塔跡です。
そこには東塔の礎石と小さなお社がありました。



お社に祀られていたのは~、

どひゃー、

神様、いやお寺だから仏様の降臨です。
これを「影向(ようごう)」と言わずしてなんと言いましょう。



ありがたや、ありがたや~


飛鳥川につきあたって右折し、歩いていると



前からやってくる、大集団の歩行部隊に出会いました。



きっと何かのツアーなんでしょうねえ。
やはりこの辺りはこういう集団が多くいます。

竹やぶの中の地蔵と庚申さんをチェックしてから、



紀寺の跡にさしかかります。



紀氏の氏寺といわれ、
藤原京の南側に位置するお寺の跡です。
今は雑草の茂ったただの広場です。

さあ、いよいよ香具山が間近に見えてきました。



春霞の漂う空には、
そこ一点だけ空気が澄んでいるかのような
研ぎ澄まされた声で雲雀が鳴いていました。
奈良三山をそれぞれ一本の樹に見立てると、
そこを登るdoironは一匹の芋虫です。
一度は息絶えた命で、
再び途絶えるかもしれない、
鳥に食われるかもしれないけど、
神代と人の世の時の積層を
尺を取りながら登って行きます。

なぜそんなことをするのと言われても
尺取虫の本能だから仕方ありません。

あわよくば、登りきったところで、
羽化して雲雀といっしょに
春の大空を舞える時が来るかもしれません。

今はただ登りたいから登る、
歩きたいから歩くということを大切に、
時を重ねていきたいと思っているdoironなのです。

さあ、天の香具山に登頂開始です。続く。


大和三山ミステリー歩行2

2014年05月27日 21時13分10秒 | ウォーキング

今回のコースどりだと
登山道からUターンするように
山頂への道がつながっています。

街からさほど離れていない山道
であるにもかかわらず、
冬に落ちた落ち葉を踏みしめる音を
聞きながらのトレイルも心地よく
かろうじて走れるほどの傾斜を登って行きますと、
こんな看板のある開けたところに出ます。

山頂はそこからすぐのところです。

ここが山頂広場。



三角点もあります。



国土地理院によりますと、
畝傍山の標高は198.5メートル。
橿原観光協会のHPでは198.8メートル。
橿原市のHPや現地の立て看板には
199.2メートルと書いてあります。

どれが正解なのかはよくわかりません。

古代史ミステリーのひとつです。

まあ、どれにしても四捨五入すれば
199メートルですから、
おおざっぱにそういうことにしておきましょう。

その199メートルの山頂には、
畝火山口神社の跡地と、
玉垣に囲まれた何やら神聖な一角があります。



この玉垣の場所、何も案内はなかったのですが、
調べてみたらやはりいわくのある場所でした。

大阪の住吉大社から、
年に二度「埴使い」と言われる人が
この玉垣の中の埴を取りに来ます。

「埴」というのは、
以前熊野古道のブログの中で書いたように、
焼き物の作れる粘土質の土のことを言います。

たしか「吐前(はんざき)王子」の吐が
「埴」に由来をしていたんですよね。

そしてこの埴で埴輪を作る・・・のではなく、
神器を作って祭事に使うのだそうです。

住吉大社のホームページには、
神職は麓の神社で祭典(埴土神事)を行い
口に榊の葉を含んで、
埴土を三握半、採取し、
埴筥(はにばこ)に収めて持ち帰るとあります。
量はわずかですので、
そのためにこの山の標高が変化している・・・
というわけでもなさそうです。

山頂広場では二組4人の先客が
お弁当を食べておられましたが
doironはとっとと下山します。

山道を先ほどのUターンの分岐まで戻り、



元来た道とは違う方の道を進んでいきます。
短い距離でしたが、
途中地元の人らしき3名に遭いました。

けっこう親しまれているんですね。

登山道入り口には杖も置かれておりました。



そうして道は畝火山口神社の参道へとつながっていきます。

この神社は社殿も鳥居も
朱塗りの神社で、



神功皇后が応神天皇を出産した伝承により、
安産の神として信仰されています。

参道を降りて、
街路に石燈籠がある古い街を抜けて



慈明寺橋まで下っていき、



そこを右折します。

田園地帯の向こうに
国道24号のバイパス高架道路が見えています。



しばらく行くと、右手に立派な太子堂が見えてきます。



今回の歩行は街道ではないので、
道しるべなどはあまりありません。
なので歩くにあたっては
近鉄の「てくてくまっぷ」を参考にしました。



奈良辺りの歩行には
この地図が優れもので、
イラストマップに距離と共に
細かい説明が書かれており、
50コースが設定されています。

太子堂もそこに書かれてありました。

由緒書によりますと、
弘法大師がこの地を訪れ、
この地域が水に苦労していることを知ると、
あるところを杖でトントンとすると
そこに水が湧いてきたそうです。

そんな井戸が畝傍周辺に7つあり、
そのうちのひとつが
この太子堂の横の井戸だそうで、
今も使われているのはこの井戸だけだそうです。



ここにはこんな休憩所もありましたが、



この日はお弁当を持参していなかったので、
スルーしました。

歩くときはやはりお弁当を持って行った方が
思わぬ素敵なところで、
ランチができていいかもしれません。
第一ここまでお店らしきものはありませんでした。

村中を抜けて、
池の横の狭い道を歩いていきますと、



神武天皇陵のある保安林の中に入っていきます。

ここでは、やぶ蚊にまとわりつかれ往生しました。
大群が、しつこくしつこく襲ってきて、
自分を見失ういそうになるほどでした。
保安林の様子を写した写真に
慌てふためく感情が見事に表現されていました。



神聖なエリアに、不浄な者を近づけまいとする
古代史ミステリーのひとつ・・・なわけないか。
これからの季節は、虫よけも必要かもしれません。

御陵の広い参道に出て



ようやく蚊ともおさらばし、
心静かにお参りをしました。





蚊に襲われ急いで歩き、
ホッとしたのでお腹が空いてきました。

昼も過ぎています。
食堂を探しましょう。

明日は神様降臨の
衝撃の画像が登場します。

続く。


大和三山ミステリー歩行1

2014年05月26日 21時05分54秒 | ウォーキング

古代史は人が作ってきた歴史であるにもかかわらず、
様々なミステリーを孕んでいます。

熊野古道に関しては、
後鳥羽上皇の御幸記や
定家や頼資の残した随行日記によって
ある程度推測されますが、
奈良の明日香近辺に残る数々の史跡に関しては、
神代の時代と人の時代との接点にあって、
とりわけ多くの謎に満ちています。

畝傍山、香具山、耳成山の
大和三山にまつわるミステリーも
そのうちのひとつです。

三山をつなぐと二等辺三角形になること、
そこへ三輪山、藤原宮も加わって
奇妙な幾何学模様が描かれることに、
ミステリー愛好家の人々の関心が注がれたりしています。

doironにはそれらの真偽を検証するほどの
歴史的知識はありませんが、
以前から興味は持っていました。

そんな時、奈良に住むラン友からお呼びがかかり、
酒席を催すことになったので、
この機会にミステリーの舞台を訪ねてみようと
三山を巡り歩いてみることにし、
朝から出かけていったのでした。

奈良には近鉄がやはり便利です。

まず最初に向かったのが、
南大阪線の橿原神宮前駅でした。



桧皮葺の屋根を持つ
いかにも神話の地らしい趣を湛えている
そんな駅に降り立ったのは、午前11時20分。
歩行に要すると思われる時間と
歩き終わってからのスケジュールを勘案して
この時間からにしました。

早速ナビをセットして、
まず橿原神宮に向かいました。

記紀における初代天皇である
神武天皇陵のあるこの地に、
明治天皇によって創建された大社です。

駅前ロータリーにはこんな立派な標石が建っています。



そこから神宮までは広い直線道を進んでいきます。



直線の先に見えるのが
最初に目指した大和三山のひとつ

「畝傍山」です。

おお~、「埴輪まんじゅう」とはうまそうです。



買って帰りたいところですが、
歩き始めたばかりで、
背中のリュックでつぶれそうなのであきらめました。
ネットで探ってみますと、
「埴輪の形をした人形焼」のようなものらしいです。



こちらでは埴輪人形も売られていました。



こちらも割れそうなので、やめました。

結局貧乏なだけだという説が有力のようです。

そんなお店の店先を舐めながら、
道は橿原神宮の駐車場に突き当たり、
そこから境内に入っていきます。



堂々たる鳥居は「台輪鳥居」の見本のような姿です。



おっ、「台輪」と「大和」、
読みが同じなのは偶然なのでしょうか。

なんかミステリアスな地だけに、
素人マニアは変な偶然を探してしまいます。

参道を突き当たり、右に行くと南神門です。



その桧皮葺の立派な建物をくぐると、
畝傍山を背後にして建つ本殿の前に立ちます。



今日一日が実りある一日となること
及び旅の無事を祈念しておきました。



境内に置かれてある「さざれ石」などを眺めながら



本殿前の広場を横切り、
北神門をくぐって進んでいきますと、
畝傍山登山口の道案内があります。



さあ、大和三山最初の「畝傍山」に登って行きましょう。

この山の標高は大和三山の中で最も高い199m。

瀬戸内火山帯に属する死火山で、
多武峰から続く山が浸食を受けて、
このような独立峰になったと言われています。

かつては「畝火山」と書かれていたのは、
田の畝のようにうねった谷をいくつも持ち、
火山の名残をとどめていたことからだとも言われています。



大和三山を詠んだ長歌が万葉集に残っています。

「香具山は 畝火(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と
 相あらそひき 神代より かくにあるらし 
古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ
 うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき」

と中大兄皇子が詠みました。

大海人皇子との恋争いと
大和三山の神が神代の昔に恋争いをしたことを
重ね合わせて詠っています。

この歌の中の「ををし」が「雄々し」か
「愛し」かで解釈が異なるそうです。

壬申の乱の間接的なきっかけになった
額田王をめぐる恋争いが、
この歌の中に詠いこまれているとも言われています。

毛虫がたくさんぶら下がる山道を
神経をとがらせながら歩いていくと、





やがて山頂に通じる道との分岐点に出てきました。



山頂までもう一息です。続く。


山の神仏に会ってきた

2014年05月25日 21時06分38秒 | 生活

え~っと、関係者の方より無料券をいただいたので、
大阪市立美術館で6月1日まで開催されている
特別展「山の神仏」を見に行きました。

「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録10周年記念事業で、
吉野・熊野・高野の山の神仏を
集めて展示してあるとのことなので、
これはたとえ無料券が無くても見に行かねばなりません。

JR天王寺駅から
こんな貼り紙が貼られている地下街を抜け、



天王寺公園の方に行くと、
何やら陽気な音楽が聞こえてきました。

昔はこの公園でむちゃくちゃなカラオケ大会や
着物を着た人がわけのわからん演舞をしたりしていましたが、
有料になってからは姿を消したか、
または場所を替えたのか知りませんが
もう今はいないはずです。

聞こえてきた賑やかな音楽の音源は
これもまた6月1日まで開催されている
こんなイベントからでした。



ふむふむ、ドイツビールの祭典
「オクトーバーフェスト」ですか・・・ん?
オクトーバー?季節外れてるやん!
と思ったら、上の方に
「今年は5月に開催」と書いてありました。

だったら「メイフェストにせーよ」と
この看板の前で何人の大阪人が突っ込んだでしょうか。

「ドイツもコイツも乾杯や」
とシャレで書かれてもありましたが、
もう全くこのイベントのネーミングの大胆さと言うか、
まあええやん的発想には
さすがに「ドイツもコイツも完敗」ですな。

美術館の券があると、
入場が有料の公園の中も
ただで通りぬけていくことができます。

この公園内には多分有料になってからは
初めて入場しました。

せっかくなのでちょっと観察しつつ行きましょう。

これはフェストの様子。



開店前でした。
入ったところで、奇抜なライオンさんや



シマウマさんがお出迎えです。



そうです、ここは市立動物園の
入園コースにもなっているのです。

芝生には若干脚の短いフラミンゴさんもいます。





おお~、カバさんが立っています。



どうせなら逆立ちしといて欲しかったなあ。

馬さんはメリーゴーランドでお仕事中です。



突き当たりを右折して
一般道を高架の歩道で越えた所に
大阪市立美術館があります。

開催中の特別展の看板前でパチリ。



この美術館は立派な建物です。
たぶんdoiron邸よりも立派でしょう。



それだけに今の市長なら
絶対建てることはありませんな。

機嫌よく撮影していますが、



写真を撮れるのはこの中央ホールまで。
当然のことながら、展示物は撮影禁止です。

それに展示のことも
あまり詳しく書いてはいけないんでしょうね。
加減しつつ書きます。

二階が熊野の展示です。
そこから回りました。

熊野古道沿いのこれまで歩いたお寺や
これから歩く道にある神社やお寺の所蔵品がずらり。

なので今、熊野古道を歩いても、
これらはそこにはおられない
ということになるんですね。

展示はやはり、
熊野古道の最終目的地である
熊野三社のものが多かったですね。

曼荼羅図は見ごたえありました。

勉強になったのは、
那智には経塚が多くあることと
「熊野権現影向図」でみた影向の様子。

「影向(ようごう)」とはどういうものだろう
と思っていたのですが、
絵には半身が雲に覆われて
姿を見せている熊野権現の様子が描かれていました。

昔の人の「影向」のイメージは
こんな感じだったのでしょうか。

1階の吉野の展示コーナーでは、
蔵王権現(2010年11月28日のブログ参照)と共に、
「勝手明神」の姿が多く描かれてました。
長尾街道で見た「勝手明神」の
道標の主の姿を初めて見ました
(2014年4月2日ブログ参照)。

記憶の点と点がまたここでもつながりました。

高野は先日、
護摩壇山に行くときに
通ったところ。
やはりなんといっても密教の聖地です。

神秘的な展示が多かったですね。

最近は熊野古道や昔の旧跡を訪ねて歩くことが多いだけに、
興味深い展示群でした。
平日にもかかわらず、
大勢の人が押し寄せており、
中には熱心にメモを取っている人もいたりして、
こういう世界に興味を持っている人の
多さにあらためて驚いた美術館めぐりでした。


ブラリ、オジチャリ11

2014年05月24日 21時14分44秒 | スポーツ全般

スポーツには最適な季節になっています。
歩くのもよし、登るのもよし、
チャリンコするのもよしの季節です。

仕事や介護の合間に、
隙を見つけては
体を動かして遊んでいます。

先日もオジチャリを駆って、
丸一日ぶらりとしてきました。

目標は60キロです。

坂道も少なく、車の心配もあまりない道
といえばやはり紀州街道の南下です。
前回はりんくうまで行き、引き返してきましたが、
今回はそこからさらに大川道を南下し、
箱作まで行って引き返すオジチャリをしてきました。

ロードバイクだとどうしても
通る道が限られてきますし、
のんびり写真でも撮りながらとなると
オジチャリの方が圧倒的に便利です。

ジムをスタートし、
いつものコースを進んでいきました。

JRの踏切を越え、



忠岡を抜けていきます。
漕ぎなれた道なので、
あっという間に岸和田のらんかん橋に到着です。



紀州街道は貝塚市まで府道204号線の
海側の中道で進んでいくことができます。

しかも休憩ポイントとなる
コンビニがどこにあるのかも
すでに習熟していますから、
マイペースで進んでいけます。

見慣れた道標のある粉河街道を横切り、



貝塚で一旦府道に出て
すぐにまた中道に入っていきます。

ここがかなりおなじみになった
紀州街道と大川道との分岐です。



このあとはりんくうゲートタワーを目指していきます。

臨海道路と204号との間の道は
気持ちよく整備されています。

1年半くらい前まで通っていた
職場の裏道を通り、
田尻町のふれ愛センターを抜けていきます。





ここは田尻の歴史館です。



ランチもできるとのことですが、
まだまだ時間は午前の早い時間ですから、
チラ見だけでスルーしました。

樫井川に出たところが



前回の折り返し地点ですが、
さらに南下します。

以前の岬ランでは
臨海道路を走りましたので、
ここからは未踏の区間です。

たとえ通っていたとしても、
当時と今じゃ目に入るものが違います。

おお~、これは熊野古道で見かけた
「日限(ひぎり)」の名を持つお寺です。



思わぬところでこの字に再会しました。
またひとつ記憶の点と点がつながりました。

しばらく行くと、

どわ~、

日限地蔵尊です。



熊野古道の時と全く同じ名前です。

この大川道も熊野古道も紀伊路が海沿いを
通っていた時期もあることを思えば
街道を流れる人々の思いが
時空を超えて共鳴することがあるんですねえ。

そしてその少し先には、こんな道標もありました。



大川道はこのあたりでは
孝子越街道と重なっています。

岡田の辺りからイオンの南側の
ハマヒルガオの咲き乱れる道を進んでいきますと、





広い芝生の空き地に
こんな立方体の石がありました。



見ると「神輿臺」と書かれてあります。

このあたりの祭りは神輿なんですね。
いつごろ開催されるのでしょうか。

そこから臨海道路を横切り、



男里川に出たところのコンビニで昼食となりました。

その日の昼食はこれ。



ソーメンとおにぎりです。
コンビニの駐車場にへたり込んで、
屋外で食べるのは最高ですね。

さてあと一息と再び漕ぎ出すと、
公園のベンチに座っているランナーから
「doironさん!」と声がかかりました。

見ると一匹狼ことM田クンでした。

岬ランをして帰る途中だとのこと。
皆さん頑張ってますねえ。

海沿いの昭和な雰囲気の漂う道を行き、



ジェットスキーで賑わう貝掛の浜を越えると、
箱作の港に到着です。



携帯のナビによると
ここでちょうど30キロなので折り返しです。

あとは元来た道を帰りました。



海風が気持ちよく、
降り注ぐ紫外線を浴びていると
元気が出てくるのは、
トライアスリートだった頃の名残なんでしょうね。

とても楽しいオジチャリの一日でした。


親父の補聴器

2014年05月23日 21時40分42秒 | 生活

親父もスーちゃんも耳が遠い。
近ごろはかなり会話がしづらい状況になりつつある。

よく、昔からの笑い話で
普通の会話は「はあ?」と何度も聞き返すくせに、
悪口には敏感に反応するという
あれによく似ている。

今となってはスーちゃんは
あまり会話が成立しないが、
親父はまだしっかりとしており、
聞こえさえすれば
ちゃんと会話が成立する。

そんな親父が先日
「補聴器を作りたい」と言い始めた。

補聴器に関してはいろんな人の評判も聴いて
あまりいい話はないのだが、
まあ、本人が言うのだから
それもいいかもしれない。

ただ、一度耳鼻科に行って
耳垢が詰まっていたりしないのか
点検はする必要はあるだろう。

その上で、知り合いが
補聴器も扱っているメガネ屋さんで働いているので、
そこへ連れて行こうと思っていた。

そんな矢先、
親父の血中酸素濃度が低めに推移しているので
病院に連れて行ったところ、
即入院したほうがいいと言われた。
しかし、その病院には空きベッドがないとのこと。
なのでほかを探して病院を転々とし、
ようやくある病院で
「ICUで一時様子を見て、一般病棟が空いたら移る」
ということで、なんとか入院できる運びとなり、
今も入院をしている状態だ。

そんなわけで補聴器の話は
一時中断となったのだが、
また退院してきたときに備えて
あらかじめ補聴器のお店で相談しておこうと
doironひとりで知り合いのいるお店に
行ってみることにした。
まあ、いわば予行演習である。

高石の26号線沿いにある
そこでは、とても丁寧に対応をしていただいた。

店長さんの話によると、
補聴器とひと口に言っても、
単に音を集めて増幅するだけの
集音器的機能しかないものから、
その人の周波数ごとの聴力を測って、
それにあわせて細かく調整できるものまでピンキリだとのこと。
当然値段もピンキリということになる。

一通り説明を受けた後、
知り合いに「聴力測定」を勧められた。

静かな部屋に入ってヘッドホンをし、
音が聞こえたらボタンを押すというあれ。

職場の定期検診などないフリーライターには
あまりもう機会のない検査だし、
親父の予行演習も兼ねて体験してみるか
と思いお願いすることにした。

doironも最近は人の話が
聞き取りにくかったりするからね。

検査はヘッドホンから音が聞こえている間は
ボタンを押し続けてくださいという。

こんな時は、常に頭の中で鳴っている
耳鳴りが邪魔をするのだが、
何とかこなすことができた。

結局、年相応に聴力は衰えてはいるが
決して難聴と言うレベルではないとのこと。

まあそれはそれでよかったのだが、

この検査を親父がするとしたら
問題が2つあることがわかった。

ひとつは検査のやり方の説明を
ちゃんと理解してくれるだろうかと言うことである。

そしてもう一つは、理解したところで、
一度ボタンを押したら
手を離すのを忘れて押し続けてしまうんじゃないか、
あるいは逆にボーっとしていて
押したつもりで押していなかったりすると
検査がぐちゃぐちゃになってしまいかねない
ということだ。
果たしてちゃんと検査ができるかどうか・・・

またその節は、じゅんちゃんお世話になりますね。

でもね、本当は補聴器よりも、
こちらとしては
そもそも人の話に聞く耳を持たない
頑固おやじの性格を直す機械が欲しいんですがね。


熊野古道聖地の入口へ5最終話

2014年05月22日 22時06分15秒 | ウォーキング

昼食は、差し入れの
たけのこの煮物とおにぎり。

感謝しつついただきました。

そしてお湯沸しセットを
いつもと同じく持参して、
はるさめのカップも作りました。



アウトドアでのこういう食事は
たまらなくおいしいですよね~。

これから先の古道は、あまりお店もないので
こういう準備は欠かせなくなってくるでしょう。

ただ、季節も暑くなってきますので
湯はあまりいらないかもしれません。

保温水筒であったかい飲み物があれば
それでいいかもしれませんね。

街道歩きに荷物の選択は
大事な作業のひとつです。
しっかり検討してみましょう。

思ったよりも進みのよかった今回の歩行。
そろそろ終盤に近づいてきました。

時間的に余裕もあったので
あずまやで昼食含めて40分と
しっかり休憩をし、
軌道敷を歩いて街道に戻り、
次の王子「菩提房王子」を目指しました。

前方に、次に古道が越える峠の山を
見ながら進んでいきます。



そして建物の片隅に不意に現れたのが、
その王子跡です。





松代王子から1キロ程度しか離れていないのに、
もう次の王子です。

ひと足ごとに五体投地する
聖地巡礼ではないですが、
このあたりはかなり密に王子が集中していて、
頻繁に遥拝しながら進みます。

このあたりはかつて「ボダイ」と
言われていたがゆえの王子名だそうですが、
今は「ボダイ」の地名は
字名でも残っていないそうです。

古道はその先を道案内に沿って
右折して進んでいきます。



こんな道案内も掲示されています。



古道沿いの人々の
熱い思いを感じさせます。

お、右手の広場にはこんな看板が・・・



「ここで遊んではいけませんよ」

と書かれています。

「よ」に慈悲深さを感じさせる看板ですねえ。

今回の古道もそろそろ終点が近づいてきました。
このあたりまで昼食休憩を含めて3時間です。
行き帰りの時間を考えると
これくらいのペースが
ちょうどいいかもしれません。

こんな雰囲気のある道を進みますと、
左に日限地蔵のおられる



如来寺があります。



日限は「ひぎり」と読みます。

日にちを限ってお願い事をすると
願いがかなうという、民間信仰で、
日本の各地にみられるそうです。

ただこれまでのみちにはありませんでした。

初めて登場した地蔵です。

「O月O日の試験に合格しますように」
とかお願いをするんでしょうか。

この如来寺の裏手に
「祓戸王子跡」があるとのことですが、



そこには次回に行くことにして、
その先にある「熊野一の鳥居跡」を
訪ねることにしましょう。

その鳥居跡がこれ。



ここにあった鳥居をくぐると、
旅人はいよいよ聖地熊野に
足を踏み入れることになります。

ちなみにこのあたりの地名は「鳥居」です。

大阪天満の八軒家浜から延々と歩き続け、
ここまでで約100キロの道のりでした。
走れば10時間前後の距離ですが、
ゆっくり歩くことで、
いろんなものを目にし、
いろんなことを考えた道のりでした。

ここから先もまだ半分以上残っています。

さて聖地に分け入って
どんなことが待ち受けているのか、
はたしてゴールはできるのか。

とりあえずコツコツと聖地熊野を目指していくことにしましょう。

おまけ

一の鳥居跡から海南駅まで歩きましたが、
この道も熊野古道同様に味わい深い道でした。

街角にあった道標には
四面にそれぞれ
「熊野道」



「日限地蔵尊」



「紀三井寺」



「八十八か所めぐり」



の文字がそれぞれ刻まれていました。

「熊野街道」の文字が書かれた
道沿いの家々には素焼き(?)のプレートも
掲げられておりました。



それを見てると
我が家の前にも道標を建てたくなりました。

刻む文字は

「和気道 左妙泉寺 右すぐ曽根神社」

てのはどうかな。

市内で8基目の道標ということになりますね。

などと考えながら
ようやく海南駅に到着したのは
歩き始めて3時間半後。



距離にして11キロ程度の歩行でした。



少人数とはいえ
やはり複数で歩くのは楽しいものですね~。

次回のために海南駅まわりの
駐車場をチェックし、
JRと貴志川電鉄を乗り継いで
伊太祁曽に停めた車まで戻って帰宅。

さて次回はいつになりますか。

とりあえず、このシリーズ終わり。