地下鉄の平野の駅から100mほど北を向いて戻っていき、
途中で右折して街の中へと入って行く。
ああ、この飛び出し注意も面白いな。
今度の安全委員会で紹介してあげよう。
やがてこんな散歩道のようなところに出た。
猫も「おっ、変な奴が来た」と振り向いている。
歩いていくと路面にこんな模様が描かれてあった。
そう、ここは電車の軌道敷きの跡だったんだ。
説明書きがあったので読んでみると
奇遇にも先日あべのハルカスの帰りに
乗ったばかりの阪堺電気鉄道の
支線のひとつがここを通っていたのだ。
路線図で言うと、
天王寺からの上町線ではなく
恵美須町から出ている阪堺線の
北から3つ目の駅「今池」から別れ、
上町線の「阿倍野」近くを通り
平野へと続いていた路線だったそうだ。
ここは駅の跡
その名も「南海平野線」。
大正3年から昭和55年まで運行され、
地下鉄の延伸に伴い
廃止となった電車の軌道敷きなのだ。
そういえば、先日ミセスも
「昔は平野へ向かう路線もあったように思う」
と言ってたな。
小さい時の記憶は間違ってはなかったわけだ。
それにしてもこれは偶然の出会いを拾ったな。
ここがどうやら終点のようだ。
ずっとたどれば、ここの他にも
大阪市内にそんな遺構が残っているのかもしれないなあ。
みちびき石に沿って歩くと、
そこからすぐのところが、
平野十三口のひとつ西脇口にある
「西脇口地蔵」。
ここにあった門を出て南へ進むと
住吉から堺方向へと道が続いていたそうだ。
再び平野本通商店街に出て西へ進む。
お、これはまた説得力のある貼り紙だこと。
「とにかく明るい商店街」の真骨頂かもしれない。
商店街を進んでいくとすぐに突き抜けて、
右に曲がって北へと向かう。
道端に駒がまた置いてある。
これは合わせではない
1本の木から作った駒だな。
左側が削れて平らになっている。
よほど無理やりのやり回しをしたか、
あるいは収納してあっただんじりに
はかせてあったのだろう。
その先にあったのが、これ。
藤井寺、柏原への道標だ。
このあたりは、奈良街道や高野街道などの
重要な道が通る地域であったことが、
道標の多さからもよくわかる。
やがて道は「大念仏寺」に差しかかった。
平野郷の古地図にも書かれてある
1127年に開創された融通念仏宗の総本山である。
境内に入って行くと、
正午過ぎという時間が時間だけに
たくさんの参拝客が休憩をしており、
静かな時間が流れていたな。
休憩スペースの横には蓮が植えられてあり、
種が落ちそうになっていたので一個拾ってきたよ。
近所の池にでも放り込んでおいてみようかな。
あ、ここにもマニ車がある。
一度回すとお経を一巻唱えるのと
同じ功徳があるというお得な仕掛けなんだ。
寺を出て、こんな何かいわくのありげに
敷き詰められた
導き石に導かれていくと、
平野十三口のひとつで
もっとも北にあった「馬場口」の地蔵に到着する。
大念仏寺への参拝は
ここの木戸口から入って行ったそうだ。
え~っと、駅が近づくにつれ
またまたいろんな誘惑があるなあ。
それらを振りきり、たどりついた
ここが現代の平野の玄関口である
「JR平野駅」。
ここから再び杭全神社の方へと
戻っていくと、
そこにあったのがこれ。
平野郷の環濠の跡だ。
今も濠がこんな感じで残っている。
すぐ脇に平野川が流れているので、
そこから水をひいていたんだろう。
その証拠に一部がその平野川とつながっており、
水運の発展にも役立ったと書かれてあった。
そんな環濠に沿って歩いていくと、
やがて杭全公園に到着し、
ぐるりと一周回ってきたことになる。
コースはこんな感じ。
7キロ以降はナビを止め忘れていて
残っていたトレースなので無視するように。
旧平野郷の環濠をぐるりとひと巡りし、
名前の由来、人々の熱い想い、数々の旧跡などを
拾い集めた「平野でひらうの」の旅、
ようやく終わりです。