ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

安土だ城 4

2014年10月24日 21時47分35秒 | ウォーキング

普通、城の中心部は「天守」といわれるのだが、
ここ安土城だけは「天主」といわれている。

城の中に寺を設けるなど、
信長は自らを神格化しようとしたといわれていることから、
「天主」の表記もその支配欲の表れなのかもしれない。

その天主に近い二の丸跡まで来ると、
傾斜は比較的緩やかになる。



そこにあるのが「織田信長公本廟」。

つまり墓である。

石垣でぐるりを固め、
がっちりと組まれた石組の中に信長は眠っている。



でもねえ、たしか高野山にも
信長の墓があったよなあ。

調べてみたら、供養塔も含めて
信長の墓所というのは20か所以上あるそうだ。

でもでも本能寺の変の後、彼の死体は
確か見つかってなかったはず。
それだけにさまざまな伝承がある。

話もその遺骨も伝承にのっとって
各地に散らばったというのだからまるで仏舎利のようだ。
だとすれば自らを神格化しようとした
信長の遺志に沿うのかもね。

二の丸を過ぎると本丸御殿の跡に出る。



本丸といっても天主ではなく、
ここは後の調査で清涼殿と同様の構造であることから、
天皇を迎えるための建物ではなかったかといわれている。

うっそうとした杉木立の中に、
点々と残る礎石が往時の姿を浮かび上がらせる・・・
なあんて、doironの想像力は
そんなにたくましくはない。

本丸を過ぎると、次はいよいよ天主だ。

石段を登って行くと、



もうこれ以上は高いところがないという広場に出る。

ここにも礎石が残っている。



それを調査し、当時の宣教師が
本国へ送った安土城の説明文書などから
天主のおおよその姿が復元されている。

この安土山一帯は平成元年から
20年にわたって発掘調査が行われ、
主要な部分はほぼ発掘を終えたものの、
まだ全体の20%に過ぎず、
その調査の途中で予算が途絶えた。

残りを調査するには50~100年程度かかるということで、
それは後世にゆだねられることになったそうだ。

建物の姿をdoironの乏しい想像力で思い描くことはできないが、
礎石の周りを歩いてみると、
遠くに琵琶湖、安土城下から西の湖まで見渡せる、





素晴らしいロケーションであることはわかった。

琵琶湖の向こうにある京をにらみ、
天下に思いをはせていた信長の心境は
何となく感じる事が出来た。

おっと、ここにはジダンの天敵がおるようだ。



お城に営巣したスズメバチの巣は、
家来が命がけで駆除したのかねえ。

いや、それどころか冷静に考えると、
天主で使う水や食材、日用品なども
すべてあの急な石段を登って持ち上がったんだろうし、
急ぎの文書なんかも
それこそ必死に駆け上がって届けたんだろう。

お寺の坊主や宅急便も・・・もういいか。

いずれにしても当時のことを考えると、
洗濯物はどこに干したんだろうか、
汚水処理はどうしたのか
など次々疑問が湧いてくる。

みんな家来がやったんでしょうが、
とにかく気の毒なことだったんだろうね。

そんな俗っぽいことを考えながら
天主を後にした。

下山路は二の丸の辺りから、
百々橋口の方へ降りていく。

天主は消失したが、今も当時のまま残っているのが、
三重塔と



楼門だ。



この三重塔の横には、
近年発掘調査された草原があり、
そこから西の湖を眺めることができる。

百々橋口の方へ降りていく道には
フェンスがされていて、
上からも下りていくことができなくなっており、
仕方なく左折して、登り始めた大手口の方へと進んでいく。



このあたりは多分まだ発掘調査されていないようで、
手つかずの山道となっている。

ふと、足下を見た時に、
こんな石を見つけた。



キリシタンに寛容だった信長の元には、
宣教師もたびたび訪れ、
世界の広さを信長に伝えたそうだが、
足下に埋もれそうになっていた石に
十字が刻まれているように見えたことは
何かそういうことと関連があるのだろうか。

再発掘はいつになるかわからないが、
その結果もまた楽しみにしていよう。

続く