ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

安土だ城 3

2014年10月23日 21時46分31秒 | ウォーキング

神学校=“セミナリヨ”

これをアルファベットで綴ってみると
「seminario」。

なるほど、セミナーやゼミナールと同一語源なわけだ。

安土城にいた信長が、
ここで演奏されるオルガンの音にひかれて、
足を運んだともいわれている。

そのセミナリヨ跡は、
桜の植えられた小さな公園になっている。







奥に進んでいくと、この公園に面して流れる水郷がある。



大阪~淀川~琵琶湖~西の湖を経て、
南蛮文化がここに渡来したということになる。

こんな小さな公園なのに、
公園横に駐車場が設けられているのは、



訪れる観光客が多いことを物語っている。
時の権力に翻弄されつつ、
最後には焼き討ちにされたこの神学校跡地は、
キリスト教の信者の人には
ある意味聖地のひとつなのかもしれない。

ここはやはり、合掌ではなく
「アーメン」と祈っておきましょう。

さあ、前もって調べてあった
主なところはおさえたところで、
いよいよ安土城に向かいましょう。



ここが、各地の湧水を集めて西の湖へ
流れてゆく安土川にかかる百々橋(どどばし)。
これを渡ると、安土城の百々橋口に出る。



しかしこの石段は現在使用禁止となっており、



大手門の方に回らないといけない。

と、その前に百々橋が架かっている
安土川を「歩行者・自転車優先道路」に沿って
しばらく下ってみよう。



各所で川に降りられる石組がいくつも見られた。



ただ、今は川の水も濁っているし
あまり使われていないようにみえる。

昔は、この川が採水、洗浄、運搬など
庶民の暮らしのライフラインだったのにちがいない。

安土城の百々橋口は、
そんな庶民の暮らしと直結する
重要な登城口であったことが伺える。

もう一度百々橋にもどり、
城のある安土山の山すそを左回りで歩いていくと、



大手口に到着する。



「拝観料」500円を払って、中に入ると、・・・

ドヒャー!

急こう配の幅位広い石段が、
ドーンと真っ直ぐ登って行くようにつけられ、
先に登って行った人たちが小さく見える。



今の季節だからまだいいものの、
真夏だったらあごから汗がしたたり落ちるだろう。

実はこの大手口から続く登城路は、
どちらかといえば城の大きさを誇示するようにつけられた、
「見せる石段」だったそうだ。

石段が不安定なので、
足下を見ながら登って行くと・・・

おや?こんなものが。



よく見ると石段のひとつが石仏でした。

こんなのが随所にあります。



並べてから彫ったのか、
彫ったものを並べたのかわかりません。

そういえば、姫路城の石段にも、
石臼が使われたりしてたっけ。

石段の左右には、
信長の家来の屋敷跡がある。

左には羽柴秀吉邸、



右には前田利家邸。



織田信澄邸や森蘭丸邸の跡もある。



彼らは合戦の時はここから出陣したのでしょうか。

でも、ここではたと疑問が。

戦国武将たちはこんな馬でも下りにくいような急な石段を、
重い甲冑をつけてどのように上り下りしたんだろうか。

信長にいたっては山頂から下りてきたことになる。

もし自分の脚で上り下りしたのなら
意外に戦国武将はアスリートだったのかもしれない。

たとえ駕籠かみこしのように担がれて下りたにしても、
さぞや乗り心地は悪かっただろうし、
日常でも「上で信長さんが呼んでるよ」と伝令を受けても、
参上つかまつるまで
さぞや息が切れたことだろうて。

とすれば、水や物資の運搬も大変だったに違いない。

背中にじっとりと汗がにじんだ頃
黒金門祉に到着する。



ここにあったのが、この仏足石。



建てられてあった説明によると、
石段にあった石仏同様、
集められた石の中に紛れていたものだそうだ。

家臣がひまに任せて彫ったものではなかったんやね。

そろそろ天主に近づいてきたようだ。

続く