ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 聖域の鼓動 5

2016年02月29日 20時38分07秒 | ウォーキング

街の中を過ぎると、
8番の道標が立ち、



ぼちぼちと山の中に入っていきます。



ちょうど山の入り口辺りには、
滝尻よりも手前にあった村に
多くあったのと同じような
庚申さんがすえられていました。



え~っと、無事に目的地に着き
バスに間に合うようにと
お祈りしておきました。

萩往還のような石畳道をあがったり、



シイタケのホダ木になりそうな木を眺めたり、



またあるいはここにもあった
ミツバチのゴーラを眺めながら歩いていると、



一里塚にでます。



このあたりの一里塚は、
古来和歌山城を起点にして
設けられたものだそうです。

ここには9番の道路標識があるはずなんですが、
残念見落としてしまったようです。

ちょっと山の起伏が厳しくて
体を気にしてしまいましたし、
時間もなくて気持ち的に
ちょっと厳しくなっていたかもしれません。

なおかつ上っていきますと、



道の左側にある壇ケ峯への
登り口遊歩道があるそうです。



それがこれ。



木の根ギザギザの急こう配です。
その名の「遊歩道」とは
程遠い存在ですなあ。

10番の歩道を越えて登っていきますと、



道端のあちこちの石に
石積みがいくつもされています。



地蔵さんや王子の各地にも
かなりの賽銭があげられていることからも、
まあ願いをそういう形で
表現しようとする人が多いんでしょうねえ。

そんな山の中に突然現れるのが

「高原池」です。



ちょっと意外な場所にありますねえ。
むかしはここに水飲仮屋というのが
あったそうですが、
まあ山の中の池ですから、
水は結構すんでいますが、
飲むのはちょっとという感じですねえ。

そうそうこの池辺りから登場するのが、
「悪」四郎という昔の人間です。

「悪いから」悪がついているのではなく、
体が大きくて力持ちということから
そう呼ばれました。

その悪四郎が大石を投げ込んだのが
この高原池という話が残っているそうです。

道はなおも上っていきます。



そして分岐点をさらに左に登ったところの
11番道標のあるあたりが



「大門王子」です。



昔はここには熊野本宮の鳥居が立つと同時に



老松もあったそうですが、
いまはありません。



杉木立の中に、
鎌倉時代の塔婆



と立つ社殿とともに
静かな王子となっています。

ここで、押印帳にスタンプゲットです。



よくサルにスタンプが盗まれないこってすねえ。

そのさきで道はようやく下りを迎えます。
12、13の道標の辺りは





平たんな道が杉の木を縫うように
続いていきます。



それにしても、
今までの熊野古道はところどころに
もっと見どころがあって、
カメラも忙しかったのですが、
この辺りはほとんど山道の写真が続きます。

道標がなければ、
普通に山道を歩いているのと
同じような写真ばかりが続きますねえ。

ちょっと広いところに出てきました。



ここが「十丈王子」です。





この辺りは最近まで人の住む地でした。



新聞記事によりますと、
現在66歳の方が中学校卒業まで
住んでいたというこの地は、
山の稜線まで棚田が続き、
アケビや栗が生える
明るい里山だったそうです。

この地を離れ、
都会で学問を教えていたその人は、
46歳でこの地に帰郷し、
現在語部をされているそうですが、
そんな人に僕が聞きたいのは、
熊野の語りもそうですが、
もっと興味があるのが
46歳で帰京した時の彼の気持ちですねえ。

なんかそこにはきっと、
そこで生きていくことを選んだ彼の選択の
理由を聞いてみたいような気がしますねえ。

なにが彼をそうさせたのでしょうか。



十丈王子には太陽電気を持った
こんなハイテクトイレがあります。
そこで用を足し、スタンプをおして、



さああと数キロ頑張って進んでいきます。

わしわしと続く。


熊野古道 聖域の鼓動 4

2016年02月28日 20時56分30秒 | ウォーキング

6番の道標や



夫婦地蔵を眺めながら歩き続けていると、



ようやく民家が見えてきました。



滝尻以降初めての民家ですねえ。
せっかくの民家です。
地元の人たちとは仲良くしておきましょう。



こういうナイスバディのお姉さんとも
知り合いました。



あれ~?なんかこういう場面が多いですねえ。



熊野古道を歩く人たちに、
安らぎをということでしょうか。



そういえば、あの萩のレースコースにあった
生首だけの人形はどうなっているんでしょうかねえ。



なおも進んでいきますと、
こんなハイカラな注意書きのついた、
立派な畑地が見えてきました。



そこにいた、畑のおじさんに
ちょっと取材をしてみましょう。

「えくすきゅーずみ」・・・ではなく

「すみませーん。電柵はイノシシ予防ですか?」

ときくと、答えてくれました。

「イノシシもいるけど、シカもいるなあ。
そして一番厄介なのがサル」なんだそうだ。

あいつが一番参るんだよねえ、
と嘆いてはりました。

イノシシのえさとりの跡は
道のわきにこれまで何カ所か見かけたけど、
さすがに歩いている途中で
サルは見なかったなあ。

さて、これが高原熊野神社にある参道の入口。



今は右の坂道を下ってきましたが。
古来の「熊野古道」は
この左から出てくる道なんだそうです。



これが、中辺路の古道に現存する
最古の神社建築の本殿(1394年)。



そして本殿左横のスタンプの
後ろにあるクスノキが
樹齢800年だそうだ。



中の休憩所を除くと、
おお~ここには樹齢70年くらいの
男性が座っていたので驚きでした。



しっかりとお参りして、
外に出ますと、ロウバイの前に道標が・・・
もう春間近ですねえ。



で、歩いていきますと
「霧の里無料休憩所」が見えてきました。



ここには大きな駐車場もあって
眺めがよろしい。

こんな感じで、
棚田や風車が視線に入り、



地方での人々の暮らしの様子がよくわかる。

ここにはよく霧が立ち込めて
神秘的な景色になるそうです。

そんな光景を眺めながら
多くの旧宿がありました。





熊野古道の主要な地点だったんですねえ。

時間を見ますと
もうお昼をかなり回っています。
ここで昼食にしましょう。

今日は久しぶりにアルコンを使って、



中華そばとおにぎりです。



うう~うまそうだと思っていたら、
知らぬ間に猫が近づいてきておりました。



足元から昼食をじっと見上げています。

え~っと、これは上げられないからね
というと、とことこ去っていき
悲しそうに遠くの景色を
眺めていましたとさ。



この高原の里は和歌山県の
「朝日夕陽100選」の一つだそうです。



早く夕陽沈まないかなあ~
と猫がささやいているようでした。

さあ、またここから街を抜けたら
人家も何もない山道が続きますので、
お茶を確保しさあ、



こんな標識に沿って歩き始めましょう。

ここから本日の目的地まで
やく3時間と記載されています。

民家裏のこんな急勾配というか、
半ば崖のような道をのぼっていきます。



途中いくつもの旧旅籠の跡を通ります。

あ、これが山の水を集める
水道タンクでしょうか。



この辺りは水がおいしいそうです。

先日、近所のスーパーに行ったときに、
こんな水を打っていたので、
日常生活の水分補給に買っておきました。



おかげで近頃毎日、
熊野の水に触れております。



さて胸突き八丁のこんな急な道
をのぼっていくと、
こんな喫茶店がありました。



朝日新聞の記事によりますと、
神奈川県から移住してきた人が
店を開いてはり、
一度寄ってみたいのですが、
この日はちょっと時間帯がタイトなので
パスしました。

最近はこういう移住希望者が
増えてきているそうですが、
水のこと生活のことを考えたら、
なかなか厳しいものがあるのだ
と書いてあったのを思い出しつつ
続く。


熊野古道 聖域の鼓動 3

2016年02月27日 21時12分23秒 | ウォーキング

番号道標の2番が現れました。



昔この道を歩いた藤原宗忠という人は、
滝尻からはまるで手を立てたような
絶壁が続いていくと書き残しています。





こんな坂をいくつもいくつも
越えていったところにある熊野が
いかにありがたいところであるかを
きっと妄想していたに違いありません。

お、こんなところに石積みがあります。



これは、「剣ノ山経塚跡」と
記されていました。



ここに経典を埋めていたのですねえ。

昔の人は、よくこういう風に
地面にお経なんか埋めたんですねえ。

ここまで見てきた中では、
経塚は役行者が修行した数々の
「葛城経塚」が有名ですし、
熊野古道では道沿いに大阪の京橋、
中山峠にもありましたねえ。

ここの経塚の上には、
出だしの滝尻王子前の傘塔婆が
上に乗っかってあったそうです。

この経塚のあるところが
「剣ノ山」頂上です。



標高は371mで、
滝尻から続いたのぼりの一つ目のピークです。

ここからも、道は多くの人に
踏み固められて木の根が出ていますねえ。



あ、第3の道標です。



この道標をよく見ると、
110番や119番の電話番号が書いてあります。

緊急時にはこの道標番号が
役に立つそうですから、
今何番と何番の間みたいなことは
頭に入れといたほうがよさそうです。

それにこの道にはあまり場所を
特定できるものがありませんから、
この番号道標を見なくなったら
道を間違っている証拠ですので、
来た道を500m逆戻りすればいい
という優れものです。

これは頼りになりますねえ。

なにせ道の途中には、
こんな宿泊施設の案内が立っていたりして、



道案内がないと迷いそうなところもあります。

ま、たまにはこんな親切な
看板も立っていますけどね。



道標に沿って間違わずに歩いていきますと、

「飯盛山(めしもりやま)」

の展望台の登り口に出てきます。



これはぜひとも寄ってみましょう。



しばらく上ると広場がありました。



そこからは、こんな景色が見えていました。



久しぶりのひらけた天気で
気持ちよかったです。

その狭い広場の一角に
「三角点」がありました。



「飯盛山(351m)」の三等三角点です。



思わぬところで三角点をゲットしました。

ひとしきり休憩したところで、
さあ再び歩き始めましょう。



基本的に展望台の跡なので下っていきます。



若干「馬の背型」の下り道を降り、
4番の道標をこえて下っていきますと、



自動車道との交差点に出ます。



あ~、このあたりでまた
若い男性一人に抜かれました。

今日はもう4人くらい見かけたでしょうか。

ここまで歩いてきた中で、
やはりこのコースはメインになるのかなあ、
普段はほとんどいないウォーカーに
ここではよく合います。

階段道やきついのぼり坂を上っていくと、





熊野古道最古の建物
「高原熊野神社」まで
あと1キロの表示が出てきます。



途中こんな道標もありましたが、
何が刻まれているのか、
う~んよくわかりません。

やがて、出てきた案内が「針地蔵尊」です。

ここはありがたいですよ。



ここに糸を通した針を
二本立ててお祈りをすれば、
見事、歯痛が治るそうです。



え~っと敬老性の歯槽能力も
磨かれるんでしょうか。

よく拝んでおきましょう。

その先には、テレビ塔がありました。

そうやねえ、この辺はこういう施設が
必要なんでしょうねえ。
結構山があっちこっちと続いていますからね。

でもNHKだけでいいのかなあ。



そうそう、最近は覚せい剤やら
なんとなく厄介な事件が多いですよねえ。
なので、テレビ塔にも糸を通した針を立てて、
いいニュースが流れるように
お祈りしておきましょうと



馬鹿なことを言いつつしつつ続きます。


熊野古道 聖域の鼓動 2

2016年02月26日 20時30分42秒 | ウォーキング

そんな急坂の途中にあったのが

「胎内くぐり岩」



大きな岩の間に穴が開いています。

どうれ、中に入ってみましょう。
うんとこしょと進んでいきますと、
ウヒャーなんと出口が狭い。
リュックを背負っていたんでは
潜り抜けられません。

岩の中でリュックを外し、
それを前に突き出しつつ進んでいき、
最後の最後に何とかくぐれました。



ウヒャーと脱出して
くぐり岩をくぐったところで、
次は「乳岩」です。



こちらはちょっと隠れた物語があります。

子宝に恵まれなかった藤原秀衝が
熊野の神さんに願をかけると
妻が身ごもりました。
そのお礼を言いに参詣する途中
この岩屋で出産したそうです。

先に進むにも小さい子どもを
連れていけません。

どうしようかと悩んだところ、
熊野の神さんのお告げが、
ここに子どもを置いて行け
といわれたそうです。

その声にしたがっておいていき、
熊野に参って戻ってくると、
赤子は岩から垂れる乳を飲み、
オオカミに育てられていた
という伝承があるそうです。

いやあ、やっと生まれた子供を
置いて行けとは、熊野の神さんは大胆ですねえ。
奥さんだって出産直後に
よく歩けたもんである。

それこそが何とも言えない
熊野の思し召しなのであろう。

そんな乳岩を過ぎても、
道は結構登っていき、



やがて次の王子である
「不寝王子」に到着する。



場所的には滝尻王子から
500mほど離れているだけである。

その名前から「不寝の番をしたところではないか」
とも言われていますが、
当時の寝ずの番とは
どんな役割を課せられているんでしょうかねえ。

イノシシの襲撃?
オオカミの活動?

そうやねえ、1900年ころまでは、
当時紀伊半島にオオカミがいたもんねえ。

夜間火でもたいて警戒しとったんだろうか。

さてそんな「不寝王子」で、
doironはとりあえず熊野ブルーの
案内板を写真に撮り、



スタンプを押して過ぎていくだけです。



その王子のすぐ後に、
こんな道標がありました。



番号が「1」と書かれてあります。
そうなんです。滝尻王子から
熊野本宮大社の手前まで、
子の道標が約500m間隔で
建てられています。

山の中なので、あまり目印も少ないため、
こういう道標で旅人たちを
誘導しているそうです。

うん、これは助かりますねえ。

これが滝尻王子にあった
その起点の道標です。



さて道はまだまだ相変わらず登り続けていきますが、



当初しんどかった体も、
あの胎内くぐりをした後だと、
体がシャキッと起きたようになりました。

何故か体も元気になって、
ゆっくりと歩いて上っていけば
しんどさもさほど気にならなくなりました。



この先ののぼりは時折
「木の根の坂」が続きます。

スギやヒノキでできた人工林の根は浅く、
こういう姿になることが多いそうだ。

こういう様相になるのも、
このあたりに住む「熊野古道語りべ」の
人たちは山に住む「魔」の影響だというそうだ。

こんな様相を示す山でも、
あまり平地では見られない
珍しい花が咲くという。
寒い土地、温かい土地、
火山もないのに温泉が湧く土地と
変化に富んだ土地ということで、
「魔」は様々な自然の姿を見せているのだという。

だから、こういう木の根道も
しっかりと大地の「魔」を感じて
自然と同調しながら
歩いてほしいというそうだ。

そうだねえ、一歩ずつ足元を確認しながら
しっかりと歩いていこう。

左の樹木の間に、
富田川周辺の集落を見ていると、
ちょっとの間に
かなりの距離をのぼったもんだと驚いてしまう。

この道には、

<熊野古道>

と書かれた小さな標識や、



大型のこんな標識も
ところどころに立ちながら



道案内をしてくれるのがありがたい。

昔はこんなのもなかったんだろうな、
なんて考えながら続きます。


熊野古道 聖域の鼓動 1

2016年02月25日 21時22分03秒 | ウォーキング

さりげない日常生活から離れ、
山という他界の中で巡拝をして
山岳修験の行に入り、
また戻ってくるという熊野への参詣は、
1000年以上もの歴史を越えて続けられてきた。

これまで多くの人が熊野を目指し
歩き続けてきただろう。
doironも2013年の春に
大阪八軒家浜から折々に歩き始めて、
途中命を失いそうになりながらも、
ここまで3年を費やしている。

普通に熱心にひたすら歩けば
1週間もかからない距離なのかもしれないが、
少しずついろんなことを
勉強しながら歩き続けてきたおかげで、
歩くことの楽しさを、
そして何よりも生きることの大切さを
これまで以上に実感できるようになったと思っている。

もちろんその間、
こんなあやふやな命を持つ身としては、
いろんな人のお世話になったことも
忘れられないことのひとつだ。

そんなdoironの熊野詣でも、
紀伊路を経て田辺からの中辺路も歩き、
ついに熊野の聖域と言われる
滝尻王子までたどり着いた。

ブログではその歩きを一話ずつ書き、
ここまでにつづった物語も
全部で136話となっている。

まだまだ内容的には
幼稚なことばかりしか書けないけど、
書き始めたころに比べたら、
少しは知識も身についたと
自分でも思うことにしている。

だから前半部分をもう一度ここで書け
と言われたら、内容はかなり異なるにちがいない。

まあ、そういう歴史もまた
一つの自分の変遷として、
なかなか思いで深いものになったと
自己満足的に思っている。

そんなdoironの熊野詣でも
ここからはいよいよ

「初入御山内」

と言われる神域への入り口を迎えたわけだ。

そこにはどんな楽しいことがあったのか、
そして心動かされるものが何かあったのか。

それではまた新たなストーリー
「熊野古道 聖地の鼓動」シリーズを
始めることにしよう。


まず、今回の動きとしては、
熊野古道滝尻王子まで車で行き、
熊野古道館の駐車場に車を止める。
そこから古道を歩いていき、
牛馬童子口までついたところで
バスに乗って戻ってくる
という方法を取った。

ここが、熊野古道館駐車場である。



古道ウォークなどの人は
ここに止めてくださいと親切に案内まである。

さあ、ナビをセットして歩き始めよう。

ここが熊野本宮や速玉宮、那智とめぐる
約100キロの聖域旅の支店となるのだ。

ここが前回の終点となった「滝尻王子」。





前回紹介していなかったこれは休憩所。
「熊野曼陀羅 第11番」と紹介しています。



そしてこれが、この滝尻から始まる
手押しスタンプの1番です。



このスタンプの横を通り過ぎて
奥に入っていき、標識に沿って
右の山へと登っていきます。



その入り口にあった看板がこれ。



「ふーむなるほど。ここは少しきついんだあ」
と思いながら登り始めましたが、
実はそれがもうこのたびの普通の始まりでした。

ここまでの熊野古道のことを考えると、
まあ、きついのぼりと言っても
そこを越えたらまた街があって、
しばらく平地が続いてから
また昇っていくといった状態を
繰り返すんだと思っていたのです。

ところが、「ここからは古道は山道となる」
と地図にも書かれているように、
舗装路はほとんどなく、
未舗装の山の道となって続いていくのでした。

ウヒャー、結構きついじゃないか。

doironの心臓は大丈夫なのか?
脳は生きているのか?

水分をしっかりととりたまに手を握り返して、
しびれが出ていないかなども確認しつつ、
じっくりと登っていきます。





これが、岩を抱いたケヤキです。



明治22年の水害の影響なんだそうです。

へえ~こんな高いところまでとはね~



と驚きつつ旅は続きます。


泉北低速歩行 5

2016年02月24日 20時41分27秒 | ウォーキング

城跡さきの細い道を上がっていきますと、



そこにあったのが

「小谷城郷土館」です。



さあ、入ってみましょう・・・

あれ?

な、な、なんと。
本日休館日でした。

むむ、近頃こういう目にあうことが多いなあ。
仕方ないので、
帰ってから図書館に行き、
借りてきた本で調べてみますと、



鎌倉時代から続く
小谷家の子孫で
故小谷方明氏が集めたものを
展示しているそうです。

今回のこのコースは
栂の小谷氏、美木多の和田氏の地域を集めての
栂・美木多の二大巨塔の足跡を
見て回ることができるコースだったのですねえ。

この先の阪和第一泉北病院の敷地の中に、
小谷城の城跡があるので
尋ねに行ってみましょう。

さらに道をのぼっていきますと
病院の出入り口が見えてきます。
ここから中に入っていきますと、
これが病院の正面の入り口です。



この横に小さな階段があり



それをのぼり、さらに坂道を乗り越えていきますと、
こういうところに出ていきます。



これが、鎌倉時代中期にできた
堺市内では最も古い城と言われている

「小谷城」祉です。

南北朝時代では楠木正成ら
南朝について戦い、
千早赤阪城で挙げられた
「のろし」をここで受け止め、
浜寺の大雄寺へとつなぐ
そんな役目を持っていたそうです。

それだけに眺めが大変よく、



ただいま歩いてきた栂・美木多方面が
一望に見渡せます。

なんてことはない景色でも、
いろんな歴史に思いを馳せながら眺めると
見える景色も違って見えますねえ。

では、静かにこの場所を立ち去りましょう。
療養型の病院ですので、
静かに、静かに、です。

病院を出てしばらくは、
泉北一号線に向かって下っていきます。



そしてその1号線を超えたら、



コースは道下のトンネルを抜けて
泉ヶ丘地区ウォーキングコースに
入っていきます。



街と街の間にある緑地歩道が
ここにも続いています。



この辺は若松台といわれます。

この先にある大蓮池周辺には松林が多く、
古くは若松乃庄と呼ばれた
ところから付けられた名前です。

若松台小学校の横を道が続いていきます。

あ、こんな看板が・・・。



はいはい、もうここから
泉ヶ丘はもう間近です
そろそろ帰りますから。

公園内には猫がたくさんいました。

はい~こっち向いて



ホイ。



で、これが大蓮池です。



本来なら大蓮公園もあるのですが、
この日はスルーです。

泉北高速の別の散策コースを選んだ時に
行くように思います。
道は軽―くアップダウンをしながら
続いていきます。



この辺りは高層住宅が多いですねえ。

休みの日には結構散歩者も多いのでしょう。

この辺りには、
陶邑窯跡群の遺跡が残っています。
とくにこの「栂第61号窯」は
泉北地区の中でも最大級のものです。



doiron家近所の弥生遺跡から
出土した須恵器なんかも、
こういう窯で焼かれたんでしょうねえ。

泉北、和泉、岸和田辺りに
こういう陶業生産が熱心だったようです。

府道のトンネルを抜けると、
堺市の大型児童施設

「ビッグバン」が見えてきます。



宇宙船をイメージしたユニークな施設です。
そんな児童館を写真に撮りつつ、



ああ、やっと泉ヶ丘の駅に到着です。



写真がピンボケに
なってしまったようですねえ。

ここまで途中道に間違ったところもありましたが、
結局12キロを歩きました。



決まりきった道ばかり歩いていた
泉北ニュータウンとも
かなりお近づきになれたかもしれません。

この地域の二大巨塔のことも
ちょっと知りましたしね。

コースはこのほかにも
いろいろあるようで、
また徐々に歩いていくことにしましょう。

この日は、泉北高速の先で
人身事故があったようで、
電車の時刻表がおかしくなっていましたが、
何とかやってきた電車で光明池まで戻り、

泉北低速歩行終わりです。


泉北低速歩行 4

2016年02月23日 20時57分35秒 | ウォーキング

この辺りは周りにあまり家もないし、
野鳥がたくさん飛んでいました。

遠目だったのでよくわかりませんでしたが
かえって写真を拡大してみたら



これは、目先の色が黄色なので、
たぶん

「チュウサギ」



夏鳥ですがたまに残留するようです。
これはもう間違いないですね、



「アオサギ」

おっ!こんな看板もあります。



こんなマムシに注意の看板のところを
右に曲がりますと、
「大定寺」が見えてきます。

ああ静かなところのお寺ですねえ。



飼ってる犬も全然ほえないどころか、
顔が半分寝ていました。



田んぼの細い道を進んでいくと、





前方に「南堺警察」が見えてきました。



この警察の先には西原公園があります。

幸い警察署の前には
コンビニもあるようなので、
昼食を買いましょう。

今日はせっかくアルコンを
持ってきていたのですが、
コンビニでポットの湯をもらい



ホット春雨に湯を入れて
公園まで運んでいきましょう。

アルコールの節約です。

こんな警察署や



堺市立の栂文化会館を横に眺めながら、



カップを持ったおっさんが
公園に向かっています。



ああ~、きっと世の中の人が見たら
幸せそうに見えるんでしょうねえ。



幸せですけどね。

そして公園内のベンチに
腰掛けてランチです。



おお~温めてもらった
おにぎりもいいですねえ。

近江牛のホットヌードルに
コシヒカリの焼きおにぎり、
まるでテレビの旅番組のような昼食ですねえ。

え?スープ春雨に
国産米のおにぎりじゃないかって。

はは~、それでも幸せです。

この公園では、
ケヤキ並木がきれいんだそうです。



ま、今はハゲチョロケヤキですけどね。
食後は、公園の景色を
楽しみながら歩きましょう。





地図ではこの後、
右手に池が現れるはずなんですが、
こんなに遠かったっけ
と思いながら歩き続けてきますと、
「桃山公園」に差し掛かりました。



おお~この辺は
「桃山台」というんですね。

調べてみたら、
造成前には丘陵一帯に
桃が栽培されていたことから
名付けられたそうです。

あれ?でも地図を見てみたら
「桃山公園」ではなく
「桃山第9公園」の横に
出るはずなんですがねえ。

これはどうもdoironの妖怪アンテナが
ぴくぴくし始めました。



ど~~も、道を間違えたようです

といってもねえ、
どこをどう間違ったのか
よくわかりませんし、
自分がいまどこにいるのかもわかりません。

手持ちのコースマップには
「桃山公園」なんてのも
出ていないようです

げげ~これは困ったぞ~
と思いましたが、
ここはそれ、
今は便利な携帯というものがあります。

地図アプリで自分の位置を
確認してみましょう。

そしたらどうも、
かなり西のほうに道を間違えているようです。

まさにこれこそナビを頼りに
修正歩行し、



住宅街をクニクニーとめぐったところで、



おおようやく目的の「第9公園」に
幸せに到着です。



前方の丘の上には
これから向かう
阪和第一泉北病院の建物も見えています。



先ほど歩いてきた和田川と
この先で合流する石津川を
「多米川橋」でわたり、



泉北二号線をこえて
なおまっすぐ歩いていきますと、



おお~こんなところに
「桜珈琲」があったんですねえ。

あちこちで見かけるようになりましたねえ。

そして突き当りから
こんな旧の道に入って進んでいきますと、
おっ何か石が立っています。



「小谷殿古城乃跡」と書かれてありました。

和田家に続いて小谷家の登場です。

鎌倉時代に平頼晴が
この栂山に城を築いてから、
400年間この上神谷地域を
おさめてこられたそうです。

この石の立っていたところから
城跡に上がっていくと



こんな山門が残っていました。



地図にはこの後ろに小谷城郷土館がある
とのことなので、
さっそく上がって行ってみましょう。

はてさて~と続く。


2016泉州写真

2016年02月22日 21時08分11秒 | マラソン

え~っと、泉州マラソンの週末は
この大会の応援一筋でした。

本日はニャンニャンニャンの2月22日ですが
ブログはランランランのマラソン写真です。

先ずは土曜日の前日受付からです。

土曜日は雨でしたねえ。
浜寺公園に行きますと、



もうすっかりテントも張って、
大勢の人が受付事務に出場しています。



前日受付となると、
また多くの人出がいりますよねえ。
大変ですな。

そんな雨の中の前日受付で、
さて明日は一時はどうなるか
と思いましたが、
当日はきれいにはれ上がっておりましたねえ。
さほど寒くもないし、よかった、よかったです。

で、当日は浜寺で、
まずどうしても参加できない人のために
参加賞をいただきました。

参加賞は「タオル」と「Tシャツ」です。

とそうしているうちに大勢の人が集まりました。
今日はこのメンバーの人たちを



応援いたします。
え~、写真掲載ダメな人は
メールで行ってね~

しかしレース前のひと時は、
やはり何となくみんなの緊張が伝わってきます。

では、スタートです。



スタート後100mの地点に行きましたが、
ここではだれもつかめず、
そのご13キロ地点くらいの
泉大津はdoiron家最寄りの松の浜へと移動しました。

この辺はdoironの両親が
応援してくれていた場所です。

ここで落ち合ったジダンと二人で待っていますと、
順々に知り合いランナーが走ってきます。
順番にあげていきましょう。
見逃した方もたくさんあると思いますが、
そんな方はごめんなさい。





もう、かなり気合が入っています



二人並んでいい写真です



ひたむきですねえ



いいよ、いいよ~









この辺は余裕ですねえ



おっ、いい写真です。



先生はうつるまで振り向いてくれてました。







おっ、これもいいですねえ





この場所まで来るとだいぶ
こちらとしてもランナーの判別が
できるようになってきます。

ある程度応援したところで、
再び電車で臨空へと向かいました。
途中、こんなラピートを見かけました。



31.5キロ地点まで歩き
ここでまたカメラを構えます。

またここでは選手のほうから、
手渡し品もあずかっていますから、
結構忙しく動き回ります。



早くて、後ろ姿だけに・・











還暦の赤いシャツがにあいますよ~







ここでも何人かを撮影後、
今度はゴールの600m手前に移動です。













ああ、もうここまで来たら
いくらしんどくても、
もうゴールが見えていますよねえ。

皆さんたのしそうでした。

え~っと、こうして泉州マラソンを
走った人たちの応援は終わりです。

フル完走お疲れさんでした。
そして応援の皆さんもお疲れ様でしたあ。


泉州マラソン2016

2016年02月21日 21時20分45秒 | マラソン

え~、ブログでは
泉北を低速で歩行していますが
本日は泉州を高速で走行する
泉州マラソンの応援に行ってきました。



いやあ、皆さん頑張っておられます。

何枚か写真も撮りましたが
若干移ってはいけないものが移っていたり
しているかもしれません。

整理後、選んで後日掲載することにします。

え~、それとたぶんかなり枚数をとっているので
現物は基本的に、
チームの広報君に渡しますので
ゲットしといてください~


泉北低速歩行 3

2016年02月20日 20時57分11秒 | ウォーキング

コースはこの放光寺の中を
通り抜けるように進んでいきます。

入り口にあった夜泣き地蔵をみて





中に入っていくと、
中から出てきた女の人が、
怪訝な顔でこちらをにらんでいます。

ああ~こんな田舎に変な人
とでも思っているんでしょうか。

まあ、これに気にしてちゃいけません
それらしく、こんな石像や
「和田氏」の墓を眺めながら進んでいきます。



そしたらなんと先ほどの
女性が話しかけてきました。

「あの~もしかしたら上人様でしょうか」・・・

ではなく

「札所を書くなどのご要望はございますでしょうか」
と聞いてこられました。

ああ、そうかお寺の関係者さんか。
そういえば入り口のところに、
和泉西国5番とか和泉霊場第三十一番
とか書いてありましたな。



「いえ、大丈夫です。ただのほっつきものですから」
と断ると、はいわかりました
と言いつつ出かけていきはりました。

お寺でお参りしてふと後ろを振り返りますと、
おお~「Oンタマ草」



正式名称「フウセントウワタ」じゃありませんか。

しかし、このはな
家の近所でも植えて貼るのですが、
これがいつも秋に実を着けているのに
ここでは何故今頃?
札所よりこの意味が聞いてみたかった
doironなのでした。

花にピントが合いませんでした、へへ

裏口から神社を出て、
さらに南に歩いていきますと、
そこにあったのが「美多禰神社宮座跡」
と書かれています。



ああ、昔はここに神社があったんですねえ。

そこから右に曲がって、
こんな地蔵や



庭先の立派な植木を眺めながら





府道216号線の方におりてゆき、
さらにそれを渡ったところに、
伊勢灯篭が立っていました。



その前を見ると、
広い空き地と奥のほうに
いかにも旧跡といった大きな
古木の立っているのが見えました。

これは何だろうと思って、
探ってみると
電柱のよこにこんな石が立っていました。

「旧和田邸跡」



ときざまれています。

しかもこんな石碑もありました。



そうです、ここに二年前まで
旧和田さんの邸宅が立っていたのです。

資料を見たらこんな感じでした。



菊水紋を挙げているところからも、



楠木氏の子孫である
和田(にぎた又はみかわ)さんの
家であったことがわかります。

しかし、ここは長年放置されたままになっていて、
まともな部分もあれば、



こんなに荒れ放題になっていた
部分もありました。



そして2年前の今頃、
ちょうど解体が始まったそうです。

その前に三日間だけ一般公開があり、
大勢の人が集まったそうです。

残念、もう少し早くこの地を
うろついていれば見れたのにねえ

今は敷地の一番北側に、
こんなりっぱな巨木が植わっていましたとさ。



さてコースはこの近くで
「和田川」に出、



その左岸を歩いていくことになります。



そのこの「和田川」も
和田氏との関係のある川です。



こういう道は旧村と新しい村が
混在した泉北ニュータウンの中の、
気持ちい道の一つです。



川の流れのちょろちょろした音を聞きながら、
また畑もながめながら歩いていくと、
前方に泉北高速鉄道と
泉北一号線が見えてきました。



ここがそこにかかる「檜尾橋」です。



この檜尾橋の下あたりで、
先ほど公園で「落ちたら助からない」と
書かれてあった川「甲斐田川」が
暗渠の中から出てきて合流するのです。

コースは信号を渡るために
若干戻って、この高橋中の



交差点を渡ります。



そして今度はその和田川の
右岸を歩いていくことになります。



なおかつ気持ちいい道を進んでいきます。



お、石津川合流まであと5.8キロとあります。
あ、そうかあこの道は後で越える
石津川と合流するのか。

あの紀州街道や熊野街道でも渡った川やねえ。

川の周りはやはり田んぼが多く、



こんな玉ねぎ小屋も立っていました。



昔は家の近くに
いっぱいあったんやけどなあ。

最近はあまり見なくなりました。

続く。