ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

友と共に 西高野街道 3

2014年10月16日 21時55分35秒 | ウォーキング

十二里石を後にし、しばらく行くと左に

「出雲大社大阪分祠御旅所」がある。



「御旅所」とは神様が立ち寄るところであり、
神社が分社を回る際に立ち寄ったりする。
そこに分祠された出雲大社の社殿を建てたのが
この出雲大社の始まりだ。

このお旅所は最寄駅の名前から「初芝さん」といわれている。

この日は、中には入らなかったが、
ここの社殿を建てたのは
日本最古の会社といわれる「金剛組」。

今日歩いた3人組が働いていた市に
その会社があり、何度か仕事でお邪魔したことのある会社で、
なかなか立派な応対をしていただいたが、
まだそこにあるのだろうか。

その先で府道199号線に出たところの交差点に
「野ざらし薬師如来」が北向きに建っていた。



その薬師如来に刻まれている文字が

「東 ふじい寺 なら」

と刻まれている。
一緒に歩いたのんさんは
藤井寺市にお住まいなので、
何となくこの石像に親しみを持たれたようだ。

ここでいう「ふじい寺」は
西国観音霊場五番の「葛井寺(ふじいでら)」を指しているのでしょう。



その葛井寺には、
歩行後銭湯の開店時間待ちで
後ほど立ち寄ることになるので
またその時に紹介しよう。

この野ざらし薬師如来を西に1kmほど行くと、
「土塔」という奇妙な施設がある。


HPより

四角形に土を持っており、
一見方墳のようにも見えるが
出土品などから古墳とは考えにくく、
仏舎利等を祀る塔のようなものだったそうだ。

今回は立ち寄らなかったが、
近々行ってみようと思っている。

街道はやがて草尾という集落にさしかかる。





このあたりの新田開発をした二人の
出身地である部と踞から一文字を取って
つけられた名前であると
資料には出ている。
地域の名前には過去の出来事が
タイムカプセルのように埋められていることを
よく表すエピソードのひとつだ。

庚申講の祠や



中地蔵を見ながら、



惟妙寺の前に建つ道標を過ぎると



道は府道36号と阪和自動車道の高架をくぐる。



この高架道路は、開通以来20年以上
doironが職場に通い続けた道だ。

よもやこうして、街道歩きでその下を
歩いてくぐることになろうとは
夢にも思っていなかった。

その先には、また例の
「おん かかか・・・」が書かれた地蔵尊や、



野ざらしの地蔵尊、



法界地蔵尊などが次々に現れ、



福田の道標石と地蔵のある辻にさしかかる。



堺の山之口商店街に建っていた道標に
「左 福田・・」と刻まれていたあの福田は、
和泉の福田ではなくここの福田のことだったんやね。

しかも調べてみたら、
ありふれたと言っては「福田」さんに申し訳ないが、
よくある名前のここの「福田」にも、
実はタイムカプセルが潜んでいた。

このあたりは陶器荘といい、
そこの新田開発を請け負ったのが
大阪の豪商である福島という人。

その島が開墾したということで
「福田」となったそうなのだ。

さて、その福田にあるこの道標だが、



これもまたひとつのタイムカプセルだ。

正面には

「右 かうや 大ミ祢・左 たきゝに 金剛山」

と刻まれている。

現代風に訳すと

「右 高野山 大峰山・左 滝谷不動尊 金剛山」

ということになる。
それはまあ、昔の表記のことだからいいとして、
注目すべきなのはその左面に刻まれている
発起人の名前である。

「発起 神南邊 隆光」

この人物は、河内の国の鋳物師で
殺生を好む無頼漢だったのが、
あるとき夢の中で地蔵に諭され改心して
各地に道標を建てたそうだ。

実はこれまでのこのブログにも登場していた。

昨年の7月4日の

「古墳に興奮 第2部の2」

の中で百舌鳥八幡神社の境内にあった

「すぐ かうやさん」の道標がそれ。



神南邊隆光の道標は
今回の歩行の中でもあと二本登場する。

よほど若い時の悪行を悔いたのだろう。

「道を間違えてはならんぞよ」
との思いを道標にこめたにちがいない。

続く