ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

まず百舌鳥古墳群3

2019年06月30日 21時13分41秒 | ウォーキング

御陵を見ますと、
うっそうとした緑に覆われていますねえ。
お墓というよりも大きな森が
そこにあるようです。

ブラタモリでも言ってましたが、
古墳というのはもともとこんな
森のようにしていたのではありません。
石を組んで埴輪を並べて、
いかにも人の人工物のように
していたそうです。

最近行ったところで、
そんな古墳を作っていたところがありました。
神戸の垂水の「五色塚古墳」や







馬見丘陵公園の「ナガレヤマ古墳」。



あんな感じで、古墳は街中に
君臨していました。
今の古墳とは見た目が全く
異なっていたんですねえ。

それともう一つ、古墳の形なんですが、
今は前方後円墳、方墳、円墳と
もう少し詳しく分ければ
帆立貝型墳がありますねえ。

ここの仁徳天皇陵は「前方後円墳」ですねえ。



木々に囲まれててわからないのですが、
遠くや航空写真で見るとそんな形ですね。

拝所はそんな前方の下にあるのですが、
なんかそんな見た目と
形の名前が一致しませんねえ。

いつも後円が上の方になるように
描かれていることが多く、
前円後方墳の方がしっくりきませんか?

これら古墳の形の名称は
最近つけられたようですが、
なんか少し違和感を感じたりする
doironなのでした。

仁徳天皇陵でそんなことを考えた後は、
またまた未踏の古墳をたずねていきましょう。
次は仁徳陵の西横にある
「銅亀山古墳」です。

仁徳天皇陵に沿って西向いて歩いていきますと、



前方の西の端に出ていきます。

何やらいわくありそうな
「朝日寺」を少し北に曲がると、



左奥の方に古墳らしき小山が見えています。



解説版もありますねえ。

この銅亀山古墳は百舌鳥古墳群には
珍しい方墳で、仁徳天皇陵の陪冢
なんだそうです。
う~ん、なぜ前回ここを見逃したのかなあ。
こんな立派な石の案内板も
立っていたのになあ。

それとも近づいてきた大仙公園が
気になってたのかもしれません。

この古墳は近づけないけど
堀をめぐらした古墳で、
昔の資料では円墳といわれたりも
したそうです。

古墳の名前から見ても
円墳のような気がしますねえ。

さあこれで未踏の2基の古墳は見つけました。
あと残りは2基ですねえ。
大仙公園の中を抜けて
確認しに行きましょう。

公園に入っていきますと、
そこにはいろいろと古墳が
並んでいますよ。



これが仁徳天皇陵の陪冢で
円墳の狐山古墳です。
残念ながらこれは世界遺産の
対象ではありません。



でも面白かったのは、
この「キツネ」山に対抗して、
すぐ近くに「たぬきこうじ」
という道が作られていましたよ。



狸の人形がいっぱい
置かれていましたねえ。
公園関係者のいきな計らいですかねえ。

そしてこれも陪冢で帆立型古墳の
「竜佐山古墳」です。



亀、狐、狸ときてここで竜ですねえ。
この古墳は御陵通の拡張の際に
堀が見つかるなど開発時に
いろいろと道路の設計に
影響したそうです。

この古墳は世界遺産の対象です。
そしてその先にあったのが

孫大夫山古墳。



ここへきて人の名前が
古墳名になっています。
というのもこの古墳は、
明治初年に南孫大夫という庄屋から
国に寄贈されたものです。

墳丘は陪冢として宮内庁の管轄で、
堀は堺市の管轄です。
この度の世界遺産登録に先立って
堺市がこの古墳の堀を調査し、
前方部の位置と堀の範囲を確定させた古墳です。

後円部の形がよく保存され、
前方部も公園開発時によく復活された古墳で、
ここもまた世界遺産の
対象となっている帆立貝型の古墳です。

この大仙公園内にはこうして
いろんな古墳も残されています。
公園の南の方にもいくつか
残っているようです。

堺シティマラソンで何度か来た公園を
てくてくと歩いて次の古墳に
向かいましょう。



続く


まず百舌鳥古墳群2

2019年06月29日 21時12分24秒 | ウォーキング

本日最初の目的古墳に出る前に、
前回一話が終わってしまいました。
頑張って書いていきましょう。

まずは茶山古墳です。



ここは陪冢です。
仁徳陵の周りにすっぽりと
はまり込むような感じで
作られた円墳ですね。
でもねえパッと見てわからんのですよ。



仁徳陵は広大過ぎて、
全体の様子がよくわかりません。
なのでこんな陪冢も仁徳陵の一部か
で終わってしまいそうな感じなのです。

以前も横を通っているはずなのに
見逃しているようですねえ。
でも今はこんな新しい案内板が
付けられていますので、
きちんと確認することが
できますからいいですね。

ここから今来た道を引き返して
仁徳陵の東側を回っていきましょう。
一周が2850mの
ジョギングコースもありますよ。



15周でほぼフルマラソンかあ。
長居公園並みの大きさですねえ。



そしてここが塚廻古墳です。



ここは副葬品がたくさん出たんですねえ。
さらにJRの踏切をこえた向こう側の



駐車場の一角に



「鏡塚古墳」

というのもありました。
ここはねえ世界遺産の対象となる
古墳ではないのですが、
人が普通に大勢生活している一角に
古墳があるというのが
なんか好きな景色ですねえ。

前回来た時より景色が整備されて
かなり変わった感じがします。

さらに仁徳陵の周りをまわっていき、



仁徳陵の拝所の方へと出ていきます。
大きな駐車場がありますね。



その脇にある公園の案内所に
入っていきましょう。



案内の女性が二人いましたね。

「何か資料をお探しですか?」
と聞かれたので、
「2013年のころにここを歩いた時に、
二つ折りの地図をもらったんやけど
その地図がないかなあと思ってね。」

というと、

「あああの地図ねえ。
今は作ってないんですよ。
でもちょうど1部残っているので
差し上げましょう」と、
奥の方から引っ張り出してこられました。



「おお、これこれ」
「だいぶ歩いてはるんですかあ」
「ああ、いまで29基まわったかなあ」
と返事すると、
「もず・ふるカードを集めてくださいよ」
というではないですか。

「え?それはどんなの」
「百舌鳥古墳群と古市古墳群で
60か所の場所を定めて、
そこで解説版や古墳を写真に写すと
そこのカードがもらえて、
60全部集めたら
コンプリートカードをもらえます」
との説明。

そんな資料をいただきました。



まあいろんなことをしているのですねえ。
別に集める気はないですけど、
カード全種類で高額な販売なんかを
しているサイトもあるようです。
まあ、また集まったら来るかもしれん
と言い残して、そこを出ていきます。

その先にあるのが、
仁徳天皇陵(大山古墳)の拝所です。



一般に仁徳天皇陵といわれていますが、
それは宮内庁がここの墓を
仁徳天皇の墓であると
治定しているからで、
ほかの考え方では仁徳天皇陵ではない
という見方もあるので、
表現としては大山古墳とか
大仙古墳と呼ばれたりもしています。

拝所に行くと数組の参拝客と
案内のボランティアの人が3人。
そして読売新聞と書かれた記者が
一人いてはりましたね。

そんな人ごみをぬって
入れるところまではいって
手を合わせておきました。

帰り際にボランティアのおじさんに、

「どうですか?ここに来る人は増えましたか」
ときくと
「ああ、すごく増えましたねえ。
外国人も多くて、多い日は午前中だけで
300人くらい来ますよ。
今日くらいからかなり人が減りました。」
といってました。

「ここの緑は多いですねえ」
「ここはねえ、昔自治体等が
植えたそうなんですけど
それらは枯れてしまうことが
多かったみたいですねえ。
今の木々は鳥の卵やなんかで自然に発生し、
増えていったんだそうです」
といってはりました。

続く


まず百舌鳥古墳群1

2019年06月28日 21時43分35秒 | ウォーキング

6月30日からの会議で、
世界遺産に登録されることが
確実となった、百舌鳥・古市古墳群。

2013年の夏にdoironは
「古墳に興奮」というタイトルで
百舌鳥古墳群をブログに
アップしてきました。
あの時は何回かに分けて
28基の古墳を回りましたねえ。
堺市内で全部で123基も
確認されているうちのほんのわずかです。

そして2016年には雨中歩行として、
古市古墳の周りを歩きました。
まあこの時は古墳がメインでは
なかったので、
さほど取り上げたりはしていません。
でもねえ世界遺産にはこうして回った
すべての古墳が含まれる
わけではありません。

堺市なんかは何度も立候補しているから、
市内の古墳のうちちゃんと古墳として
認められているようなのを厳選して
再度立候補したりしたのでしょう。

もちろん古市古墳群もそういう
経過なんかを持っているものと思われます。
今回の発表で最終的に、
世界遺産に登録対象となる古墳は、
堺市の百舌鳥で23基、
藤井寺・羽曳野の古市で26基の
合計49基が対象に挙げられました。

この発表とdoironの
歩行歴を比べてみますと、
古市の方はまあ26基すべてが
まだちゃんと接しれていない
ことがわかります。
でもねえ、百舌鳥の方は違いますよ。
発表された23基のうち、
ちゃんと接しれていないのは、
な、なんと4基だけ。



新聞切り抜きに
青いマーカーを付けたところ

あとのこりの19基は
以前のブログ時に観測して
掲載しています。
これはやはり残りの4基は
歩かないといけませんね。



それでは頑張って
次は中百舌鳥28基と
歩きを広げていきましょう。

日本の世界遺産はこれまで
姫路城や富士山、京都、奈良
大峰奥駆など
10か所は歩いてきましたね。

ここ古墳群も
世界遺産登録がちゃんとなされる前に、
doironはすべて訪ねて
歩いておくことにしました。

まずは未踏の百舌鳥の古墳4基を
目指してJRで三国ケ丘駅から
歩いて目指していきましょう。



まず最初は茶山古墳を目指します。
駅から外に出ると、
大きな地図がありますねえ。



その地図の片隅に「古墳時代の堺」
なんて言う記載もあります。
そして地図の端っこには、
おなじみの千利休と与謝野晶子ですねえ。

そのうち世界遺産が確定したら、
駅前の空き地に前方後円墳の山が
作られたりしてねえ。

そしてこんな公衆電話も。



これは布団太鼓ですねえ。
そんな祭りを知らない人は、
なにか古墳の中の棺の乗っている
ところみたいな印象を持つかもなあ。

そんな駅前広場を出て
線路の西側にあるというか
そびえたっているような
仁徳陵の方へ向かいます。

あ、こんなお店がありますよ。
こ・ふんカフェですかあ。




レストランと日本酒バーかあ。



古墳の好きな人ならへべれけになって、
「おれは前方後円墳だあ」
なんて叫んだりして。

そしてこれは何の石かなあって



調べたら、ネットでは昔の
ラブホの痕跡だなんて
書いてありましたがホンマですかねえ。

仁徳陵に出たらまずは
右の方に向かっていきます。
すると、ここにあるのが



「大安寺山古墳」



です。
ここは以前確認していますねえ。
でもこんな統一された解説版は
以前にはありませんでしたね。
この古墳は仁徳陵の陪冢(ばいちょう)です。

あ、陪冢は大型古墳の周りに
作られた首長の親族や
臣下などの古墳です。
陪塚(ばいつか)とも書かれたりします。

ここの大安寺山古墳は
陪冢には珍しい「円墳」で、
目的の茶山古墳も同様の陪冢です。

仁徳天皇の家族なのかなあ、
被葬者はよくわかりません。
進んでいくと、あ、こんな
「西高野街道」の石碑がありましたよ。



そういえばこの西高野街道も
以前の職場の仲間たちと歩いて、
河内長野まで行ってますねえ。

ここも続きを歩かないといけませんね。

みんな元気でやってるかなあ。

続く


寄り合い三つ連荘

2019年06月27日 21時46分46秒 | 最近の出来事

先日、寄り合いが一日に三つ続いた。
ああ、なんかみんな関連しているので
立て続けに出席となる。

まずは、町内の檀家の集まりだ。
高石にある浄土宗のお寺が
doironの菩提寺なのだが、
このお寺を菩提寺としている人が
町内に40件ある。
この人たちから、寺費とか供養で
集金をする世話人が
毎年町内で決められて
いくことになっている。
doironも6年くらい前に
その世話人をしたことがある。

その時は、幸い仕事も退職していて
半分くらいは自分で回れたが、
たいがいの家庭は奥さんが
その役を実施しているのだ。

その新しい世話人を決めよう
ということになって、
みんな集まったのだが、
これがもう一気に低年齢化し
今もまだ現役で働いている家に
それが回ることになったのだ。

まあ年齢的に順番が決まっているからね。

ところがなんと今度の世話人
というのが、今は独身の二人なのだ。
そうなると回るのも忙しくなるし、
だいいち若い人は村の重鎮たちの
住んでいるところが
はっきりわからないとなっている。

みんな集まって彼らに
世話人を振るのだが、
まあなんとか助っ人をするから
ということで引き受けて
いただくことになったのだ。

でももうそんな世話人のやりくりも
今回が最後で、それ以降となると
町内から離れて住んでいる
というものも多い。
じゃ、親に再度任せるかとなると、
これもまたアクセルとブレーキを
間違えないように注意しないと
いけないような状況だ。

ま、けっきょくは檀家の代表の
長老のおじさんがお寺と
集金の相談をしよう
ということで一旦落ち着いたのだ。

さあてどうなることか
ちょっと注目なのである。

で、すぐにdoironは神社へと
向かうのである。

そもそもだんじり祭りの中の
最も大切な行事というのが

「宮入」

で、この行事で各だんじりが
神社へと参拝に訪れるのだ。

もちろん入ってくる順番とかは
きちんと決められ、
警備、イベントの様子などは
あらかじめ決められた順序で行われる。

そして氏子代表と各だんじり関係者2名が
本殿に入って御祈祷を受ける
というのが宮入だ。

その宮入の入ってくる順番が、
くじで決まるわけで、
そのくじ取り式をこの日に
行う予定だったのだ。

寺の寄り合いを終えて
公民から駆け付けると、
ちょうど各町の関係者が
そろったところでした。

神主の誘導でまずは全員で
本殿に参りに行きます。
法被を着ている町や
そうでない町とか
それぞれでお参りに行きます。



氏子代表のdoironが最後尾を務めます。

そしてその後に広場まで戻ってきて
抽選を始めるのです。
くじの順番は昨年の順番で決まり、
1町ずつくじを引いていきます。



あ、我が地区の町は全部で7つです。
7町が弾き終えたら
一斉に開票されます。

神主が始めていきます。

「では順番に呼んでいきますので、
町名を告げてください。1番は?」

「はい」といって
手を挙げたのが我が町でした。

ああ~一番かあ。
一番の町には神社警備が
課せられるからちょっと重荷なのである。
でもまあ仕方ないか。

そうして7番までが順調に決まり、
くじ取り式は終了です。
その後、境内でビールなどの
飲み物がふるまわれます。

そんな中で一つだけ
大切な話を聞きました。
ある町が人員不足で
今年を最後にしばらく曳行を
中止するというのです。

ああ、ちょうどそんな時代だよねえ。
先ほどのお寺の世話人も
そんな感じで行き詰っていたもんねえ。

その町の代表とは同級生なので、
後日まあ一杯行こうや
ということで分かれてきました。

そして最後にだんじりの寄り合いです。

夕方以降にまたまた公民館へ
やっていきます。

司会をする代表の人が遅れるので、
「doironさん、先に始めといて」
と前から言われていたので
進行させていきます。

関係者が集まった中で、
今はまあこんなことを
決めていかないといけないだろう
ということを順番に話し合って、
ほぼ落ち着き始めたころに
やっと交代となりました。

いやあそれにしても、
こんな寄り合いが重なることも
あるんやねえ。

なんかとってもバタバタした
一日だったのでした。

おしまい。


大和街道 橋本へ3

2019年06月26日 20時49分01秒 | ウォーキング

橋本市という名前は、
当時の支配者が天正年間(1573~92)に
豊臣秀吉より免許を得て
塩市を開き,紀ノ川に橋をかけた
のが起源といわれています。

こうして寿命寺から川の周りに
広がる景色を見ていたら、
なるほどなあという市名の
起源ですですねえ。



お寺の横の地蔵堂のところに
こういうお接待の箱がありました。



見てみると、賞味期限も
全然新しい缶コーヒーと



ポテトチップがありましたので、



せっかくなのでいただいて
休憩していきましょう。

四国詣での時は、
果物とかお茶とかよくありましたが、
大和街道では初めてかなあ。

ゆっくり休憩してそこを出ると、
道の横に「生地石見守」と
書かれた石と石碑がありました。



これが城跡の一角で、
この先の神社が堀の一部を表す
(本丸跡?)ような高台に
なっていたりします。



まあさっきの水のタンクが
あった場所というより
こういう施設跡にはもっと
しっかりと痕跡を残して
ほしいなあという感じでした。



この辺りから道は下の国道方面へと
下っていきます。



こうして和歌山線を越えていきます。



単線ですねえ。
そして遠くから見ててもわかる
お店のひとつに「大阪王将」が
ありましたので寄っていきましょう。



あ、でもその先に「王将」もありますよ。
う~ん、これは迷います。
もともと王将はひとつでした。
でも昭和44年頃にそこから
兄弟げんかのような形で
大阪王将が飛び出したそうです。
でもその大阪王将が、
王将のお膝元の京都に進出したので
裁判になり、そのなかから和解案で
「餃子の王将」と「大阪王将」に
わかれたそうで、いまは
二店舗とも餃子だけでなく
中華全般を提供しているようです。

なのでどちらに入ろうか迷いましたが、
まあジダンとウロウロするときは
「餃子の王将」になるので、
今回は単身なので「大阪王将」に
しときましょう。

もちろん注文はビールと餃子です。



そこに昼飯用の小天津飯を付けました。



味は「餃子の王将」と
どう違いましたか?って
言われてもさっぱりわかりませんなあ。
まあまあとりあえず腹いっぱい、
気持ちいっぱいで、大満足でしたねえ。





歩いていて、こんな豪華な
昼食というのは贅沢ですなあ。
まあ大阪王将を贅沢というくらいですから、
模範の年金暮らし者ですかねえ。

さああと少しです。
橋本の駅を目指しましょう。

またまた橋本の住宅地の方へと
入っていきます。
こんな古い家の並ぶ街道筋を
歩いていきます。



道路の下にある石像を眺め、



大和街道の道標も見ながら



進んでいくと、おっここに
大師の井戸がありますよ。



おなじみ弘法大師の杖で
見つけられた井戸ですねえ。
もう何本くらい見たかな。
多分20本以上は見てるでしょうねえ。

こんな虫籠窓のある家や



うだつの上がっている家、



大きな門屋のある家など、



この辺りは結構昔の家が
立ち並んでいますねえ。

そういえば高野山に行く旅人も
通るんですねえ。
川の方はどうでしょうと
見に行きますと、
ちょうど渡し場のところに出てきました。



「東家の渡し場」です。



こんな大きな灯篭が
建てられていたそうです。

そしてその先では一里塚も
ありました。
和歌山起点の一里塚で、
ここはなんと11里塚。



昔からの一里塚の松の痕跡が
残っていました。



それにしても11里とはねえ。
doironも40キロ以上を
歩いてきたんやねえ。

この先でようやく橋本の駅に到着です。

今回歩いたのはこんな感じで
約7キロでした。



この大和街道も、
最初の目的からすると
終点の五條まであと一回で
たどり着きそうですねえ。

さ、ではその五條からどう歩くか。
奈良へ行くか、三重へ行くか、
ぼちぼちと検討を始めておきましょう。

ーーーーーーー

大和街道と高野山参りが交差する橋本市。
昔はよく通過した町ですが、
こんな風にじっくり歩いて通るのは
初めてでした。
電車の便や広い景色とかから見ても
住みやすそうなところですねえ。
歴史を大切にしつつも
発展していけばいいですねえ。

おしまい


大和街道 橋本へ2

2019年06月25日 21時17分15秒 | ウォーキング

こんな田舎の家なんかもありますね。



トキワツユクサが咲く道です。



そんな道の端っこに
大きな灯篭が二つ建っています。



よく見ると「住吉大神宮」と
書かれていますねえ。
この先の山の方にある
住吉神社のものですねえ。
それがここ。



織田信長の高野攻めの際に、
ここに武将が在住し、
大阪の住吉神社を勧請したもの
といわれています。
平和そうな村にも昔は戦の姿が
あったのですねえ。

その灯篭に横にはまた
道標が立っていますね。
ここから東向いて進んでいきましょう。

ん?ここは空き地なのか
畑なのかよくわかりません。



立派な玉ねぎが育ってそうですねえ。

そしてここにはこんなお店も。



「しばらく休ませていただきます」だって。
なんか気になるなあ。
病気なのかなあ、やる気なのかなあ、
あるいは家庭の事情かなあ。
人の住むところにはいろんな
人生が潜んでいますねえ。



あ、ここは電線が非常に
入り組んでおり、電線に何かが
いっぱいつけられていますよ。
あれは何なのかなあ。
いろんなことが気になりだしたら
好奇心が止まらなくなりますね。
まだまだ世の中にはわからん事が
いっぱいですなあ。

では道標に従ってさらにワクワクと
進んでいきましょう。



あ、大きな池がありますよ。
ため池なんでしょうねえ。



そしてこの池から大音量の
鳴き声が聞こえてきます。
ウシガエルですねえ。



それも1匹じゃなくて、
たくさんの数です。

これは池の横の人には
たまらんでしょうねえ。



昔、こういうウシガエルの
鳴き声の苦情を聞いたことが
ありますが、困り切った人は
たいていは捕獲に
取り組んではりましたねえ。

またそれを専門にする
業者さんなんかもいましたな。
街道っぽい道を進んでいきますと、
この辺りは立派なこども園も
ありますねえ。



橋本市は高齢化率も約30%
少子化も進んでおり、
こういうこども園にも力を
入れているんでしょうねえ。

橋本市のすぐ南側で、
住宅地にはいい所じゃないですか。
遠くに高野の山々も見えて
場所的にはいいところですねえ。

あ、こんな道標が立っています。



「一言主神社」が
この先にあるんですね。

「あれ?」でもねえ、冷静になって
考えてみたら、依然行った
一言主神社は全然違うところでしたねえ。

同じ名前で二か所あるの?
まあ、八幡様とか住吉様なんて
いうのだったら複数あっても
全然問題じゃないのですが、
一言主が何人もねえ。

由来を調べてみても双方とも
雄略天皇と山の大王とか出てきたりして
同じような記載ばかりです。
なにか関連があるのでしょうが、
でも今回は登って行きはしませんよ。
なんか奥深そうだし、
次の機会に確かめてみたらいいかもね。

ちょっとなんか今回は
気合が入っていませんね。

さあて大和街道の道標も
「高野口」から「橋本市」の方へと
変わってきましたね。



山手で少しアップダウンのある
街道を歩いていきますと、



左手に小さな神社があります。



これもねえ、
何の表示もなく静かな神社です。

地域の中でひっそりと祀られてますねえ。

そしてここの大日堂も
そんな感じです。



あ、道に何か案内がありますよ。



なんか寄り道していこうと
そんな気にはなりませんね。
何となくこの道と関係しているというより
地域の自社の案内みたいな気がします。
また右手の眺めの良さそうなところに
お寺がありますね。



寿命寺と書かれていますねえ。
なんかここはこの道と関連がありそうです。
行ってみましょう。



ここでいいのかなあと思うほどの
家の間の狭い道を入っていきますと、
鳥居があります。

お寺なのになあ鳥居とはねえ。
昔の名残なんでしょうねえ。

それをくぐると広い場所に出ていきます。

ああ、高野山方面がよく見えていますねえ。



そしてその片隅にはこんな石が。



ああ、この辺は野地区の
簡易水道のタンクが立っていた
場所だって。

う~ん、そういう場所って
こういう記念の石を残さないと
いけないのかなあって思うんやけど。

続く


大和街道 橋本へ1

2019年06月24日 21時44分59秒 | ウォーキング

近頃、あちこち歩き始めたころに
行きかけた道がどんどん
完歩となっていってます。

熊野古道中辺路や淀川歩き、
リボン通りに太子道は
すべて歩きました。

いやあいろいろ行きましたねえ。

あ、でももう一本歩き途中の
街道がありますねえ。
和歌山市から紀ノ川沿いを
歩いて五条へと向かう
「大和街道」です。

ちょうど一年前に高野口まで歩き、
そこで少し止まっていました。
ではその道の続きを
また歩きに行ってみましょう。

この街道歩きももう田舎の山道から
かなり都会の道へと移ってきた
感じがしますねえ。

まずは橋本市まで先に南海高野線で行って、
そこからJRで高野口へと移動して
歩き始めることにしました。

ここが橋本駅です。



ここには、今日乗る予定のJR和歌山線と
乗ってきた南海高野線の
電車が乗り込んでいます。



ホームで待ってると高野線の
電車が多いですねえ。

そしてやがて和歌山線の電車が
やってきて乗車です。
二両編成。
これで目的の高野口へと向かいます。

この日は土曜日でしたので、
乗っているのは若い子どもたちが
多かったですね。
窓からは景色をしっかり眺めます。
今日はこの電車から見えている
景色のどこかを歩くんやなあと、
興味津々で眺めていきます。

だいたいこの日は川とは反対側の
山側を歩くようです。

「紀伊山田」の駅も過ぎて
二駅目が「高野口」です。
前回の終点でしたね。



運転手に切符を渡して下りてゆきます。
まあこの辺は無人駅が多いですねえ。
ここの駅のロビーはちょっと広いです。
近所のお年寄りが集まって
世間話ができるくらいです。

片隅には本棚があり、
いろんな本が置かれています。
まあ自由に借りて読み自由に帰す
というような感じですねえ。

そして駅前には変わった旅館がありますよ。



「葛城館」という旅館で、
むかしから高野に参る人たちを
泊めたりしていたそうです。

さあではここから今日の
歩きが始まりますよ。
線路に沿って歩いていきましょう。

おお~こんな田舎にも今風の
おうちですねえ。



山の下がさりげなく開発されて
住宅が立っています。
高野口というのは2006年までは
高野口町だったのですが、
いまは橋本市と合併しています。
でもこんなマンふたはまだ
高野口のままなんですね。



小魚とサツキですかねえ。

そして駅の北側にはパイル織物の
資料館があるそうですが、
今はもうこの織物も衰退してきているとか。
かつてはパイル織物の大生産地で、
当時新幹線の座席はすべて
ここのパイル織物だったそうです。
まあ今日は少し道を戻るので
パスしておきましょう。

田原川の田原橋をわたったら、



右折して東の方へと進んでいきましょう。
この辺りは「名古曽」というあたりです。
こんな教楽寺や



瀧井寺とかがあります。



あ、大和街道の道標が出てきましたねえ。



高野口町の案内板です。

実はねえ、この大和街道って
正式な地図がないんですよ。
ちょうど笠田を歩いているころは
そんな道筋を示す資料もあったのですよ、
でもそれ以降なくてねえ。

でもこうして石の道標を作っている
くらいだから、きっとどこかに
あるのでしょうね。
でもそれがわからないので、
行き当たりばったり歩いている
ような状況です。

ネットで見てみると、
大和街道という道もいくつか出てきます。
三重から奈良へ向かう道なんかも
大和街道っていうんですねえ。
ま、ネットでもそんな状態だから、
doironはこの石の道標を頼りに
歩いている状況です。
なんか昔の旅人のようですよねえ。
道標の矢印の向きを便りに
進んでいきます。



まあ、ここが街道なんやろなあ
という勘は働くんですけどね。

そんなあやふやな勘とともに
doironの歩きがここでは
支えられています。

続く


サンタクロースかゴマフアザラシか

2019年06月23日 21時13分47秒 | 最近の出来事

とりあえずは日焼け止めに対して
いろいろと慣れなければと、
まずは値段的に高くない薬を
買うことにしました。

でもねえ、こんな黒っぽい顔をして
日焼け止めの薬を買うことって
ちょっと抵抗ありますよねえ。

なんかさあ、こんな薄毛の頭で
髪の毛サラサラの頭髪スプレーを
買うみたいやしなあ。

「お、おきゃくさん。もう無理です」
なんて言って、レジで拒否にあったら
どうしようかなあ。
などと恐怖を感じながら、
まずは近所の薬局にいったわけです。

え~っと日焼けどめのコーナーは
どこかなあと探します。

あれ?日焼け止めには
男性用とかないのかなあ。
周りのお客さんの好奇な目を
意識しながらそのあたりを
ウロウロしていますと、
ああ、この辺がスキンケアなど
含んでいない安いコーナーです。

日焼け止めしながら
スキンケアをする人用の
高級コーナーと、まあどちらでも
ええけどちょっと効果があったら
いいやという人用の
安いコーナーに分かれているようです。

ああ、こどもの日焼け止め
なんかもあるようですねえ。

定年退職したおっさんの、
周りからヒャー、日焼け止めしないと
皮膚がんにもなるから
注意しないとねえという
おっさんコーナーはありませんねえ。

まあ廉価であること、
日焼け止めコーナーは高いことなど
いろいろと品物を検討し、
ついに買ったのがこれです。



値段もめちゃ安いし、
日焼け止め効果の指標は最高です。

冷感超クール、
水汗に強いなどもうこれ以上ない
という効果まで書かれている
じゃないですか。

さらにシトラスミントの香り
なんてもうdoironのこてこての、
じゃなかった、さわやかな印象に
ぴったりです。

会社は近江兄弟社。
メンタムの会社ですねえ。
長い間薬品関係を手掛けているから
間違いないでしょう。
もう迷わず買いましたよ。

値段はなんと200円で
おつりがくるくらい。

実はもうこれを付けて、
三回歩きました。

一回目は家でつけていきました。
ミセスの前でつけていると、
「何つけてんの」と聞いてきましたので
「日焼け止めだよ。えへん」というと

「ああいいことやねえ」と
半分笑いながら見てきます。
あんなおっさんが日焼け止めの
薬を付けるような時代になったのか、
というような心の片隅の声が
聞こえてきそうです。

すこしたらしてぬっていると、
「いやあ、そんなけち臭い使い方はあかんよ。
もっと湯水のようにつけないとあかんよ」
と言ってきます。

ああ、そうかあそんなものなんやね。

二回目に、歩く会で出かけたときに、
最初につけていますと、
まわりから「右目の下が白い。」
「口の横も残っているで。」
「もっとこすりつけな、
食い倒れの人形みたいや」などと
指示が飛んできます。

ああ、つけるときは家でか、
あるいは鏡のある出先のトイレなんかで
つけないといけませんね。

でもまあ三回そうして歩いたわけです。

するとどうでしょうか。
サンタクロースのように
真っ白になっていますか?
ごまふあざらしのように
黒くてしみだらけのおっさんには
なっていませんか?

まあ白くなることはありませんわな。
それにすぐしみだらけに
なってしまうこともありません。
気長に様子を見ていく
必要がありそうですね。

まあもう少し紫外線の強いこの時期には
しっかりガードして歩きに
いくことにしましょうと、
顔にぺとぺと日焼け止めを
塗りこんだりしている
doironなのでした。


日焼け止め、その性能は

2019年06月22日 20時50分37秒 | 最近の出来事

フワー、今日は暑かったけど
たくさん歩いてきたあ。

とジムで声を上げると、
「そやろねえ真っ黒になってるよ」
と返事が来る。
以前はそんな風に真っ黒になっても、
そこそこ健康的でやんちゃな
おっさんやなあと
見た目も悪くなかったのですが、
最近はねえ、皮膚がますます
ジジっぽくなってきたよな
気がするよなあ。

腕なんか見てみると、
黒くても何となくカサカサで、
しかもその表面に弾力がない
というような状態になっている。
なんか塗れた手に和紙を当てたら、
迷路が印刷されるみたいな
そんな感じだ。

なのでまあ最近は、夜寝る前に
シーブリーズのオイルを
塗りこんだりしているのだが、
あまり目に見えての効果はない。

そんな感じだから、ジムでも
「doironさん、日焼け止め
とかぬってる?ぬってないのなら
歩く前につけた方がいいよ」
と注意がくる。

「そうかなあ、健康的でええんちゃうん」
と反論すると
「それは若い時だけ。
今以上焼けたらへんなおじいさんになるよ」
と注意が飛んできたりする。

そうかあ、まあこんなおっさんでも
注意してくれているんやから
何とかしないとなあと考えることにした。

昔トライアスロンで選手の中には
皮膚が弱く、キョンシーのような



日焼け止めをしている人もいたなあ。
いやああれは大変だったでしょうねえ。

まあそこまで薬を塗りたくることは
ないのだが、すこしは
日焼け止めについてまず
勉強をしてみましょう。

まずなぜ日焼け止めを塗ると
日焼けが防げるか、ですねえ。

まあ日焼けしないようにするには
まず直射日光に当たらないことですよねえ。
でもそれは無理だから
薬で防ぐということになるわけで、
その原理はというと、
ざあっと言ってみますと、

日焼け止め成分中の
酸化チタンなどの金属成分が
太陽光を熱に変えるなどして
跳ね返す物理的な方法と
紫外線を科学物質の中の
ベンゼン環に取り込んで
エネルギーを減少させる
化学的な方法があります。

いやあむつかしいですねえ。
金属を塗るとかベンゼン環を塗る
とかこんなことを考えてたら
日焼け止めも怖くて濡れなくなりますねえ。

でもそれらの効果を表す
指標がありますので
次にそれを考えてみましょう。

それがSPFとPAです。

SPFは皮膚の炎症を起こす
紫外線を防ぐ度合いです。

そしてPAは皮膚を黒くするための
紫外線を防止する度合いです。

市販薬でそれぞれの度合いの
最高はと言いますと

SPFは「50+」

PAは「PA++++」

ですね。まあこれを目安に
選ぶという方法も考えられます。

まああと最近の日焼け止めなんかは
皮膚のスキンケア線分も
入っているというやつもありますねえ。

もうひと瓶が3~4000円くらい
するようなやつ。

でもねえおっさんには
とりあえずそんないい成分まで
いらないでしょう。

まずは日焼け止めに慣れる
ところから始めることが大切です。

むかしトライアスロンに出たときに、
あまりに強烈な日差しに驚いていたら、
友達が日焼け止めを
サランラップに巻いて
くれたことがあります。

スイムのあとは背中に塗り込み、
ランの時には顔にも塗るといいよ
と言ってくれたのですが、
さすがにバイクの時には
すっかり忘れてランの時に思い出し、
トランジッションバッグから
取り出してぬってみました。

これがねえ、途中、汗で顔に
ペトペト流れてきて目が痛くて
涙が止まりません。

見ていた人は、
「あの人泣くくらいつらいんやなあ」
と感心したでしょうね。

そして手についた日焼け止めの
薬を忘れて、エイドステーションで
食べ物を食べたら、
めちゃめちゃ化学の味がしたのも
忘れません。

まあ日焼け止めの扱いに
慣れていなかったからでしょうねえ。

まずはとりあえず
慣れることが必要ですねえ。

ということで日焼け止めを
まず買ってみることにしました。

続く


新車の納車

2019年06月21日 20時47分11秒 | 最近の出来事

退職してから
ずっと相棒として活躍して
くれていたマイカー。

仕事時は結構距離があったので
ドンドン通勤で距離が増えていった。
なので退職したらそんな距離も
どんどん減るだろう。
と思っていたのだが、それは大間違い。
同じペースか、あるいはもう少し
早いペースで走行距離が増えていった。

8年で約11万キロ。

まあこんなに長く一緒に楽しんだ
マイカーはなかっただろう。

エックストレイルちゃん
ありがとうございました。

「無事故でありがとう!」と
本日最後の時に
お酒を注いでおきました。



そして本日の大安
やってきました新しい車

RAV4

です。
3か月かかったなあ。
いまならもう5か月になるという。

来たのがこれ。



まあエックストレイルと
雰囲気的には似ているのですが
やっぱりメーカーもちがい
乗った感じはかなり異なります。

まず大きな違いは
doironにとっては初めての

ハイブリッド車です。

これはやはり感じが違いますねえ。
エンジンそのものも2500ccと
かなり大きくなったので
のっているときの馬力感が違います。

まあ、乗っている景色も
かなり異なるしねえ。

サイドブレーキなんかもありません
自動でかかるようです。

ナビはTコネクトで
トヨタと更新できたりします。
まあその辺はまだよくわからん部分です。

横の面がこれ



これが前方



駐車場は問題なしです。

そしてこれが背後です。



ああ、排ガス口も二つあるんですねえ。

年金暮らしで贅沢な車ですが
まあ、doironの最後の大型車として
楽しませてもらいましょう。



あちこち歩きに行ったり
山に行ったり
孫の顔を見に行ったりと
一緒にたっぷり遊んでもらいましょうかね