ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

西国三十三所 京都の六波羅蜜寺2

2017年01月31日 21時28分06秒 | ウォーキング

「京の五条の橋の上、
大のおとこの弁慶は
長い薙刀ふりあげて
牛若めがけて切りかかる」

そう、義経と弁慶が
初めてであったのがこの橋
「五条大橋」です(諸説あります)。

まあ出会った二人を
このモニュメントで描いているわけですねえ。

でもねえ、どうして裸なの?

弁慶なんかホリ出してるし。



さすがに義経はパンツを
はいているようですがね。



外国人が見たら、昔から日本は
こうだったんだと思われませんかねえ。
ちょピットその辺は気になりましたね。

生活排水もほとんど流れ込んでいない
鴨川を渡ります。
空にもたくさん鳥が飛んでいます。





その少し先で



左折して入っていきますと、
住宅街の中に目的の

「六波羅蜜寺」

が現れます。



真言宗智山派の寺院であります。



寺の名前も何となく
聞いたことのあるような名前ですねえ。



そう、四国で何度も唱える
般若心経にも「波羅蜜」なる言葉は
何度も出てきます。



六波羅蜜とは

1.布施

2.持戒

3.忍辱

4.精進

5.禅定

6.知恵
を表すんですね。
ブッダになりうる資質を獲得するために
実践する六つの項目が
お寺の名前になっているんですねえ。

さっそくお参りしましょう。
まずは線香、ろうそくをともします。
そこから本殿に上がって行って
納札ふだを入れ、
お賽銭をあげたら、お参りです。

で、その横にある納経所へ
納札帳を持っていきます。

これで6寺目の納経ですねえ。

男性に丁寧に書いてもらっているときに、
「1300年のスタンプはどうします?」
と聞かれたので、わからんまま
「はい、押してください」
と言っておきました。

するとなんと今年は、
徳道上人が三十三カ所巡りを提唱した
718年からもうすぐ
1300年目を迎えるという
年なんだそうです。

四国お参りや高野山が
1200年前だったので
その空海さんより100年も前に
三十三カ所は始まっているんですねえ。
こちらのが後だと思っていたのに
意外でしたねえ。

このスタンプは言わないと
押してくれないからね
とアドバイスもしてくれました。



これからは必ず言うことにしましょう。

納経後はさあ、
本日の大きな目的である
宝物殿に入っていくことにしました。

本堂の裏手にそこがあります。
お金を払って
靴を脱いで入っていきますと、

宝物殿は大きな部屋が一つだけで、
その中に様々な仏像等が置かれています。

そこの左手の一番奥の真ん中に
「空也」がいました。

彼の活動のひとつとして、
大八車に仏像を積んで、
各地を回ってはやり病を
治していったということがありました。

そのとき彼は鐘を首からぶら下げ、
右手にそれを鳴らすこん棒、
左手に鹿の角のついた杖を持ち、
踊るようにしながら念仏を唱えていたそうです。
その念仏が口から仏像の姿になって
出てくるという圧倒的な描写で
作られていました。

細くて小さな体には、
体脂肪がほとんどなく、
その瞳の圧倒的な力は
もうその時の彼の想いを
静かに述べているようです。



まあ何ともすごい立像でありました。

お金を払ってでもこんなに
この像と近くで向き合える
というのはちょっと
値打ちがあるなあと思いましたね。

ほかにも様々な仏像もあったのですが、
印象に残らないほど
この「空也」像は最高でした。

しばらく放心した後
「はあ~満足したあ」と思いつつ、
お寺を出ました。

まだ近くには清水寺などの
三十三カ所霊場はあるのですが、
今日はここだけにしておきましょう。

三十三カ所と言っても
あっという間ですからね。
一寺ずつじっくりと、
そして楽しく回りたいな
と思っています。

清水寺は今度今年の漢字が
掲載されているときにでも来ようかな。

帰りは来た道を戻りながら、
遅い昼食を食べ、



五条駅からこんどは京阪で
大阪へと帰ったdoironなのでありました。

終わり


西国三十三所 京都の六波羅蜜寺1

2017年01月30日 21時39分41秒 | ウォーキング

さて年末の予定はほぼ書き終わって、
これからは2017年の
新年のお話となっていきます。



新年になってまず最初に出かけたのがね、
ここに行きたかったんですよ。

昨年から歩き始めている
西国三十三所めぐりのひとつである
「六波羅蜜寺」。

ここは「空也上人」が開創したお寺です。
この空也上人には実は
四国八十八ヶ所で出会うはずだったのに、
お参りに気を取られて
確認できなかったということがありました。

空也が四国の寺へ来たのが天徳年間で、
修行をしてこの地を去るときに
自像を刻んだのが
今も重要文化財として
残っているというのが49番浄土寺でした。

バスに乗ってから、
「あっしまった」と思い出したのだが、
ツアーなので戻ることもできず、
見ることができるのか、
そして見れたらどんな姿なのか
それを確認したかったのになあ。
すっかり忘れてとても残念な思いをしました。

今もこの世にこの空也像は4体あります。

その4体の内、四国の浄土寺の
像とよく似ているというのが、
京都「六波羅蜜寺」にある空也像です。

ではその空也像というのが
どんなのかと言いますと、
これがねえ上人の姿を
いろいろと彫られた像がある中で、
彼の姿はとても印象的なのです。

彼が愛していた鹿から
取り出した皮でできた服を着、
左手にはその鹿の角をさした
杖を持っている。

体には「鐘」を付けて、
右手にはその金をたたくこん棒を持ち、
わらじで立っています。

そして口からはいつも
念仏を吐いており、
その念仏が、口から出ている針金の
上に並ぶ6体の仏像となって
出てきています。

四国の写真はネットではこんな感じ。



口から出ている6体は
「南無阿弥陀仏」の6文字を
表していると言われています。

ではその姿をしっかりと
眺めに行ってみようということで、
1月6日に初詣もかねて
京都へと出かけて行ったのでありました。

京都駅からお寺までは
少し距離もありますが、
歩いていくことにしました。

駅の北側に出ていきますと、



バス停の辺りは外国人でいっぱいです。

白人系が多かったですねえ。
でもねえ、目的地がしっかりとあるのなら
京都は歩いて回るのが
結構便利なんやけどなあと思うのです。

京都そのものを
メチャンコ広く考えて
いるのかなあと思ってしまいます。

doironはそのまま(烏丸通)を
北向いて歩き始めます。



あ、京都タワーってお風呂があるんですねえ。
あのタワーの上のほうから
スッポンポンで京都の町を
見下ろせるのかなあっと思ったら、
お風呂は地下三階でした。

でも750円と手軽ですねえ。

きょうはまあやめときましょう。

京都駅から東本願寺の東側を
歩いていきます。



歩くときは、大きな道の
一本内側なんかを歩くといいですね。

思わぬ発見があったりします。



ここは仏具に加えて
石像なんかを売ってたり
するんですねえ。

外の像なんかには
こんな鎖が巻かれていたりします。

西行と西住か?

でもこういうのんって
いくらくらいするんでしょうねえ。

値札をあげておいてほしい気もします。

やがて道は五条通との交差点に出ますから、
そこを右折して山向いて
歩いていきます。

お、こんな天満宮があります。



おお~今の季節ですねえ、
入試祈願も気合が入りますねえ。

この天満宮、鳥居の扁額を見たら、
ウヒャー御利益ありそうなところですねえ

「千喜万悦天満宮」

と書かれてありました。
千の喜びと万の悦びかあ~いいなあ
って感じですねえ。

そんなことを考えながら
歩いていきますと、
目の前にもう鴨川が見えてきます。
その鴨川にかかっているのが

「五条大橋」。

そう、あの義経と弁慶が出会った場所
ともいわれています。

橋の西詰中央分離帯寄りに
二人のモニュメントがあります。



寄ってみましょう。

続く


雲雀山に風が吹く 7

2017年01月29日 21時08分38秒 | ウォーキング

栖原のところから見える海は
湯浅湾で栖原のこの辺りは、
かつての「紀国名所図会」にも
「白上磯」という名で描かれていました。

海辺にぼんやりと座っているだけでも
なんか気持ちがのんびりしますねえ。

また、山とは違う開放感が
海にはありますね。

沖合に浮かぶ小さな島々が
なお一層海の大きさを伝えてきます。

ひとつ面白い島があります。
真ん中が低く両脇に
高さの違う山が2個並んでいるあの島です。



ウミウやウミネコがよく集まる島で、
フン害がひどく植物が育たない島だそうで、
その名も

「毛無山」

だそうです。

「で、それがどうしたん?」
「いやあ、親近感感じて
行ってみたくなる人もいるんでは」
「そんな奴はひとり以外おらんやろ」
「いやあ、親切心だったのですが・・・」

さらに、ここ栖原はもうひとつ
とても大きな特徴を持つところなんです。
それが、化石です。

ネットなんかも見ていますと、
ここへ化石掘りにきている人の
ブログもたくさんありました。
化石発見の実績でいいますと、
これまでに小学校3年生の女子が
「ロブスター」の祖となるような
生物の化石を見つけていますし、
小学校2年の男子は
白亜紀前期のカニの化石も
見つけているそうです。

え~それがどれほど記帳なものなのかは
わかりませんがね。

もともとこの辺りの地層は
かつては海の底だったところが
出てきているそうですから、
化石は結構見つかっているそうです。

化石掘りかあ、
これも楽しそうですねえ。
まあ他人の土地を掘り分けて
いくのですから、
なかなかそういう機会がないと
できませんよねえ。
またそんな機会があったら
是非参加してみましょうかねえ。

海を見ながら歩いていきますと、



おお~このへんは



海の鳥もみかんを食べているんですかねえ。
ちょっと山まで飛んでいけば
ミカンはいくらでもあるんですがねえ。
山向いて飛んでいくというのは
海鳥のプライドの
許すところではないのでしょうか。

この辺りで、
歩いてきた山のほうを振り返ると、



山の上に方に見えている岩場は、
さっき行ったあの明恵の西の修行場ですかねえ。

いやあそれにしても
風もおさまってこの辺は
気持ちよく歩けました。

年末でしたが、今年最後の
山登りはとてもいいところでしたねえ。

栖原漁港を過ぎて、



しばらく車道を歩いていくと、
おお~あの楕円形の看板が見えてきました。



和歌山県朝日夕陽百選ですねえ。



ここから見ると栖原湾の
毛無島の辺りに沈む夕日が
きれいなんだそうです。

しかし、doironの遊びのスタイルだと
なかなか夕陽や朝日は
見学できないですなあ。

そこからなおも湯浅の街に
近づいていきますと、



おお~海の上に浮かぶ釣り場は
人でいっぱいです。



あんなにたくさんの人で
埋まるんですねえ。
年末の忙しい時期に、
まあみなさんなかなかの
遊び人さんたちですねえ。

正月の「鯛」でも釣りに行ってくるわ~
なんて言いながら来ている人は
3割くらい入るでしょうなあ。

街に向かって漁港を越えて



歩いていますと、
ここの道で見事な化石を発見。

これはかつて犬が
ひたひたと歩いていた様子が
見事に想像できます。

それがこれ。


アスファルトを渡り切る
2mくらい手前で足が固まって
そこに立ち往生でもしたんですかねえ。

いやあ、みごとな化石でした。

やがて醤油発祥の地などのある
湯浅の街に到着し、



目つきの悪い猫を眺めたりしながら

100均のミカンなどを買いつつ、
今回の山旅は終了です。

こんな感じで歩きました。



今回の旅では中将姫の軌跡、
役行者の足跡、明恵の修行の痕跡を
拾い集めましたね。

うんなかなかいい旅でした。

湯浅の駅からJRで車のある



紀伊内原に向かおうとすると、



おお~改札口にこれまでなかった
イコカカードが使える機械が
あるじゃないですか?

駅員さんに聞くと
「特急の止まる駅にだけ
ようやく配置されました」だと。

え~特急だけ?

田舎に行ってもおんぼろバスでも
カード使えるのになあ、
もっと頑張ってほしいなあ
とか思いながら、
雲雀山登山終わりです。


雲雀山に風が吹く 6

2017年01月28日 21時07分01秒 | ウォーキング

この辺りの山の道路は、
これまでと比べて
何となく車が通り抜けている
雰囲気がありますねえ。



まあ結構な密度で
ミカン畑がありますからね。





遠くに街の景色や、
おお~海の姿まで見えてきました。





と、ふと気が付きますと
この辺り風がすっかりやんでいますねえ。

太平洋の海の上を
ゴーゴーと吹きわたってきた風が、
ここまでどんどんやってくる
というわけではありません。

午後になって、ちょっと気候も
落ち着いてきたようです。

雲雀山には風が吹いていましたが、
このあたりから白上山と
言われる山域に入ってきます。

この山域のことを語るときに
必ず出てくるのが僧「明恵」であります。



鎌倉時代初期の真言宗の僧で、
法然を批判するなどの理論を展開したり、
独自の修行を確立した人
と言われています。



その人が24歳すぎの若い時に
3年間この白上山辺りで
修業を繰り返していた痕跡が
今も残っているのです。

下山する道を右に外れて
「明恵上人」コースへと入っていきます。

まあミカン畑と一体になっている山やね。



おっ、この辺りのミカンは
高級品かなあ。



一つ一つ黒い袋がかぶせられているぞ。
傷がつかないように
というのかなあ。

道にはこんな漆が生えていたり、



ミカン畑の中をうろうろ歩いたりしながら、



じっさいに歩いているdoiron自身も
方角がもうめちゃくちゃになってきました。



まあ、いったい自分は地図の
どのあたりにいるのか
もうよくわからないような状況になっています。
さぐればわかるんでしょうが
まあ道標もありますから
信用しておきますかね。

とまあ思い始めたころ、
ようやく明恵の東白上遺跡の
ところにたどり着きました。



もともと彼はここの西側で
修業をしていたそうです。
しかしそこだと波打ち際の音とかが
よく聞こえるので、
ここへ移ってきたら静かで
しっかりと修業ができた
とのことである。

こういう卒塔婆や修行の岩石が
今も残っているのです。





彼は真言宗の僧である。

般若心経なんかもここで
唱えていたのかなあ。

では、彼の思考を遮った波の音が
聞こえるという西白上遺跡に
行ってみましょう。



ここがその部分の入口。



そこからズズーイと中に入っていきますと、
おお~遠くに海の見える場所に
こんな卒塔婆が建っていました。



なあるほど、
ここなら場合によっては
激しい波の音や吹きすさぶ
風の音も聞こえてくるでしょうねえ。



でも、まあdoironにしてみれば、
こういう眺めの良い場所のほうが
いろんな考えが浮かんでくるだろうし、
思索に関してもよさそうな気がするのですがねえ。



いやあ、やはりあかんのですねえ。
このあとかれは仏光観という
観相法を作り上げたそうです。

仏の体から出る光を観想し、
それによって「空」の境地に入る
というものだそうです。

むむ~なんかよくわかりませんね。

そして晩年の明恵は
もっぱら光明真言の普及に
精力を注いだそうで、
いずれにしてもこの白上山は
神域な雰囲気と地域のミカン産業が
入り混じった、独特の雰囲気のある山でしたね。

そうそう明恵のもう一つの実績は、
茶の実を宇治に植えられ
茶の祖になったというのも、
大きな出来事でありました。
山歩きの時には欠かせないお茶ですねえ。
マラソン、トライアスロンのころも
しっかり助けられましたねえ。

さあて、ではここから
海辺のほうへと下っていきましょう。



あんなに吹いていた風もすっかりやみ、
寒さもましになってきています。

こういう寺の防火水槽を抜け、
なおも下っていきますと、
施無畏寺に到着します。



このお寺は上人のおじが
「上人を開山と仰ぎ、無畏(おそれなし)を施す寺」
として建てたものだそうです。



この栖原の地元では
きっと熱い支持を得られているんでしょうねえ。

その、地元の栖原の街に下ってきました。
湯浅湾のスケールの大きな海の
景色が最高ですね。



ここ栖原はどういう街なのか。

続きます。


赤キャスがやってきた

2017年01月27日 21時39分57秒 | 生活

本日、稀勢の里が日本人力士として
19年ぶりに横綱となり、
明治神宮で土俵入りをしました。

いやあ、めでたいめでたい。

でもこれからやね、ほんとに。
来場所になって負けが込んだら
どうにもならんからね。

なお一層練習に励んでもらいたい
ものがあるよね。

とまあそれは19年ぶりの明るいニュースで、
doiron家にも本日、13年ぶりに
明るいニュースがやってきた。

新しい軽自動車がやってきたのだ。

え~年金もまだ満足に
もらえていない状況なんですが
思い切って買いました。

以前はラベンダー色の
MRワゴンに乗っていました。

それはミセスの通勤車として
頑張っていたなあ。
そして、義親の御坊での介護にも
大活躍したし、
親がみんな近所にいるようになってからは、
病院通いにも大活躍した車なのだ。
非常に助けられた車だったなあ。

そのラベンダー号も13年乗り、
距離も14万キロ近く走って
いよいよお別れすることとなったのだ。

まだ全然機嫌よく走っているんですよ。
でも近所の友達が同じ年数、
同じ距離くらいである日、
ぴたっと車が止まってしまった
ということなんかもあって、
恐れをなしてしまったということもある。

で、いろいろと検討を重ねた結果、
買い替えることとし、
今回勝ったのがダイハツの

「赤いキャスト」なのである。

もちろんエンジンストップなどの
エコ機能も付いた、エコ仕様用の車である。

一月最後の大安の日である
今日それがやってきたのだ。

車に乗っていろいろと説明を聞き、
最後にラベンダー号と熱いお別れをして
赤い車が我が家のガレージに収まった。

え~、まず前から見た姿がこれ。



そしてバックはこれ。



横から見た姿がこれです。



まあもう親の介護をすることもないので、
ミセスにとっては家の用事以外は
遊びの要素の強い車となります。

doironも含めて、
しっかり遊んでもらうことに
しなければね。

さっそく新しい車を
doironも運転したかったのだが、
まあしばらくはミセスにしっかりと
運転してもらい、
早く慣れてもらうことが大切だから、
まだ静かにしておこう。

で、落ち着いたらどこへ
交通安全のお参り行こうかなあ
と考えてるのである。


雲雀山に風が吹く 5

2017年01月26日 21時25分30秒 | ウォーキング

このタンクは飲み物用の水ではなくて、



これがまあ、ミカン畑の
作業につかれた人が入る

お風呂用のタンク・・・

でもありません。
ミカン畑用の水タンクですな。



この先にもいくつかこのタンクがありました。

おっと、こんな見晴らしのいい場所では
風が強烈に冷たいですねえ。
ゴーっと音をたてて吹いてます。



このずっと後で海が近くに見える
山になっていくのですが、
さぞやそこは海の風も
強烈に吹いてめちゃめちゃ寒いやろなあ
と予想してしまいます。

寒いやろなあ。
でも行かなくちゃ。

こんな廃車のある山道を抜け、



古い峠の案内板を抜けたら、



おお~見えてきました。


あの二年前の秋に登った
懐かしの糸我峠です。



熊野古道とはこんな感じで交わります。



ここには昔2件の茶屋があり、
そこではミカンを
保存しておき
真夏に登ってきた人に
出して喜ばれていたそうです。

藤原定家は
「険阻を凌ぎて、イトカ山を登る」
と書いて残しています。

まあ今ではさほど
きつくはない山ですが、
荷物なんかをたくさん持って
後続をお守りしながら
やってくる昔の山は
難儀をしたことでしょうねえ。

偉い人は籠に乗っていましたしねえ。

今の糸我峠にはその時の
イラストが書かれてあります。



茶屋で人々をもてなしている
光景ですね。

その巨大なイラストの下が
風がさえぎられて
暖かそうだったので、
まあお茶屋によったつもりで
ここでお昼ご飯にすることにしました。

今日のメニューはこれ。



寒そうなので
あったかいうどんを
いただくことにしました。



あっためるのはガスコンロですが、
そうやねえ3月くらいになったら
アルコールコンロに
変えていきましょうかねえ。

うどんをすすりながら、
しばらくのんびりしましたが
結局は一人もここには
現れませんでしたね。





熊野はあんなに大勢の人がいたのにねえ。

さあお腹いっぱいになりましたので、
また歩き始めましょう。

以前はここから湯浅の街へと
降りて行ったのですが、
今回はパンフレットでは
「万葉の道」、ここでは
「万葉の熊野古道」と書かれた方向へと
進んでいきます。

すると、道が緑色の塀で
阻まれているような感じです。



うわー、これは垂直ののぼり道~
とおもったら、先ほどとは別の水タンクでした。



道の真ん中のそれをまくように越え、
山の管理用かミカン畑用か
のために作られたいくつかの道を、
ありがたい道標に助けられて
おりていきますと、
そこが鹿内峠です。



かつては糸我の村から
ここへ上がってくる
道があったのですが
通行止めになり、
いまは糸我峠からの今来た道で来る
という形になっています。



万葉集にこんな歌があります。

「紀の国の 昔猟夫の 鳴り矢もち 
鹿とりなびし 坂の上にぞある」

この峠名の語源と言われていますね。

この峠にはもう一つ
見どころがあります。
それは江戸時代につくられたという
「役行者」の石仏です。



錫杖を持った力強い姿ですねえ。
この辺りの役行者には
いろんないわれがあって、
その一つには、
はやり病が山を越えてこないように
という願いもあったそうです。

ここからしばらく下ったり、
つわぶきの咲く道を下っていきます。



あ、また道標があります。
そこには奈良時代の通貨である
「和同開珎」11個が発見されています。



貝の中に入れられてあったそうで、
なかなかいい状態で見つかったそうです。
これは日本で最初の流通貨幣でした。
一枚当たり一文の値打ちがありました。
当時の相場によると、
これ一枚で、米2kg買えた
というほどのものです。

無事に帰れるように
という旅人がお金を埋めていく
そんな場合も昔はあったそうです。

続く


雲雀山に風が吹く 4

2017年01月25日 21時56分07秒 | ウォーキング

四国より帰ってきました。
う~、かなり寒かったです。
また絵を描きつつ報告していきましょう。
まずは中断していた雲雀山からです。

ーーーーー
雲雀山のあちこちにいろんなこん跡と
出来事が刻まれていますが、
あまり解説がありません。

例えば、ここに親子対面岩とありますが、
何も知らずにこの山に来た人には
何が何だかよくわからないでしょう。



星飛雄馬と星一徹がここで対決し、
雑木の陰から姉の明子が
涙を流しながら見ていた
場所なんでしょうか。



それともサザエがワカメをしかりつけ、
それをフネがとりなしていた場所
というのでしょうか。
あれ?
ワカメはサザエの子じゃなかったっけ

いやあ、このブログを
ここまで読んできた人なら
わかるでしょう。

ここは中将姫と父である
藤原豊成が再開した場所なんですねえ。

この岩でしょうか。



そしてここが「行場」
と書かれてあります。

行をしたのは中将姫でしょうか、
伊藤春時でしょうか、
あるいは役行者でしょうか。

岩の上に立ち、
眼下の景色を眺めながら
雲雀が羽ばたく真似をしてみましたが、
さっぱりわかりませんでしたな。



で、この辺りは小さな
仏像の首がおられたりも
していましたな。



こんなことをする人が
いるんですねえ。

あの熊野古道の牛馬童子も
そんな目に合わせられましたねえ。

ほんまに罰当たりな人もいるもんです。

あ、こんな仏像の首も
落ちていました。



ん?ちがうか。

これまではあまり人も来ないからか、
ここは枯葉を踏みしめての
柔らかい道になっていましたが、



どうもこのあたりから
あちこちに岩石が現れる
あらあらとした道に
なってきています。



登っていくコースも
限られてくるようです。



それらをわっせわっせと
登って行ったら、ようやく出ました。

山頂です。



チョットしたヒバリ権現の入ったお堂もあり、
建てられてある石には
「伊藤ヶ嶽」とも書かれています。



たぶん中将姫をかくまった
「伊藤春時(得生)」から来ているのかな。

その横にはちゃんと「雲雀山」の
山の標識もあります。



いやあ、ここからの眺めはいいですねえ。

標高201mと
さほど高くない山なんですが、
今日の朝から歩いてきた道が
ずーっと見えています。



山頂には、雲雀山御廟がたっていますが
実はこの山のホントのピークは
もう少し先なんだそうです。
いずれにしても三角点はないようです。

まあ、長めの良さなどから言っても
御廟のところを山頂としておくのが
いいのでしょうかね。

ではここから糸我峠に向かいます。





こんな古い山の案内に
見送られて次に向かう糸我峠は、
熊野古道との交差点に当たります。

昔はここに茶屋なんかが
あったそうですねえ。

南北に抜けて行くのが熊野古道、
東西に抜けて行くのが今日のコースです。

このコースを何といえば
いいでしょうかと思っていたら、
すでに名前が付けられているのですね。

やまを下りてから湯浅の
観光案内書にいったら
そのパンフレットが置かれてありました。

この道を、地元では



奈良時代の「万葉の道」
と呼んでいるそうです。

熊野古道よりも
さらに古い道なわけですね。

雲雀山から下って行って
次の場所に向かうのが
東西の道ですから、
ここで一度糸我峠で交わるのですねえ。

そこに向かって下りていきましょう。

しかしこの山道は
風がすごく強烈です。

ズラが飛びそうです。

あ、ちがった毛糸の帽子がです。

しばらく山道を行きますと、
こんな道路に出ますよ。



道路と言ってもねえ、
ミカンを山ほど積んで
軽トラがうんうんと
走りそうな道ですねえ。

ここまで山の中を頑張ってきて、
ふと出たところに車が走れそうな
道があるというのは、
ちょっとショックですよねえ。

まあ山に登っていたら
たまにあることですけどね。

やまをランの練習にしている人なら
いいんじゃないですか。
ここで走っていて疲れたら、
ミカン食べ放題ですし。



あっ、登山道の真ん中に
こんなでっかいタンクが
すえられています。



水も飲み放題です。

続く


雲雀山の途中ですが

2017年01月24日 21時40分38秒 | ウォーキング

今日は四国にきています。
8回目の巡礼です。

今回はここに来るまでは
いろいろと大変でした。
僕が風邪をひき
首Dさんの治療もピークで
もう前日まで行けるかどうかの
判断を伸ばし伸ばししてきました。
でもまあ、やはり日ごろの行いなのか
空海さんのおかげなのか
なんとか風邪も直り
首Dさんも元気で頑張るということになり
遠路はるばるやってきました。

四国の最遠隔地である
40番観自在寺から
足摺岬を通って合計
4寺を参るというツアーです。

北国では大雪に見舞われているという日に
まあ、こちらは熱帯植物も育とうかという
そんな地域なのにやはり雪です。雪をかぶりながらお参りしました。

二人でしっかりお参りし
また帰ったら絵でもかいて
報告しましょう。

足摺温泉にて


雲雀山に風が吹く 3

2017年01月23日 20時59分41秒 | ウォーキング

神社の中には何人か人がいます。



その日は12月28日ですから
人々によるお正月の用意が
進んでいるようですね。

お正月にはたくさん人が集まるのかなあ。

熊野古道歩きの時も
立ち寄ったので今回は
そこをちょろっと眺めて、
近くにあった「すぐ熊野」
と書かれた道標を越え、



なおもしばらく上っていきます。

前回はこの辺に採られたミカンが
転がっていていい匂いがした道でしたねえ。

おっ、左手に「ひばり山道」と
刻まれた石と石段の道が見えます。



それを無視してまっすぐ行けば、
熊野古道から糸我峠へと続いていき、
本来ならこの熊野古道をとおって、
糸我峠から雲雀山に行くのが
わかりやすいと書いてありましたが、
今回はやはり熊野古道をここで離れて
ここの登山道から雲雀山へと
入っていきましょう。

ミカンの収穫用のレールを見ながら、
さあ急なのぼりが始まります。



3話目でようやく雲雀山への
登山道に入りましたな。

で、この山、なぜ雲雀山というんでしょう。

いろいろ調べましたが、
中将姫の話が出てくるばかりで、
ちょっと山名の由来はよくわかりません。
雲雀がたくさんいたのかなあ。

まあとにかく最初はちょっと
急なので山を愛して
燦々と登らなければなりません。

それは美空ひばり

作業用のレールの管理用みたいな
道路がぐいぐいと登っていきます。



あ、これはムラサキケマンの
ように見えますが、
花のつき方はジロボウエンゴサクですかねえ。



どっちにしても4~5月頃の花で、
この時期の花ではありません。
これも和歌山、南国ならでは
なんですかねえ。

道はなおも急こう配で
上がっていきます。



もうあっという間に
糸我の村からかなり
上がったような感じになりますねえ。


さらに心拍数に気を付けて
じっくりと登っていきますと、
のぼりが緩やかになり、
おお~山の中に突然鳥居が現れました。



これは驚きましたねえ。
まるで映画でも見ているようです。

ヒバリ―ヒルズです。

それはビバリーヒルズ。

この鳥居は雲雀山御本朝の
一の鳥居ですかねえ。

で、その鳥居のところには、
おお、久しぶりに見つけました
「有田みちくさクラブ」の案内板です。



この下に役行者がいるそうです。
どこまで下りていくのかなあと、
ふと下を見たらすぐそこにおられました。



おお~友ヶ島以来ですねえ。

それにしてもこういう山登りを
しているとあちこちに
出てきますねえ。

も、もしかしてdoironも
役行者のようになるのでしょうか

doi行者(どいのぎょうじゃ)

と呼ばれるようになるかもしれません。

各地の「富士」山を歩いたり、
熊野古道を歩いて、
リボン通りを歩いて、
淀川歩行もし、
四国も巡礼している人となると、
ありがたいんやら、
あほくさいんやらよくわかりませんねえ。

おまけに最近は三十三カ所霊場も
回っているんやからやっぱり
doi狂者(どいのきょうしゃ)
かもしれんなあ。

ま、でもそういう退職後の
人生ですから懲りずに歩き続けましょう。

そこから先には
左手にミカン畑の
横のような道を行きます。





それにしてもこんなところまで
ミカン畑にしてるんですねえ。
内原の駅のところに
張ってあったミカン採りさん
募集看板の「助けて・・」が
よくわかります。



高齢者がここまで来て
ミカンむしりなど大変でしょう。

もしそうしてミカンむしりを
している高齢者もいるかと考えると、
これからはみかんを食べるときも
「ありがたいありがたい」と
固く祈って食べないといけませんな。

さてこの辺りからちょっと
山手の聖地が続きます。

ここにあったのが「宝篋印塔」です。



年号は刻まれており、
有田最古のものと言われていますが、
願主名も造立趣旨も
何もわからないんだそうです。

続く。


雲雀山に風が吹く 2

2017年01月22日 21時20分32秒 | ウォーキング

河川敷に出るとやはり風が強いですねえ。



紀伊の山の中から
有田川に沿って、
冷たい風が吹いています。

いやあ、こんな年末の寒い時には
山歩きは無謀だったかなあ
とちと反省をしましたが、
まあ遊びですから貪欲に行きましょう
ってちょっと変かなあ?

大きな有田川を越えるのに、
昔には宮原の渡しがあったそうですが、
いまはもちろん立派な橋が架かっています。
そんな宮原橋がこれ。



いやあ、立派な橋ですねえ。



有田川の寒い光景を
写真に撮ったりしながら渡ると、





そこに熊野古道の道標がありました。



あ、そうかあ、左折して
有田川の堤防をしばらく
上流に歩くんでしたねえ。



ちょうどその時河川敷にある
ゲートボール場から高齢者の人たちが
「よいお年を」とか言いながら、
2016年最後の試合を終えて
帰っていきはるところでしたね。

ああ~今年もみんなと楽しく
ゲートボールができたなあと
幸せそうでしたね。



河川敷をしばらく歩いて、
次の道標のところで
堤防から下りていきます。



あ、前回はアキノノゲシが
咲いていたりという季節でしたが、
今は水仙がとてもきれいでした。



まだ12月だというのに、
もう咲いているんですねえ。
淡路島なんかも
もう咲いているんでしょうねえ。

友ヶ島とかから見えないかねえ~。

国道42号を越えて



なおも山方向へと向かっていきますと、
ありました。


ここが中将姫ゆかりの
「雲雀山得生寺(ひばりさん とくしょうじ)」です。

中将姫は747年に
藤原豊成の娘として生まれました。
その姫が13歳の時に
継母のいじめで雲雀山に
捨てられ殺されそうになったのですが、
その時の使者である伊藤春時
(のちに解明して“得生”と名乗る)
が姫の人徳に打たれ、
彼女を庵で守ったそうです。

それがのちに「得生寺」となって
残っているというお寺です。

中将姫はのちに父親豊成に再開し、
将来當麻寺で尼僧となって暮らし、
29歳で入滅するという
人生をたどります。

継母にいじめられたのは、
地位の問題とその美貌と才能に
恵まれていたことによるものだ
と言われています。

それにしても29歳で
そんな物語を残すとはねえ。
doironなんか60年生きても、
まあ二度死に損ねた
くらいのことくらいしか
残ってませんねえ。

さてのちにこの得生寺は
浄土宗のお寺として
発展していくわけですが、
その中将姫の命日である5月14日には、
来迎会式の二十五菩薩の練り供養があり、
地元のええしの子どもたちが
練り歩くという会式が行われます。

「嫁見するなら糸我の会式で」
と言われているそうですね。

和歌山県の無形文化財に
指定されているそうで、
今年は5月14日に
見に行こうかなあと思い、
自分のカレンダーに印を
入れておきました。



このオレンジ色の鉄骨の上に
通路が設けられて、
ここを歩くわけですな。

ここの建物の中には、
中将姫と得生夫妻の座像があるそうです。



こうしてひと通り
中将姫ゆかりの得生寺をまわったので、
いよいよ今日の目的地である
雲雀山へと向かっていきます。

もうしばらく熊野古道を歩いていきますと
右手に「糸我稲荷」が現れます。



稲荷に関しては、
例えば日本三大稲荷というと
いくつか種類があるそうで、
いろんな稲荷がまじりあっています。

まあだいたい総本山として
伏見稲荷は入っているのですがね。

でもねえここの糸我神社は
伏見稲荷の創建よりも
約60年前に建てられた
との文章があるのです。

文化7年(1810)当時の神官、
林周防が寺社奉行に報告した
「糸鹿社由緒」によると、
創建は「37代孝徳天皇白雉3年壬子の春、
社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とあります。
あの総本山よりも古いということなんですね。

そのことから鳥居の扁額には
「本朝最初」と書かれてあるそうです。



古い歴史のある神社ですねえ。

続く