ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

今年もかにカニ

2015年02月28日 21時58分02秒 | 最近の出来事

先日、昔よく一緒に走った仲間たちと
丹後の方へ日帰りでカニを食べに行ってきました。



そのツアーの前に行ったけど、
まだこのブログに書いていないところもあるのですが、
ちょっと前倒ししてそのカニツアーのことを紹介しましょう。

それは泉州マラソンが開催された次の日曜日でした。

朝からあいにくの雨模様でしたが、
皆さん時間通りに集合場所に集まりました。

このツアーは昨年に続いて2回目の開催となります。

1回目の時と違うのは、
平均年齢が1歳上がったこと・・・

ちゃうちゃう。

運転手が同じ走る仲間だったことです。
以前このブログにもちょこちょこと登場した
かつての快速ランナー
Kいっちゃんは、プロのドライバーです。
今回の参加人数で運転手つきのバスを仕立てるのは
経費がかかりすぎるなあと幹事が心配していたところ、
こころよく運転を引き受けてくれたとのことです。
乗ったのはこんなレンタカー



全くお酒も飲まない、
プロのドライバーなんて
こんな酒飲み集団にとって
どんなけ貴重な存在でしょうか。

そのKいっちゃんの運転で
総勢20名が夕日が浦温泉の
カニの宿に到着したのが、午前11時過ぎだったでしょうか。



早速温泉に入り、露天風呂ではしゃぎ、



湯から上がってから30分ほど時間があったので
同じく湯上りの仁Oさんと
近辺を散策しました。

このあたりはカニツアーで有名な温泉街です。



おお、マンふたには



海とチューリップと、昨秋仕事を兼ねて
竹野を訪れた時に訪ねた
子午線最北端の碑が描かれてあるではないですか。



歩いているとちょうど昼時ということもあって、
温泉街にはカニの匂いが漂っていました。

そのにおいだけでご飯が食べられそうです。

夕日がきれいという海岸に出ると、



鳴き砂も近くにあることからもわかるように
きれいな砂浜が広がり、
遠くの山には雪の姿も。



そして海は特有の日本海ブルーの濃い海でした。



ここには以前も何度か来たことがありますが、
まだ夕日は眺めたことはないなあ。



村のはずれの小さな魚屋さんで、



お土産に一夜干しカレイとイカを購入し、





さあいよいよカニの時間です。

旅館に戻りましょう。

今回のカニ料理はこれ。



ドヒャー、うまそうな色艶のカニでしょ。

おいしかったです。
幸せでしたあ~

久しぶりにカニを堪能させていただきました。
もうしばらくはカンニンって感じです~。

それにしても帰りの手のカニくさかったこと。

携帯にも移り香が・・・。

今回参加した皆さん、
長のご乗車お疲れ様でした。

幹事の皆さんありがとうございました。

そして、長時間の運転のKいっちゃん
お疲れ様でした。

お互いクリエイター仲間としてがんばろうぜ~。

あ、そうそう今回もうひとつ
勉強になったことがあります。

マーモットとマムートが
違うブランドだということです。

ずっと同じブランドで
人によって読み方が違うだけなんだ
と思っていました。

おっさんはこれやからあきまへんなあ。

N川クン、さくもっちゃんのおかげで、
いい勉強になりました~。



来年も連れてってくださいよ~


真田なんだな 3

2015年02月27日 20時55分50秒 | ウォーキング

三光神社を出て北に向かうと
こちらの参道入り口には



戦災で倒れた鳥居の片柱が残されていました。



梅田のお初天神の鳥居や
玉造駅前のガード下にも機銃掃射の跡があったように、
終戦直前の頃はこのあたりは
ハゲシク攻撃されていたようです。

ちなみにこの近辺の大阪城の石垣にも
機銃掃射の跡が残っているそうです。

国道308号を横切り、

旧岡山町あたりに



玉造公園がありました。



子ども連れのお母さん方がたむろしておりました。
その入り口に、こんな貼り紙が・・・



「おじちゃんをさがしています」

だって。
思わず「ここにいるで~」と言いそうになりました。
違う違う。
最近はこういう徘徊人が社会問題になっていますね~。

その先を左折すると、
あの歴史道であることを示す
導き石に沿って歩きますと



立派な大聖堂が現れます。



聖マリア大聖堂です。

この建物の前に立つのが、

「細川ガラシア」像と



「高山右近」像です。



ともにキリスト教に帰依した
歴史上の人物です。
この二人について書きますと
長くなりそうなので、
写真の紹介だけにしておきましょう。

宗教的なことは、ちょっとデリケートですしね。

どういう人だったのかは、
また別の機会に。

再び右折して北に向かうと、
右に「越中公園」があります。

そこにあるのが、
「青刻昆布発祥の地」の石碑です。



昆布を糸状に細かく刻み、
野菜と煮たりする製品で、
大阪が発祥だそうです。

先日、家で昆布を食べていて
そのパッケージを見てビックリしたことがあります。

そこに描かれていた絵が、



先日歩いた堂島川に架かる
田蓑橋のたもとにあった「蛸の松」の絵だったのです。



古くから大阪で昆布が作られていたことと、
ここが発祥の地だったことを伺わせる話でしょ。

ところでこの公園の名前ですが、
なぜ、「越中公園」なのでしょうか。

越中と言えば「富山」。

その地名がなぜ公園名になっているか
と言いますと、このあたりに
越中守と名乗った細川忠興の屋敷があったからです。

近くにはその屋敷の井戸であった
「越中井」も残っています。
(変換をミスると「えっ注意」になります)



その忠興の夫人が細川ガラシアで、
そんな彼女の辞世の句

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 
花も花なれ 人も人なれ」

が刻まれた句碑も立てられてありました。



なんと力強い辞世の句なんでしょう。

ちなみに、このあたりの旧町名も「越中町」というそうです。



その越中井の横の坂を上り、



少し西に歩くと道の向こうに
大阪城がようやく見えてきました。



そこから中央大通りの歩道を西に歩くと、



「難波宮跡」にさしかかります。



7世紀中ごろと、8世紀初めに
日本の首都として機能していた場所です。



近くには、もしかしたら「大阪都」になるかもしれない
政治の中心地の建物群も見えています。



大阪のど真ん中、都会の一等地に
これだけ大きな旧跡を残しているのですから驚きですねえ。

解説板を読んで、



宮殿や大極殿の跡を見ながら
広い公園を他に何かありゃしないかと歩き回りました。

ここが八角堂の跡地だそうで



これは巨大藤棚でしょうか。

その後、交差点を渡って、
立派な大阪歴史博物館へと向かいました。



その建物は大河ドラマ「真田なんだな」
(正式には「真田丸」)
を制作しているNHKの巨大な建物と
隣接というか、一体化して建てられ、
その前の広場は難波宮跡公園として整備されています。

お、ここは「緑の一里塚」としても整備されています。



昨秋、法隆寺周辺を歩いた際に見つけたのは
「緑の道標」でしたよねえ。

新たな取組でしょうか。

調べてみたら「緑の一里塚」整備は
竹内街道、横大路活性プロジェクトとして
大阪府、奈良県、沿線市町村が一体となって
取り組んでいるとのこと。

これから増えてくるかもしれませんね。

ここには、当時の高床式の倉庫も再現されていました。



結局、歴史博物館には入らず、
このあと、大阪府庁に寄って
竹内街道の「街道マップ」をいただき、
帰路についたdoironでした。



この続きの大阪城公園内散策は
梅の季節にあわせてやろうと思っています。

このシリーズひとまず終わり。


真田なんだな 2

2015年02月26日 21時21分34秒 | ウォーキング

交通量の少ない玉造筋を地図を見ながら渡り、



住宅街へと入っていきます。

真田山のある三光神社の
鳥居の前方にあるのが、七体地蔵尊です。



大坂夏の陣、大阪大空襲などで
お堂が焼失するたびに地域の人によって堂が再建され、
祀られ続けてきた地蔵です。

この日も小さな子を連れた若いママさん達が
熱心にお詣りをしていました。

さて三光神社ですが、





この「三光」という字に見覚えがありました。

そうです、紀州街道の諏訪ノ森の辺りを歩いている時に
「三光橋」という橋があり、



その横に三光会館という地元の集会所もありましたねえ。



写真はいずれも2013年4月18日のブログから

「浜寺」の語源となった「大雄寺」を開いたのが
三光国師といわれる人で、
その人の高名が橋の名前や
地域の会館の名前(三光会館)で残っているというお話でした。

それとつながるのかなと一瞬思いましたが、
よく考えるとあの場合は寺の話でしたので、
この神社にその国師が関係している
というわけではなさそうです。

調べてみますと、この神社はもともと姫山神社といわれており、
仙台市にある三光宮(現 青麻神社)を勧請し、
境内社・三光宮を合祀したことから

「三光神社」

となったそうです。

三光・・・三つの光は「日」「月」「星」を意味するといわれています。

前述の三光国師も
あまねく世の中を照らすという意味で
この名になっているようで
ここでもそういう意味が含まれているようです。

仏と神の違いこそあれ
人々の信仰心の根底には
共通の土壌があるのでしょう。

また、奈良県にある歴史の古い
漢方薬である「三光丸」というお腹の薬
(萩を走るときに友達にもらって
試したことのある薬です。)
も太陽と月と星をモチーフにしたマークを使っています。



なので仙台の三光宮の祭神が
太陽を神格化した「天照大神」と
月を神格化した「月読尊」、
そして宇宙を神格化した「天之御中主神」というのは
もっともな話でしょう。

ただ、この玉造の三光神社は
祭神を「天照大神」、「月読尊」
そしてもう1柱を「素戔嗚尊」としています。

「素戔嗚尊」はどちらかといえば
海を治める神様で、この際「三光」とはならないのではと
思ってしまうのですが、
合祀の結果だからこれでいいのか、
その辺はよくわかりませんでした。

地元の人はこの三光神社を



「日月さん」と呼んでいるそうで、
星は含まれていません。
そういう地域の呼称が
あるいはこの神社のいわれを
良く表していると言えるのかもしれません。

ああ、つい「三光」という言葉に引っかかって
おでこを光らせてしまいました。

根拠の薄い話なので参考程度に
読んでおいてください。
三光だけに・・・参考

さあ話を変えましょう。

この神社に来た目的はもう一つあります。

境内にある、「真田の抜け穴跡」の見学です。

ここは真田幸村が徳川家康の攻撃を迎え撃った
大阪城の外丸として土塁を築いた場所です。

そこに大阪城からずっと地下を通って
抜け穴があったそうです。

抜けるのはいや~ん、
という誰かの声が聞こえてきそうです。

そこがこれ。



真田の抜け穴跡です。

入り口には格子がはめられ、
立ち入りできないようにしてありますが、
今は7mほど進むとふさがっているそうです。
もしつながっていたら、整備して
真田トンネル歩行なんかを計画したら
すごい観光の目玉になるのになあ
と思ってしまいました。

その真田幸村の像が、
この抜け穴跡の横に立っています。



これが真田なんだな。

大坂冬の陣ではこの場所で、
徳川を撤退させるという大活躍をしたそうです。
きっと、ドラマにはそのシーンも出てくるでしょう。

結局彼は、翌年の大坂夏の陣で、
前に歩いた天王寺七坂の南端の方にある
「安居神社」で休憩している時に、
討死をしてしまいます。

これがその場所。



あ、ドラマの結末を先に言っちゃだめですか?

へへ

では、この真田山一帯を引き上げて、
次に向かいましょう。

続く。


真田なんだな 1

2015年02月25日 21時18分56秒 | ウォーキング

大勢の人々が暮らし、
一見隙間もなくビルが建ち並んでいる都会の中にも、
ゆっくりたどれば
時の流れを越えた数々の想いの痕跡を発見します。

今回は、以前歩いた暗越奈良街道の
最後に訪れた「玉造(たまつくり)」より、
街道筋を少し外れて
浪速の宮に向かうコースを歩いてみました。

「玉造」といえば、
古墳時代に勾玉(まがたま)を



作る人達が住んでいたことから
ついた地名であることはご存知ですよねえ。

大阪の大半が海だったころでも
このあたりは人が多く住んでおり、
遺跡の跡が発掘されるところでもあります。

駅に着いたのは午前10時25分。

おお~、環状線の横に電車がはみ出しています~



いやいや、そんな店ですから。

では、ナビをセットして歩きはじめましょう。

今回は時間の都合で、
全長6キロばかしのこんなコース。



大阪城にもまわりたかったのですが、
梅の季節に行くのがいいだろうから、
そこは次の機会に譲ることにして、
とりあえず谷町4丁目までのコースを設定しました。

最後に大阪府庁に立ち寄って、
街道マップを手に入れようということも画策していました。

昔、といってもそんなに昔ではないのですが、
大阪城近くに砲兵工廠があった頃、
そこで働く人たちが大勢住んでいて
賑わっていたという、
玉造の「日之出通商店街」にまず向かいます。



おっと、その前に駅近にあるという

「壽福延命地蔵尊」

に立ち寄ってみましょう。

狭い路地の突き当たりにそれはあります。
ここ。



その路地に入ってくるのは、
地蔵目的しかないので、
地蔵堂の前でお世話をしていた人が
遠くから「ん?」という顔でじっとこちらを見ていました。
地蔵さんのような女性です・・・
あ、といっても頭がツルツルではなく
愛想のいいふくよかな~って意味でっせ。

doironも負けてないけど・・・

いわば地蔵同士の邂逅です。

話を聞いたら、地域の自治会の人で
この地蔵の花を替えたり、
掃除をしたりのお世話をしている人だそうです。

そういえば、スーちゃんも元気な頃は
村の地蔵のお世話をしていたことがあります。

初っ端からそういう人に会うとは、
スーちゃんの巡り会わせかもしれません。

写真を撮ろうとすると、
ちょっと待ってといって
ローソクに火をつけてくれるのですが、
扉を開いているとすぐに消えてしまいます。

「そのままでいいですよ」と
お断りして写真をパチリ。



ビルとビルの隙間にひっそりとたたずむ地蔵で、
そこだけが別世界のようでした。

日之出通商店街は、
昔ながらの商店街です。

そこここの店で、お客と店の人が話し込む姿が見られ、
地元密着度の高い商店街であることを伺わせました。

そして商店街のあちこちに
この旗が立っていました。



一番上に六文銭が描かれ
「幸村ロード」と書かれています。
おお~一番下には
勾玉も描かれています。
ここは幸せな村なんでしょうか。
いえいいえ違います。
その理由は、商店街を抜け、
玉造筋を横切ったところにある「真田山」です。

江戸時代初期の武将、
真田幸村ゆかりの場所です。

彼の話が来年のNHK大河ドラマに決まっていますから、
その人気にあやかろうと
商店街も活気づいているようです。
そうか、来年は真田なんだな。

その真田山に行こうと地図を見ていますと、
スーパーのあるところが目印になっていましたが・・・
実際にはそのスーパーがありません。

店先で暇そうにしていた
doironと同年輩くらいの店の人に聞くと、
何年か前にスーパーはなくなり、
今はドラッグストアになっているとのことでした。

なるほど、そういう店なら行ったり来たりしている時に
何度も前を通りました。

地方の地図だと、
大きな杉の木が目印になったり、
鳥居や道標が目印になって道をたどるのですが、
店の名前なんかを書いてある都会の地図は
店の盛衰でどんどん変わるのが厄介です。

教えていただいた店の人は
まだ何か話したそうでしたが、
丁寧にお礼を言って、
真田山の方へ向かうことにしました。

続く


熊野古道 梅と海の南部 8

2015年02月24日 21時30分50秒 | ウォーキング

みなべは梅の町です。

歩いていてもあちこちに
梅畑や梅干し工場があります。



先日の泉州マラソンで友達が
「脚が攣って・・・」と言ってたので、
「カリカリ梅」を勧めておきました。
トライアスロンのバイクパートで
脚がピクピクとつりそうになってきたときに、
これをかじると、坂道を登りきるまでにおさまるのでした。
それ以降トライアスロンに出るときに
カリカリ梅は、doironの
三種の神器のひとつになっていたものです。

梅はdoironにとってそんなありがたい食品でした。

山から下りてきてすぐのところに
こんな梅工場が・・・
和歌山のお土産屋さんでよく見るブランドの
梅干しを作っているようです。

大きな道路の高架をくぐって、



側道を行くと、



梅干館が見えてきました。





玄関にはこんなキャラクターがいます。



う~ん、桃太郎と若干かぶってますねえ。



3Dの梅シアターも「どんなんかなあ」
と見てみたいのですが、
口の中が唾だらけになりそうですし、
時間もありません。

先を急ぎましょう。

南部川に架かる



南部大橋を渡り、





南部の町に突入です。



梅酢の匂いが漂っています。

街道の雰囲気の残る町並みを抜けると、



前方に見えてきたのが
「丹河地蔵堂の大いちょう」です。

あ、「大いちょう」といってもこれではありません。



髪の毛の少ない人は相撲取りになれないのでしょうか。

それはさておき、これです。



樹齢は約300年で、
丹河(川)地蔵の置かれた頃に植えられたそうです。



太さはこんな感じ。



ダイエット中のdoironが細く見え・・・るかな?

そこを過ぎると今回最後の王子である
「三鍋王子」に到着です。



後鳥羽上皇が多大な寄付をしたという大社です。

鳥居はなぜか靖国鳥居です。
脇を抜けて入っていきましょう。

境内には、小栗判官が喉を潤したという
「小栗井戸」も残っています。



そしてこれが王子の証し
熊野ブルーの案内板です。



近頃はこの色の案内板を見かけると、
なぜかホッとするようになってきました。

家の近所でも、この色のものがあったりすると、
それがごみ箱であっても親しみを感じてしまいます。

さあ、これで見所は全て訪ねました。
駅に向かいましょう。

公園にはなぜかカッパの姿があります。



ため池の多い地域だからでしょうか。

そのまま広い通りをまっすぐ南進すれば駅なのですが、
おや何やら賑わっているところが見えています。

もう時間は余裕ですから
覗いていきましょう。
名所図会でも南部は結構賑わった街
のように描かれています。



近づいていくと・・・農機具等の展示即売会でした。



おお~、こんな試乗車もあります。



やはり高齢化の波はこの地域にも
押し寄せているんでしょうねえ。

そしてようやく駅に着きました。



ここで最後にチェックしなければならないことがあります。

次回の歩行に備えて
駐車場の確認です。

すると、駅の北側にどうやら無料の駐車場があることを発見。



これはありがたい。
次回はここまで車で来て、
田辺に向かうことにしましょう。

ただし、梅の時期は少し外した方がよさそうです。
この日も近々行われる
梅まつりの準備で
あちこちでテント張りなどが行われていました。

少し時間がありましたので、
駅前の商店街を眺め、



歓迎の梅を眺め、



こんな銅像も写真に撮ったりしてみました。



ホームに入ると、ここには特急「くろしお」も停まるんですねえ。



梅の最盛期には大勢の観光客が
乗り降りするのでしょう。

こうして、切目~南部の歩行も終わりました。
歩いたのはこんなコース。



紀伊路もあと1~2回で完歩です。
いよいよ中辺路へと入っていくわけですが、
さて今年中に熊野に到着できるでしょうか。

このシリーズようやく終わり。

今後、大阪市内歴史探索と、
葛城古道のネタがすでにたまっています。

またひまなときに


熊野古道 梅と海の南部 7

2015年02月23日 21時38分37秒 | ウォーキング

さて、千里観音を後にして、
今回最後の王子である
三鍋王子に向かいましょう。



あ、三鍋は当然「みなべ」と読みます。

自治法上地域の表記はひらがなの
「みなべ」町です。
ひらがな表記の町は和歌山県内では
他に「すさみ町」と「かつらぎ町」があります。
大阪にはありません。

ひらがなにするのは
わかりやすく、親しみやすく
目立つようにと言う自治体の意図を感じますねえ。
カタカナの自治体もありますが
アルファベットはないようです。

マラソン大会などでも
結果の表から自分の名前を
見つけやすいように
ひらがなで登録する選手もいるようです。

古い文書や旧跡の名前に使われている

「みなべ」

はこの王子名の「三鍋」のほか
「三名部」など20種類もあるそうです。

実は「みなべ」の名前は、
元はといえば「三鍋」からきているそうです。
和歌山の民話で3つの岩が
天から降ってきてそれを石神様として崇めた
という話がもとになっています。
その石が鍋のような形をしていたことから
「三鍋」という名になったといわれています。

天から降ってきた三つの鍋・・・
う~んなんだか未知との遭遇っぽいですねえ。



漢字で表記すると様々な字になるのは、
昔の人はあまり文字に親しみがなく、
口伝えが主だったんでしょうねえ。

そんな例は熊野古道に関わらず、
全国各地で見られます。

そもそもdoironの姓も
読みは同じで別の漢字がルーツなんだそうです。

親父が生前に語っておりました。

熊野もまた奥まったところと言う意味の「隈(くま)」野からきていることは
以前にも書いた通りです。

その熊野古道の歩行に戻りましょう。

千里観音から道しるべをたよりに歩いていきます。



お、これはかなりオンボロの放置自動車です。



昔、この道沿いでだんごでも売ってたのでしょうか。

なおも道は山の中を
縫うように続いています。



千里の浜に出た時に遠くに見えていた一団も、
古道歩きらしく、このあたりでは
道を探してウロウロしているようでした。

山の中は道しるべも肝心なところになかったりして、
地図と首っ引きで歩いていかねばなりません。



JRの高架をくぐると
梅畑の中を通るようになります。



う~ん、このあたりも花はまだちらほらです。
最近は夕刊に各地の梅便りが掲載されますが、
そこでもまだ梅は「咲始め」となっています。
満開まであと1週間くらいはかかりそうですね。

これは昔doironが描いた梅の絵です。



今描けばもう少しマシに描けるかもしれません。
この春にチャレンジしてみましょう。

花はまばらですが
それでも梅畑ではほのかに梅の香りがしていました。

みなべは「ひと目百万、香り十里」といわれています。

もちろん梅の生産は日本一です。
時間が迫っていなければ
ここらでコーヒーでも入れたのになあ。

あ、でもコーヒーはあかんか。

次回は梅こぶ茶でも持ってきましょう。

ようやく山道を脱けました。
狭い舗装路を歩いていくと
そこに「南部峠の地蔵堂」があります。



古くから骨折に霊験あらたかで、
「骨つぎ地蔵」ともいわれています。

このあたりが南部峠のてっぺんです。

登りつかれて眺めの良い場所でちょっと休憩
ということで、このあたりには茶店も多くあったそうです。

今はどうかといいますと、
地蔵のすぐ前にお茶屋ではなく・・・
ラブホがあります。



一人歩行でちょっと休憩とはいかないでしょう。
あ、いけるのかな?

ここの地蔵は古く、
400年くらい前のものと推定されています。



ここの案内には昔の書き物の記載が

「南陪(みなべ)峠」



「見那辺峠」

などと記載されていることが
書かれてありました。

この地蔵で右折して
みなべの町へと下っていくのですが、
このあたりは古代からあった道だそうです。



なかなかの雰囲気でしょ。

そしていよいよ、山中の梅の花越しに、
南部の町が見えてきました。



時間的にもここまで頑張って歩いてきたので、
ようやく間に合う目途がつきました。

山中には大きな池があります。



梅畑に供給する貯水池でしょうか。

カワセミもきっといるに違いありません。



いやそれどころかカッパもいそうな
怪しい雰囲気に包まれた池でした。

井正免池といいます。

あと1話続く。


熊野古道 梅と海の南部 6

2015年02月22日 22時22分22秒 | ウォーキング

舗装された新しい道を歩きながら、
どんどん登って行きます。
時間のことを気にしたあとですから、
急ぎ足になっているので息がはずみました。
こんな陰謀にも負けずに
登って行きます。



振り返るとさっきの岩代王子が見えていました。



クネクネと続く丘の道で
ところどころ梅畑におりる枝道が
たくさんあります。
しかし間違えそうな分岐にはちゃんと案内が
あるので大丈夫。



上の方に来ると、梅はまだあまり咲いていないようです。



このあたり日当たりはいいのですが、
風が冷たそうですからね。

清掃工場が見えてきました。



なるほど、この新しい道は
ごみの搬入路として整備されたんでしょう。

その清掃工場のフェンスにも、
手作りの案内が付けられてあります。
ちゃんと仕事してますかあ。




この工場をピークに道が下っていきます。

やはり下の方は結構梅が咲いていますねえ。



ビニールハウスの横を通るこの細い道が古道のようです。



これは案内がなければわかりませんねえ。

そしてそこからはしばらくは山道です。



草をかき分け進んでいき、



開けたところが梅畑になっています。
ちらほら咲いていますし、



数が多いのでもうすでに梅の花の香りが漂ってきます。

梅畑の中には分岐がたくさんありますが、
道しるべがあるので安心して進めます。



ちょうど、オーシャンアローが通り過ぎるガード下をくぐると、



一気に開けて海に出ます。



古くから枕草子などにも登場する景勝地

「千里の浜」です。

これが今回のベストシーンかな。

この景色は名所図会にも描かれており、
昔と姿をあまり変えていないようです。



開発が全然なされていないようで、
その理由は後からわかりました。

花山法皇は御幸の際にここで体調を崩し、
砂浜で岩を枕に横になったそうです。
また、熊野古道の案内ともいえる
「右名記」を書いた藤原宗忠は
熊野詣の際にここで塩垢離をしたそうです。
いわゆる海水浴のようなものでしょう。
季節は10月なので
ちょっと寒いかな?

で、古道はどこにあるかといいますと、
ここから砂浜を歩くのです。

海を眺めつつ



ザクザクと靴の中を砂だらけにしながら
200mほど歩いていくと・・・
何か案内が貼られています。



そこがむかしさるやんごとなきお方が
浜辺で拾った貝殻を奉納したことから
「貝の王子」ともいわれる

「千里王子」です。

ここでは先ずスタンプです。



この熊野古道紀伊路のスタンプ帳も



残すところあと三か所となりました。
全部押して送ると
記念品がもらえるそうなんですが、
このスタンプ帳そのものが大切な
記念品ですよねえ。

ここにも熊野ブルーの案内板があります。



そして花山法皇がここで詠んだ
歌の石板も立っています。



「旅の空 夜半の煙と 昇りなば 
海人の藻汐火 焚くかとや見む」

もし私が旅の途中で亡くなって火葬にされても、
その煙は漁師が焚く藻汐火に見えるだろう、
という歌です。

病に伏せてよほど気弱になっていたんでしょうねえ。

花山(かざん)法皇の名前が
ここにきてよく出てくるようになりました。
この先の中辺路にある有名な
「牛馬童子像」がこの法皇の姿を
現していると言われています。



調べてみると17歳で第65代天皇に即位し
19歳で出家して退位した天皇だったそうです。

奇行が目立った冷泉天皇の第1子で、
大変好色な天皇だったそうです。

そう思えばここの石板に書かれた歌も、
生に執着する人間臭い一首に思えてきます。

そこを後にして、千里観音の方に上がっていく参道には
三十三体の石像が並んでいます。





花山法皇は西国三十三霊場の中興といわれています。
そうではないという説もあります。
歴史は言ったもん勝ちみたいなところがありますからねえ。

ともかくも、ここも近西国三十三番札所の
ひとつであることから設置された石像なのでしょう。

その石像の向かい側に
大きな看板がありました。

これ。



そうです、この千里の浜は
アカウミガメの産卵地としても有名なんです。



そのために大切に保護されており、
それが名所図会と今とあまり姿が変わっていない
要因のひとつに違いありません。

注意事項がいろいろ書かれてあります。

どれどれ

ウミガメは孵化した時には、
海面に反射するわずかな星明りをたよりに
海へと向かっていくそうです。

なのでライトなどの照明は禁止です。
doironもおでこのせいで
孵化時にここにきてはいけないのしょうか。

あ、写真撮影禁止とあります。

どうしましょう。さっき浜辺を何枚か撮影しました・・・



ああ、カメの写真があかんのやね。
海だけやったらカメへんのでしょう。

そういえば、梅の絵柄のマンふたが



このあたりではカメの絵柄になっていました。



続く。


熊野古道 梅と海の南部 5

2015年02月21日 21時25分20秒 | ウォーキング

このあたりの集落には
飛び出し坊やの看板が良く立っています。

昨年有馬温泉に行ったときに
不気味な飛び出し坊やがあることを書きましたが、



先日それをテレビでやっていました。
なんでも地元の人の顔写真を使って作っているようです。

この飛び出し坊やも地域性があって、
マンふた、電プレ同様doironの歩行時の
チェック項目のひとつです。

ここではこんなのが・・・。



パンツ丸出しはあかんよなあ。
最近変な輩が多いので気を付けてくださいね~。

こ、これはまさかの腰痛坊やでしょうか。



とまあそんなくだらない写真を撮ってたら、
肝心の結の松への分岐点を過ぎてしまっておりました。
引き返しましょう。

これが有間皇子が枝を引き結んだという



「結の松」

それはもう1500年くらい前なので、
当然その松ではありませんが、
和歌山県の文化財に指定されています。



doironも引き結ぼうと思いましたが、
まあそれは差し控えておいた方がよいでしょう。

ここからしばらくは国道42号の歩道を歩きます。



西岩代川を越えて、



国道は高架を登って行きますが、
古道は側道を下りて行きます。



ふと横を見るとなにやら梅干しの
種のようなものを干しています。
何に使うのでしょうか?



取材魂を揺り動かされましたが、
時間の都合でスルーしました。

側道を降りて道しるべに沿って行き、



こんなさかさま看板のあるところで右折します。



岩代の踏切を越えて浜に出たところが、



「岩代王子」



ここは九十九王子中、唯一砂浜にある王子です。

さすがに砂の上に鳥居は建てられないので、
少し高くなったところに王子があります。



あまり見かけない形の鳥居があって、
あの熊野ブルーの案内板も設置されていました。



参拝をしておりますと、
このあたりは海辺にあるのにもかかわらず、
風がほとんどないことに気づきました。

なので、この王子の横で
海を見ながら昼食です。

今日のメニューはこれ。



相変わらずのおにぎりとカップものです。

波の音を聞きながらのランチです。



なんと贅沢なんでしょう。

食後のコーヒーもしたかったのですが、
帰りの電車時間を考えると
ゆっくりもしていられません。

早々に退散しました。

変な看板のあった分岐から
元の道に戻って、
岩代の駅を目指しました。

道しるべに沿って、駅に到着です。



駅前にはあの「結松」の石の道標がありました。



ここではあの光の目玉のようですね~。

駅は無人駅です。
構内にワンマン電車の乗り方が
書かれてあるくらいローカルな駅なのです。



このあと南部まで歩いて、
そこから乗る帰りの電車の時間と
残りの歩行時間を考えると、
この時点でギリギリでした。

さあ、どうしようかと一瞬迷ったのですが、
まだ立派な梅林も見ていませんでしたので
頑張って歩行を続けることにしました。

駅前から、相変わらず繁茂しているノビルを見ながら、



汐入橋を越えていきます。



分岐のところで迷いましたが、
よく見るとカーブミラーに
案内板が貼り付けられています。



飛び出し坊やに気をとられて
危うく見逃してしまうところでした。

ところどころにこんな案内もつけられています。



ありがたいですねえ。

で、その時ふと思ったのですが、
昔の人は何を目印に道を選んでいたのでしょうか。

今のような地図があるはずもなく、
こんな案内が付けられていることもなかったでしょう。

考えられるのは、「御幸記」や「右中記」といった
言葉による案内だけだったかもしれません。

それにしても、こんな細かいところまでは
書かれていなかったでしょう。

そもそもその時代に「地図」はなかったはずです。
伊能忠敬以前ですからね。

調べてみたらもう少し詳しい
道中記もあったようですが、
それにしてもたいして役に立ったとは思えません。

もともと分岐もなく一本道だったのかもしれないし、
行き交う人々が情報交換していたのかもしれません。

御幸のお供の人たちは
まさか道を間違えられないし
さぞや緊張していたでしょうねえ。

色々と思いをはせながら、
梅畑へと向かっていきました。

続く


熊野古道 梅と海の南部 4

2015年02月20日 21時18分40秒 | ウォーキング

海の方向に道が開けると、
梅や山の緑と違ってビニールハウスが目立ちます。



中を見ると今の季節はやはりスターチスが多いかなあ。



中にはカスミソウもあったかな。



そうそうスナップエンドウらしき
豆も栽培されているようでした。

ちなみに、この「スナップエンドウ」を、
doironはかつて「スナックエンドウ」と言ってました。

ところが最近スーパーで表示をみて
それは勘違いだと判明し、
「恥ずかしいなあ」と思っていたのですが、
ここに書くにあたってもう一度調べてみたら、
それも商品名としてちゃんとあるそうで、
ホッと胸をなでおろしています。

榎木峠を下りてきた分岐点に、
そんなビニールハウス越しに海を眺めるように、
徳本上人の名号碑が立っていました。



そこに刻まれた字体は
これまで何度も紹介しましたが、
観光案内には行き倒れの熊野詣の旅人の
供養塔であるにもかかわらず、
「ギャル文字風」なんて書かれてあったりするから、
観光業界もなかなかのものです。



ガードレールに沿って歩く道端に
ひっそりとこんな道標地蔵がありました。



比較的新しいようで、
「右紀三井寺 是より十四里」
の文字が刻まれていました。

なおも山すそに伸びる道を進んでいきますと、
山側に庚申堂が見えてきます。

石を積み上げて作ったお堂の四隅には
隅鬼瓦風に大きめの石を置いているのが
ちょっとほほえましい姿でした。



祀られているのは「馬頭観音」でしたから、



スタンダード庚申さんですねえ。

このあたりは陽光も気持ちよく注いでいて、
キラキラした海を臨める気持ちのいい道でした。

集落に入っていくと、
飛び出しサッカー少年がいる
狭い道になっていきます。

おおここは、網でも販売しているのでしょうか。



これを現代では「ネットショップ」といいます。

んなわけないか。

ここはまた、狭い空間を目いっぱい使っています。



タイヤが半分はみ出てるし~。

そんなつっこみをいれながら歩いている
お気楽な旅人です。

岩代万葉歌碑の案内が出てきました。



前方にもそれらしい緑が見えてきます。



若い有間皇子がこの道を通って
白浜に幽閉され、
後に藤白神社の近くで処刑されたことは、
有間皇子の墓のところで紹介しました。

ここでは、白浜への護送中に
海が見下ろせる岡の上の
松の枝を引き結び、
自分の身の平穏無事を祈って
そこで和歌を詠だんだそうです。



「岩代の 浜松ヶ枝を 引き結び 
真幸くあらば また還り見む」

若い皇子の命への執着が伺えますね。
なにせ17歳で即位して
19歳で退位したのだから
無理もないかもしれません

還りにはここを通っているので
見ることができたかもしれませんが、
残念ながらその先で終焉を迎えました。

切ないですね。

ここにはもうひとつ歌碑があります。

中皇命(なかつすめらみこと)が
白浜温泉に旅した際に詠んで、
万葉集にも掲載されている歌です。



「君が代も わが代も知るや 岩代の 
岡の草根を いざ結びてな」

有間皇子の歌がこの時、
中皇命の念頭にあったのは言うまでもありません。

今年の歌御会始で天皇陛下が詠まれた歌を
お側のものが詠みあげる光景を思い出しました。

「夕やみの~~~~~」と
一節ずつ語尾をすごく伸ばして
詠みあげているのがとても印象的でしたが、
ここでもあのように詠みあげられたのでしょうか。

もしそうだとしたら
海から吹き上げる風に乗って
岩代の地に響き渡ったことでしょう。

こちらの歌碑は万葉学者の犬養孝の
揮毫によるものとされています。

彼が朗唱する万葉歌は独特の旋律を持ち
「犬養節」として有名で、doironも
かつて聞いたことがあるような
かすかな記憶がありますが、思い出せません。

歌御会始のあの朗唱とは違うのでしょうか。

なんてことを考えながら、
万葉歌碑を後にして



その結んだ松のある場所に向かいます。

続く。


熊野古道 梅と海の南部 3

2015年02月19日 21時18分19秒 | ウォーキング

雪が強くなってきました。
このままでは榎木峠死の彷徨です。



あの遠くに見えていた雪雲が、
すごい勢いで流れてきて
このあたりに覆いかぶさってきたようです。

カメラを出すのも憚れるほど振ってきましたので、
今回はそんな時のためにリュッ君に忍ばせてきた、
別のカメラを取り出します。



普段の街道歩きに使っているEOSは
仕事にも使っているので、
故障させるわけにはいきません。
大切にバッグにしまいました。

まだ合羽に着替えるほどではなく、
とりあえずは街道ウェアのフードをかぶって
歩行を続行です。

ときどき振り返って
海の方を見ながら登りきると、
宝篋印塔が見えてきました。



室町時代の作だそうです。

林の縁の一段高くなったところに、
二基が鎮座しオーラを放っていました。

雪の中で見るその室町時代のものといわれる塔の景色は
とても幻想的だったなあ。

その塔からすぐのところにあるのが、
切目中山王子跡と言われる



「中山王子社」



です。
この神社が足神さんと言われるのは、
昔熊野詣の途中で山伏が足をいためて
何とかこの地にたどり着いたものの
そこで亡くなり、地元の人が手厚く葬ったそうです。

するとその亡くなった山伏の頭のところに
大きな石が現れたそうで
その石を足の神様の御神体として
崇めたのが始まりだそうです。

その石は村はずれに今もあるそうですが、
詳細はわかりません。

その神社を合祀したのが、
この中山王子社だったそうです。



今は「やまぶしさん」「やまっさん」として
地元の人に崇められていますが、
もともとは熊野詣の王子社を
この地に移設したのが始まりだそうです。

でもまあいただける御利益はいただいておきましょう。

現在、トリプル喪中の身なので、
鳥居はくぐれません。

横から入って足の健康、旅の安全を祈ったところ、
雪が小降りになり木々の間から陽光まで射してきました。



その陽のぬくもりは、まさしくdoironにとっての
「影向」以外の何物でもないという気がしましたな。

早速の御利益です。

カメラを元のEOSに戻して、
さあ嬉々として歩行を継続しましょう。



ここからはカエルの描かれた道案内板から一変して、
道標が大変素朴なものになりました。
こんなのや、



こんなのも建っていますので



道を間違えることはないでしょう。

それに導かれ、榎木峠の山道へと入っていきます。



山道沿いには梅の木がいっぱい植えられており、
管理用の道路としても使っているのか、
道は荒れるでもなくむしろ
どことなく整備されていました。

この梅は、写真ではよくわかりませんが、



枝のあちこちに栄養ドリンクの便が吊るされています。

樹形を恰好よく整えているんでしょうねえ。
ちょっと梅が気の毒なような・・・

なおもどんどん山道を行くと、
突然古道が民家の軒先をかすめます。



しかもそこには今も人が住んでおられるようです。

いやもしかしたら梅畑管理用の作業場に
使っているのかもしれません。



いずれにしても時代に取り残された
昭和の民家という感じでした。

ところがそのさきの梅畑の電柵には、
ソーラーの仕掛けがあるではないですか。



ふむふむ、あるものは活用し、
ない電気はおてんとうさまからいただくというわけか。

エコですねえ。

ちらほら花の咲き始めた梅を見ながら歩き、



ふと梅畑の地面に目を向けた時、
驚いたのが「ノビル」の大群落でした。



昨年家の近くの公園で採取し、
「ノビルチジミ」なる珍料理を作ったあのノビルです。

こんなに繁っているとは驚きました。

これはもう帰ったら早速
昨年の採取場所へ確認に行かねばと思いましたね。

その公園の梅を見て訪ねてきた地で
逆にその公園を思い浮かべるなんて、
春の交換日記みたいです。

しかし、ここではあまり深入りは禁物のようです。



右に、狼煙山がそびえるようになってきました。



万葉集では切目山と詠まれている山です。
この山の向こうは海岸線になっており、
その斜面は一時別荘ブームで開発されたようで、
太平洋に少し突き出た半島のような地形が、
海の絶景を作り出しているそうです。

ここを抜けたら、岩代に入っていきます。

続く。