ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

友と共に 西高野街道 2

2014年10月15日 21時50分34秒 | ウォーキング

今回一緒に歩いたお二人は
車で1時間近くかけて通勤していたdoironと違い
お二人ともチャリンコで通える地元に住んでいた。
特にのんさんは毎日長尾街道を
チリンチリンと行き来してたとのこと。
なので、地元の情報はdoironよりも詳しい。
そんな情報通のお二人に
歩きながら、昔の仲間の消息などを色々聞かせていただいた。
在職中に大変お世話になった人が、
定年退職されてすぐに亡くなったというような話には
胸がキュンとなったものだ。
亡くなった人の冥福をお祈りするとともに、
こうして楽しく歩けることの喜びを
あらためてかみしめた。

また、そのお二人とは楽しい思い出を
いっぱい共有しているものだから、
思い出話は他にもあって本当に尽きない。

しかし、あーだこーだとワイワイ歩いていると
ついつい見所を見逃してしまうから要注意である。

いくつも立てられているこの道標に出会うたびに、





「あ、次は何やったかな」と注意を喚起されるので、
ええ加減辟易するような道標でも
それはそれで役に立ってくれた。

道はやがて、大阪府立大学の中百舌鳥門のところに出る。



この大学には、友達もたくさん通っていたので
在学中は帰省したときなんかによく行ったし、
仕事でもここの大学の先生にある委員をしていただいていたので、
打ち合わせにも来たことがある思い出深い大学だ。

ここからしばらくは310号の歩道を歩き、



白鷺門のところで中の道に入る。



この区間唯一の歩道歩行だった。

なか道に入って鉄塔の横を抜け、



再びこの石を見ながら進んでいくと、



白鷺公園の横に出る。



そこには、この西高野街道の案内板が立っていた。



そこに書かれていたのは、
この道が平安時代に参詣道として整備され、
江戸時代には堺と高野山の
重要な物資輸送の道となった旨が書かれてあった。
公園を訪れる若者たちには
まったく興味もないだろうが
中には遠い昔に思いを馳せて
勉強しようなんて若者が・・・
いないやろうな、やっぱし。

グラウンドもある静かな白鷺公園の先で、



泉北高速鉄道の高架下をくぐり、



しっとりと落ち着いた街道の歩行が続く。



レンコン畑になっている新家町の星谷池を過ぎ、



地蔵堂右に見ながら進むと関茶屋という地域に
今回初めての里程石である「十二里石」が
地蔵堂のところに斜めに傾いて立っていた。



堺から高野山までの13本の里程石は
全て安政四年(1857年)に建立されている。
なかでもこの十二里石は
2月と早期に建てられたものだ。

施主の名前を読むと地元の「関茶屋新田」と
この地域の名前が刻まれており、
施主がこの地に住んでいたことが伺える。
したがって、多額のお金を要する施主探しに
時間がかからなかったので、
早期建設が可能になったというわけなんだそうだ。

とにかく高野山まであと50キロ近くあるということになるのだが、
はたしてそれは正しいのかどうかわからない。
里程石とはいえ、
きっちり一里(4km)の間隔で立っているわけではなく、
中には6キロも離れている場合もあるそうなので
おおよその目安二しか過ぎないのだ。

さらにこの里程石をよく見ると、
石の下部がコンクリートの中に埋まっており、
「右 高野山女人堂 十二里」の
「里」は半分隠れている。
これはかろうじて文字が読めるからまだしも、
堺市内の道標の中には
同じような形で設置されている石があって、
まったく文字が埋もれてしまっているものもあった。
せめて書かれてある文字は
全てあらわになるように設置してほしいものである。

里程石の横には小さな道標石も立っている。



そこには「左 滝谷」の文字が読み取れた。

富田林市にある「滝谷不動明王寺」
への道であることを示しているのだろう。
方角的にいっても間違いない。

後ろに立ってた地蔵堂の中にある
道標地蔵も見てみると、
きれいな前掛けをつけられていたので
読むことができず残念だった。



地図だけでなく人工衛星を利用するナビも発達した現代、
道標は道標としての役割を持つ時代ではなくなったが、
人目に触れなくなるのはちょっとさびしい気がしないでもない。

続く