ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 香り高き区間 2

2014年10月30日 21時40分35秒 | ウォーキング

さて、先の看板に書かれてあった
「中将姫」とはどういうお人なのでしょうか。



調べてみました。

すると悲しい過去をおもちなんですね。
実母が亡くなった後、
やってきた継母に虐待をされ
殺されそうにまでなったそうです。

そして逃げ出した彼女に、
刺客を放たれたのですが、
その刺客が中将姫の人徳にうたれ
逆に彼女を守ることになったそうです。

その後彼女は29歳で入滅するまでに
当麻寺の曼荼羅を織るなど
熱心に仏教に帰依し、数々の実績を残しています。

その彼女の眠るのが、ここ雲雀山「得生寺」です。

この「得生寺」は、小説「有田川」にも出てきます。

中将姫を偲んで、毎年5月に行われるのが

「中将姫会式」。

別名は糸我の会式ともいわれます。
地元の子どもたちが二十五菩薩の姿で、
境内を練供養するというその会式に、
主人公の千代が、かつて一緒に住んでいた妹の姿を
見に行くくだりでは読んでいてもドキドキしました。

その会式は今も続けられており、
和歌山県の無形文化財に指定されているとのことです。
一度見てみたいものです。

会式にお練りをする女の子は、
良家の子女が多かったそうです。
俗にいう「ええしの子」ですな。
なので、嫁見するなら糸我の会式
と歌にも詠われています。

ではお寺に入っていきましょう。



境内にはちょっとした言葉が
各所に掲げられています。
来年のカレンダーの参考にしましょう。





なかなか、熱心なお寺のようですし、
お堂に参ってグルリンパと境内を見て回った印象は、
静かないいお寺でした。





そこを出るとすぐにあるのが「糸我の一里塚」です。



そういえば大阪の貝塚市内にも一里塚が残っていました。
あそこは、天満の八軒屋浜を起点とした一里塚でしたが、
ここ糸我の一里塚は、
紀州藩が設けたもので、和歌山城下を起点にしています。
ここから五里というから約20キロ離れているとのことですね。

その一里塚の少し先に、道標があります。



「すぐ熊野」と刻んであります。



この表記についてdoironはこれまで誤解をしていました。
「すぐ」というのは「直ちに」という
そばにあるような意味の「すぐ」ではなく、
「真っすぐ」の「すぐ」だったのですね。
この道標のことについて調べている時に、
そんな説明に出会いました。
う~ん、そうかあ。勉強になりました。

他の面には「すぐ紀三井寺」も刻まれています。



その道標のそばにあるのが

「糸我稲荷神社」。



こういうところにはたいてい説明書きが掲げられています。
しかし、これをその場ですべて読んでいると
歩行に時間がかかって仕方がありません。

写真に撮って帰宅後にじっくりと読むのですが、
たまに「え~そんないわれがあるの?」
というような記述があって、
しまった、もっとちゃんと見ておけばよかった
と後悔することもよくあります。

この糸我稲荷にも日本最古の稲荷であるとの説もあり、
それが鳥居の扁額に書かれてある
「本朝最初」からも伺えるとのことを
帰宅後に読んだ説明書きで知りました。

で、撮影してきた写真を見たら、
良かったあ、その扁額が写っているではないですか。

これ。



やはりこまめに写真は撮っておくものですね。

古道を少し離れて右に入っていくと、
本日最初のスタンプポイントである、
「くまの古道歴史民俗資料館」があります。
その道すがらにあるのが

「白河法皇みくるまをよせたまひし旧跡」。



糸我稲荷には今も樹齢500年以上といわれる
楠の大木があり、それは熊野詣が盛んだったころからも
あっただろうといわれています。
そんなクスノキの樹陰を好んでか、
ここに駕籠を止めて休憩したという旧跡です。

資料館には当時のかごを再現したものであるとか、
熊野御幸記を今風にアレンジした日程表などが置かれてあるそうです。

入ってみましょう。

続く