ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

予告 ドジ旅日記 待望の第3弾!

2014年11月30日 21時52分29秒 | ウォーキング

ジダンとdoironが描く壮大なブログ、
ドジ旅日記「柳生一族の陰謀」、
同「近江商人の陰謀」に続く
第3弾がまもなくアップ。

壮大な古代ロマンに彩られた地を歩き続けた二人の身に一体何が・・・

今度は明日香に渦巻く陰謀との果てしなき戦い。
そして古代ミステリーに潜む謎が謎を呼ぶ!

はるか南海沖で発生した台風が巻き起こす陰謀

明日香に向かうバスの中で用意されていた陰謀

そして紅葉を愛でながら食べた釜飯に潜む陰謀とは?

すでに人生の道を間違えている二人は
さらに陰謀により道を間違えることはなかったのか

風呂屋に潜んでいたちょっぴりうれしい陰謀とは何か?

もうあなたは待ち遠しくて仕方がないはず

ドジ旅日記待望の第3弾

「明日香人(あすかびと)の陰謀」編

間もなく公開! 


ふたたび、ゴルフを

2014年11月29日 21時36分50秒 | スポーツ全般

大変です。

またゴルフに行くことになりました。

祭りの打ち上げの時に、
doironが会長をしている世話人会の
ゴルフ大会の日程が決まったのです。

12月21日。

全国高校駅伝の日だからと言って
逃げることはできません。
会長ですから。
会長でもゴルフは全然「快調」じゃない
といっても許してもらえません。

前回、生まれて初めてコースに出て
右腕全体が内出血したといっても、
「そんな力いらんで」と一蹴されました。

ぐすん

このままではまた前回の二の舞です。
何とかしなくてはなりません。

ゴルフレッスンのDVDでも借りてきて見ようかなあ。
それとも右腕の強化をしようかな。
と付け焼刃まるだしのことを考えている時に、
村の幼馴染から
「練習に行こうぜ」とお誘いがありました。

聞けば、彼も長い間ゴルフクラブを
握っていないとのこと。

しかも前回コースに出た時に、
ボールを横に飛ばし、
人にけがをさせそうになったとか、
ボールよりクラブの方が遠くに飛んで行ったこともある
といった過去の持ち主なんだそうです。

これはたのもしい味方じゃあ~りませんか。

「K君」ということにしておきましょう。

そんな彼ともう一人を連れて
3人で前回カードを作ってから
一度も行っていないY練習場へ行くことにしました。

もう一人はまあまあの経験者です。

前回の教訓を生かして、
とりあえずグリーンの近くまで
飛ばせることがまず先決なので、
この日はスプーンとアイアン二本だけ持って
行くことにしたのですが、
迎えに来てくれた車に乗り込むと、
「クラブ3本だけて、なんかプロみたいやなあ」
といわれました。

みれば彼らはキャディバッグに
シューズバッグも持っていました。

doironはジョギングシューズです。

「押入れ探したら、靴の入った
このバッグが出てきたから持ってきてん」とK君。

「はいたら、前がパックリ割れてるンちゃうやろなあ」
とかわいわい言いながら向かいました。

練習場に着くと、K君が
「え~っと、手続きはどうするんやった」
と聞いてきます。

「え~、俺に訊くか?ま、とりあえず
機械の前で3回まわったらええんちゃうか」

「それやったら、最後にワン!と言わなあかんやろ」

などと、ロビーでも大騒ぎしながら
なんとかボールをチャージして中に入りました。

自分の番号のところに着いて
ふと横を見ると、隣でK君が
無料の紙おしぼりでシューズバッグを掃除していました。

「そんなん帰ってせーよ」
「それでもほら見ぃ、おしぼりが真っ黒や」
とここでも賑やかです。
周りの人は迷惑だったでしょうねえ。

そうしてすったもんだした挙句
いよいよ練習が始まりました。

見ていると、K君けっこう飛ばすじゃないですか。



焦るぜ

その後、「ビデオ録ったるわ」
と携帯のカメラを構えると・・・

無茶苦茶になりました。

しめしめ、プレッシャーに弱いタイプなのね。

これで彼の攻略法は見つかりました。

50球ほど打って



もう少しボールをチャージしておこうと、
フロントの方に戻っていくときに、
前回一緒に回ったゴルフ名人のこもDクンに逢いました。
前日コースを回ったときのことを踏まえて
反省の練習をしているとのこと。
さすがに、心がけが違いますねえ。

と、ここで彼が教えてくれた言葉を思い出しました。

「クラブで円を描き、その途中でボールに
あてるくらいの気持ちで打てばええんですよ」と、
力任せにクラブを振り回す
doironに業を煮やして教えてくれた言葉です。

それはわかってるんやけどなあ。

ま、とにかくその日は少し感触を確かめた程度で引き上げてきました。

さて、本番まであとひと月。

どうなりますことやら。
またK君誘って練習行かなくては~。

右腕、もう痛い


熊野古道 雨のち晴れの峠越え 4

2014年11月28日 21時56分37秒 | ウォーキング

鹿ヶ瀬峠を水源とする川が作る谷に沿って、
湿地環境に木道を渡した
「熊野古道公園」が左側に続きます。



う~ん、かなり荒れています。
中途半端に開発するのなら、
ない方がいいような気がしますねえ。

一方、古道そのものはというと、
いい具合に古びていて、
苔むした道が「古道」らしさを演出していました。



法華堂跡にはベンチが置かれ、



こんな歌碑も置かれています。



そして、その道を挟んだ向かい側には
1400年代の年号を刻んだ、
日高郡最古の板碑が並んでいました。



ちなみに日本最古の板碑は
福岡県宗像市にある鎮国寺の板碑で、
1119年の紀年銘があるそうです。

さらに下って行ったところにあるのが

「金魚茶屋跡」です。



昔、宿場町だったこの地域にあった茶屋のひとつで、
店の前に池を作りそこに金魚をはなしていたことから
こんな名前がついているそうです。

人里に出てからは、県道を出たり入ったりと
縫うように古道が続きます。



歩いていると、年配の女性が声をかけてきて、
こんな会話をかわしました。

「歩いてはるんやねえ。どこから?」
「今日は湯浅です」
「雨もあまりふらずによかったねえ」
「いや峠の登りはずっと雨でしてん」
「おお、それは難儀されたでしょうどうもすみません」
と謝ってくれました。

いやあ、雨が降ったのは
おばさんのせいじゃないですから~。

天になり代わって、こんな風に謝られたら
かえってこちらが恐縮してしまいます。

道沿いに黒竹の林もある古道を下っていきます。



そうそう、今さらですが
黒竹は何と読むでしょうか。

「くろだけ」と思って入力すると
「黒田家」が現れますからご注意を。

実は「くろちく」と読みます。

おお~、馬留王子の道案内もありました。



しかし・・・待てよ・・・。

まだ沓掛王子を通っていないぞ。
見逃すはずないんやけどなあ、
と思いながら空を見上げた時に、



その上にある熊野ブルーが目に入りました。

これが、沓掛王子跡です。



沓掛といえば、加茂郷に「沓掛松」があったように、
山と平地の境で沓を替える場所の意味で
つかわれるようですねえ。

ここも、峠と御坊の街並みの
境目にあたる場所のようです。

この弘法大師が岩に地蔵尊を爪で書いたという
爪書き地蔵は、



どうやら信仰心のない人には
姿は見えないそうです。

見えるかな?とこわごわ覗いて見ますと・・・



見えました。

よかったよかった。

このあたり、熊野古道はなおも
県道を縫うように行きますが、
場所によっては道路の拡幅で
消えてしまいそうになっている場所もあります。



ここなんかはまるで
民家の軒下をかすめるように
歩いていかなくてはなりません。



この熊野ブルーには「馬留王子跡」とありますが、



峠の手前にあった王子と区別するために、

「西の馬留王子」

といわれています。

おお、ここでは一里塚跡の石標が
ブロック塀の間に挟まっています。



その先で県道と決別する地点に
かかっているのが「滑橋(なめらばし)」です。



下を流れる川がこんな風に「滑(なめ)」になっていることから



つけられた名に違いありません。

ここからは畑に囲まれた
気持ちのいい道が続きます。

土手には、吾亦紅(ワレモコウ)の花も咲いていました。



おっと、この辺は王子の荒稼ぎです。
すぐに現れたのが、ここ「内ノ畑王子」。



広々とした眺めのよいところにある王子でした。



峠を降りてきてホッと一息といったところでしょうか。

なおも気持ちのいい道を歩いて、
本日の最後である
「高家王子」にさしかかるところに、
休憩所があったので、
ちょっと遅い昼食を摂りました。

この頃になると雨もすっかり上がっていました。

今日の昼食はこれ。



う~ん、やはりワンパターンやなあ、
次回はもう少し工夫してみるかな。

目の悪い女の子が飛び込んだら
目が見えるようになったという伝説のある、
「愛子(まなご)の淵」を訪ねた後、





「高家(たいえ)王子」にお参りしました。





ここはスタンプポイントです。

そのあと紀伊内原の駅まで歩き、





電車に乗って湯浅に戻ると案の定、
高校生たちの下校時刻とぶち当たりました。

「あの変なおっさん、朝もいたぞ」

なんて話をしているかもしれません。

雨のち晴れの鹿ヶ瀬峠越えの旅、
これにてなんとか無事終了です。

ナビは山の中すぎて電波を拾えず
途中で止まってしまっていました。
残念。

次回は秋たけなわの御坊の街を歩きます。

お楽しみに。


熊野古道 雨のち晴れの峠越え 3

2014年11月27日 21時42分44秒 | ウォーキング

石畳道を登って、
峠まで152mの道案内のところに来ると、
もうひとつ道案内があります。
「大峠の地蔵」と書かれてあります。



行ってみましょう。

「大峠」とはここでは鹿ヶ瀬峠のことをいいます。

山の中に熊野古道を見下ろすように建っているのが

「大峠の地蔵」です。



この地蔵、珍しいことに
「痔の地蔵」といわれています。

じ、じ、痔蔵ですか

略せばそういうことです。
身に覚えのある方は是非お参りを。

古い地蔵でしたが、
そこにあった賽銭箱に
ハゲシク興味を魅かれました。

これ。



ブラザーの洗濯機なんて、
いつの時代やねんという感じです。

もしかしたら、この賽銭箱も
値打ちものかもしれません。

その地蔵の少し先にあったのが

「法華壇」です。



ま、いわゆる供養塔です。



何の供養かといいますと、
こんな話があります。

お坊さんがホッケを焼いて食べていると・・・

ではありません。

生涯で6万部の法華経を読むという
修行があるそうなんですが、
その修行をしていた比叡山の僧が、
熊野三山に向かう途中で、
志半ばにして行き倒れたそうです。
それから100年ほど後に
この地を通りかかった僧が
どこからともなく
お経の声が聞こえるので
その声の主を探したところ、
大きな木の下で
苔むした髑髏が赤い舌を動かして
お経を読んでいたそうです。

ちょっと想像すると怖いですね。

それが行き倒れた僧の髑髏であることを知った僧が、
死してなお修行を続けようとする僧を偲んで、
そこに供養塔を建てたとのことです。

法華壇にあった供養塔は、
確かに大きな木の根元で
木に抱かれるように建てられてありました。



本日もっともパワーを感じたスポットでした。

そこを出て、最後に頑張って急斜面を登ると、
やっと海抜354mの大峠に到着です。



紀伊路屈指の難所といわれる
鹿ヶ瀬峠のてっぺんです。

これまでいくつかの峠を越えてきましたが、
ここはあまり普段人が通っている様子もなく
確かに長かったような気がします。

途中で見た道の横の斜面もかなり急で深く、
現在のような道のなかった昔は
さぞや大変だったことでしょう。

なのにこの頂上には
茶屋があったそうです。



いつも思うのですが、
仕入れや通いはどうしていたのでしょうかねえ。

ま、そんな心配はさておき、
ここにはあの熊野ブルーの
案内板が建てられてありました。



通常は王子跡に建てられているのですが、
熊野古道の重要ポイントには、
こんな風に道案内とともに建てられているようです。

広場からはくだりに入っていきます。



しばらく木の階段が続いた後、
500m以上続く
現存する最長の石畳道が始まります。



萩の往還道にもあった石畳によく似ています。

道路の整備、保全という点では
優れているのかもしれませんが、
いかんせんでこぼこで歩きにくい。

萩も終盤でこの石畳道が続くので、
走りにくかったことを思い出しました。
(終盤はほとんど歩きですけど・・・)

油断していると、足をねんざしそうだし、
足の裏は痛いし、その上このあたりでは
やんでいたとはいえ雨に濡れた石はツルツル滑ります。

周りをあまり見る余裕もなく降りて行きました。

ただ、気がついたのは
この道沿いにあった「黒竹」です。



高知県中土佐町と並んで
和歌山の日高がこの竹の
主な産地になっています。

表面が黒いこの竹は、
園芸用にも重宝がられるとともに、
竹細工にもよく使われるそうです。

枯れた枝に葉が固まり、
鳥の巣のように見えるのも特徴のようです。



難儀をして降りてきたのですが、
変に力が入って膝や腰に負担がかかりました。
登ってきた道は急でしたが、
この下る道も急なうえに
その石畳ですから、そういう意味でも
難所であったわけです。

やっとのことで次の小さな峠である
「小峠」に着きました。



ここにはベンチもあるのですが
苔むしており、座ったらお尻が緑色になりそうです。

道標地蔵をチェックしただけでスルーしました。



なおも石畳道が続き、傾斜が落ち着いてきた
熊野古道公園の最上部のところで
ようやく普通の道になります。



ふ~、やっと普通に歩けます。

続く。


熊野古道 雨のち晴れの峠越え 2

2014年11月26日 21時26分08秒 | ウォーキング

今回のコースは、
熊野古道紀伊路屈指の難所である
鹿ヶ瀬峠を越えるコースです。

今は道も整備され、さほどでもないのですが、
昔は崖っぷちをよじ登るようなところだったそうです。
そんなコースだというのに、
生憎雨は降り続いています。

今回、雨中歩行でもうひとつ試したのが、これ。



ザックカバーです。

あの桜井の雨中歩行の後で出かけたアウトレットで
たまたま見かけたので購入し、
試してみることができました。

結果は背中の荷物を
あまり意識せずに歩けたという点では上々でしたが、
荷物の出し入れが面倒でした。

まあ、それは仕方がないでしょう。

ナビをセットし、さあスタートです。

時刻は8時10分でした。

こんな狭い道を進んでいくと、



河瀬地区の公民館前に出ます。



トイレもあってありがたいですねえ。



そこに、汗かき地蔵の案内がありました。



行ってみますと・・・

残念ながら地蔵堂はしっかりと閉じられていました。



この汗かき地蔵、
なんでもこの先の鹿ヶ瀬峠を
汗をかきかき辛そうに登っていたら、
背中を押しに来てくれるらしいのですが、
今日は無理のようですね。

この日の気温はとても低く、
新調した発汗に強い長袖シャツの上に
合羽を着ていても、
汗はほとんど出ないほどでした。
歩くのには絶好といえるでしょう。

あ、これが地蔵の後押しなのかな?

このあたりもまだ、
井関に続いて河瀬の旅籠跡です。



屋号から、馬や駕籠などの
交通機関の手配もしていたのでしょう。

このあたりで一旦雨が小降りになってきました。



地蔵の後押しに違いありません。
頭上にうっそうと樹が生い茂っているところの、
地面はあまり濡れていません。
きっと昔は小さな雨なら大木の下は、
雨宿りの休憩に最適だった様子が
連想されました。

ここが「馬留王子跡」です。



案内板にはそう書かれていますが、
峠の向こうにも同じ名前の王子跡があるので、
資料には「東の馬留王子」と記されています。

往路では鹿ヶ瀬峠があまりに急なため、
ここが馬を降りた場所だった
ということからきているようです。

おお、ここにも徳本上人の名号碑がありました。



「右くまの」と刻まれた道標にもなっています。

さて、ぼちぼち峠道の登りが始まるとみえ、



近年新しく建てられた案内看板には、
「鹿ヶ瀬峠まで2340m」と、
親切な案内板がおかれてあります。



さあ、頑張って登りはじめましょう。



ほどなく「立場跡」の看板が出てきます。



立場といっても、嫁と姑に挟まれて
難しい位置にある・・・というような
「たちば」じゃないですよ。
「駕籠はここまで」という“たてば”の跡です。

まだ、なだらかな傾斜なんですが、
「馬留」といい「立場」といい、
徐々に急傾斜に向かっていくという気分が高まってきますねえ。

その言葉通りに、急傾斜が始まりました。



これはちょっとわかりにくい看板でした。



またもやこのあたりで
雨が降ってきたので
道が滑りやすい状態になっています。

気を付けて一歩ずつしっかり
着実に登って行きましょう。

どんどん登って行き、
ふと後ろを振り返ると、
先ほどの河瀬地区が
あんなに小さく雨にけぶっておりました。



お、もう半分くらい登ってきたようです。



このあたりも御多分に漏れず
イノシシ被害が多いようです。
いたるところに電気柵もあったし、
手動で開け閉めする扉も設置されておりました。



ヌタ場の跡があまり見られないのは、
きっと果樹園や畑の野菜の作物が
豊富だからでしょうか。

この案内は、右も左も山火事注意と
いう意味なんでしょうかね。



そうそう、この今登っている峠は
「鹿ヶ瀬峠」と書いてきましたが、
読み方は「しかがせ」ではなく
「ししがせ」ですので、念のため書いておきます。

「瀬」も昔は「背」だったようで、
けものの「背」のようになっていたのかなあと想像されます。

やがて、この峠の特徴の一つである
石畳道が始まりました。



これがでこぼこして歩きにくいだけでなく、
雨に濡れて滑りやすくなっており、
このあと思わぬ苦戦を強いられることになるのです。

続く


熊野古道 雨のち晴れの峠越え 1

2014年11月25日 21時15分35秒 | ウォーキング

湯浅から紀伊内原までは
2つの区間に割って歩きました。

前回は、約7キロを歩いた時点で
バスに乗って引き返しましたので、
今回は引き返した地点までバスで行き、
そこからの歩行となります。

ただ、そのバスというのが曲者で、
湯浅駅からの始発が7時50分。
そのあとは12時05分まで一便もないため、
どうしても始発に乗らないと
目的を達成できません。

そのため、早朝6時前に家を出るという、
これまでのdoiron歩行で
最も早いスタートとなりました。

ガソリンの給油とコンビニでの
昼ごはんの調達時間を見越しての出発です。

この日の天気予報は「晴れ時々曇」でした。

しかし、出発時には小雨がぱらついていました。
天気予報を信じて
「まあ、そのうちあがるだろう」と気楽に考え車を走らせました。

近頃はスタート地点に行くまで
かなりの距離を移動しなくてはりません。

その距離を運転しながら、
よく歩いたなあと実感します。

130キロくらいはもう歩いたでしょうか。

マラソンやトライアスロンをしていた頃には、
ランニングで月間400キロ、最長で600キロ、
バイクもいれれば月に軽く1000キロは
超えていたことから考えれば、
短い距離かもしれませんが、
移動時の密度が違います。

あの頃は、脚と内臓を駆使して移動していましたが、
今はどちらかといえば、
たよりない脚と少ない脳みそを酷使して
歩いているようなものです。

でも病に倒れた頃には、
想像もつかない今の元気な自分に驚くとともに
楽しいことを見つけたという
喜びに日々満たされています。

思えば、昔から熊野詣といえば
「再生信仰」に基づくものでした。

小栗判官の物語も生まれるべくして生まれました。
熊野比丘尼たちもそんな話で
人々を熊野へ導いていたことだろうと思います。

doironも最初はそんなつもりは全くなく、
近くに街道があるから健康のために歩いてみよう
というくらいの軽い気持ちで歩き始めたのですが、
歩くにつれそして様々なものに触れ、
人に触れているうちに、元気になってきて

「ああこれが再生信仰のなせる御利益なのか」

と思い始めました。

そうです、知らず知らずのうちに
熊野に導かれていたのかもしれません。

この先どんな出会いがあるのか、
そして果たして熊野にたどり着けるのか
それはわかりませんが、
今を精一杯楽しんでみるか、
という気にはなっているのはおわかりいただけると思います。

これもみな理解してくれているミセスと
時折一緒に歩いてくれる友達のおかげやなあ
と感謝せずにはいられません。

とまあ、そんなことを高速道路から
これまで通ってきた道をちらちら眺めながら考えつつ、
車は湯浅の駅へと到着しました。



駐車場に車をいれたのが7時20分。
バスの時刻まで30分あります。

駅の待合室にたたずんでいますと、
高校生たちの通学時間らしく、
到着した電車から続々と生徒たちが降りてきます。

田舎の高校は朝が早いんやね。

きっと今日の歩行が終わる頃、
彼、彼女らは帰宅の電車に乗るのでしょう。
この子らが学校で一日勉強するよりも、
たくさんのことを学んでやる
と気合を入れながらバスを待ちました。

その日、乗ったのはこのバス。



前回のバスと同じ、緑のバスです。
出発を待っている間も雨は降り続いていましたが、
乗ってしまえば雨でも歩かざるをえないなと腹をくくりました。

時間待ちの間運転手さんと話をすると、
前回乗ったところより向こうは
フリー乗車区間になっているとのことなので、
河瀬橋で降ろしてもらえるようにお願いしておきました。

結局降りるまで、客は他にはおらず、
無事に前回引き返した河瀬王子のそばで
バスを降りることができたのですが、



その時も雨は依然として降っていました。

合羽に着替えて、とりあえず行けるところまで行ってみましょう。

続く。


義母さんの誕生日に

2014年11月24日 21時04分27秒 | 生活

義父さんが亡くなって、はや5カ月。

納骨も散骨も済ませて、
ようやくひと段落しました。

しかし長年連れ添っていた義母さんの気持ちは、
まだ落ち着いていないようでした。

生前は色々と悶着はありましたが、
それらすべて含めて
日々連れ添っていたから無理もありません。

最近は、寂しそうにしている姿を
垣間見ることもたまにありました。

先日、そんな義母さんが
86歳の誕生日を迎えました。

米寿や卒寿といった節目の年ではありませんが、
ひとつここは盛大にお祝いしてあげて
楽しませてあげ、元気になってもらおうと、
超豪華誕生日会を催すことにしたのです。

実は先月からこの計画は進んでおりました。
祭りの打ち上げで行ったお寿司屋さんに、
超豪華料理を発注しておきました。

おしながきは、フグのうす造り、つまり「てっさ」。
そして伊勢海老の刺身。
さらに上にぎりです。

聞けば今、伊勢海老は大変高価らしいので、
3尾頼もうと思っていたところ、
大きいのを1尾さばいていただくだけにしました。

それでも合計ン万円の料理です。

一体、どれだけ記事を書かねばならんねん
という額でしたが、まあ、ここはひとつ大奮発です。

誕生日当日は義母さんが住んでいる
小さな家でパーティーを行いました。

先ずは伊勢海老のプレゼントの贈呈式です。



目を丸くして驚き、大変喜んでくれました。

造った時はまだ動いていたのに、
もう動きはおさまっていたのが残念でしたが・・・

そして、じゃ~ん!これが料理の全貌です。



てっさは大鉢に入れてもらえばよかったかなあ。
その上で、お箸でザ~っととってもらうようなね。

お酒は、ビールと先日ジム友にいただいたこの濁り酒。



さすがにヒレ酒は用意できませんでした。

初めてお会いした時、
義母さんは54歳でした。
そう今のdoironより若かったんですねえ。
月日の流れはすごいものです。

そんな話やひ孫たちの話をしながら
楽しいひと時を過ごしました。

来年もまた豪華にするよと約束して
めでたくおひらき。

義母さん長生きしてや。


熊野古道 番外編 湯浅

2014年11月23日 22時29分47秒 | ウォーキング

河瀬王子からバスに乗って湯浅まで戻りました。

車を置かせてもらっている駅前多目的広場に行き、



熊野古道を歩いてきたこと、
さらに湯浅の街をこれから歩くことを告げ、
車で背中の荷物を整理して
必要なものだけ持って再び歩きはじめました。

湯浅は文化財保護法に基づく

「重要伝統的建造物群保全地区」
(略して「重伝建築」という)

に指定されています。
全国で108地区、
大阪府では富田林のみで
和歌山県もここ湯浅のみとなっています。

先ずは、前回見た立石の道標を目指します。

途中、かなり老朽化した湯浅町役場の前には、



町木である「なぎ」が植えられています。



このことから、湯浅の施設には
「なぎの里」という言葉が冠されていたりします。

湯浅にはよく来るのに、
この時までずっと「なぎさ(渚)の里」と勘違いしておりました。

重伝建地区だけあって古い建物が並ぶ中、



熊野古道を少し戻っていくと・・・

おなじみ立石の道標です。



裏面には「右いせかうやみち」と書かれてありますので、
今朝柳瀬で見た道標に刻まれていた
弘法大師道も高野山への道案内かもしれません。

このあたりから重伝建の中心地区に入っていきます。



湯浅は「醤油発祥の地」です。
金山寺味噌の生産過程で産生した
溜から作られました。

doironも醤油は大好きです。
先日友達が醤油工場の見学に行ったお土産に、
そこでだけ手に入るという
天皇陛下もご愛用されているという醤油を
いただいたのですが、
これぞ「ザ・醤油」。



混じりけのないすっきりした味わいの中に
醤油のうまみがギュッと詰まっていました。

醤油がなければ、こんなにイカ好きにも
なっていなかったかもしれません。

それはさておき、この街も
全体が醤油に浸かったような色合いで統一されています。

店先の水道ホースまで茶色でした。

これが有名な醤油屋さん。



別のところでは手軽に出入りできる
醸造所の展示もありました。



そういった街づくりにやはり地元の人も大変熱心で、
「まちなみ交流館」といった拠点を作って、



高齢者たちが観光客にお茶をふるまう
などの「お・も・て・な・し」をしていました。

そんな施設への
街の人たちの客引きがとても熱心でした。

その交流館の前には「甚風呂」という、
昔の風呂屋の施設が無料開放されていました。

これが男湯。



浴槽を抜けると、祭りの備品や
昔の生活用品の展示が見られます。

おお~、これはまるで「赤いふなっしー」です。



懐かしい殺虫剤の噴霧器や



番頭さんがさっきまで座っていたような
帳簿台も展示されていました。



街の中にはいたるところに、
ガラス張りの窓にしつらえられた
小さな博物展が見られます。
これは薬の調合用道具、



これは鍛冶屋の作品。



おお~、鍾馗さんも初めて目の当たりにしました。



そうしてぐるっとひとめぐりして
そろそろ帰ろうと車に向かっている時に、
お寺の前にさしかかりました。

「深專寺」です。

この寺の前にあったのが、
「大地震津なみ心え之記碑」です。



1854年に起こった大津波のことが
迫力を持って書かれ、
最後に地震・津波の時の
逃げ道を刻んであります。

和歌山県の指定文化財です。

今朝見た道標といい
さすがに海辺の町だけのことはありますね。

こうして古道歩きの後、
湯浅の町歩きも楽しんだ今回の旅も終わりです。

次回は、帰りのバスに乗った地点まで、
またバスで行き、そこから歩行です。

ただバスの時刻が湯浅駅午前7時50分発とのこと、
そのあとは昼頃までありません。

さてどうなりますことやら。

最後に湯浅城を中心に
タイやヒラメが舞い踊り、
みかんがたわわに実るさまを描いた
マンふたを紹介して、



番外編も終わり。


熊野古道 湯浅のおもてなし 3

2014年11月22日 21時09分36秒 | ウォーキング

新柳瀬橋の釣り人に別れを告げ、
42号線に再び合流し、
またすぐに旧道に入っていきます。



用水路沿いの味わい深い道でした。





近世以降の熊野街道は
その道が広川に突き当たったところで
広川を渡っていたそうです。



そして渡ってすぐのところに
「井関王子」があったらしいのですが、
残念ながら今は跡形もないそうです。

中世の熊野街道はもう少し東側を通っていたそうで、
そこには「津兼王子」がありました。

その津兼王子が今はなんと
阪和道(湯浅御坊道路)の
インターチェンジ内の道路と道路の間に
残っているというので行ってみました。



高速道路への誘導路の歩道や



側道をトンネルをくぐりながら



くねくねと複雑に歩き



ようやくたどり着いたのがここ。



「広川出入口」のゲート横の広場です。

その広場の横に、
ひっそりと建っているのが
「津兼王子跡」の碑です。



高速道路の道路と道路の間に立っている王子は
ここだけだそうです。

広場にはあの熊野ブルーの看板も
建てられてありました。



インターチェンジを出てすぐのところに
駐車場とともにトイレも整備されているその施設は、
いわば現代の車社会の王子
と言えなくもないですね。



その王子を出てまた道路下のトンネルをくぐるのですが、



これがとても小さく
高さが180cmほどしかありません
doironも思わずかがんで歩きました。



トンネルを抜けるとすぐに42号に出ます。



しばらくその歩道を歩き、



井関の交差点からまた静かな旧道に入っていきます。

井関というこのあたりは、
熊野詣の宿場町でした。



今は単なる静かな田舎の町ですが、
昔はずいぶんと賑わったそうです。



ここに宿を取り、翌日に越える
紀伊路の難所のひとつである
「鹿ヶ瀬峠」に備えて
英気を養い、情報を仕入れながら
いろいろと算段をしたのでしょう。

道路沿いの擁壁には
当時の賑わいを描いた絵もかかっていましたし、



ところどころの家の壁には
当時の旅籠名が書かれた
プレートも貼り付けられています。







こ、これは地図にない王子跡か?



よく見ると犬小屋でした。

おお、熊野ブルーの郵便受けです。



写真を撮ってたら家の人が出てきて
笑っておりました。

このあたりでぼつぼつ引き返そうかと、
そこにあったバス停で
次のバスの時刻を確認すると、



この先の河瀬王子に行って帰ってくるのに
十分な時間がありましたので、
歩行続行です。

村のはずれにこんなスポットがありました。



伏見稲荷大社の分祠です。

この中には、合祀された王子の石碑や
跡の消滅した王子社の石碑も建てられています。



村を出て河瀬橋を渡るとそこにあったのが、



1837年の飢饉により餓死した人達の供養塔です。



ここまでに見たあの
「石仏48」の親玉のようなものです。

この供養塔は道標も兼ねており、
「右く満の道(熊野道)」
と刻まれている通り、
右に行くとすぐに
本日三つ目の王子

「河瀬(ごのせ)王子跡」



がありました。

ここはスタンプポイントです。
あの紀州材でつくられたスタンプ台で
ハンコを押していると、
一人の男性が近づいてきて

「まだスタンプ帳あるかよ」

と聞いてきたので

「もうあれへんなあ」と答えたあと、
どこから来たとか、
どんなふうに歩いているのかと
聞かれるままにしばし話をし、

「ちょっと待っときや」といって
しばらくするとまた先ほどの男性が
「にいちゃんこれ小さいけど甘いで」
といいつつ、みかんを持ってきてくれました。



おお~これはまたまたうれしい
四国遍路のような「お・も・て・な・し」です。

さすがはミカンの里、
ありがたいですねえ。

その人とお別れしてから、
そこで昼食タイムです。

今日はこれ。



手造りおにぎりとカップワンタンです。

毎度ほぼワンパターンですが、
このごちそうはたまりませんな。

昼食後にいただいたみかんをパクッ。
めちゃめちゃ甘いみかんでした。

ふと横を見ると石に何か書かれてあります。



「右はきみの 大水には左」
と刻まれてあります。
道標と共に洪水、津波の際の
逃げ道が刻まれてあるんだそうです。

そうしているうちに時間が来たので、
先ほどのバス停まで戻り、
やってきたバスで



湯浅まで引き返して今回の歩行は終了です。

ほぼ7キロくらい二時間半の旅でした。

このあと湯浅の街を歩きましたので、
番外編でもう少し続きます。


熊野古道 湯浅のおもてなし 2

2014年11月21日 21時40分05秒 | ウォーキング

熊野詣でを28回も行った後鳥羽上皇が、
鎌倉幕府に対し討幕の兵を挙げ、
破れたのが1221年。

いわゆる「承久の乱」です。

破れた後鳥羽上皇は
隠岐の島に配流されたと歴史は伝えています。
それ以後、各地にあった王子は
荒廃の一途をたどり、
この久米崎王子も例外ではなく
鎌倉幕府が再興を指示したのですが
それもかなわず、江戸時代まで荒廃していた王子のひとつでした。

説明書きによりますと
いっときは跡形もなくなっていたそうですが、
紀州藩に再興され、
結局今は跡地だけが残っている
というのがこの場所だと書かれてありました。

しかし、はたとここで考えてしまいました。

上皇たちが熊野御幸を行わなくなっても、
権力の外にいた庶民の熊野詣は続いていたはずです。
でなければ、熊野そのものも
荒廃したはずですからね。

ということは庶民にとって、
この「王子社」はあまり重要ではなかった
といえるということなんですね。

そんな王子ですが、
今は歴史の証人として、
立派な石碑も建てられてあります。





道を少し戻って42号線を少し歩くと、
「新広橋」に出て左折し、

ここからしばらく川沿いに歩いていくことになります。



おお~ここにも石仏48があります。



いやいややはりここは「モーニング石仏」というべきか。
横には三界万霊と刻まれた石も立っているので
無縁仏の石たちなんでしょう。
とにかく熊野古道を旅ゆく人に
供養をしてもらおうということで、
古道沿いに置かれているんでしょう。
罰が当たらないように
合掌して通りましょう。

この分岐では旧道に入っていきます。
果樹園の間を通るのどかな道です。

これは、多分「ゆず」の仲間でしょう。





傷がつくと保管時に腐れやすいので、
一つひとつ布がかぶせられています。

名島橋は渡らずにさらに川沿いを進んでいきます。





川沿いとはいえ、
山の地形に合わせて道は登ったり、
下ったりを繰り返します。



これはなかなかいい景色です。



あまり展望スポットのない今回の区間ですから、
今回はこれをベストシーンに認定しておきましょう。

山の稜線にずらっと風力発電のある
この景色も捨てがいたのですが、
これは前回ずっと眺めていた景色です。

と、ここで道標発見。



「左不動弘法大師道」と刻まれていますが、
左にそんな不動さんはありません。

もしかして、高野山への参詣道?
それはわざわざ山越えで無理がありますねえ。
よくわかりませんでした。

頬にあたる風にはもう
あのまとわりつくような
夏の暑さはまったくありません。

それどころか広川に沿って流れる風の中には
冬の気配さえ感じるような気候になっています。

道端に咲く花々や、
山々の景色が移り変わるさまを
今年はまざまざと見てきました。

その先の新柳瀬橋にさしかかると、



ここに釣り人が竿を出していました。



「何が釣れるんですか?」
と聞くと「鮎やな」と答えてくれました。

クーラーボックスを覗かせてもらうと、



おお~立派な飴色の鮎です。
まだピチピチとはねていました。

このままここで塩焼きをしたいほどです。



「落ち鮎なんで色は悪いけどなあ」
と説明してくれました。
見ると、鮎はたいてい友鮎釣りが多いのですが、
この人の竿の先に何もついてません。

「ひっかけ釣り」やで~

と言ってました。
「欲しいだけ持っていき」といわれたら
即座にここで歩行をやめて
もらって帰るところでしたが、
さすがにそんな
「お・も・て・な・し」のお言葉はいただけませんでした。

で、歩き始めてふと思ったのですが、
入漁権はどうなっているのでしょうか。
これをネタに口止め料代わりに、アユを・・・
ま、ここは深く追及しないでおきましょう。

さあ、次のかなり珍しいところにあるという
津兼王子を目指しましょう。

続く。