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いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 香り高き区間 3

2014年10月31日 21時44分29秒 | ウォーキング

「くまの古道歴史民俗資料館」には、



熊野御幸を現代風に解釈したパネルが展示されていました。

例えば、京都を出発した御幸の一行が
何日にどこを通過し、
どこに泊まったのかというのが
日にちを追って絵で展示されていたり、



同行した藤原定家が何時に起きて何時に出発し、
何時に到着して何時に寝たのかといった
ある一日のスケジュールなども
展示になっていました。



一日に約50キロを進む御幸が京都を出て、
京都に帰るまで約1か月を要したそうです。

それでも、集団での移動であったことや
当時の交通手段を考えれば
ずいぶん早いスピードで移動していたのですね。
先触れの人や荷物係、馬や籠の手配
渡しの手配や宿の手配をする人など
おつきの人々の苦労がしのばれます。

書籍コーナーには興味深い資料もあったのですが、
欲しいなと思う本は展示のみで販売されていないようでした。

このあと訪れる予定の「糸我峠」の茶屋の展示前で、
doironも一服。
写真を撮っていただきました。



え~、服装は全く違いますが、
髪型はよく似ているでしょ。

資料館を出て、しばらく行くと
あの中将姫も居たということで、
先ほどの得生寺の山号にもなっている
雲雀(ひばり)山への登山道入り口があります。



ところで、お寺の名前には
比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺のように、
寺号の上に山号がついてますよねえ。

調べてみますと、専門用語が多すぎて
詳しくはわかりませんが、
どうも中国の影響も看過できないそうです。

ただ日本には日本独特の宗教観、
例えば死者は裏山を登って行く
などの庶民の宗教観がその上に強くあるので、
山号は仏教の日本的展開の中で生まれ、
普及していったといわれています。

ちなみに、飛鳥時代などに創建された
法隆寺や唐招提寺には山号はないそうです。

熊野古道は好奇心を持って歩くと
いろんな勉強になるもんですな。
熊野に着くころには上人と呼ばれているかもしれません。

それにしても雲雀(ひばり)山とは
のどかな山号ですね。
中将姫の人柄がうかがえるようです。

その先にあったのが、
これまで何度も登場した徳本上人の名号碑です。



熊野古道のみならず、
紀州街道や大和三山の麓のお寺にも立っていました。

名号碑の横には道標も立っており、



「左 くまの」と刻まれています。

別の面には「中将姫寺へ三丁」ともあります。



糸我の地域にはこのような道標が多く残っています。
広々とした有田川から山の中に入っていく道だから、
旅人も道が心配になったので頻繁にたてたのでしょうか。

道標に沿って左の道をゆきますと、
道にみかんがよく転がっています。



さすがにみかんの産地ですね。
道理で吹く風にもそこはかとなく
みかんの香りが漂うはずです。

お、ここまでくると標高は20mを越えます。



津波に注意ではなく河川の氾濫に注意とあります。
いくらなんでもここまで有田川が
氾濫することは考えにくいのですがね。

みかん畑の間の道を進んでいくと、
糸我王子の看板がありました。



民家の壁にも案内が貼り付けられています。



ここがその「糸我王子社」。



例の熊野ブルーの案内も八咫烏を刻んだ石も
他の王子同様に健在です。



道はその先で山麓らしく二股分岐が続きますが、
木で作られた熊野古道の看板が親切に立っています。



とくにこの分岐には、
その看板と共に、
「糸我の道標」と呼ばれる道標石も立っています。



またその向かいには糸我王子社跡の石碑もあります。



先の糸我王子社と微妙に位置が異なりますが、
どちらが正しいのか、
あるいはこのあたり一帯を指すのか
その辺はよくわかりません。

さあ、ここからしばらくは、
急なコンクリートの登り道が続きます。



どんどん高度を稼いでいくので、



振り返るたびに糸我の町が小さくなっていきます。



そして例のシンプルすぎる案内に沿って



山道に入っていくと、



途中にこんなあずまやがあったりし、



糸我峠はもうすぐです。

続く