かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

ヒトが死ぬ、ということは色々な意味で大変なことですね。

2011-07-27 21:53:48 | Weblog
 芦田豊雄氏の訃報に接し、私の知る範囲で、最も氏に間近く、長年の戦友とでもいうべき立場におられた御大に弔慰のメールを差し上げたところ、丁重なお礼と、かつての芦田氏との交流、そしていまの心境を綴られたお返事を賜りました。その全てを開陳するわけには行きませんが、御大の今の思いが凝縮された一言のみ、転載しようと思います。
それは、「悔しい!」です。

 単なる言葉の示す意味のみならず、はるかに膨大な感情がこれでもかと詰め込まれた一言に、私も色々と考えさせられるものがありました。
 普段はまるで意識しませんが、確かに『死』は、間近に常に存在しています。人間ドックの結果が返ってきて、数字、所見とも大過ない事が明らかになってほっとはいたしましたが、だからと言って明日もちゃんと生きていられることが保証されたわけではありません。先日も、動画投稿サイトで人気の歌い手さんが、ツイッターに頭痛がしていることを訴えた数時間後に脳の出血で亡くなる、という衝撃的な話が出ていましたが、そのように、病気でも突然襲ってくることがありますし、人間ドックで見逃されたり、そもそも検査してなかったりしたところで、「何か」が起こるかも知れません。ましてや日々車で通勤しているんですから、何かの拍子に自分が事故を起こしたり、はたまた事故に巻き込まれたりして儚くなってしまうことはそれなりの確率であり得る話です。件の歌い手さんは友人が訃報をネット上に流すことでその死を皆が知り得たわけですが、仮に自分がある日突然亡くなったとしたら果たしてどうなるのでしょう。職場や親族、恩師や学生時代からの友人達には、程なくその訃報は伝わっていくでしょうし、滞りなく後の始末も付けてくれるはずです。でも、ネット上のお付き合いなどについては果たしてどうなるでしょうか? 私のハンドルネームしか知らないような方もいらっしゃるでしょうが、うちの家人でその付き合いを知る者はいませんし、そもそもネットでメールひとつまともに出すこともできませんから、仮に私のバーチャルな交流関係を知っていたとしても、まるで連絡の取りようがないわけです。更に、今やリアルな関係と同等に、あるいは場合によってはソレ以上に利用しているとも言える、ネット上における有料サービスの整理(例えばこのブログがまさにそうですね)とか、プロバイダ契約などのネット環境そのものの整理が、残された家人達に果たして可能なのかどうか、現状では非常に暗い見通ししか立たないことに改めて思い至り、少し愕然としてしまいました。
 個人的には死んでしまったらソレで終わりと考えており、死ねば恥も外聞も関係なし、本棚の奥とかパソコンの中身などは一切気にしない、と思っておりましたので、結構楽観的に考えていたのですが、よくよく思いをいたせば整えておくべきことはちゃんと用意しておいてやらないと、恥以上に残された者たちに大きな迷惑をかけてしまいます。これはちゃんと時間を作って、私の死後のネット対応マニュアルでも作ってきっちり印刷して遺言として残しておいてあげないと、と反省した次第でした。でもこれは大変な作業になりそうです。なにせ生きている今この時点でも、全貌が思い出せるかどうか結構怪しげだったりしますし、それぞれについて連絡先とか対処方法とか違うはずですので、それらをいちいち整理して、わかりやすくまとめておく必要があるのです。
 芦田氏は、会社をきっちり後継者に託して逝かれたそうです。JAniCAのこととか未練もおありだったかもしれませんが、人生の出処進退は整然とされたものだったのでしょう。願わくば自分もその例に習い、いつか必ず来る日に備えられるように心がけたい、と思いました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする