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かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

6.異変 その1

2007-10-27 21:57:00 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 目覚めた途端、麗夢は大急ぎで起きあがって傍らで眠る鬼童の元に駆け寄った。アルファ、ベータも飛び上がって麗夢の後を追う。確かに今、鬼童の命は失われたかも知れない。だが、まだ死んでから時間はほとんど経過していない。適切な蘇生処置を施せば、息を吹き返すかも知れないのだ。麗夢はじっと横たわる広い胸板に耳を付けた。
 どくん。どくん。どくん。
 たちまち麗夢の耳が、力強い心臓の鼓動で満たされた。まだ死んでない! 麗夢の頬にたちまち赤みが差した。これなら助けられるかも知れない! 麗夢はすがりつくように鬼童の寝顔を見下ろすと、必死の思いで呼びかけた。
「鬼童さん起きて! お願い、目を醒まして!」
 心配げに見守るアルファとベータの目に、鬼童の瞼が微妙に揺れるのが見えた。目覚めかけている、と直感した麗夢は、更に声を張り上げて鬼童に呼びかけた。
「鬼童さん! 鬼童さんしっかり! 鬼童さん!」
「・・・うーん・・・」
 鬼童の瞼が開いた。焦点の定まらない視線が、ぱちぱちと瞬きを繰り返す内にはっきりと対象物を捉え、主人の脳に活を入れた。
「れ、麗夢さん?」
 あまりに近い麗夢の顔に驚く間もなく、鬼童の顔が豊かな香りよい碧の黒髪に覆われた。
「良かった! 鬼童さん生きてたのね!」
 鬼童は、突然意中の人に抱きしめられ、顔を真っ赤にしてただ驚くばかりだった。
「れ、麗夢さん、どうしたんです! お、落ち着いて麗夢さん!」
「だって、本当に良かった!」
 鬼童は、とうとう泣き出した麗夢になす術なく抱きしめられているよりなかった。
 十五分後。
 ようやく落ち着いた麗夢をテーブルにつかせ、鬼童はマグカップと浅い皿にそれぞれ温かいココアを満たして、お客の前に置いた。
「しかし判りませんね。僕は麗夢さんが捜索のために僕の夢から離れた後、ずっと夢の実験室で帰りを待っていたんですけど、結局麗夢さん達が帰ってくる前に叩き起こされたことしか覚えてないんですよ。死夢羅の姿なんて全く記憶にない。一体何があったんです? 麗夢さん」
 鬼童は、初めからそうと知っていれば目覚めの時のやり方も別にあったのに、と内心密かに後悔しつつ麗夢に言った。麗夢はココアに口を付けると、まだ泣きはらした赤い目のまま、難しい顔をして鬼童に言った。
「私にもさっぱり判らないわ。確かに鬼童さんが死夢羅に捕まって、その首を切り落とされたのを見たのよ。でも鬼童さんはこの通りぴんぴんしているし、死夢羅が来た事を示すような瘴気の残滓も全くない。一体どうなっているのかしら?」
「とにかく記録を調べてみましょうデータに痕跡が残っているかも知れませんから」
 自分のココアを飲み干した鬼童は、早速処理にかかろうと背後の端末に振り向こうとして、ふと立ち止まった。
「麗夢さん、手、どうしたんですか?」
「え?」
「ほら、右手の甲に赤い斑点が・・・」
 鬼童の言うままに手の甲を見た麗夢は、染み一つない白い肌の中央に、赤い発疹がぽつりと盛り上がっているのに気がついた。まるで蚊に刺されたような跡だ。だが、蚊の飛び回る季節ではないし、第一、鬼童の研究室はその性質上気密性が高く、虫の侵入など到底考えられない。
「いつ刺されたのかしら?」
「最近は異常気象のせいか、蚊もいつでも飛び回っていたりしますからね。まあこれなら跡も残らないでしょうが、一応診ておきましょうか?」
 鬼童は、ここぞとばかりに麗夢の紅葉のような手を取った。が、その至福を味わう前に、鬼童はその赤い発疹の中央に、きらりと光る何かを見た。
「ん? まだ何か残っているぞ? ちょっと待っててくださいね」
 良く判らないまま、ええ、と答えた麗夢を置いて、鬼童は奥の実験台をごそごそとかき回し、やがてライトと拡大スコープを備えたヘッドセットを装着して、小さなピンセットとガラスシャーレを手に、麗夢のところへと戻ってきた。
「ちょっとじっとしていて下さいよ・・・」
 鬼童は麗夢の手の平をテーブル面に密着させて固定すると、おもむろにライトをつけ、さっきの光の元にピンセットを伸ばした。慎重にその先を摘み、まっすぐに引き抜きガラスシャーレに移す。さながら精密機械張りの正確さで一連の作業を終えた鬼童は、その正体を麗夢に告げた。
「これは、針ですね。極細の、小さな奴ですが」
 鬼童の掲げたガラスシャーレを麗夢も覗き込んだが、どれが針なのかさっぱり判らなかった。肉眼で捉えるのはかなり難しい細かさである。麗夢は、良くこんなものが見えたな、と感心しながら、シャーレから目を放した。
「でも、そんなものいつ刺さったのかしら?」
「判りませんけど・・・、まあちょっと暇を見て調べてみましょう」
 鬼童はもう一度道具類とガラスシャーレを実験台に戻すと、接客用のテーブルに戻って言った。
「で、今夜ですけど・・・」
 どうします? と期待も露わに言いかけた鬼童の言葉を遮って、麗夢は言った。
「ごめんなさい鬼童さん。私何だか疲れちゃった。今日は帰ってすぐに休むわ」
「え? あ、ああ、そうですね。結局手がかりも掴めなかったですし、食事はまたの機会と言うことで」
 当てが外れた鬼童だったが、考えてみればさっき目覚めるときに充分すぎる程今日の「成果」は手にしていることを思い出し、満面の笑みを湛えて麗夢を出口へと誘った。
「本当にごめんなさいね。それと、今日は協力してくれてありがとう」
「何の、麗夢さんの頼みでしたら、いつでも大歓迎ですよ」
 玄関口ですまなそうに頭を下げる麗夢に、朗らかな笑みでさよならを言った鬼童は、ドアを閉めるなり早速さっきの光景が実験記録映像にちゃんと残っているか確かめようと、奥の実験室に戻っていった。
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5.ドリームジェノミクス社 その4

2007-10-26 21:39:02 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 美奈は驚きつつも、心のどこかでああやっぱり、と言う安堵と似た気分を味わった。この男から感じる一種の威圧感は、自分と同じ力、それも恐らく遙かに強い力、その強さを無意識に感じ取っていたからなのだろう。
「その通りだ。私は君と非常によく似た力を持っている。他人の夢に入り、人々の安らぎを乱す夢魔を倒すことができる唯一の力。ドリームガーディアンと呼ばれる太古の血を継ぐ能力者の一人が私だ。君も一人、そんな人を知っているはずだ」
 麗夢さんのことだわ! 美奈は瞬時に相手の言わんとするもう一人の人物を思い起こすことが出来た。つまりこの人は、麗夢さんのことも知っていると言うことになる。
「面識はない。だが、同じ能力者として注目はしていた。まあいずれ会うことになるだろうが、今はまだその時ではない。まずは、君達三人の能力を開花させるのが先だ」
「三人?」
 美奈が一体誰のことかと問いかけようとしたその時だった。美奈の背後から、快活な女性の挨拶が投げかけられた。
「おっはよー高原博士!」
 驚いた美奈が振り返ると同時に、高原が近づいてきた二人の人物に挨拶を返した。
「おはよう、白川君、ハンス君。紹介しよう、君達の新しい仲間だ」
「へぇ、貴女が美奈ちゃんね。よろしく。私は白川蘭。世間じゃ、夢見小僧って名前の方が良く知られているんだけどね」
 すらりとしたややつり目の顔が、天真爛漫な明るい笑みを浮かべている。その隣に立つ男性は、見事なプラチナブロンドの髪を頂く、長身の美青年だ。
「ヨロシク、美奈サン。ワタシハ、ハンス・ゲオルグ・ヴァンダーリヒトイイマス」
 さりげなく出された真っ白な右手に、思わず美奈も自分の手をさし出した。その手をすっと取って、膝を折ったハンスが軽く指先に口づけをする。仰天のあまり顔を赤くして手を引っ込めた美奈に悪戯っぽく笑いかけながら、蘭がハンスの肩をひじで押した。
「また!、ハンスったら、後で哀魅ちゃんに言いつけちゃうぞぅ」
「オー、ユメミコゾウサン、ソレダケハ勘弁シテ下サイ!」
 ハンスは両手を胸の前で組み合わせて命乞いをするかのように蘭を見上げていった。
 高原は苦笑いしながら美奈に振り返ると、二人を改めて紹介した。
「見ての通りの二人だが、それぞれやはり君や私と近い能力を持っている。彼女は多数の人間の脳に集団幻覚を生じさせる能力に長けている。こちらのハンス君は、以前ある人の夢に入り込み、そこから肉体を復元した経歴の持ち主だ。しかもその祖先はかの有名なドラキュラ伯爵だときている。なかなか興味深い素材とは思わないかね?」
「はあ・・・」
 返答に困った美奈が曖昧に頷くと、ハンスとじゃれ合っていた蘭が、高原に言った。
「で、この美奈ちゃんの能力は何なの? 博士」
「彼女の能力は、物理的距離に左右されない遠隔入夢能力とでも言うべき力だ。恐らく遠く離れた他人の夢と自分の夢を瞬時にバイパスする通路を作り出す事が出来るのだろう」
「ふーん、それはすごいわ。そんな力があったら、私もいちいち現場まで行かなくても泥棒できるのに」
「人ノモノヲトッテハ駄目デスヨ、ユメミサン」
「いちいち固いこと言わないの! それより、実験の準備は進んでいるの、博士?」
「もう少しだ。彼女の協力を得ることで、飛躍的に進展させることが出来るから、今日明日には準備が整うだろう」
「早くしてね! 私、ここの生活そろそろ飽きて来ちゃったから」
「私モ、早ク帰ラナイト哀魅ニ叱ラレマス」
 努力するよ、と笑う高原に、二人は異口同音に念押しして、奥のテーブルに歩いていった。
「あの、実験って、何ですか?」
 おずおずと問いかけてきた美奈を見下ろし、高原は言った。
「君達の能力を飛躍的に高め、あらゆる夢魔に対抗する力を付けるための実験だ。これが成功すれば、夢魔の女王程度の化け物は、文字通り指一本で簡単に倒せるようになるだろう」
 美奈は自分の耳を疑った。あの夢魔の女王は、麗夢が大変な危険を冒した末、やっとの思いで倒すことが出来た強敵だ。それを指一本で倒すなんて、それもこの私が!
「で、でも、どうやってそんなことが出来るんです? 私なんか力もないし、闘うなんてできっこないです」
「夢魔の女王の時は、破邪の剣で一矢報いたじゃないか」
「そ、そんなことまでご存知なんですか・・・?! あ、あの時は夢中で、それに相手も油断してたし・・・」
 たじたじとなって否定しようとする美奈の肩に、高原は力強く手を置いた。
「心配いらない。君には確かにその力がある。君が受け継いできた遺伝子にその力は眠っているんだ。だから安心したまえ」
 私の遺伝子? なおも不安げな美奈に高原は言った。
「君だけじゃない。私や、あの二人、いや、実は人類そのものにもこの力が眠っている。私の研究は、その力を目覚めさせ、誰もが夢魔などと言う汚らわしい化け物に日々の安らぎを奪われたりしないようにするためのものだ。そして、この研究をベースに、我がドリームジェノミクス社が誰でも安心して使えるドリームガーディアン遺伝子、DGgeneの高発現因子を提供する事になるのだよ」
 高原は今にも高笑いを始めそうな昂揚した笑顔を美奈に向けた。美奈は、またもあの威圧されるような不安感を覚え、その目を避けてうつむいた。
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5.ドリームジェノミクス社 その3

2007-10-21 22:22:50 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 結局その日は、よく眠れないままうつらうつらと朝まで過ごすしかなかった。食事を運んでくるときが何か変化のチャンスだ、と思って待ち受けていたのだが、食事はドアに取り付けられた小さな窓から差し入れられただけで、慌てて駆け寄った美奈が何を聞こうとも、一言も相手は言葉を返してはくれなかった。仕方無しに食欲もないまま形だけ料理に手を付け、美奈はベットに潜り込んだ。後残すは夢しかない。もともと今夜は麗夢のところへ久々に遊びに行くつもりだったのだから、麗夢かアルファ、ベータの夢に行けばよい。ところが、その夜は何故かどうしても自分の夢から外に出ることが出来なかった。普段なら、何も意識しなくても望みの夢に飛べるのに、今夜だけはいくら意識を集中して見ても、まるで動く事が出来ない。結局美奈は、そんな実りのない努力の果て、とうとう朝を迎えてしまったのである。
 美奈は、突然鳴った電話のベルに叩き起こされた。慌てて受話器を上げると、昨日高原と名乗った男の声が、耳に届いた。
『私だ。早速だが、クローゼットを開けて中の衣装に着替えてくれ給え。これから一連の検査をさせて貰いたい。それが済んだら朝食にしよう。二〇分後に迎えが行くから、用意してくれ』
 あの! と美奈が言いかけるうちに、電話は一方的に切られた。しょうがなしにクローゼットをあけると、病院で入院患者が着せられるような、ゆったりとした水色のパジャマが、素っ気ない下着と共に置いてあった。美奈はシャワーだけでも浴びようか、と思ったが、迎えに来る、と言う時間まで余裕がない。仕方無しにその半袖膝丈の病院着に着替え、安っぽいビニル製のスリッパを履いて迎えを待った。間もなく、こんこん、とドアがノックされた。美奈は思わずはい! と返事して、がちゃりと開いたドアに振り返った。すると、能面のような顔をしたナース服姿の女性が美奈に言った。
「こちらへ来て下さい」
「は、はい・・・」
 美奈は恐る恐る看護婦の後について部屋を出た。
 看護婦は、美奈を連れたままエレベーターで昨日嶋田と吉住が降りていった三階の一室に美奈を連れていった。そこはまさに、病院の診察室そのものだった。壁際には簡易ベット。その脇に控える点滴用の懸吊装置。壁にはレントゲン写真を見るための透過光パネルが白い光を放ち、他にも良く判らない様々な装置が、LEDの光を点灯させながら出番を待っている。何人かの白衣の男女が忙しそうに行き来しているのを見ても、やはり病院としか見えない。高原自身も、この場所ではまるで医者のように白衣に身を包み、中央のイスに収まっていた。
「おはよう。夕べはよく眠れたかね?」
「・・・はい・・・」
 美奈は小さな声で嘘をつきながら、そっと室内を不安げに見回した。
「そうか。では、まず君の基礎的な身体的データを取らせて貰おう。血液も採取させて貰うよ。まあ、ちょっとした健康診断だと思って、気軽にしてくれ。その後、食事を取って、早速実験に参加して貰う。いいね」
 美奈は堅い表情のまま、こくりと頷いた。
「では始めよう」
 高原は、既にスタンバイしていた検査スタッフに合図し、美奈の身柄を引き渡した。
 検査はおよそ一時間程で終わった。身長、体重、血液採取、心肺機能の検査、大きなドーム状の装置に入れられての検査は、恐らくテレビで見たCTスキャンの類だろう。こうして文字通り健康診断そのものの検査を終えた美奈は、別室で軽い朝食をあてがわれ、高原の現れるのを待った。
 高原は、美奈が大方の食事を終えたところで再び現れた。さっきと変わらぬ白衣姿に、プラスチック製の黒いクリップボードを抱えている。
 高原は美奈の姿を認めると、まっすぐその席まで大股で歩いてきた。
「食事は済んだかね?」
「・・・はい・・・。」
 美奈はさっきまでデザートのフルーツをつついていたフォークを置いて、前の席についた高原を凝視した。そんな美奈の視線に気づいているのかいないのか、少なくとも高原は目の前の少女の心境などお構いなしに、携えてきたクリップボードに目を落とした。
「・・・うむ、事故の後遺症はほぼ完治したようだな・・・。他は至って健康そのもの。申し分のない中学一年生だ・・・」
 所見が書き並べてあるシートをめくりながら、高原が独り言のように呟いた。美奈は、何と答えていいか判らないまま、ただじっと黙って座っていた。すると、クリップボードから目を離した高原が、そんな美奈に視線を移した。覚えず美奈の身体に力が入り、膝の上で握り拳がぎゅっと固まった。
「では、ちょっと教えてくれないか? いつから人の夢に入る能力に目覚めたのかね?」
 美奈は返答を少し躊躇したものの、重ねて問われて重い口を開いた。
「・・・確か、一年前くらいからです」
「一年前、と言うと、事故で入院してしばらくしてからだね。それは、どういうところから始まった?」
「初めはただの空想でした。あたし、動けなくて、外に行きたかったけどどうしようもなくて、それで外に出ている自分を空想していたらいつの間にか・・・」
「初めの夢は、どこの誰の夢だったね?」
「隣の病室の、友達の夢でした」
「そうか、やはりまずは手近な人物から始まったのだな。では、病院の外に出られるようになったのはいつだね?」
「大体半年前です」
「それで、私の夢を覗き込んだ、と言うわけだ」
 美奈はうつむいて、小さくはい、と返事した。目の前の男の態度はけして威圧的ではないし、怒りや恨み、侮りなどの強い負の感情をまとっていると言うわけでもなかった。むしろ美奈に対する姿勢は、壊れ物を扱うように丁寧な態度に終始している。だが、美奈には目に見える姿や耳に聞こえるその優しげな声とは別に、どうも気圧されるものを覚えて、面と向かっているのが息苦しく感じられてならなかった。
「あの、ご、ごめんなさい。私、あの頃は外に出られるのがうれしくて、その、つい・・・」
「別に夢を覗かれたことは気にしていない。少し無謀だったとは思うがね。おかげで君はそのためにかなり恐ろしい体験をした・・・。だが、私は寧ろ喜んでいるんだ。自分と同じ力を持つ者に出会えたんでね」
「自分と同じ力って・・・、まさか!」
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5.ドリームジェノミクス社 その2

2007-10-20 23:56:52 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
「ああ社長、お帰りなさい」
 エレベーターには二人の先客がいた。
 一人は、背丈が美奈くらいしかない初老の男である。頭髪もまばらな血色の良い丸顔に、格子縞のはち切れそうなスーツ姿が、所在なげにちょび髭を右手でいじっている。
 もう一人は、白衣に身を包んだやせぎすの青年であった。
 美奈は、まりのような男からは好奇の視線を投げかけられ、白衣の青年からは、細面の銀縁眼鏡の奥からやや険のある視線で見つめられて、いやが上にも緊張に身を固くした。
 男は、そんな美奈をさりげなく自分の後ろになるよう身体の位置を動かしながら、二人に挨拶を返した。
「ただいま戻りました。嶋田さん、今日はなにかご用ですか?」
 男は慣れた手つきで素早く5階のスイッチを押した。途端にエレベーターのドアが閉まり、美奈は息が詰まるような思いに出来るだけ男の影になるよう身を小さくした。
「なに、吉住博士が面白いものが出来たから是非見てくれ、っていうんでね。貴方と一緒に拝見しようと出向いてきたんですよ」
 嶋田と呼ばれた背の低い男が、絵に描いたような甲高い声を上げた。そのあまりのはまりぶりに、思わず美奈は吹き出しそうになる。
「吉住君、それはこの間君が私に提案してくれた例のものかね?」
 吉住と呼ばれた青年は、神経質そうに眼鏡の位置を直しながら答えた。
「そうですよ。やっと完成しました」
 例のもの? 美奈はわずかに好奇心を刺激されたが、直ぐにうつむいて男の影に隠れた。嶋田の方が、美奈に数倍する好奇心に満ちた目で、美奈を見つめ返してきたからである。
「それでそのお嬢さんは?」
「ああ、彼女は私の研究を手助けしてくれるボランティアですよ」
「ほーう、まだ小さいのになかなか立派な心がけだ。お嬢さん、お名前は?」
 美奈は何故か顔を赤くしてその視線から逃れられないかと考えた。嶋田の顔は柔和で無邪気な老人を思わせる。だがその視線が、何故か自分の内側まで見透かす透視能力を持っているかのように感じたのである。とはいえ、名前を問われて黙っているわけにもいかない。美奈はうつむきながら小さく答えるしかなかった。
「美奈ちゃんか、いい名前だね。私は嶋田輝と言います。一応、このドリームジェノミクス社と吉住博士のナノモレキュラーサイエンティフィックのオーナーと言う事になっているんだ」
 この人が? 美奈は恥ずかしさも忘れて嶋田の顔を見上げた。
「驚いたかね? 美奈ちゃん。そんな金持ちには到底見えないでしょう?」
 まるで年端のいかぬ少女のようにころころと笑う姿には、確かに会社を経営する資産家を想像するのは難しい。その嶋田の笑いが納まらぬ内に、エレベーターが停止し、ドアが開いた。
「では、30分後でいいかね?」 
 吉住と共にエレベーターを降りながら嶋田が言った。
「ええ。出来るだけ早く行きますよ」
「では後ほど。美奈ちゃんも、またね」
 愛想良く手を振る姿が再び閉じたドアの向こうに消え、美奈はようやく息をついた。すると、男が振り返って美奈に言った。
「そう緊張しなくていい。また改めて君に紹介するが、嶋田さんは私の趣旨に賛同して巨額の投資をして下さった恩人だ。もう一人の吉住君は私の優秀な助手でね。ナノモレキュラーサイエンスの専門家なんだ。私の構想を実現に向けて動かせるようになったのも、まさに二人のおかげなんだよ。まあどちらも少し性格に難があるが、夢魔と闘う同志と言うわけだ。さあ、ここで降りよう」
 なのもれきゅらーさいえんす? 美奈はさっぱり判らない単語に面食らいながら、5階で開いた扉から男と共にエレベーターを降りた。そのまま淡い紫の絨毯が敷き詰められた通路を歩き、やがて一つのドアの前に立つと、男はノブを回して内側に開けた。
「研究に協力して貰う間、君にはここで暮らして貰う」
 美奈は、ホテルの一室にしか見えない部屋へと招じ入れられた。壁際にセミダブルのベットが据えられ、クローゼットと一体化したテーブルの端に電話が置いてあった。奥の窓は厚いカーテンで隠されていたが、試しに少し空けてみると、単なる転落避けにしてはしっかりした鉄格子が填っているのが見えた。これでは窓から逃げることは出来ない。他にドアは、ユニットバスとトイレがあるばかりだ。
「今日はこのままゆっくり休んでくれたまえ。すぐに食事を運ばせる。何か欲しいものがあったら、その電話で1を回せばホテルで言うフロントに繋がるからそこに注文してくれ。出来るだけのことはさせて貰うよ」
 ではこれで、と出ていこうとした男に、美奈は慌てて問いかけた。
「私! いつまでここにいればいいんですか?」
 すると男は、半分ドアから身体を出した状態で、美奈に振り返った。
「そう長くはない。せいぜい10日を超えることはないだろう」
「じゃあ、うちに連絡させて下さい」
「今は駄目だ。お母さんの事が心配だろうが、少しの間我慢してくれ。家には取りあえず私から連絡しておく」
 男はそれだけ言い置くと、そのまま残っていた半身をドアの向こうにすっと消した。
「あ、待って! もう一つだけ! おじさんは誰? それにあの夢は一体何なの?」
 すると、一旦閉じかけたドアが再び開き、男の顔が部屋の中を覗き込んだ。
「私の名は高原。高原研一だ。この会社の社長をしているしがない科学者だよ。あの夢のことはまたいずれ話をしよう。今日はゆっくり休んでくれ」
 それだけ言い残して、こんどこそ高原はドアを閉めた。美奈はもう一度、待って! と叫んでドアに取り付いたが、外から鍵がかけられたのか、いくらノブを回しても再び開くことはなかった。美奈はそれでも何度かがちゃがちゃ繰り返していたが、やがて諦めてベットサイドに腰掛け、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。緊張は少し解けたものの、やはり何となく全体が胡散臭く、悪夢に近い不安を覚えずにはいられない。一体、この自分に何をさせようと言うのだろう?
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5.ドリームジェノミクス社 その1

2007-10-19 21:45:33 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 美奈は男に勧められるまま車の助手席に乗り込んでいた。男がシートベルトを引っ張って美奈の身体を固定したが、その間も、ただ黙って座っているばかりである。間もなく走り出した車の中で、美奈の目はじっと前を見つめていた。が、その瞳に映る窓外の風景や車内の様子に、意識が向いているようにはとても思えない。瞬きもし、時折対向車のライトが車内に差し込んだときなどは素早く瞳孔が収縮しているのだが、その心にまぶしいと不快感を覚えることもない。美奈の意識は、まるで夢の中のように主体性を失い、全くの受け身のまま、車に揺られ続けていた。
 やがて車が止まり、ドアの開く音が美奈の鼓膜を震わせたが、その刺激を受けた脳は沈黙を守った。美奈はふわっと左頬に靡いてきた微風を受けながら、なおもまっすぐ窓の向こうを凝視していた。
「さあ、もういいだろう」
 美奈のシートベルトをはずした男がそう耳元で囁くと、蝋人形然としてほとんど動きのなかった美奈の身体に、突然電気が通ったような震えが生じた。焦点を結ばなかった瞳が、急速に目の前の光景を捉えて、目覚めたばかりの脳に情報を送り出す。美奈ははっと男の存在に気づくと、思わず反対側に逃げようとして、チェンジレバーでしたたかに腰を打った。
「大丈夫かね?」
 あいたたた、と顔をしかめる美奈に、男は呆れ顔で呼びかけた。美奈は我に返って怯えた目で辺りを見回し、また男に視線を返した。
「ここどこ?」
 窓越しに見える景色は、既に夜のとばりが降りた人気を感じさせない木立と、黒々と聳える山並みだった。男は精一杯柔和な笑顔を形作ると、美奈に答えた。
「ここは私の研究所だ。いや、夢魔と闘うための最前線基地、と言った方が理解してもらえるかな?」
 そうだ、と美奈は思いだした。この男は、力を貸して欲しいと言ったのだ。夢魔をこの世から完全に消し去るために。その後、どう言うわけか意識があやふやになり、気がついたらどこだか判らない山の中にいた。思い出すに連れ、最初の恐怖は去ったが、それでも目の前の男に対する警戒心は、根強く美奈の不安をかき立てた。
「私をどうするの?」
 精一杯やせ我慢して、美奈は目の前の男に言った。それに対し、男はすぐに答えずに、助手席のドアを大きく開けながら一歩引いて美奈に道を開けた。
「もちろん危害を加えるつもりはない。初めに言っただろう? 君の力を借りたいだけだ。さあ、降りたまえ」
 一瞬美奈は躊躇ったが、恐る恐る車の外に出た。その目の前に、明るく光る白い建物が見えた。5階建てのまるでホテルのような建物だ。正面の一枚ガラスで出来た自動ドアの上に、「ドリームジェノミクス社」のレリーフが掲げられている。自動ドアの前には、両側に一昔前の警官が着ていたような制服を身にまとい、長い棒を手にした恰幅の良い男が一人づつ並んで立っていた。
「さあ、来なさい」
 男は警備員達に軽く頷くと、そのまま後ろも見ずにすたすたと建物目がけて歩き出した。美奈はここでも躊躇したが、二人の警備員の目がじっと自分に注がれているのを感じて、今はしょうがないと観念した。周りを見ても暗い森が目に入るばかりで、道があるかどうかも判然としない。そんな中で仮に逃げ出したとしても、あの二人に追いつかれずに逃げ切るのはまず無理だろう。美奈は一つ溜息をつくと、男の後を追った。
 こうして一歩建物に足を踏み入れた美奈は、以外に広々としたエントランスに、少しだけ緊張を解いた。外観同様ちょっとしたホテルの玄関のようだ。壁の内装は淡いパステルカラーで統一され、影になる部分にも間接照明でほの明るく光が漏れている。
「こっちだ」
 男はエントランスホールの左奥に見えるエレベーターに美奈を先導し、三基のうち、折から口を開けていた右端の一台へ美奈を乗せた。
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4.死神現る。その4

2007-10-14 21:10:45 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
「さあ、状況は理解できたかね? わざわざ言わず共次に何をすべきか、も理解していると思うのだが、まずは態度で示してもらおうか?」
「卑怯者! 鬼童さんを放しなさい!」
 麗夢の銃が死夢羅の顔にまっすぐ狙いを定めた。が、死夢羅は鬼童の身体を自分の前に立て、鎌の切っ先を僅かに露出した鬼童の首にあてがった。
「お褒めいただいて恐縮だが、口を動かすのは賢明ではないな。麗夢」
 死夢羅は大げさに右腕を構えると、ほんの僅か、鎌の刃を鬼童の首筋に押し付けた。たちまち首筋から赤い血が滲み、鬼童の顔が恐怖と痛みに引きつった。
「や、止めて!」
「だから口を動かすのはもういいと言っておろうが。聞こえんのか?」
 死夢羅の鎌が更に鬼童の首に食い込んでいく。だが、気丈にも鬼童は大声で叫んだ。
「駄目だ麗夢さん! 僕なら大丈夫だ。ここが夢であることはちゃんと承知している。お願いだ、闘ってくれ!」
「どうする? この若造はこういっているが、何なら試してみようか?」
 麗夢は歯を食いしばってせせら笑う死夢羅を睨み付けた。だが、鬼童の言うことを真に受けることは出来なかった。ここで首を切られれば、鬼童に生き残る術はない。たとえ本人が言うとおりこの夢が自分の夢だと理解していたとしても、死夢羅の能力は、そんな本人の自覚などお構いなしに鬼童の生命を首ごと刈り取ってしまうだろう。こうなっては仕方がない。
 麗夢は狙いを付けていた拳銃をすっと降ろすと、一瞬たりとも死夢羅から目を離すことなく、ゆっくりと膝を曲げた。
「麗夢さん!」
 悲痛な鬼童の叫びと共に、麗夢の愛用する拳銃が、その足元に虚しくその身を横たえた。
「殊勝だな麗夢。日頃もそれくらい素直ならわしも手こずらされずに済むのだが」
「さあ、鬼童さんを放して!」
 再び厳しい表情で立ち上がった麗夢に、死夢羅はのんびりと問いかけた。
「まあ待て麗夢。一つ聞くが、貴様この状況を一体どうやって打開するつもりだ。いや、そもそも勝算があるのかね?」
「そんなことを聞いてどうする積もりよ!」
「どうもせんさ。ただの好奇心という奴だ。だが、もし勝算もないのに脅しに屈して武器を捨てたのなら、はっきり言って貴様はただの馬鹿だ。それを確かめてみたい、と言うところかな」
 麗夢はぎゅっと握り拳に力を込めて、射るような視線で死夢羅を見返した。こうなったら一か八か、賭けてみるしかない。麗夢は左右に陣取るアルファ、ベータへ密かにテレパシーで合図を送ると、力一杯叫んだ。
「鬼童さん、伏せて!」
 その瞬間、力をためていたアルファ、ベータが、大きく見開いた両目から、強烈な光を撃ち出した。並の夢魔なら浴びただけで蒸発してしまう聖なる光である。麗夢は、死夢羅がこれくらいでダメージを受けるとは思えなかったが、少なくとも目くらまし効果で一瞬の隙を生み出すことくらいは出来ると踏んだのだ。だが、死夢羅は麗夢の予想を遙かに上回った。突然の燭光に晒されたにもかかわらず、死夢羅はふふん、と鼻を鳴らすと、逃げようともがきかけた鬼童の身体を、自分の前に突き放したのである。
「貴様の愚かさ加減にはほとほと呆れたわ! さあ、その報いを受けるがいい!」
 死夢羅の鎌が、達人の剣閃さながらに水平に走った。アルファ、ベータの燭光に照らされた刃が、真っ白な輝線を空間に描く。その輝線が、よろめきつつも麗夢の方に動いた鬼童の首筋を通り抜けた。
 その瞬間、まだ鬼童の身体は動いていた。二歩、三歩と、白衣に包まれた長身が、麗夢の方へおぼつかない足を運ぶ。だが、その動きは既に生あるものの意志に基づく動きではなかった。ついさっき輝線が走り抜けた首筋に、今度は赤い線がすっ、と音もなく入った。たちまちその細い赤が広がり、鬼童の左足が躓いた瞬間、傾いだ頭がゆっくりと前に倒れこんだ。
 ごろん。
 噴水のごとく動脈血がまき散らされる中、端正な鬼童の顔は、少なくともおだやかな表情に見えた。自分の血をその青白くなった顔のそこここに塗りつけながら、麗夢の足元までくるくると転がり込む。咄嗟に足元の銃を拾い上げようとした麗夢は、その光景に愕然として固まった。
「・・・き・・・鬼童、さん?・・・」
 わなわなと震える両手が、横倒しになった鬼童の首に伸びた。呆然としたまま、乱れた頭髪を右手で整え、頬に散った血を拭う。だが、目をつむった鬼童の顔に、生気が蘇ることはなかった。
「・・・い、いやあぁ~~っ!」
 麗夢は咄嗟に銃を手に取ると、まだ不敵な笑いを浮かべてこちらを見守っている死夢羅に、ありったけの弾丸を発射した。瞬く間に全弾打ち終えてなお、麗夢は二度、三度と引き金を引き、ようやく気がつくと、そのまま死夢羅に向けて脱兎のごとく飛び出した。
「ゆ、許さない! ルシフェル!」
 麗夢の身体がアルファ、ベータの光をも凌駕する閃光に包まれた。鬼童の悪夢が輝く白色で漂白される。その目に見据えるのはただ一カ所、この光に抗して闇の漆黒を保つ悪の権化、死夢羅の姿だけである。一瞬で夢の戦士、ドリームガーディアンに変じた麗夢は、手にした破邪の剣にありったけの気を凝らし、岩も砕けよと死夢羅目がけて撃ちかかった。だが、死夢羅は防御するでもなく、麗夢にぼそりと呟いた。
「時間切れだ、麗夢」
 たちまち麗夢の身体に満ちあふれていた膨大な力が、針をたてられた風船のように弾けとんだ。視界にはっきりと捉えられていた死夢羅の姿がおぼろに薄れ、夢の世界が急速に失われていくのが感じられた。鬼童の命の灯火が消えたのだ。命が失われた以上、その夢もまた消えるしかない。夢が消えれば、麗夢とてそこに留まることは出来ない。
「もう貴様と会うこともあるまい。さらばだ、麗夢」
 最後の死夢羅の一言が驚くほど鮮明に麗夢の耳に届いた、と思う間もなく、麗夢は意識を取り戻した。
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4.死神現る。その3

2007-10-12 23:19:16 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 突然背後からかけられた声に、鬼童は仰天して振り返った。すると、明るいパステルブルーで統一された室内の一角が、どす黒い暗黒に浸食され、まるでブラックホールのようにその縁に連なる鬼童の夢世界が奇妙に歪んでいた。その中央に、漆黒のマントに身を包み、同色のシルクハットから豊かな波打つ銀髪を靡かせた老人が一人、立っていた。
「お、お前は死夢羅博士!」
 鬼童の驚愕に、巨大な鷲鼻が微かに揺れ、その下に刻まれた薄い唇の両端が吊り上がった。
「鬼童海丸、乏しい能力で良くここまで自分の夢をコントロールするものよ。見上げた研究者魂だが、それもこれまでだ」
 死夢羅のマントが中央から割れ、長大な鎌を握った右腕が、水平にぬっと突き出てきた。
「僕とてむざむざと殺られはしないぞ!」
 鬼童は足が震えるほどな恐怖を懸命に堪えながら、ぐいと右手を死夢羅に向けて突き出した。途端にその手に、榊が所持するニューナンブそっくりの拳銃が現れた。夢の中でそれを自覚していれば、こういう芸当もできる。それは、夢サーカスの事件で鬼童も実証した事だった。
「外観だけじゃないぞ。ちゃんと本物同様弾丸も発射できるし、威力も変わらない」
 すると死夢羅は、嘲りも露わに鬼童に言った。
「愚かな。そんなもので、このわしが恐れおののくとでも思ったか」
 死夢羅はゆるりと鎌を身体の前に引きつけ、左手を柄に添えると、すっと一歩を踏み出した。
「動くな! 撃つぞ!」
 だが、死夢羅は不敵な笑みを湛えながら、なおも一歩鬼童に向けて足を進めた。鎌がぎらりと輝いて、鬼童の首筋に冷たい汗を噴き出させる。更に一歩死夢羅の鎌が近づいたとき、鬼童は右手人差し指にぐいと力を加えた。
 カチリ。
 間の抜けたような金属音が鬼童の耳を打った。愕然となった鬼童が、更に引き金を引き続ける。だが、期待した炸裂音も衝撃もなく、ただ小さな機械音が鳴り続けるだけであった。
「どうした? そのおもちゃの威力を見せてくれるのではなかったのかな?」
 既に手の届くばかりなところまで迫った死夢羅の余裕に、鬼童は初めて後じさった。途端に死夢羅から感じられる圧力が急激に膨らみ、鬼童は突風に突き飛ばされるようによろめいて、そのまま仰向けに倒れ込んだ。負けるまい、と必死に保っていた気力が見る間にどこかに吸い出されていく。それと共に、鬼童から夢をコントロールする力が失われていった。研究室が火にをかけられたプラスチックのように変形し、整然と並んだ実験器具が、得体の知れない不気味な塊に変化していく。鬼童が頼りとする冷徹な観察と客観的な洞察が可能だった理性が、パニックと恐怖に席を譲り、鬼童の夢は、自分ではどうすることもできない悪夢に塗り替えられようとしていた。
「終わりだな。なかなか楽しい余興だったぞ」
 死夢羅の右手がゆっくりと上がり、振りかぶられた鎌の切っ先が、鬼童の首筋に狙いを定めた。鬼童は恐怖に震えつつも、後ずさって逃げることすら出来なかった。文字通り蛇に睨まれた蛙の状態で、ただ最後の時を待つしか出来なかったのである。
「夢の中で死ねるとは、研究者冥利に尽きるだろう!」
 鬼童の目に白い刃の残像が尾を引いて映った。死ぬ。もう自分は死ぬんだ、という強迫観念に囚われた鬼童は、その切っ先が自分の首に当たるまで、目を逸らすことが出来なかった。
 その時である。
 ガーンッ!
 夢世界に雄々しくこだまする銃声が、間一髪で鬼童の命をすくい上げた。今にも鬼童の首を跳ね上げようとしていた鎌の刃がはじき飛ばされ、勢い余って死夢羅の身体がのけぞった。
「鬼童さん!」
 起死回生の呼び声に、鬼童は全身冷や汗で濡れそぼちながら、ほっと限界まで張りつめた緊張を解いた。
「麗夢さん・・・、助かった」
 醜く変形した実験室の扉を蹴り開けた麗夢が、まだ熱い硝煙臭がたなびく愛用の拳銃を構えながら、死夢羅に言った。
「死夢羅博士、いえ、ルシフェル! やっぱりお前の仕業だったのね!」
「ふーっ!」
「ウゥーっ、ワン! ワンワン!」
 麗夢の足元で、アルファとベータも頭を低く下げ、今にも飛びかからんとする態勢で威嚇のうなり声を上げる。死夢羅は、一旦はよろめいた姿勢を立て直し、改めて鎌の柄を握り直した。
「お前の仕業とは、何の事かな?」
「とぼけないで! 美奈ちゃんや夢見さんや、ハンスさんまでさらって何を企んでいるの?!」
 すると死夢羅は、口元に嘲笑を湛えたまま、麗夢に言った。
「素直に答える訳がないことくらい承知しておろう? 愚かな質問をする暇があったら、現状を理解するのに努力すべきだったな!」
 突然身体を覆い隠していた死夢羅のマントが翻った。その端が爆発的に膨らんだかと思うと、無数の黒い触手が吹き出し、まだ床にはいつくばったままの鬼童に絡みついた。
「鬼童さん!」
 麗夢の悲鳴じみた叫びが届く間もなく、鬼童は全身を漆黒の包帯でがんじがらめに包み込まれ、さながら黒いミイラと化して死夢羅の左腕に抱きかかえられた。
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4.死神現る。その2

2007-10-08 23:04:41 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 夢の中で、早くも鬼童は麗夢が来るのを待っていた。
「お待ちしてましたよ、麗夢さん」
 情景は、今し方入ったばかりの鬼童研究所睡眠実験室のそれと寸分変わらない。レム睡眠波動の強力なエネルギーを覚えなければ、まだ寝てないと言われればそう信じ込んでしまうくらい、その様子は良くできていた。
「すごいじゃない、鬼童さん。自分の夢の中で自由に動けるなんて!」
「ええ、おかげさまで大分コントロールできるようになりましたよ」
 麗夢の驚きも無理はない。通常、人は夢を見ている最中、非常に明瞭な知覚を維持する一方で、それを客観的に感じる能力は著しく低下する。これは脳内で合成される化学物質の影響で、大脳の、知覚を担当する部分の活動が活発になる一方で、判断力や認識力を担当する部分の活動が抑え込まれるためである。この、思考を司る部分が抑制されるため、夢の中では人はまともに考えることが出来ないし、自分の周りで生じている異常事態を異常である、と認識する事もできない。つまり夢に呑み込まれている状態になる。だが、訓練によってこの抑制を制御出来れば、夢に居ながらにして、その事を自覚し、理性的かつ客観的に夢を観察できるようになる。これが、明晰夢である。鬼童は早くからその訓練に勤しみ、いまや、自分の夢をかなり自由にコントロールできるまでになっていた。この、自分の夢を自分で制御する力を究極的に発動できる人が、麗夢のようなドリームガーディアン能力を持つのではないか、と鬼童は考えている。そこで麗夢に自分の夢を提供する見返りに、麗夢から、この夢の中で得られるだけのデータを得ようと、わざわざ夢を自分の実験室に塗り替えたのである。夢の中とは言え、この部屋ならばあらゆるセンサー類が鬼童の知る通りの性能を発揮し、そのデータはコンピューターで処理されてモニターに表示させることができる。その数値を見て記憶しておけば、目覚めた後でも内容の吟味が可能になるのだ。
 鬼童は、麗夢の賞賛に笑顔を閃かせながら言った。
「取りあえず、始めて下さい。その間、麗夢さんやアルファ、ベータのデータを収集させて貰いますから」
 鬼童は白衣を翻して、壁際の装置端末に取り付いた。麗夢も頷いて足元のアルファ、ベータに呼びかけた。
「じゃあ、アルファは美奈ちゃん、ベータはハンスさんの波動を探して。私は夢見さんのを探してみるわ」
「にゃん!」
「ワン!」
 威勢良く返事した二頭が、記憶にあるそれぞれの人物の精神波動を拾うべく、目をつぶって軽く頭を下げた。麗夢も意識を夢見小僧に集中し、鬼童の夢から、無形のアンテナをゆっくりと外へと伸ばしていく。やがてアルファとベータがほぼ同時に耳をぴくっと動かし、二人の波動を捉えた事を麗夢に告げた。麗夢も、一瞬遅れて夢見小僧らしき波動をキャッチした。だが、それらはあまりに弱く、場所を特定するところまでは難しかった。アルファ、ベータもしきりに鼻を鳴らして波動を鮮明に捉えようと躍起になったが、その場で得られる情報には限りがあるようだった。
「ちょっと出てみましょう。方角だけでもつかめたら、もう少し何とかなるわ」
 麗夢は、こくりと頷く二頭から、鬼童の方に視線を移した。
「ちょっと外に出てきます。鬼童さん、何かあったら教えてね。叫ぶとか念じるとかしてくれたらすぐ判るから」
「判りました。気を付けて下さいよ、麗夢さん」
 夢見の前に危険の可能性を指摘されていた鬼童は、少し緊張した表情で麗夢に言った。麗夢はにっこり微笑むと、そのまま軽く床を蹴った。途端に麗夢の身体がふわっと浮き上がりながら、透明感を増して宙に溶けていく。アルファ、ベータも後に続いて、次々と宙に消えていった。鬼童はそれを見送りながら、一緒についていきたい衝動を抑えるのに苦労した。麗夢と一緒に、と言うのも重要な一点だが、それよりもいわゆる夢の世界の外側がどのようになっているのか、純粋な好奇心をかき立てられたのである。いわゆるユングの唱える集合無意識へのルートが、あの麗夢達が消えていった向こう側にある。宗教的に言えばそれは、神への道にも繋がるだろう。そこに一体何があり、どんな事象が渦巻いているのか。知りたい。たとえどんな犠牲を払っても・・・。
「そんなに見たいのか? 死の世界が」
!
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4.死神現る。その1

2007-10-06 21:57:28 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 ハンス・ゲオルグ・ヴァンダーリヒ、夢見小僧、そして美奈。偶然も三つ重なるとさすがに無視できない。年齢、性別、出自、性格、どれをとってもまるで異なる三人ではあるが、麗夢達にだけ分かるただ一つの共通点がある。
 「夢」だ。
 ハンスは、夢の世界をさ迷った末に、哀魅の夢から麗夢の力によって現実世界に叩き出された男である。
 夢見小僧は集団夢催眠を得意とし、ナチスの亡霊にその力を危うく利用させられそうになった経歴を持つ。
 美奈も夢の世界を渡り歩く力があり、遠隔能力では麗夢をも凌ぐ能力者だ。
 もちろん、3人の失踪が全くの偶然という可能性も否定は出来ない。だが、麗夢の直感は、その背後に未知のきな臭さを感知していた。
 まずセオリーどおり、麗夢は3人の失踪直前の足取りを追おうとしたが、夢見小僧はもとより神出鬼没、麗夢でさえ、彼女がどこに住んで、普段何をしているのかは全く知らないため、その線から追跡するのはほとんど不可能だった。
 一方ハンスと美奈は、失踪直前までかなりはっきりした痕跡を残していた。
 もともと貴公子然とした白人青年であるハンスは、買い物の経路上であちこちにはっきりした記憶をばらまいていた。写真を一目見ただけでほとんどの人が思い出し、その足跡は間違いなく哀魅に言いつけられたとおり近所のスーパーに来てメモ通りの買い物を済ませ、店を出てまっすぐ家に向かっていた。美奈も、学校から友達と別れるまではもちろん、その後も幾つかの目撃情報が得られた。だが、帰宅直前、そこで空間と時間を切れ味鋭い銘刀で一刀両断にしたかのように、すっぱりと二人の消息が消えてなくなるのである。
 これは例えば、夢魔の女王が美奈に対してやったように、突如何者かが二人を夢の世界に引きずり込むと言ったような超現実的な異常が生じたとしたらどうだろうか。美奈の前例があるだけに、麗夢も未知の敵の可能性は一応考慮した。しかし、それならそれで、ベータの鼻にも引っかからないというのはあり得ない。少なくとも二人の家やその周辺には、瘴気の残滓は全く感知できなかった。
 それでは、夢見小僧のような力で、最後の瞬間の目撃者全員が幻覚を見せられたとしたらどうだろうか。確かに忽然と姿が消えたように見せるのは可能になるが、本当にそんなことができるのかというと、さすがに麗夢も考え込まざるを得なかった。もし本当に集団催眠だったとしたら、その術者は少なくとも数分間に渡って不特定多数の人間に幻覚を見せたことになる。その技を得意とする夢見小僧の場合、幻覚はほんの十数秒程度。しかも相手が自分へと意識を向けていることが条件だ。注目度が高ければ高いほどかけやすいようで、現に榊はこれに何度も苦渋を味あわされている。ところが今回、もしその様な力が使われたのだとすると、その者の力は、夢見小僧など足元にも及ばぬまるで別次元の強さだと言うことになる。そんな者がはたして本当にいるのだろうか? 既に、あの死夢羅を含めて夢守の民の血を引く者は自分一人ではない、と言うことは承知の麗夢だったが、これまでそんな強力な力に遭遇したことはなかった。自分が最強だ、と思うほど麗夢も愚かではないが、自分達と同種の人間がいかに少ないか、は肌で感じられる事実だ。故に、三人を痕跡も残すことなく容易くさらっていく事が出来る者など、なかなか想像することが難しかった。
 こうして現実世界の捜査に行き詰まった麗夢は、もう一つの方策を採ることにした。麗夢の愛車が鬼童超心理物理学研究所の前に停車したのは、哀魅、榊、美奈のお母さんが次々舞い込んだ日より、四日が過ぎた夕方のことである。
「どうしたんです麗夢さん! 急に逢いたいだなんて!」
 突然の麗夢の訪問に喜色満面の鬼童は、薫り高い挽きたてのコーヒーを麗夢に勧めながら、手を応接セットのテーブルの上で組み合わせた。
「実は一つお願いがあるんだけど、聞いてくれる? 鬼童さん」
「麗夢さんの頼みならいくらでも協力しますけど、一体なんです、そのお願いって」
「『夢』を貸して欲しいのよ」
「夢?」
 話が見えない、と言う鬼童に、麗夢はここ数日続けた三人の行方不明者の捜索状況について説明した。
「ああ、夢見小僧のことは知ってますよ。榊警部に呼ばれて国立博物館に行きましたからね。結局会えずじまいでしたが、そうですか、あの日から夢見小僧は行方不明なんですか」
「それで結局他の二人も手がかりが無くて。そこで『夢』から三人の行方を探してみようと思うの」
 意中の美少女の真剣な眼差しに、鬼童の心臓が二割ほど鼓動を増した。耳たぶがほんのり熱くなるのを覚えながら、鬼童は努めて平静を装って麗夢に言った。
「で、僕の『夢』を貸して欲しい、と?」
「ええ、夢を足がかりにすれば、アルファ、ベータならきっと見つけられるわ。三人とも特徴のはっきりしたオーラを発しているし」
 現実世界では捕まえにくい幽かなオーラの波動でも、『夢』の中からならば感度が格段に上がり、アルファ、ベータの鋭敏な感覚なら、それをかぎ分けることが出来る。ただ、この場合誰の『夢』に入るかが問題だった。単に捜索のためだけなら、哀魅や美奈の母、いや、極端な話誰の『夢』でもよい。しかし、もしこの事件に、例えば死神死夢羅のような恐ろしい相手が絡んでいたとしたら、夢見る者を相当な危険にさらすことになるだろう。そんな可能性が僅かでも感じられる以上、哀魅達にそれを頼むことは麗夢には出来なかった。
「榊警部は出張でしばらく東京にいないし、円光さんはいつもの通りどこにいるか判らないし、頼れるのは鬼童さんしかいないの。もちろんもしもの時は私とこの子達で鬼童さんを守るから、お願い、鬼童さんの『夢』を貸して」
 鬼童は、円光よりも自分を頼りにしてくれた麗夢の言葉に半ば陶然としながら、頭の片隅ではそのリスクと利益をきちんと秤にかけていた。冷静に考えてみれば、このような仕事は円光の方が適任だろう。円光なら強力な法力でもって、夢の中でも自分の身を守る事が出来るだろうし、それだけでなく、麗夢をサポートして闘うことさえ可能かも知れない。
 対して自分は、純然たる戦闘力は皆無に等しい。まして自分の夢だ。自分の意志で夢を制御するため、明晰夢を見る訓練は行ってはいるが、円光ほど自在に自分の夢の中で振る舞うのは恐らく不可能だ。下手をすると明晰夢すら見ることが出来ず、ただ麗夢の足を引っ張るだけになるかも知れない。
 だが、事情はどうあれ麗夢と二人で一つの夢を共有するというのは、そんな冷静な判断をまとめてくず入れにぽいとせずにはいられない、強烈な魅力を秘めている。それに、南麻布以来久しぶりに、麗夢の闘い振りを堪能できるかも知れない。そのデータが得られるなら、多少の危険を厭う理由はないではないか。
 第一、必ずしも敵がいると決まったわけではない。確かに三人の失踪は腑に落ちない点も多々あるが、事実が小説よりも奇妙なことは良くあることだ。因果関係など何もなく、ただの偶然で三人が三人ともどこかで迷子になっていただけということだって確率的には零ではない。麗夢やアルファ、ベータの夢探知とでも言うべき能力を間近で観察するのも、これはこれで重要な研究テーマとなるだろう。
 結局全てを自分の研究に収斂させた鬼童は、縋るような目で見つめる目の前の少女に、これ以上ない朗らかな笑顔で白い歯をこぼして見せた。
「ええ、いいでしょう。僕の夢で良ければ使って下さい。その代わり・・・」
「その代わり?」
「事件が解決したら、一度食事でも御一緒しませんか? なかなか美味しいケーキを食べさせてくれるレストランを見つけたんですよ」
 ケーキと聞いて、麗夢の左右に陣取っていたアルファとベータの耳がぴくりと動いた。自然に尻尾が動き出し、期待の目で間に挟まった麗夢を見上げる。同時に伝わったテレパシーの強さに、麗夢は苦笑いしつつはいはい、と左右のお供に答えた。
「いいわよ。この子達も一緒なら」
「ニャーン!」
「ワン、ワンワン!」
 今度は期待の視線が鬼童の方へ直射する。瞬間鬼童のこわばった表情が改まり、内心の悲鳴が表に溢れかえる寸前で、しっかりと抑え込まれた。
「え、ええ、もちろんですよ麗夢さん! じゃあ約束ですからね」
「それじゃ早速お願いします!」
「え? こ、ここでですか?」
「善は急げ、っていうじゃない。早ければそのレストランに今夜行けるわよ・」
 麗夢のウインクで、鬼童の胸の内を暖かい津波が打ち付けた。
(まあいい。慌てなくても、少しずつ距離を縮めていけば・・・)
 鬼童は麗夢を睡眠実験室のリクライニングチェアに誘いながら、取りあえずライバルに対し、小さなリードを確立できたことを素直に喜んだ。
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3.ハンス

2007-09-30 22:34:55 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 青山四二番地は、地元の交番や不動産屋でも、道を尋ねられると満足に答える事が難しい。高層ビルに四方を囲まれ、表通りからどうやって入ればいいのか、地図を見ただけではまるで判然としないのだ。榊も初めてそこを尋ねたときは、進入路を探しあぐねてしばらくその周辺をぐるぐる歩き回ったものである。今日も住宅地図にすらきちんとは記載されていない狭い路地を抜け、一向に日の射す事のない土地に悄然と佇むその木造二階建てのぼろアパートを見ながら、ふと、榊はこの道を初めて発見したときのことを思い出した。あれから随分経ったように思うが、ちゃんと指を折ってみると意外なほど時は過ぎていない。榊が戸惑いのも無理は無い。休む間もなく次々に発生する難事件。死神博士の一件より今日に至るまで、この路地の湿った関東ローム層に自分の靴跡を記す時は、いつだってそんな難題を抱えていたのだ。
 榊は不気味に音を立てて軋む階段と廊下を歩き、今日もまたそのドアの前に立った。「怪奇よろず相談」の看板を掲げるそのドアは、そうした事件の解決に繋がる最良にして唯一の入り口だ、と、榊は信じている。
「あら、いらっしゃい」
 ノックに続いて開いたドアの向こう、外見からはおよそ想像を絶する明るくお洒落な内装を背景に、その少女はにっこりと微笑みかけた。
「やあ麗夢さん、お帰りを待ちわびてましたぞ」
 すると少女ー私立探偵綾小路麗夢は、ほころんだ顔へ更に笑顔を刻むと、腰まで届く豊かな碧の黒髪を翻し、榊のために道を開けた。
「どうぞお入りになって」
「ああ、ありがとう」
 言われるままに事務所に入った榊は、目の前の応接セットに見慣れない先客の姿を捉えた。ソファごしにこちらを垣間見るその姿は、どうも自分の娘、ゆかりとさして違わない年頃に見える一人の女の子である。
 女の子は榊のこわもてする髭面に軽く驚きながらも、ぺこりと無言で会釈した。硬い表情で胡散くさげに見つめる視線を痛いほど感じながら、榊は自分の驚きを隠すのに苦労した。
「これは、先客がありましたか。では出直してきましょう、麗夢さん」
「大丈夫よ榊警部。お話は大方すみましたから。どうぞこっちに座って」
 麗夢に招かれて少女の対角線のソファに移動した榊を、先客の女の子が驚きの目でもう一度見た。
「この人が榊警部さん?」
 不審の色は大分薄れているようだが、まだ戸惑いは隠せないようだ。心の内で苦笑する榊を前にして、麗夢は明るく少女に答えた。
「ええそうよ哀魅さん。この人が、警視庁にその人有りと歌われた、敏腕警察官の榊警部よ」
 榊は麗夢のウインクに、今度は正直に苦笑しながら座に着いた。
「そしてこちらが、哀魅さん」
 それに会わせて女の子がまたぺこりと頭を下げた。榊も会釈を返しながら、その名前と容姿を記憶のライブラリから大急ぎで検索した。
「ああ、この間うかがった吸血鬼の・・・」
「彼は吸血鬼じゃありません!」
 思わずつぶやいた榊の一言に、哀魅はきっと柳眉をつり上げると、ぴしゃりと言い放った。
「ご先祖様はともかく、彼はニンニクのたっぷり利いた餃子が好きでトマトジュースばかり飲んでる人畜無害の男よ! 蚊だってまともに殺せないんだから!」
「い、いやすまない。ドラキュラの子孫とうかがっていたものでね。気にさわったのなら謝る」
 余りにも素直に榊が頭を下げたため、哀魅の興奮も急速に静まったらしい。今度は哀魅の方が慌てて手を振った。
「い、いえ、こちらこそごめんなさい! ちょっと気が立っていて・・・」
「哀魅さんはハンスさんのことになると落ち着いていられないんですものねー」
「もう! 麗夢さんったら!」
 麗夢の冷やかしにようやく哀魅の表情に笑顔が宿る。こうして最初のわだかまりを解いた二人に、麗夢はにっこり笑顔を返し、新たに淹れたコーヒーを榊の前に置いた。
「実は、そのハンスさんが行方不明らしいの」
「行方不明?」
「ええ、先週の金曜日におつかいへ出たまま、帰ってこないんです。それで麗夢さんに探して貰おうと思って・・・」
 なるほど、と榊は頷いた。榊の知る日頃の麗夢は、死夢羅のような凶悪極まりない化け物と対峙する雄々しき戦士であるが、探偵と言うからには人捜しなども仕事のうちであるに違いない。でもそれは、自分達警察の所管業務でもある。
「失踪届は出したのかね?」
「ええ。でもお巡りさんもあんまり真剣じゃなさそうで・・・」
 一週間、あちこち探し回ってことごとく徒労に終わった哀魅の声は、重く沈んでいた。榊も口では「けしからんな」と相づちを打ちながらも、事件性が見えてこない限りそう簡単には重い腰を上げないのが警察という組織だと言うことは百も承知している。それ故にこそ、探偵という職業もまた成り立つのであろう。だが、目の前でしょげ返る女の子を見ては、榊も気休めでも一言かけないではいられなかった。
「私からも所管の部署に念押ししておこう。何、大丈夫だ。きっと見つかる」
「ありがとう、警部さん」
「そうそう、絶対見つかるわ。何たってハンスさんはちょっと目立つから、いなくなったとしても必ず人目を引いてないはず無いもの。それにいざとなればこの子達もいるし」
 部屋の隅でじゃれ合っていたアルファとベータが、顔を上げてそれぞれの鳴き声で返事をした。三人の頭の中に、「大丈夫!」という威勢のいいイメージが流れ込んでくる。
「ハンスさんが夢を見たらこの子達なら一発で見つけられるわよ」
 改めて麗夢が請け負うと、哀魅もようやく安心したのか、朗らかな笑みが返ってきた。
「うん。私信じてます。頼むわね、アルファ、ベータ」 
 哀魅の言葉に、二匹は器用に後ろ足で立ち上がって、「任せといて!」とイメージを送ってきた。ベータは同時に前足で自分の反り返った胸をどんと叩き、バランスを崩して仰向けにひっくり返った。慌てて起こすアルファに、したたかに床で打った頭を抱える涙目のベータ。そのユーモラスな仕草に場はひとしきり朗らかな笑いに包まれた。
「ところで榊警部のご用って何?」
 笑いがようやく収まったところで、麗夢は榊に問いかけた。榊は、そうそう、と一口コーヒーをすすると、おもむろに麗夢へ向き直った。
「実は、最近夢見小僧がとんと現れないんだ。麗夢さん、何かご存じ無いですか?」
 榊は、先日鬼童と張り込んだ国立博物館を初め、その後、事前に予告されていた三つの現場のどれにも夢見小僧が現れなかった事を、麗夢に明かした。
「へえ、白か・・・じゃない、夢見さんが出てこない?」
 麗夢も腕組みして考え込んだ。神出鬼没にしてこれまで一度として予告を違えたことの無い夢見小僧が、三回も続けてドタキャンするなど確かに尋常とは思えない。
「予告状が悪戯だったとか?」
「いや、それはない。鑑識の結果、ほぼ本物に間違いないという鑑定が出ているんだ」
「ひょっとして、狙われた財宝が、既に精巧なレプリカにすり替わっていたりして・・・」
「それもない。その他、我々としても考えられる有りとあらゆる可能性を検討してみたんだが、どうしてもすっぽかされた、という他考えられないんです。上の連中はお気楽に警備の勝利をほざいちゃいるが、そんなはずは絶対にあり得ない。となると、夢見小僧の身に何か起こったとしか私には思えないんだ」
「随分夢見さんのことを心配なさってるのね、警部」
「そ、そりゃあ、重要な窃盗犯ですからね。それより麗夢さん、何か知っていることがあったら教えて下さい。どんな些細なことでもいいですから」
 榊が「重要犯人」だから心配しているというのは、一種の照れであることは麗夢にもお見通しである。だが、状況はその事をからかって楽しめる所ではないようだった。とはいえ麗夢も、普段から夢見小僧こと白川蘭とそれほど親しく付き合っているわけではない。彼女の消息について知っていることと言ったら、榊と五〇歩一〇〇歩なのである。麗夢にその事を告げられた榊は、まさに残念という言葉を全身にまとって、ソファーに深く沈み込んだ。
「うーん、麗夢さんもご存じ無いとすればこれはお手上げだな。こうなったら仕方がない。もし何か情報があったら、すぐ私に連絡して下さい」
「判ったわ、榊警部。それにしても人捜しが二件もなんて、今日は不思議な日ね」
「確かに」
 麗夢と榊はやや深刻げに頷きあったが、事態がまだほんの序の口に過ぎないことまではまだ気がつかなかった。帰ろうと出口に歩み寄った榊の前で、突然ドアが慌ただしくノックされたかと思うと、麗夢が返事する間もなく開いたドアを押しのけるようにして、一人の女性が飛び込んできたのである。
「あ、危ない!」
 榊が、入り口でつまづいて倒れそうになった女性の肩を支えると、その女性は榊の腕を振りほどいて、文字通り血相変えて麗夢に迫った。
「麗夢さん! 美奈が、美奈がお邪魔してませんか?!」
 それは、いつもの隙無く固めたキャリアウーマンをかなぐり捨てた、美奈の母親の姿であった。
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2.美奈 その2

2007-09-28 11:12:03 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 一人の男が、今にも飛びかかろうとした姿のまま硬直していた。今目の前にいるこの男だ。
 腕や足は盛り上がった筋肉がぴくぴくとけいれんして、限界まで緊張している。
 怒りと絶望に満ちた形相に、脂汗をだらだらと流し続けている。
 口は絶叫を瞬間凍結したまま大きく剥き出され、涙にまみれた眼球は、目の前の光景を噛みつかぬばかりに必死に見据えている。
 その視線の先に、真の闇と形容出来る陰惨な影がわだかまっていた。長大な鎌をかつぐ、全身を覆う襟の高い黒マント。豊かな銀髪がはみ出した黒いシルクハット。猛々しい鷲鼻の下で薄い唇が奇妙にひねり上がり、目の前の男をあざ笑っている。と、にわかにその右半面が崩れ、醜悪な頭蓋骨を露出した。ぽっかりと空いた眼孔に漆黒の闇が溢れ出し、その夢を間違うことなき悪夢へと塗り替えていく。
 美奈は怖気を震いながら、あれが死神というものかも知れない、と思った。死神が、男に襲いかかろうとしているのだ、と。だが、案に相違して死神の鎌は男には向けられなかった。
 いつの間にか死神の前に、一人の女性が男の方を向いて跪いていたのだ。さらさらの黒髪が印象的な、和風美人の趣のある女性だった。その女性がすらりとした裸身を白く輝かせながら、じっと何かを待つように目を閉じている。
 男の脂汗が一段と量を増した。声は一切聞こえない。だが、何を言おうとしているのかは美奈にも判る気がした。逃げろ! と、止めろ! だ。男は全く動かない体の自由を取り戻そうともがきながら、目の前の死神と女に叫び続けていた。美奈は恐ろしさのあまり逃げ出したいと思う一方で、縛り付けられでもしたかのようにその光景を見つめていた。
 やがて、死神が無慈悲で冷酷な光を放つ鎌の刃を大きく振り上げた。半分髑髏の顔に残忍な歓喜が炸裂した瞬間、鎌が白い一閃を残して思い切り振り下ろされた。男の顔が驚愕と怒りと恐怖に一段とゆがみ、無音の絶叫が口から迸った。それを追いかけるように、黒髪の首がその膝元に転げ落ちた。鮮やかな赤が無彩色な闇にけばけばしい彩りを叩き付ける。飛沫が男の頭から降り注ぎ、全身へ無数の赤い斑点を染み付けた。
「きゃっ!」
 思わず美奈は叫び声を上げ、口元に両手を添えてその場に立ちつくした。その瞬間、男の凄まじい顔が、ぎょろりと美奈を睨み付けた。美奈は、信じられぬ思いでその目を見つめ返した。未だかつてこんな事は無かった。夢の中に侵入した美奈の存在に気がつく者など、一人としていなかったのだ。
「君は、誰だ?」
 今、繰り広げられた光景からは想像できない、静かで落ち着いた声が美奈の耳に届いた。が、それは恐怖に竦んでいた美奈の呪縛を解いたに過ぎなかった。美奈はその瞬間、自分でも訳が分からぬまま泣き声を上げて、その夢から逃げ出したのである。その後ろから、男の「待ってくれ!」という声が、美奈の足を余計に急がせた。こうして美奈は今までで一番恐ろしい夢から逃げ出したが、その後しばらくして麗夢と出会い、そして夢魔の女王という極めつけの恐怖に巻き込まれる中で、すっかりこの男の事を忘れていたのだった。
「な、何のことか判りません・・・」
 美奈の足が更に一歩下がった。もう一突きするだけで、美奈はわき目もふらず家に向けて走って逃げたことだろう。対する男は、そんな美奈の限界に達しつつある緊張を理解しているのか、あくまで静かに、落ち着いた口調で話しかけた。
「君が警戒するのは良く判っている積もりだ。だが、私は夢魔の女王ではない。君に危害を加えるつもりは一切ないんだ」
 この人、夢魔の女王のことを知っている?!
 美奈の中で点滅していた黄色いシグナルが、その瞬間赤に切り替わった。この男は危険だ。早く、一刻も早く離れないといけない!
「わ、私、早く家に帰らないと・・・」
 既に半身になって逃げ出そうとしている美奈に、男は慌てることなく言った。
「君の力を借りたい。君が助けてくれれば、夢魔達を完全に消滅させることが出来る」
 その言葉に、美奈の足が止まった。
「どう言うことですか、それは」
 すると男は、初めて安堵に弛んだ顔を見せて、美奈に言った。
「文字通りの意味だよ。君の協力があれば、夢魔の存在そのものを、この世界から完全に消し去ることが出来るんだ。だから是非君の力を貸して欲しい。その、人の夢を渡り歩く力をね。そのために君をずっと捜していたんだ」
 美奈は、麗夢が身を削って夢の平和を守るために闘い続けていることを思い起こした。この人の言うとおりなら、あの麗夢の危険極まりない苦労も終わる時が来ると言うことだろうか?
 男の口の端に浮かぶ幽かな笑みに吸い込まれるように、美奈の足が再び男の方に向いた。いや、美奈は既に男の「力」に呑み込まれていた。恐怖と不安のシグナルを発していた自由意志は、いつの間にか美奈の中から失われていた。
「さあ、一緒に来たまえ」
 すっと出された右手に頷きながら、美奈は自分の手を出した。そして男に誘われるままに元来た道を引き返し始めた。やがて、夕闇迫るその住宅街から美奈の姿が忽然と消えた。同時に楽しく希望に満ちた日常生活も、泡となってその場から失せた。
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2.美奈 その1

2007-09-24 23:05:02 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 「また明日ね~っ!」
 「バイバーイ!」
 はつらつとした可愛らしい別れの挨拶が、ひとしきり通称学校通りと呼ばれる住宅街に流れた。午後五時。友人と名残惜しげに笑顔で手を振りあった美奈は、まだ皮の臭いも真新しい学生カバンを持ち直し、自宅の方へ向きを変えた。
 ルンルン、と鼻歌の一つも飛び出しそうなくらい、今の美奈は毎日が楽しくて仕方がない。永い病院生活に終止符を打ったあの「夢魔の女王」の一件は、内気で消極的な美奈の日常を根本的に変えてしまった。かけがえのない友人達と力を合わせて勝ち取った命がけの闘いは、美奈の心に「やれば出来る!」という太い心柱を生み出したのである。あの事件からリハビリも急速に進み、今の美奈は、車椅子がなければどこにも行けなかったかつての陰影は微塵もない。こうして学校生活に戻った美奈は、周囲の心配をよそにすっかりクラスにも溶け込み、弓道部の新入部員として新たな友人達と共に、充実した毎日を送っていたのだった。
(今夜は久しぶりに麗夢さんに会いに行こうかな。アルファ、ベータにも会いたいし・・・)
 昼の生活の充実に反比例して、かつては日課であった「夜の散歩」はすっかりご無沙汰になっていった。もちろんあの力ー他人の夢の中を渡り歩く能力ーを失ったわけではない。ただ今は、夜の夢が美奈の唯一の楽しみで無くなっただけのこと。それでも、夢の中でアルファやベータと転げ回り、自分よりも遙かに強い力を持つお姉さん、綾小路麗夢とお話しするのは、新生活に勝るとも劣らない楽しみと言えた。そのためには、まずさっさと宿題を片付け、充分な睡眠時間を確保しなければならない。美奈は、よし! と握り拳を作って気合いを入れると、元気よく自宅への道を急いだ。
 こうして、あの角を左に曲がれば程なく自宅が見えてくる、という所まで来た時だった。
 その角に、腕組みしてこちらを向いている背の高い男がいた。美奈は、男の視線が自分に注がれているような気がして、何故か軽い不安を覚えた。ひょっとして、最近巷間を騒がす変質者の一人だろうか? だが、あの角を曲がらずには家にたどり着けない。日は落ちつつあるが、まだ外灯が点くほど暗くもなく、あたりには、近所の公園で遊ぶ子供達の歓声や、買い物に急ぐ人達もちらほらと見受けられる。何よりすぐ近くには交番もあって、通りかかると必ず挨拶を交わすなじみのお巡りさんもいる。美奈はそんな周囲の状況を改めて確認すると、漠然とした不安を押し殺して、その男の脇を素早く通り抜けた。思わず駆け足になりそうなところをぐっと堪え、後ろの様子をそれとなくうかがう。が、どうやらなんでもなかったらしい。美奈が自分の自意識過剰に軽く苦笑したその時。
「君、ちょっと待って!」
 ドキッとした美奈は、身を固くして立ち止まった。思わず悲鳴を上げそうになった口を慌ててつぐむ。恐る恐る振り向いた美奈の目に、さっきの背の高い男がゆっくり近づいてくるのが映った。
「な、何か用ですか?」
 気丈にも返事を返したが、声の固さは隠しようもない。男も緊張した美奈の警戒ぶりに気づいたのであろう。細面のやや険のある顔に精一杯笑みを浮かべ、美奈に言った。
「君、私の顔に見覚えはないかね?」
「?」
 怪訝な顔をして、美奈は改めて相手の顔を見た。そう言われれば、どこかで見た気がする。でも一体どこで? 少なくとも、病院や学校で会ったことはない。
「判らないか・・・。もう四ヶ月にはなるからな。ほら、夜中に私の顔を見ただろう? 思い出せないかね?」
 四ヶ月前? 美奈は小首を傾げた。四ヶ月前ならまだ病院のベットにいた頃だ。そんな時分の夜中に会うなんて、当直の看護婦さん以外に一体誰と会うというのだろう? だが、程なく美奈は、確かにこの男の顔を見たことがあると気がついた。
 夢だ。
 「夜の散歩」の最中に、偶然この男の夢を覗き、その顔を見たことが確かにあった。すっかり忘れていたのだが、男の姿に漠然とした不安を抱いた時点で、美奈は無意識に思い出していたのであろう。
「し、知りません。おじさんと会った事なんて無いです」
 美奈は警戒の鎧を一段とそばだてて半歩足を引いた。
「いや、その顔は思い出した顔だ。私の夢を、そして、私が君の視線に気づいた事もね」
 さっと美奈の顔色が変わった。まさに男の言葉は、美奈の予測した最悪の答えを返してきたのだ。美奈は否応なくその時垣間見た夢を思い出していた。あの、恐ろしい光景を・・・。
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1.夢見小僧 その2

2007-09-23 22:45:12 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
(ああ、麗夢さんか、せめて円光さんが居てくれたなら・・・)
 榊は、今やただの愚痴でしかない一言を、胸の奥に呑み込んだ。もっとも鬼童はただの野次馬というわけではない。超心理物理学という学問の研究者であり、広範な科学的知見をベースとした有益な助言や手助けを、榊も多々この若者から与えられている。一人の少女を核とした運命共同体の、彼は重要なワンピースなのだ。今回もこの怪盗の跳梁を阻止すべく、その冷徹な科学の目で、夢見小僧の手口を検証して貰うのが彼の役目なのである。「怪奇よろず相談」の看板を掲げる私立探偵、綾小路麗夢や、底知れない法力を誇る謎の僧侶、円光の助力は非常にありがたいのだが、この二人の超常能力はどう足掻いてみたところで榊には望むべくもない。だが、科学的に分析されたデータならば、常人の榊にも充分手が届く「力」になるはずだった。ただ、さしあたり鬼童は観察者として今回の犯行を見学するばかりで、恐らくその阻止のためには何の役にも立ちそうにない。あくまでも「次」の為の今日でしかないのだ。まだこの犯行も済んでいない内から次の備えを考えねばならぬのは余りにしゃくなのだが、特別な力に期待もできない以上、せめて少しでも明日に繋がる努力をしておきたいというのが、いじましき榊の思いであった。はたしてそれが目の前の若者に通じているのかどうか・・・。榊はまた時計に目を落とした。いつの間にか時間が過ぎて、榊の腕時計は12時のところで長針と短針がまさに触れなんばかりに寄り添い、そこへぴたりとランデブーを果たすべく、秒針が4時の辺りを足早に駆け抜けていた。
「警部、そろそろですよ。準備はいいですか!」
「お、おう! 各員警戒を厳に! 来るぞ!」
『了解!』と威勢良く連呼する通信機のスピーカーに耳を傾けつつ、榊は目の前のガラス張りショーケースに収まった、小汚い古代の枕とやらと、時計の間に慌ただしく視線を交錯させた。チラ、と視線を送ると、さすがに鬼童も面もちを引き締め、来るべき瞬間を見逃すまいと目を凝らしている。榊は少し安心しながら、時計の秒針が9時を回ったところで目をショーケースに固定した。
(14、13、12、11・・・)
 すっとこめかみに汗がしたたり落ちる。無意識に拳へ力が入り、噛み締められた奥歯がギリリと音を立てる。
(7、6、5、4、・・・)
 目はじっとショーケースに注がれつつも、羽一つ落ちた音さえ聞き逃すまいと耳を澄ませる。
(2、1、0!)
 榊は息を詰めて自分の力の及ぶ限り気を集中させた。無意識に、また頭の中で1、2、3と数を数え続ける。それが30を超えたとき、ふっと息を付く音に続いて、聞き慣れた声が榊の集中に水を差した。
「警部、何も起こりませんね」
「油断しちゃ駄目だ鬼童君! まだ犯行時刻は過ぎていない!」
 だが、更に30秒が何事もなく過ぎ去ると、さすがの榊も疑念がもたげるのを抑えきれなかった。
(まさか・・・いやしかし、これまで遅れたことはおろか、予告だけで犯行が実行にうつされなかったことはない。いや、これも犯行を成功させるための手口なのかも。さしもの夢見小僧もこの警戒振りを見て、我々の油断を誘う気になったか?)
 こうして更に10分粘った榊だったが、やはり全く静謐に時間だけが過ぎて、何も起こりそうな気配がない。念のため、通信機で各所の警戒部隊に連絡を取ったが、どこから返ってくる言葉も、判で押したように「異常なし」の一言だった。
「どうやら、今日は犯行を中止したようですね」
 鬼童が見るからにがっかりした様子で榊に言った。
「い、いや、そんなはずはない! きっとどこか離れたところから、こちらの隙をうかがっているに違いない!」
「でも、これまでだってこれくらいの警備は苦もなくすり抜けてきた怪盗なんでしょう?」
「それはそうだが・・・」
 鬼童に指摘されるまでもなく、こちらの油断をあの怪盗が毛ほども必要としていないことは分かり切っていた。だが、だからといって何ができるというわけでもない。
「とにかく、完全に安全が確認されるまで警備は続行する。鬼童君もそのままそこにいてくれ給え。下手に動くと、怪盗に間違われて留置所に放り込まれるぞ」
 鬼童はやれやれというように肩をすくめると、いざというときに使おうと思っていた各種計測機材を片付けにかかった。横目でそれを眺めつつも、榊はそれを咎めようとしなかった。今夜は来ない。榊の勘が、確かにそう告げていたからだ。それでも榊は、職務上警備を続行し、ようやく警戒態勢を解いた時には、東の窓から明るい陽光が差し込んできていた。
(一体どうしたと言うんだ? 今日に限って休んだとでも言うのか? 夢見小僧!)
 榊の心の叫びは、その後長く封印されることになった。その夜を境に、あれほど跳梁跋扈していた夢見小僧の消息が、ぴたりと消えてしまったからである。
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1.夢見小僧 その1

2007-09-22 22:51:58 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 午後11時50分を少し過ぎた辺りで、榊は30秒前に見たばかりの腕時計に再び目をやった。なめらかに動く秒針がさっきと180度反対方向に向き、長針がほんの僅か、12時の方へ動いた他は何も変わりはない。文字通り一秒も休むことなく律儀に時を刻む愛用の時計であったが、今の榊にとっては、苛立ちを募らせる数多くの一つに過ぎなかった。続けて榊は、手元の通信機を取り、この一時間というもの何度繰り返したか知れない一言をまた口にした。
「何か異常はないか?」
 間髪を入れず、『異常なし!』の応答が、要所に付いた部下達から返ってくる。度重なる問い合わせにも関わらず、その声音にうんざりしたような色は微塵も感じない。いや、むしろ予告の午前〇時が迫るにつれ、まるで豪雨下の堤防のように、急速に緊張の度合いを高めているようだ。上野公園は今、国立博物館を中心に、決壊寸前の厳戒態勢下に置かれていた。相手はただ一人。警視庁では怪盗二四一号と呼称する、盗みの常習犯である。だが巷間には、無味乾燥な番号よりも、愛称の方がよほど良く知られているだろう。正体不明、手口も不明。狙った獲物は一〇〇%必ず盗み出し、いずことも知れず消える怪盗。その名も夢見小僧という令名である。
 夢見小僧には、確かに怪盗と呼ばれるに相応しい所行が目に付く。
 まず狙ってくる獲物が、単なる金銭的価値によって計ることの難しいものが多い。確かに高級な宝石や骨董品は多いのだが、中にはなんでそんなものを? と首を傾げるような物が狙われることがある。今回もまさにそれで、歴史的価値はともかく、金銭的にはほとんど無価値に近い。中国の始皇帝陵から発掘されたという古い枕を欲しがるような好事家が、一体世界に何人いるだろう? しかもそれは、かの方士徐福が始皇帝に取り入るために献上した、邯鄲の夢枕、という怪しげな曰くつきの代物だ。中国の歴史的価値と言う点からすればそれなりに価値もありそうだが、少なくともお金に換算できるような代物ではない。
 それから、必ず犯行を予告するメッセージを送りつけ、今日の上野公園のように一〇〇名を超える厳戒警備を強要するところも、怪盗の名に相応しい。しかも、絶対侵入不可能な密室にも難なく滑り込み、誰にも気づかれることなく目的の宝物を盗み出してしまうのだから、もはや言うこと無しだ。夢見小僧が犯行を成功させるたび、推理作家や犯罪研究家がその手口を解明すべく頭をひねったが、これまで、誰一人としてその謎を解き得た者はいない。散々考えあぐねたあげく、「これは魔法としかいいようがない!」と両手を上げた者もいたが、「いや、きっと何かトリックがあるはずだ!」と頑張る者達でさえ、内心では正直に降参した者の言葉に納得していた。そう。床下、天井裏、各種配管、それも到底人が通り抜けられない小さな所まで徹底的に洗い出し、侵入路を潰した密室の中央で、二〇名の警官が取り囲み、じっと焦点を合わせ続けていた宝石が、誰一人として気づかぬ内に、あっと思う間もなく忽然と姿を消したら皆はどう思うであろうか。時間を止めたか、宝石を瞬間移動させたか、とにかく警備当事者にとっては魔法としか思えない手口で犯行が実施されてしまうのだ。警視庁の敏腕警部、榊真一郎でさえ、一再ならずそんな狐に化かされたような目に遭ってきた。それでも未だに彼が夢見小僧の事件で指揮を任されるのは、過去に二度だけ、夢見小僧の犯行を阻止し得たからに他ならない。警視庁広しと言えども、夢見小僧の野望を挫くことに成功したのは、ただ榊一人あるのみなのだ。「人智を超えた怪奇不可思議な事件は榊警部」と言う、本人には苦笑するしかない定評も、そう言った実績に裏打ちされているからこその事なのである。もっともその実績の裏に、実は真打ちが潜んでいることを知る者は、極めてごく少数だった。今宵いつになく榊が苛立っているのも、そんな絶大なる信頼を寄せる「お守り」が、今夜に限って傍らに居ないせいなのである。
「榊警部、少し落ち着きなさい。さっきから時計ばかり見ていますよ」
 知性溢れる落ち着いた声が、榊の右鼓膜を軽く震えさせた。反射的に振り向いた先に、鋭角的に整った顔立ちが微笑んでいる。榊は、そんな場違いな雰囲気に包まれた端正な顔を睨み付けた。
「鬼童君、君こそもう少し警戒したらどうなんだ。そんなにリラックスしていたら、肝心なときを見逃してしまうぞ」
「ご心配なく。僕は早く夢見小僧に会いたくて、うずうずしているんですから」
 額にかかった髪を軽やかに右手で掻き上げ、輝く白い歯を見せながら鬼童は言った。
「ワクワクするのは判るがね。約束は忘れんでくれよ。わざわざ部外者の君を特別に入れたのはそのためなんだからな」
「大丈夫ですよ警部。自分の責任はちゃんと果たします」
 自信たっぷりにそう言われては、榊も黙って向こうを向くしかない。
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次は目次です。様子を見ながらリンクしていきます。

2007-09-21 23:52:11 | 麗夢小説『ドリームジェノミクス』
 1.夢見小僧 その1 その2

 2.美奈 その1 その2

 3.ハンス

 4.死神現る その1 その2 その3 その4

 5.ドリームジェノミクス社 その1 その2 その3 その4

 6.異変 その1 その2 その3

 7.高原の夢 その1 その2 その3 その4 その5

 8.能力喪失・・・ その1
その2 その3

 9.ナノモレキュラーサイエンティフィック

10.怪盗の賭

11.突入!ドリームジェノミクス社

12.高原の秘密

13.死神の陰謀

14.奇跡

15.後日譚
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