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司法の品質管理を問う~2の壱

2007年06月02日 17時23分03秒 | 法関係
いつも拝見しているモトケン先生のブログですが、ご不満に思われていることがあるようです。

元検弁護士のつぶやき 一部の医師に一言いいたいcommentscomments

(以下に敢えて全文を掲載させて頂きます)

医療側の皆さんはこぞって言います。

 同じ病名でも患者によってその症状や治療方法は必ずしも同じでない
 同じ患者に対する治療方針についても医師によって判断は異なる

 これに異を唱える医師はいないと思われます。
 そしてこのブログの常連法曹もそのことを理解していると思います。
 少なくとも私は異を唱えるつもりはありません。

 法曹が本来的に扱っている法律紛争も同じだからです。
 最近コメントしましたが、法律上の争点が同じ事件でも、人(当事者だけでなく弁護士・検事・裁判官を含みます)が変われば解決方針が異なってくるのを身に染みてわかってますから、医療においても患者の個体差や医師の考え方の違いで当然治療内容は異なってくることは容易にわかります。

 しかし、一部の医師は、医療については個別判断の重要性と必要性を声高に主張するにもかかわらず、司法については個々の事件の特殊性や法曹の個性を一切無視した発言をします。

 大野病院事件を元にして、司法は検察はと言っていた医師は、富士見産婦人科病院事件における浦和地検の不起訴処分を見てどう思うのでしょうか?

 あえて名指しはしませんが、一部の医師の方については自らのダブルスタンダードを自覚していただきたいと思います。



確かにお気持ちは判らないではありません。これまで医療側の立場を考え、理解を示してこられたのに、司法側(特に裁判官や検察官)への批判ばかりが出されるわけですから、嫌気が差しても不思議ではありません。お察し申し上げる次第です。
とか言いながら、かくいう私も、「司法の「品質管理」を問う」とか、「Terror of jurisdiction ― 司法権力が医療崩壊を加速する」とか、書いてきたので批判的立場という点では同じなのですけれども。唯一モトケン先生のご指摘と異なっていることは医師ではない、ということだけです。「検察」とか「裁判所」とか、ひと括りで批判しています。申し訳なく思う部分はありますが、批判しなくても安心できる司法制度であるとも考えていないのは正直な気持ちであります。

そのような批判は妥当ではないという意見はごく標準的なものであると思いますので、仰るのも判るな、と私も考えますが、気持ちを理解できることと批判は別であると考えていますので、いくつか意見を述べておきたいと思います。法学的な用語とか考え方等については、何らの知識も有しておりませんので誤りは多々あろうかと思いますが、それでも、敢えて書いておきます。


1)司法に許される裁量とは

モトケン先生は(主に医療側が)『司法については個々の事件の特殊性や法曹の個性を一切無視した発言をします。』と指摘されており、『法律上の争点が同じ事件でも、人(当事者だけでなく弁護士・検事・裁判官を含みます)が変われば解決方針が異なってくるのを身に染みてわかってますから、医療においても患者の個体差や医師の考え方の違いで当然治療内容は異なってくることは容易にわかります。』とも述べておられます。これに異を唱える積もりはありませんし、不確実な部分が多く含まれている、ということで、紛争解決などに結びつくのであれば良い面もあるのかもしれません。でも、許容されざる部分というのがあると思うので、それについて書いてみます。

・刑事事件について

例えば同一行為について、東京では傷害罪が成立しないけれど、大阪では成立するといった違いが許容されるのか、ということがあります。これを「検察官が違うから」とか「裁判官が違っているから」などという曖昧な理由を基にして、違った判断が許されていいということにはならないのではないかと思います。刑事裁判において、基本的には法曹の個性などという主張は問題があるのではなかろうかと思われます。量刑判断において、ある裁判官は懲役3年、別な裁判官は懲役5年という違いが生じる可能性というのはあるでしょう。それは「個々の事例に応じて」判断されるべきことであるので、判断が分かれるという理屈ならば理解できます。

しかし、「刑事責任」の成立か不成立かということについて、個々の法曹の個性を反映されては困るのは当然です。司法制度そのものの恣意性を広く認めろ、ということなのでしょうか。医療(行為)などと決定的に違うことは、検察も裁判所も「権力の行使」であるのであって、適用される側(容疑者側)には選択の自由もなければ自分の意志によって避けることもできないものである、ということです。医療においては、受ける側に自由に回避したり拒否したりする権利を持ちますが、刑事裁判では受ける側にそのような権利は持ちません。適用する側に、一方的な権力行使の権限が附与されている、ということです。そういう危険な権力であるが故に、行使する側(警察や検察側)に厳密な手続などを課されている、ということなんだろう、と思っておりました。

そうであるなら、例えば検察官の個性とか恣意性などというものを認めることは、そもそも問題なのではないかと思えます。犯罪として成立しているかどうか、という理屈は、ある一定の「法学的理論」に基づくものでなければならないはずであり、それは一人の検察官だけに通用する理論などではなく、「圧倒的大多数の法曹」に通じる理論でなければならないでしょうし、それは法曹以外の一般人が認識可能なレベルのものであるはずです。法律を詳しく知らなかったとしても、普通の人が考えれば「回避可能な水準」ということです。適用される理屈というものが、誰が聞いても明瞭に理解できるのが当然なのであって、多くの人々が理解できず特定の検察官にしか思いつかないような理屈で刑罰を与えられる可能性があるとすれば、危険なのではないかと思います。

◎強制力が働く権力行使なので、曖昧であることの方が危険であり、法曹の個性などは排除されるべきではないか
◎適用される理屈というものは簡明平易なものであるべきで、一般人においても容易に理解可能なものであるべきではないか
◎量刑判断においては、個別の事例に応じて斟酌するべき諸般の事情等で多少変わることも有り得るが、大筋としては法曹のみならず国民全般にも一定の合意がある必要があるのではないか(例えば死刑適用の基準とか)

・民事事件

テレビの「行列~」なんかで判断が分かれたり食い違うことの方が大多数であるので、これが「個々の事例の違い」とか「法曹の個性」といったものの一部なのではないかと思えます。主に「苦痛に感じた」とか「恥ずかしい思いをさせられた」というような、定量化・数値化が困難な部分を判断せねばならなかったりするので、違いを生むということはあるのだろうな、と思います。医療において、「痛み」を正確に測れないのと似ています。限度(限界?)・境界線というものの基準とか、元々曖昧なものの区分けを行うことには、曖昧さが多く残されるものであろうと思います。

判断の材料としては、多くが研究などによって理論が確立されていないものであるため、判断に違いを生じえることは理解できます。そうではあっても、判例などの研究によって、一定範囲に収束していくべきものであると考えられます。それを行えるのは、司法側の人々であり、特に裁判官たちの考え方が変わるとかまとまっていくということにならなければ、国民の側から「変えさせる有効な手段」というものは持ち得ないでありましょう。

◎主に「価値判断」などの、理論化されていない事柄を取り扱うので、判決に個別の違いを生じ得る
◎司法の判断基準は国民の側からは変えさせることができない


長くなったので、分割して次に。



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