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八ッ場ダム問題に関する雑感~その2

2009年09月22日 14時26分55秒 | 政治って?
前の記事に、いくつかコメントを頂きましたので、お答えを兼ねて書いてみたいと思います。
コメントを一部再掲いたします。

一つ目がこちら。

>今まで関わった政治家を全員政治の世界から永久追放したらいいんじゃない
>それぐらいの責任を持たせないと政治家なんて変わらないでしょ


次がこちら。

>そもそも今回のダム中止最大の被害者は地元住民ではなく、我々国民であるということ。
>我々の血税が、無駄に使われコンクリートの塊になってることを憂慮すべきだ。
>元々、国交省の役人、ゼネコン、町役場、政治家、族議員らが、自分達の利権だけを考え、
>身勝手に無計画に税金を湯水のごとく使ったことが問題である。
>責任者、計画者、実行者すべての氏名を公表し、その責任の所在をはっきりさせ、その者達の資産凍結、没収を要求すべきだ。


コメントの印象としてはどちらも、トコトン「責任追及」、厳罰主義、といった感じです。そういうのが好まれるのかもしれません。こうした傾向は、コメントをされた方々に限らず、例えば「かんぽの宿」問題で西川社長の責任が問われた時に、出来レース的にオリックスに売却を決定したことよりも「そういう無駄な『かんぽの宿』を作った者たちの責任を問うべきだ」というような主張をしていた人間―例えば元大臣の竹中―と、非常に良く似ていますね。数十年前の、担当者・責任者たちの徹底追及を行え、という点において。


とりあえず論点を分けて、書いてみます。

1)悪かったのは誰か?

最初のコメントでは、「関わった政治家」が挙げられており、2つ目では、「国交省役人、ゼネコン、町役場、政治家、族議員ら」で、責任者、計画者、実行者全てについて、氏名公表、資産凍結、没収要求、といったかなり過激な意見が出されています。かなり広範囲に及ぶ人々の責任を問え、ということでしょうか。

さて、ダム事業はどうしてこれまで行われてきたかといえば、旧建設省とか国土交通省が推進してきたから、ということになりましょう。責任を問うた時に、何と答えるのかを考えてみるといいのではないでしょうか。

役人に尋ねました。「どうして八ッ場ダムを作ったんだ?」

 (ア)「予算がつけられたからだ」

では、どうして予算が国会で認められてしまったんでしょう?

 (イ)「与党国会議員が賛成したから」

与党での決定に影響を持っていたのは誰でしょう?
有力議員とか族議員とか、そういう政治家たちがいたから、でしょう。

では、どうして族議員等はそういう事業を推進したがるのでしょう?
地方の要望、首長や地方議会の陳情等の働きかけなどがあるから、ということかもしれません。更には建設業界等の利権団体の影響もあったのかもしれません。これらをひっくるめて、議員にとって有利になることといえば、何でしょうか?

 (ウ)「選挙に勝つ為の票になるから」

ということになってしまうのですよ。そういうのがあるから、議員はせっせとダム事業を推進したがる、ということになるわけです。議員が活動すれば、ダム工事で金が落ち、潤う人たちがいるから、ということになり、これに役人たちも協力しようとするからでしょう。


でも、元を辿れば、そういう議員を生み出しているのは誰か、というところに行き着くことになり、それは「選挙民が票を入れるから」ということになってしまうわけです。選挙民が、政治のカラクリなどについてよく知らなかった、ということはあったでしょう。政治の裏側で何が行われてきたのかということについて、よく知らないとか、無頓着に過ぎてしまったとか、色々な理由はあるかもしれませんが、地方の首長や地方議会議員たちも含めて、選挙民の多くが「愚かな選択を続けたからだ」ということになります。
ダム工事が無駄だと考えるのであれば、政権を交代させる為に社会党や共産党を選ぶとか、族議員を落選させるとか、そういう投票行動を行うべきであったのだ、ということです。また、そういう無駄を生み出す予算案を通させないような活動を、選挙民が行うべきであったということです。

究極的な答えとしては、「有権者たちの選択が誤りであったから」という所に行き着いてしまうわけです。この責任を問われずともいいのかということを考えてみるべきではないか、ということになるかと思います。

たとえ官僚とか役人たちの権限が強力で、族議員たちの悪巧みなどがあったとしても、いとも簡単には「身勝手に無計画に湯水の如く」税金を使えるほどの権力を有してはいない、ということです。手続き的には、法に則り正統性はある、ということなのです。これを今から「弁償せよ」ということで、財産没収とか言い出すのは、革命国家とかテロ国家みたいなものしかないのではないかと思います。
C型肝炎問題の時にも、旧ミドリ十字の資産を差し押さえろ、とか言っていた人がいましたが、そういう思想傾向も近いものがあるかもしれません。

政治家の永久追放というような厳罰も、何か「無駄な支出」を一度でも議決してしまったりすると、それで「お前は無責任だ、だから永久追放だ」ということにすべき、と言うのでしょうか。そんなに重い責任を持たされるのであれば、議員になる人はいなくなってゆくのではないかな、と思います。「ダメ議員を選んだ選挙民は永久追放すべきだ」ということにならないのは、どうしてなのかな、と思わないでもありません。自分の日常生活の中でさえ、「ああ、あんまり役に立たない○○を購入してしまった、私ってバカだな~」みたいに感じることはよくあるのではないかと思えますが、そういう「支出の選択」を毎回毎回完璧にしろ、ということを求めるわけですから。普通の人間には無理でしょう。しかも、40年後、50年後になってからでさえ、「当時に判らなかったお前が悪い、財産没収~!」ってなるわけですから。

それは恐るべき暴力国家ですよ。



2)「無駄になった」という事実を誰が証明できるか?

最大の被害者が国民であり、「血税が無駄になった」という指摘をする人は、コメントに限らず、かなりいるだろうと思います。だからこそ、ダムを中止せよ、と主張するわけですから。

ここで一つ、かなり厳しい質問をしてみたいと思います。
これから40年以内に集中豪雨による水災害が起こって、この流域に洪水が発生し、3人が死亡したとしよう。だが、ダムがあれば氾濫しなかったかもしれない。
この時に、「ダムに1千億円かかるよりも、3人死亡で済んだから、安上がりだった」と言えますか?
そういう覚悟で「ダムは無駄だから要らない」と言うべきだ、ということなんですよ。

仮に40年後に水災害が発生し、その被害額が3000億円になってしまうとして、これがダムがあれば防げるのであれば、現時点での1000億円投入は「無駄にはならない」かもしれない、ということを言っているんですよ。そういう将来時点での損失額をカバーできるかどうか、ということについて考える必要がありますよ、ということです。建設コストや維持管理に係るコストが発生するとしても、これから事業継続をした場合に必要となる金額が、将来時点で発生する水災害の被害・復旧コストよりも小さいのであれば、ダムの存在価値が「無駄になる」ということにはならないでしょう、ということを言っているのですよ。

更に言えば、将来時点で死亡する人の命の値段と、ダムのコストとの比較をせよ、ということを求められるわけですよ。
それが、本当にできていますか?
立ち退きを命じられる村々の人々は、多くがそういう苦渋の決断を迫られてきたのではありませんか?
「下流域の人々が洪水で死んだらどうするんだ、責任を取れるのか」ってね。
この時に、将来時点の失われる人命の重さを考えれば、ダム建設に反対するのは容易ではないわけなんですよ。ダムが無駄なんだ、2000億円の方が大事なんだ、という人々は、命の重さよりも「たった今、現在のお金の方を大事にしたい」と言っているのと同じなのだ、という自覚を持つことが必要ですよ。
このことの意味が、本当に判っていますか?


例えば平成16年に起こった新潟の水害は甚大な被害をもたらしました。数百億円、数千億円規模での被害額でした。それにもまして、尊い人命が失われました。中越地震災害も大きいものでしたが、水害だって決して甘いものではありませんでした。こうした被害を、ダムの存在がどの程度縮小できるのか、どのくらい防げるのか、ということは不確実な部分が多いので、正確に「金額に置き換える」というのが困難なのですよ。それでも、優先順位を定めて、できるだけ費用を圧縮できるように事業をスリム化せねばならない、ということなのです。

その為には、例えば単位時間当たり降水量の推定や条件設定による違い、流域・地域の耐性というか水増量に対する許容限度(?、正しくは何と言うか知りません)、下流域の経済規模や推定される損失額(水害を受けた場合に先端工場など地域産業にダメージが大きければ、防災対策の優先順位は上がる)、みたいなものを専門的に比較検討しない限りは、判定できるはずがないのです。他の水害対策では耐えられないのか、といったことも、一般人などに判るはずがないのです。

近年では、俗に「ゲリラ豪雨」と呼ばれる集中豪雨が問題にされますが、時間降水量が200mmで耐えられる治水対策なのか、それとも500mmに耐えられるようになっていなければマズい地域なのか、もっと許容限界を大きく取る為に24時間降水量を700mmくらいを想定すべきなのか等々、条件によって対策も優先順位も異なるでしょう、ということを言っているのです(数字は全くの適当です)。

こういう数字の検討や比較が、本当に出来ているのでしょうか?
これを理解して、「ムダなダム」と言っているのか、ということなんですよ。


今日の朝日の社説にあったようですが、伊勢湾台風の被害は甚大で、昔の治水は十分ではなかったからこそ、死亡や行方不明者が数千人規模であったわけです。そういう災害対策が改善されてきて、水災害で数百人規模の死亡といった被害は殆どなくなりました。昔みたいに、何百人、何千人と亡くなる人たちがいたのとは違うのですよ。こういうのは、何らの努力もなしに達成できるようになったわけではありません。治水等の河川の氾濫対策とか、大規模災害を食い止める為のノウハウ蓄積とか、そういう色々のことがあってこそのものだろうと思います。その一部には、ダムや堤防事業なんかも含まれているのですよ。こういうのが、必ずしも無駄だとかいらないということにはならないでしょう、ということです。それでも、毎年毎年、水災害で死亡する国民はいるのですよ。勿論、全部がダムで防げるものではありませんので、過剰な「警備システム」みたいになるのはよくない、という話であって、費用対効果の効率性も考えましょうね、というだけです。

ですから、責任追及や厳罰に傾いても意味がないし、ムダと決め付けるという姿勢や考え方をまず見直すべきで、もっとデータや数字をよく吟味してから、「必要性は乏しいですね」といった意見をまとめるべきではないか。
そういう落ち着いた意見が、ダム問題では全く見られない、ということを問題にしているのである。