シネマ日記

超映画オタクによるオタク的になり過ぎないシネマ日記。基本的にネタバレありですのでご注意ください。

マイフレンドメモリー

2006-11-30 | シネマ ま行
体は人一倍大きいが幼いころのトラウマがあり、引っ込み思案で勉強もあまりできないマックスエルデンヘンソンは隣に引っ越してきた体が小さく腰のところから折れ曲がっている不治の病に冒された少年ケビンキアランカルキンと出会う。ケビンはそんな体ながら、快活で頭脳明晰で少しトロいマックスを刺激した。うまく歩くことができないケビンをおぶってマックスはケビンの脚となり、ケビンがマックスの頭脳となり二人でいじめっ子たちを撃退したりした。マックスはケビンと出会ったことで明るくなり、本を読む楽しさを教わり、さまざまな世界を知るようになる。

ケビンのお母さんにシャロンストーン。気丈にケビンを見守り好きなことをさせてやりながらももちろん誰よりも心を痛め心配しているシングルマザーを演じていて違和感がない。シャロンストーンだから色気はもちろんあるのだが、それが嫌味にならず、姉御肌っぽい理解ある素敵なママになっている。

母親を亡くし、父親ジェームズガンドルフィーニが刑務所にいるマックスを預かって育てているおじいちゃん、おばあちゃんにハリディーンスタントンジーナローランズが登場してびっくりする。2人は冴えないじいちゃんばあちゃんを演じているんだけど、2人とも枯れ具合がカッコよすぎるのよ。特にジーナローランズがおばあちゃんだったら絶対にいざって時に理解してくれて助けてくれそうだもの。

ケビンとマックスの保護者たちは最強メンバーが揃ってるんだけど、物語はあくまでもこの2人を中心に進み、彼らはこの最強ガーディアンたちの助けを受けることなく2人だけで成長していく姿が語られる。マックスはケビンに勇気と教養を教えてもらい、ケビンはマックスに自分の弱い体の代わりになってもらえるのです。そして、何よりも重要だったのは2人にとってお互いが初めての友達だったこと。何よりも大切なかけがえのない友情を得るのです。

2人の友情が熟したころ物語は思わぬ展開を見せます。刑務所にいたマックスの父親が出所しマックスをさらってしまいます。彼はマックスのトラウマの原因。母親を殺したろくでもない父親なのです。それを知ったケビンが助けに向かう!

後半の展開は意外だったけど、とってつけたような感じはなく、ただの友情物語にいいスパイスになっていると思う。ケビンがマックスに教える「アーサー王と円卓の騎士たちの伝説」が全編を通して語られているのだけど、それともうまくリンクしていて演出のうまさを感じた。円卓の騎士に憧れて冒険をしていく2人の姿はほほえましくもあり、爽快感を味わわせてくれるシーンもある。父親のところで味方になってくれるジリアンアンダーソンも最後までいい味を見せてくれて嬉しいオマケのようだったしね。

ケビンは病気が悪化するところは涙なしでは見られないが、あとに残った2人の友情の物語に心があったかくなって見終わることができる作品です。

ジェームズディーン物語

2006-11-29 | シネマ さ行
「DEAN/ディーン」という題名でビデオ発売されているようなのだけど、ケーブルTVでは「ジェームズディーン物語」となっていたので、こちらの題名にしておきます。

この作品はアメリカのテレビでスペシャルドラマとして放映されたもののようですね。日本人で映画を見ない人でも名前と顔はほとんどの人が分かるであろうジェームズディーンの半生を描いた作品。彼の育った家庭環境や、俳優を目指していたころ、そしてエリアカザン監督の「エデンの東」でデビューを飾ってからわずか3本の映画出演でこの世を去ってしまったディーン。ワタクシは特に彼が好きってわけじゃないけど、彼の出演作は3本とも印象に残る作品であったし、ジェームズディーンがなぜ愛されたのかというのが十二分に伝わってくるものであった。

そのディーンを演じるのが「スパイダーマン」シリーズのジェームズフランコ。スパイダーマンに出ている彼を思い出すと黒髪なこともあってかジェームズディーンとは似ても似つかない姿だと思ったのだけど、これが実際ディーンを演じているフランコはすごい。髪を金髪に染め、グラビアなどでもよく映っているあのメガネをかけ、両腕を自分の体にまわして上目使いで何かをお願いするようにこちらを見る。するとたちまちあのワタクシたちが知っているジェームズディーンがそこにいた。いや、やっぱり顔そのものは似ていないのかもしれない。それでも全体の雰囲気があの刹那に輝いたジェームズディーンに見えるから不思議。そういえば彼って「スパイダーマン」でも悲しげな瞳をしていたっけなぁ。

彼はただ父親に愛されたいだけだった。彼はただ演劇が好きで車が好きで、純粋に恋をしただけだった。彼はハリウッドのプロデューサーの思惑なんかどうでも良かった。セレブの地位などどうでも良かった。そんな彼は大人になりきれない駄々っ子のように見えるのだが、いったんシーンが始まると天才的な輝きを見せた。エリアカザンが彼を使ってベテラン俳優を挑発するシーンがあるが、それだけ彼の才能を信じていたということなんだろう。

最後のほうで彼の父親が妻が死ぬ前にジェームズが自分の子供じゃないと言われて、彼に優しくできなかったと告白して二人は和解するような感じのシーンがあるけど、でも、お父さんは妻が元気で自分の子供じゃないって知る前からずっとジェームズに冷たかったやん?って疑問が残っちゃいました。

アクターズスタジオに一緒に入る仲間でマーティンランドーが出てきていましたが、現在の彼を見ると、“あ~ジェームズディーンが生きていたらこれくらいの歳になってるんだなぁ。どんな雰囲気のおじさん(もうおじいさんと言ってもいいくらいだね)になっていたことだろう”と感慨にふけったりしてみました。

デスノート~The Last Name

2006-11-28 | シネマ た行
前編をTVで見て、後編はまたTVで放映になったときに見ようと思っていたらタダ券をもらったので行くことにした。水曜日で祝日の前日だったし多分人気もあるのだろう、会場はものすごく混んでいた。全体的には高校生くらいが多かったように思う。確かに漫画が原作だし、高校生とかに受ける内容ではあるだろう。でも、幼稚なことはなく大人でも十分に楽しめる内容だと思う。

以前言ったように、ワタクシは原作を中途半端なところまで読んでいる。この後編の最初のほうである、月(ライト)藤原竜也とミサ戸田恵梨香が監禁されて、月がデスノートの所有権を手放すあたりまでだったと思う。前編を見たときも原作と少し違うとは言え、だいたい先が分かっているのでドキドキ感はまぁまぁだったのだけど、今回原作を知っている部分以降はどうなんねんやろぉぉぉとかなり緊張感を持って見ていたし、物語の進行具合も十分見ているこちらをドキドキさせるものでワタクシは最後までかなり楽しんだ。

月とエル松山ケンイチの命をかけた勝負はどちらが勝利してもおかしくないほど拮抗し、どちらが勝ってもワタクシは多分納得したと思う。順当にエルが勝つとしても、一筋縄ではいかない月のことだからそれまでの展開は頭をひねるものであったろうし、月が勝つとしても、それはそれで皮肉のこもったラストになって面白かっただろう。

こういう現実離れした話だから、つきつめて矛盾点を突こうと思えばきっとできるのだろうけど、単純なワタクシがすぐに思いつくほど浅い部分には矛盾点は思いつかない。思いついたと思うとたいがい先回りしてデスノートに説明されてある。ワタクシは十分楽しませてもらったので、わざわざ細かいところを分析して矛盾点を突こうとは思わない。このお話はこれでいいと思う。

今回は、前編よりもエルを演じた松山ケンイチの演技が冴え渡っていたと思う。そして、片瀬那奈も意外に演技がうまく(意味のないお父さんたちへのサービスショットもそつなく(?)こなし、本当になんなんだろ?あの脚見せシーンは?)、この人キレイなだけじゃないんだと初めて知った。ミサ役の戸田恵梨香もこれまた意外に演技がうまく、美人というわけではないのに変にセクシーというか、妙な色気のある子でこれからが楽しみだ。

以前に、映画を1本にまとめないのは反則といったようなことを書いたことがある。その気持ちは今も変わらない。でも、このシリーズを楽しんでしまったのでそう言う資格はもうないかな?

こうなると、ますます原作の終わり方はどんななのかと気になり始めた…

オマケそれにしても、どうしてドラマや映画に出てくる“群集”どもはあんなにアホ丸出しに見えるんでしょうか?

ホテルルワンダ

2006-11-27 | シネマ は行

「本当にツチ族を殲滅できると思ってるのか?」
「どうしてできないってんだ?」
そんなふうに思う人間はいつの時代にもどこの場所にも存在する。人間同士の殺し合いは絶対に終わらない。たとえ、西側の軍隊が助けに来ていたとしてもそれも新たにフツ族を殺すだけだっただろう。最後に登場したツチ族の反乱軍もまるで救世主のように見えたが、フツ族を殺し鎮圧するだけだ。そこには間違いなく終わることのない憎しみが残る。

その殺戮の中にあってもお互いを助け合おうという人々はいる。
思いがけず英雄的な行動をすることになる人間もいる。

「このニュースを見ても“あぁなんてヒドイんだと言ってディナーを続ける」人たちもいる。ワタクシもその一人だ。自分のところに火の粉が飛んで来るまでは。(その時ではすでに遅い場合がほとんどなのだろうが)

西側の軍隊が外国人だけを安全にルワンダ国外に脱出させるためだけにやって来て去っていくとき、涙があふれたけど、その西側、先進国の政治経済に恩恵を受けて生きているワタクシに何を言う権利があるだろう。政治の決定を責めても、自分がその軍隊に入る気も、赤十字のボランティアになる気もないのだから。

社会問題とか政治問題とか差別問題とかを論じるべきなのかもしれないけど、的外れかもしれないけど、正直な感想は今あるこの“生”をできる限り楽しもうと思ったことだった。   


007カジノロワイヤル

2006-11-24 | シネマ た行
ネタバレあり。

うん。まぁ、悪くないとは思います。。。

あの最初のほうでジェームズボンドダニエルクレイグが追っかけてた人ってヤマカシ?あんなの絶対ヤマカシだよな。彼の逃げっぷりかなり楽しませてもらいましたよ。ボンドの追っかけぶりもまぁまぁ良かったし。

ワタクシは007のファンではないので、別に007がダニエルクレイグになろうが、ジュードロウになろうが、ブラッドピット(あ、さすがにアメリカ人はあかんか)になろうが、「えーーーっ、イメージと違うぅぅぅ」とか嘆くことはないですね。この前までのピアーズブロスナンは彼のことが好きやから「いいんちゃう~」と思ってたけど、別にこのシリーズが飛びぬけて面白い映画だと思ったことは特にないなぁ。ところで、このピアーズブロスナンってピアースブロスナンやったか、ビアースプロスナンやったか、もうどこにテンテンをつけるのかマルをつけるのか分からなくなるのはワタクシだけでしょうか?って今回の007には何の関係もないですが、、、

話をカジノロワイヤルに戻しまして、、、今回はボンドが007になる前からなりたてのお話というわけなんですが、時代はすっかり今現在なんですね。このシリーズに時代考証なんて求めてはいませんが、わざわざMジュディデンチに「冷戦がなつかしいわ」とか「9・11後に…」とかって言わせて、なんとなぁく今現在らへんの時代なんやなぁということを匂わせています。今までのジェームズボンドと同じ人と考えていいのか、“ジェームズボンド”という名前を歌舞伎のようにスパイたちが襲名しているのか、分からなくなっちゃいますが、同一人物と考えていいのでしょう。

ボンドを誰が演じても別にいいんですが、007シリーズと言えば荒唐無稽な武器とかが出てくるイメージがあって、今回はそれがほとんどないので、もう007を見てるんだかなんだかよく分からなくなって来ました。これ、このままトムクルーズが演じて「ミッションインポッシブル4」でもいけるよ、みたいなね。

ボンドガールのエヴァグリーンは化粧してドレスアップした姿よりも、素顔のほうがずっとキレイでしたね。「キングダムオブヘブン」のときの写真も化粧が濃いので分かりにくいですが。

そして、永遠のボンドガール、われらがMを演じるジュディデンチは今回も颯爽としてカッコ良かったあの演技派が真剣な顔してボンドにムチャクチャな指令を出すんですよ、いつものように。素敵。

シリーズを通して、どうしてボンドがあんなに女ったらしで、自分の名前をどこに行っても言わずにはいられないような自己顕示欲の強い奴なのかというのが、今回ボンド自身の言葉で語られますね。「この仕事を長くやると腐ってしまう」って。

オマケあの例の音楽が聞けなかったんですけど、なんか理由があるんでしょうか?残念でした。

王の男

2006-11-22 | シネマ あ行

ネタバレあり。

16
世紀の韓国。暴君である王様チョンジニョンをネタにして笑いをとっていた大道芸人チャンセンカムウソンとコンギルイジュンギとその仲間は、死刑にされそうになるが、王が笑えば罪ではないと言ったところためしに王の前で同じネタをすることになる。そのネタを気に入った王様は彼らを王宮に住まわせると言い出す。

この王様はお父さんは随分優秀な王様だったようで、母親を早く亡くし、父親には次の王として教育され、愛を知らずに暴君に育ってしまうという、いわゆるアダルトチルドレンという感じ。彼は、暴君でありながら、大臣たちは自分に偉そうに先王と比べて忠告するばかりで、自分の言うとおりにならないのが気に入らない。そういったところへやって来たこの芸人たちでウサを晴らす。愛して欲しいという思いが強い彼には子供のような側面があり、芸人たちを相手にしているときの彼は無邪気な子供のようでどこか可愛らしささえある。この王は政治には長けていなかったんだろうし、好き放題して、人の命も虫けらほどにしか思わず、もちろん民衆のことなどちっとも考えていなかったんだろう。でも、お茶目な面に好感は持てた。こういう人の怖さって逆にその無邪気さにあるのかもと思いつつ。そんな彼は女形のコンギルをいたく気に入って部屋に呼び寄せるようになる。

そうなると、王の第一の愛人は気に入らず、中世ヨーロッパや大奥にあったような陰謀を策略し始める。そこに他の大臣らの思惑もからみ、芸人たちもいらぬ政治に巻き込まれる。このあたりの展開は見ていてもよくある宮廷もののややこしさはなく、いたって分かりやすく描かれているのでこちらも入り込みやすい。

なんだかんだのゴタゴタのあと、結局この第一の愛人のところへ戻って、彼女のまたぐらに枕して「宴会しよっ」という王の姿にはホトホトあきれたというか、上に書いたように、こういうタイプの人の薄ら寒い怖さを感じた。

コンギルは女も嫉妬するほどの美しさで、どこへいっても好色な権力者の部屋に呼ばれてきたようだ。そんなコンギルに「行くな」といつも止めはするものの聞き入れられないチャンセン。この二人の関係は一体どういうのなんだろう?チャンセンがずっとコンギルを保護者的な感じで見守っていたのは分かるけど、やっぱりそれって恋愛感情的なんかなぁと思いながら、保護者以上恋人未満みたいな感じ?って思ってました。それで、ラストシーンで思ったんです。あー、やっぱりこれはラブストーリーだったのだなと。こうして共に芸をすること。それが、二人のメイクラブなのだなと。勝手に解釈してみたわけですがどうでしょうか?

芸人たちの芸も本格的で面白く、宮廷内の陰謀も楽しめるし、役者の演技もみなよくできていて見ごたえのある作品でした。


花嫁の父

2006-11-20 | シネマ は行
こういうのってハートウォーミングムービーで、娘を持つ父親の気持ちってあぁ複雑だなぁ、娘を持つ俺としては分かるなぁ、俺には娘はいないけど想像はできるなぁ、娘なんか持ってたらたまんないだろうなぁとかはたまた、あぁ、お父さんの気持ちを考えると私もお嫁に行くのがツライわぁ、とかって思いながら見なくちゃいけないんだろうけど、ワタクシなんかはちょっとばかしひねくれているせいかそのどちらの気持ちにもなれなかったから、特に心温まるというような楽しみ方はできなかったけど、この父娘の結婚式騒動については結構楽しめました。

なんといっても名優スペンサートレイシーが昔の礼服を引っ張り出してきて、どうだ、まだ着れるゾと言いたいプラスもう結婚式の費用が莫大になってきてるからこれ以上自分の礼服を買うなんていう出費は抑えたいという必死な思いから、明らかに誰が見ても小さすぎる礼服に無理やり袖を通して、懸命にお腹を引っ込めて、息を止めて、ほら着れた、これで新しい礼服は買わなくていいゾ、ジャケットの前は閉まらないけど、開けておいたほうがかっこいいしサ。っていうシーンが一番傑作だ。その次に傑作なのは、これまた膨大に膨れ上がった結婚式の費用に参ってしまって娘エリザベステイラーにお前いっそのこと駆け落ちしたらどうだ?って言うシーン。それを聞いた娘はびっくり仰天、ママ、パパが駆け落ちしろなんて言うのよって告げ口しちゃうから、これまた焦って「なぁに馬鹿げたことを言っとるんだ、パパがそんなこと言うわけないだろ」なんて必死でごまかす。パパが婿さんの収入を聞きだすのに、ハッキリと聞きだせず、30分も回りくどい話をした挙句結局聞き出せなかったのに、ママと娘はすでにそんなことは知っていて二人でその話で盛り上がっていたりという場面はダメパパぶりにほのぼのってとこなんやろうけど、ワタクシは「おっさん、しっかりせぇよ」と思ってしまい、狙いとは違う意味で笑っちゃいましたが。

この映画の時代のアメリカでは結婚式の費用は新婦側が出すっていうのが、しきたりなんだろうな。別に新郎も申し訳なさそうでもないし。地味にしたいとか言っときながら、招待客は減らせないし、ブライドメイドもいっぱいがいいし、、、って見栄張っといて、前の晩に「私はもともと地味にしたかったのに」なぁんてポツリとこぼす娘。まぁ、こんなわがまま娘を育てたのは父ちゃんだから文句も娘がヒドイという気にもならないわ。と、あきれつつもスペンサートレイシーの情けない顔に同情もしたくなる。さすがの名優。こんなひねくれたワタクシにさえ同情心を湧かせるなんて。

古い映画が苦手な方は、1991年にスティーブマーチンがリメイクした「花嫁のパパ」をどうぞ。こちらはうまく現代版にアレンジされていて、ウェディングプランナーの存在も大きくなっています。エリザベステイラーは「私とパパ(スペンサートレイシー)の思い出を汚してほしくない」なんて言ってたけど、そんなに悪くないと思いますよ。


アフューグッドメン

2006-11-16 | シネマ あ行
この作品を今見ると驚く人もいるかもしれない。1992年の作品なのだが、トムクルーズがめちゃめちゃ初々しいのだ。1992年というと彼は30歳。もちろん、ハリウッドいちおしハンサムボーイ赤丸急急急急上昇中の彼だけど、まだ「大物」と呼ばれるには早かったころ。トムの上官として登場するデミムーアもまだまだに若々しい。理想に燃える二人の若き軍の弁護士がよく似合う。

トムは初めは今は亡き偉大な父親の影におびえて、おちゃらけた生き方をしている青年。おちゃらけたって言ったって軍の弁護士なんだから、十分真面目にお勉強してたんじゃんかって話なんだけどね。その彼が、キューバのグアンタナモ米海兵隊基地で起きたリンチ殺人の容疑者の弁護をすることになる。彼は本気で弁護する気などなく、裁判にする前に検察ケビンベーコンとの取引で事件を終わらせようとするが、正義感に燃えるデミがこの容疑者たちの無実を叫びトムを説得。ともに協力して容疑者のために闘う。

容疑者たちは海兵隊の落ちこぼれに「コードR」と呼ばれるリンチ行為をしたが、彼らは上官から命令されただけ。海兵隊での命令は絶対。となると、罪に問うべきは上官キーファーサザーランド(「24」の彼も細くてビックリしますよ)とグアンタナモ基地の責任者ジャックニコルソンではないのかというわけ。

このジャックニコルソンが筋金入りの軍人で、ちょっとアブない愛国精神の持ち主なのだ。そんな彼から自白をとるのは不可能に近いというわけで、周りの証拠から固めていこうとする弁護側なのだが、証言してくれると言っていた上官のひとりJ.T.ウォルシュも証言を前に自殺してしまう。もう手立てはない。なんとか自白をとるしかない。ここで息詰まるトムニコルソンの直接対決若き弁護士トムは巧妙に百戦錬磨の軍人ニコルソンの自尊心をくすぐって、自白を引き出す。この瞬間の快感はたまらない。もともと舞台劇だったというのがうなづける白熱のシーンだ。

軍隊内裁判ものというのもよくあるジャンルだし、よくできているものが多い。この作品はとくにもの凄く大きな陰謀を暴くといったような類のものではないのだが、それがかえってこの作品を面白くさせていると思う。容疑者たちの態度やキューバの基地の中の軍人の態度などを見ていると、一般人との認識のギャップなども見られて興味深いし、キャストもスターばかりなので、映画慣れしていない人にも見やすいと思う。監督はハートウォーミング系の作品が多いロブライナーというのは少し意外だな。色んな才能がある人ですね。

ナチョリブレ~覆面の神様

2006-11-15 | シネマ な行
われらがジャックブラックの新作は孤児院の子供たちにご飯を食べさせるためにプロレスで稼ぐ神父。舞台はメキシコ。メキシコでは「ルチャリブレ」と呼ばれるプロレスが非常に人気があり、そこで活躍する神父さんの実話もあるし、その神父さんにインスパイアされた作品なんだろうけど、もちろんそこはジャックブラックのこと、内容はおふざけがいっぱいである。

おふざけはいっぱいなんだけど、特にジャックブラックのファンとかでもないって人にはウケるかなぁ?ワタクシとにゃおはジャックブラックのファンなので、彼が変なことをするとそれだけでウケてしまうとこがある。今回はあのてっぷりお腹でプロレスラーだからな~、ヘンテコで笑っちゃう。あのスペイン語訛りの英語をわざと喋ってるのが、舌っ足らずな感じでおかしかったし、やっぱり歌も歌っちゃうしね。この人の歌唱力は正真正銘の本物なんだけど、やっぱり歌いたいんだよねー。もう、俺は俺が大好きー。俺ってすごいだろー、俺ってブサイクでおデブだけど、なんでもできちゃうんだぜー。君たちも俺の魅力にメロメロだろー。ヒロインアナデラレゲラだって美人を用意して当然だぜーってね。

ただ今回残念なのは、これ、「NICKELODEON MOVIE」なんですよね。NICKELODEONと言えば、アメリカのキッズチャンネル。最近ではケーブルテレビが入ってるおうちが多いから知ってる人も多いかな。キャラクターではスポンジボブとかの雑貨がよく売ってますよね。そのチャンネルが作った映画だから、どうしても毒っ気が薄い。ジャックブラックにはもう少し、毒ついてほしいんですよね。彼の場合は下ネタもいっぱいのほうがいい。もっとオゲレツにしてくれなくっちゃ、ジャックブラックのブラックぶりは出せないような気がします。でも、あの小さいレスラーは子供向け映画にしては怖すぎ。というか不気味過ぎ。小人病の人を不気味と言っているではなくてね、あのメイクとあの叫び声が異常に気持ち悪くて背筋が寒くなってしまいました。

ヒロインは尼さんで、プロレスは罪だと言うのですが、最後には「正義から来る暴力ならいい」みたいなこと言いますね。さすが、アメリカ!子供向けの映画でもこんなこと言っちゃうんだなーと思いましたよ。ある意味これが一番ブラック?

このヒロイン、アナデラレゲラが登場した時一瞬ペネロペクルスかと思っちゃったよ。この衣装だと特に似てる。プロフィールを見ると、他にはまだ大きな映画に出ていないみたいなんですけど、ラテン系美女に弱いワタクシはこれから要チェックな感じの女優さんです。

オマケナチョのタッグを組む“ヤセ”ヘクターヒメネスがしょっちゅう焼きとうもろこしを屋台で買ってたり、パーティ会場の中でもらったりして食べていました。白いソースと赤いソースがべったりとくっついたやつ。メキシコの名物なのでしょうか?

武士の一分

2006-11-14 | シネマ は行
一度アイツを恨みを込めてぶった斬りてぇ

これ、じゃないの?武士の一分とは侍が命をかけてでも守らねばならない名誉や面目のことっつーことらしいんだけどさ、この上のセリフ言っちゃうよね、三村木村拓哉が。命をかけて守るべき名誉とかじゃなくてさ、妻のかよ檀れいを寝取った男坂東三津五郎への嫉妬心じゃあないの?もっと言えば、妻をレイプした男への報復だよね?それでいいじゃん。

こんなこと言うと分かってねぇなぁとか言われそうですけどね。いや、分からないね。武士道って好きじゃなくて。この作品の頃って、責任取りますって腹切る時代でしょ?そこに美学があるっていうのはね、そういう時代だったからっていうことなら分かる。でも、好きではない。現代で、妻をレイプした男にケンカを申し込んで斬り合ったなんて言ったら、賛否両論渦巻くし、法治国家ならタテマエ上これを賛とは言えない。現代に置き換えるのはナンセンスなんだろうけどさ、でも、それって「武士の一分」として理由付けされて肯定的に受け止めるようなことなのかな。死というものの受け止め方が違う時代だし、法律だってその時代によって変わることだから、ワタクシはこの三村のしたことに否定的なわけではないんです。ただ、それを武士のうんぬんと言われると「ふーん」って思う。この妻を寝取られた夫の嫉妬や報復でいいじゃんって、この行動の基となるプライドに武士かどうかは関係ないよって思っちゃう。だから、逆に三村が「武士の一分、武士の一分」って言うのには「はいはい」って思ったけど、上のセリフを言ったときにはすごくスッキリ爽快な気分だった。

この作品、木村拓哉もいいし、檀れいもいい。庄内弁がうまいかどうかはもちろん分からないんだけど、二人ともこの役に違和感なく、って言っても檀れいっていう女優さんは初めてみたけど、木村拓哉は嫌いなので、否定的に見始めたけど、というかそのおかげか良かったと思う。そして、脇では三村家の手伝いの爺さん笹野高史が素晴らしかった。あーいうちょっと笑いを取りつつもほろりとさせる役っていうのは、どこか大げさになりがちな部分があるけれど、笹野高史は実に素晴らしい。笑いの場面もほろっとさせる場面もまったく押し付けがましくない。正に本物の役者だ。三村のおば役で出てくる桃井かおりはどこにいても何をしても桃井かおりで、場面をさらうというのはこの人のためにある言葉だと思い知らされる。笹野高史とは対極にあるような目立ち方をしてしまうがこれもまた別の形のエンターテイナーとして桃井かおりなら何をしても許してしまうのだ。

三村の行為を命をかけても守るべき名誉なんていう“美しい”ものとして表現したがっている製作者の意図は完全に無視して考えるならば、映画自体は楽しめました。笑えるところもあるし、話はすっきりしてるし、最後も分かってはいてもじんときました。

オマケ1三村、毒見役なんだからさー、貝を食べて気分が悪くなった時「大丈夫です」とか言ってがんばっちゃたらダメだよー。ちょっとでもしんどくなったらさ、すぐに大声出して殿のところに運んでる御膳を止めなきゃ。

オマケ2かよ、お医者さんが体を起こして口移しで薬を飲ませるようにって言ってたでしょ。あんな寝かせたまんまでやったら喉につっかえちゃうよ。三村は意識不明なのにゴックンってやってたけどな、、、

父親たちの星条旗

2006-11-13 | シネマ た行

この作品の予告編を映画館で流し始めたころは、初めあまり興味がなくて、「硫黄島からの手紙」という日本側から見た作品と2部作なんだってことを知って「ふむふむ」と思ったけど、まだそこまで興味はなくて、そうこうしているうちに脚本が「クラッシュ」のポールハギスで監督がクリントイーストウッドだというのを知り、しかも日本側から見たものを日本人の監督が撮ったのではなくて、そちらもまたイーストウッドが監督したのだということを知り、これはもうどちらも見に行かなくてはという気になったのだった。

まず、これから見る人はネットとか雑誌で、この作品に出てくる兵士たちの相関図を見てから行かれることをオススメする。時系列がバラバラに配置されているし、初めに兵士たちが紹介されるときは、誰かが喋っているのと同時になるから横書きのセリフの字幕と縦書きの彼らの名前と階級をいっぺんに呼んで顔と名前を覚えるというのがなかなか難しい。暗い戦場で同世代の兵士たちを見分けるのが大変だし、セリフに名前だけが登場することもしばしばだから、見る前に頭に入れておくといいと思う。ついでに、硫黄島の戦いについて何も知らない人も少し調べて行ったほうがいいかもしれない。

硫黄島の山の頂に星条旗を掲げた6人。その写真がアメリカ全土の新聞に載る。そのうちの3人は戦死。残った3人は故郷で彼らを英雄視する人々から迎えられる。政府がその人気を利用して戦争国債を国民に買ってもらうため、彼らをキャンペーンに利用するため帰国させたのだ。ジョン“ドク”ブラッドリーライアンフィリップ、レイニーギャグノンジェシーブラッドフォード、アイラヘイズアダムビーチの3人はそのキャンペーンのため全国ツアーに回らされる。

その最中にフラッシュバックのように語られる硫黄島での戦闘の様子。どこにいても「衛生兵!衛生兵!」とドクを呼ぶ声が耳の奥に残っている。式典の花火の音が砲撃を思わせ、目の前で苦しみながら死んでいく自分たちより優秀だったかもしれない兵士の顔が浮かぶ。その戦場とはあまりにもかけ離れた歓喜に包まれた観衆から喝采を受ける自分たちの姿。

戦争国債を国民に買ってもらい、戦争に勝利するためにお金を集めることは正しいことなんだ。それを信じて彼らは行動するしかなかった。それを信じて疑わないレイニー。それを受け入れられないアイラ。そして、それを淡々とこなすドク。そして、それを利用する政治。戦争をする政府なんて自らの国の若者を犠牲にし、心を踏みにじることも厭わない。それが、その国に貢献することであり、それが英雄のすることであり、バカな民衆はそんな英雄を求めている。自分の子供が戦場で死ぬまでは。

どこかしら淡々と進んでいくアメリカ本土での話と、硫黄島でのすさまじい戦闘シーン。こんなにも静かに語られる戦争映画はめずらしい気がする。映画としてはなんとなく入り込むのが難しく感じられたのだけど、さすがに遺族などにもスポットが当てられたり、一人一人の死んでいく姿が映される後半は涙なしでは見られなかった。

ワタクシが好きだからというのもあるのかもしれないけど、ライアンフィリップがこの誠実なドクの役に非常によく合っていた。ものすごく感情を爆発させるタイプの役ではないから余計に難しいと思うのだけど。全然関係ないけど、彼のあのちょっとチリッとなった髪の毛も好きです。ずっと着ていた水兵さんの制服も可愛かった。それから、この3人のツアーの保護者役のような海軍のPR担当官キースビーチジョンベンジャミンヒッキーが軍の人間でありながら、彼らが政治に利用されているという状況から少しでも守ろうとしてくれていた姿に少しホッとした。

この映画では自分たちは英雄でもなんでもないと考える3人の兵士が政治によって英雄に祭り上げられる話で、真の英雄とは戦場で死んでいった仲間たちだというような表現のしかたをするのだけど、ワタクシとしてはそれに関しては違和感を感じます。戦争で亡くなった人たちの死を無駄死にだと言うのはとても失礼だと思うし、そんな気はまったくないけど、“英雄”という表現をするのはとても好きにはなれない。戦争で死んでしまっても生き残って帰ってきても“英雄”になんてなれない。戦争に“英雄”なんか存在しない。そう言い切る作品であってほしかった。


dot the i ドット・ジ・アイ

2006-11-10 | シネマ た行
最近、ワタクシの中で存在が大きくなりつつあるガエルガルシアベルナルくんの作品。

お金持ちのバーナビージェームズダーシーとの結婚を控えたカルメンナタリアヴェルケが独身最後のパーティのならわしとして、他の男性を選びキスをする。その男性キットガエルガルシアベルナルとのたった一回の熱烈なキス。そのキスをきっかけに3人の運命が動き出す。

「dot the i」とは「iの点」って意味。カルメンが「キスとは“愛”を完結させるiの点」と言うシーンがある。筆記体で書いたときなどは特に「iの点」は最後に打ちますよね。それで、「“愛”を完結させる」という表現になるわけですね。これはどこかの国の表現らしいのですが、そのあと、キットも言うように「"love"にはiがないから英語では通用しない」のです。ドイツ語なら"lieve"?iがありますね。映画の中ではそれがどこの国の表現なのか言われてませんでした。単にこの映画のために作った表現なわけじゃないと思うんですが。どなたかご存知の方いらっしゃればご一報を。

そんなロマンチックなセリフが話されることでも分かるようにヒロインのスペイン出身のフランメンコダンサーのカルメンはお金持ちの英国紳士であるバーナビーとの安定した結婚に比べてブラジルの血を引く俳優志望のキットとのラテンのパッション溢れるロマンスに魅かれていくという典型的といえば、典型的な三角関係を描いた作品…

と、思いきや、、、

そう、そう言えば、初めから映像が急に変な隠しカメラのものになったりするし、キットは職のない役者なのに突然大金を大家に支払ったりしてたなぁ。とここではどういうことなのかは書かないでおきますが。

と、タネ明かしがされたあとは、まぁそんなにビックリするような話でもないし、問題はここからこの話をどうするかやなぁと思っていると、ちょっぴりチープな展開ながら、ワタクシはこの結末に満足でした。

ガエルくんの狼の子供みたいな顔と無邪気な笑顔はすごく魅力的だなぁと思います。カルメンを演じるナタリアヴェルケはクリスティーナアギレラを幼くした感じで、アルゼンチン出身らしい。ラテン系美女に弱いワタクシはちょっとくらっときそうになります。そんなにもの凄い美女ってわけでもないんだけどね。ガエル君も小さいけど、ナタリアはさらに小さい。ラテン系の人って小柄な人いますよね。ラテン系の人が好きなワタクシは、どうしてもこのカルメンとキットを応援しちゃうんです。この作品が好きなのもそういう影響がかなりあるかも。

ミスタアロバーツ

2006-11-09 | シネマ ま行
第二次世界大戦末期、米海軍の輸送船が、前線から遠く離れた南洋に停泊していた。そこではまるで戦時中とは思えないのんびりぶり。のんびりできないのは石頭で自分の名誉ばかり考えている能無し野郎が艦長ジェームズキャグニーであることと、上陸できないので新鮮な食べ物がなかったりすることくらい。艦長がそんな奴なので実際の任務を取り仕切っていたのは、下士官のミスタアロバーツヘンリーフォンダ。彼は乗組員からもっとも信頼される下士官であったが、本人は前線で戦いたくてウズウズしていて、毎週のように転属願いを出しているが、願いはなかなか届かない。

ミスタアロバーツは前線に行けずに輸送艦にいる間の出来事が描かれるのだが、下士官のパルバージャックレモンと軍医と一緒に医療用アルコールなどを使ってスコッチを造ったり、艦長の部屋をぶっ放す練習として洗濯室を爆弾で吹っ飛ばしてしまったり、沖にある病院でシャワーを浴びる看護婦たちを望遠鏡で覗き見したりとなんだか兵隊さんたちが可愛く見えてしまうことばかり。

しかし、やはりこの能無し艦長のせいで、ミスタアロバーツは転属の願いを出せなくなり、クルーとの関係も一時おかしくなってしまったりもする。最後のほうにはきちんとクルーと和解して、クルーたちのおかげでミスタアロバーツの転属も認められるのだけど、その前線でミスタアロバーツは戦死してしまう。このときの知らせを受け取ったジャックレモンの演技が秀逸だ。それまでは、ちょっとおとぼけで調子のいいことばっかり言ってる奴だったのが、ここで突然シリアスな演技を要求される。ことさらに大げさな演技を見せるわけではないのに、あまりにも真に迫っていて、この場面で「あ~ジャックレモンはもうこの世にいないんだなぁ」と映画のことよりもジャックレモンのことをしみじみと考えてしまった。

この作品は戦争を背景に描いているものでありながら、特に戦争の悲惨さとか空しさとかが描かれるわけではない。そこには前線に行きたがる下士官とそれを応援する陽気なクルーがいる。それを皮肉と見ることもできるけど、そんなふうでもない気がする。それになんとなく違和感を感じる人もいると思う。これは1955年の作品だが、この辺りのアメリカ映画にはこういう陽気な兵隊さんを描いた作品が結構あるように思う。正義の戦いに勝利したアメリカ。60年代の泥沼の時代に突入する前のそういう世相を表していたのかなと想像する。

デスノート~前編

2006-11-08 | シネマ た行
いやー、よくできているね。
ワタクシ、原作を途中まで読んでいたんですけどね、まずキャストが決まった時点でそりゃーもう夜神月は藤原竜也くんしかおらんでしょって感じでしたね。(つーか、これ漫画の時点で彼をイメージしてたんじゃないの?って感じなんですけど、そうなんでしょうか?)でも、エルを演じられる人なんているの?って思ってて、松山ケンイチくんって全然知らなかったんだけど、エルの扮装をしているのを見たらこれまたそっくりでビックリしちゃいましたよ。本編を見ると喋り方はちょっとワタクシがイメージしてたのとは違ったけど、それでも全然OK範囲ですね。しかも、それってワタクシだけのイメージやし。喋り方で言うなら藤原竜也くんのほうもちょっと違ったし。そして、月のお父さん役が鹿賀丈史っていうのはちょっとミスキャストって思ってたんやけど、フタを開けてみるとすごく漫画のお父さん像に近くて鹿賀丈史の演技の幅の広さにあらためてすごい人だなぁと。そして、なによりもリューク中村獅童にビックリ。中村獅童の声はまぁまぁってとこ(もうちょっとチャーミングに喋って欲しい)ですが、あの映像すごいな。CGなんだろうけど、あのリアルさってほんとにビックリする。いまどき、CGだったらあれくらいできて当然なんだろうけど、それでもやっぱり感心しちゃいますよね。

原作を読んでいない人からしたらどんな感じなのかなぁ?ちょっと分かりにくい?あと、原作のコアなファンの人だったら、「原作と違うー」ってイヤになるのかも。ワタクシは原作は途中まで読んだし、好きだけど、ファンってとこまででもないから映画も楽しめるのかも。

漫画だから、夜神月が捜査本部に入れてもらうとかFBIが出てくるとかありえんことが起こりますが、それ言い出したらデスノートの存在そのものもありえん!って一刀両断に切り捨てちゃうことになるっちゅうことでそれもいいとしましょう。

前編はシチュエーション説明っていう性格も持っているからその中でのこのデキはかなりOKではないでしょうか。問題は後半ですな。ワタクシは漫画も中途半端にしか読んでいないので結末を知らないのですが、映画のほうもどんな結末を迎えるのか楽しみであります。

それにしても、いくら後半を見に来てもらうためだからってこんなに早くTV上映しちゃって映画館まで見に行った人怒ってないかな?

プラダを着た悪魔

2006-11-07 | シネマ は行
ネタバレあり。

あんな編集長のわがままな娘どもが出版されてないハリーポッターの新刊を読めてたまるかーーーっ!
(いくら業界人やからってあんなことできひんよな、、、いやでももしかしたらできてるのか???これって貧乏&権力のない人間のヒガミ?)

ワタクシのポッタリアンの叫びは置いといて、試写会へ行ってまいりました、この作品。ジャーナリストになりたいファッションに興味のないアンディアンハサウェイが一流ファッション誌の面接を受けたのは、ただその会社が面接に呼んでくれたし、ジャーナリストになるためになんらかの足がかりが欲しかったから。そして、そこの鬼編集長ミランダメリルストリープがダサダサのアンディを選んだのは、今までのイケてたサイズ2やら4やらの女の子たちが全然使えない馬鹿だったから。ためしにサイズ6の太ったお利口さんを雇ってみたってわけ。

アンディはサイズ6で太い太いと言われますが、おそらく日本で言うところの9号?そうここは9号で「太っちょ」と言われる世界。他の女の子たちはみなサイズ2か4だし、ファッションディレクターのナイジェルスタンリートゥッチに言わせるとここの女の子達はサイズ2が4になったときから何も食べなくなった。ファッションメーカーが小さいサイズを大きい表示に変える。今までサイズ2を着ていた子がサイズ4を着なくちゃいけないということは「私はサイズ2よ」と言うためにさらに痩せなくちゃいけなくなるってことだ。ファーストアシスタントのエミリーエミリーブラントはアンディのことを「炭水化物を食べている人たち」と呼び、彼女が「効くのよ」というダイエット法はズバリ食べないこと…なぁんてトチ狂った発言が普通にまかり通る世界なのだ。このあたりはファッション業界のそういった風潮を皮肉っているのだと思いたい。

鬼編集長のミランダは超イヤな奴だし、そこで働く人たちもダサいアンディを馬鹿にする人ばかり。プロとしての仕事の緊張感はいいとしても、あんなふうに人に対して思いやりのない汚い世界から美しい服や靴が生まれるなんてワタクシは思いたくないのだけど、実際にはそういう世界なのかな。それでも、ファッションなんか「内なる美」に比べたらくだらないことだと(最初)思っているアンディに対して、彼女の着ているダサいセルリアンブルーのセーターがどのようにして彼女の元へ届けられたかというカラクリを話してみせるミランダには天晴れ。そう、彼女たちのような人々がワタクシが着ているダサいセーターの色にまで影響を与えているのだろう。

そういう人たちに囲まれて仕事をしているうちにアンディ自身もだんだんとBITCHに成り下がっていくわけだけど、本人は親友トレイシートムズやら恋人エイドリアングレニアに指摘されてもいまいち気付かない。私は一生懸命やってるだけもん。仕事なんだからしょうがないじゃないってね。それで、憧れのエッセイスト、クリスチャンサイモンベイカーとパリで一夜を過ごしちゃったりするんだけどさー。よりにもよって、あんな目元も口元もいやらしい男についていくなんて本当にどうかしてるよ、アンディ。

もちろん、最後は自分の誤りに気付いてハッピーってわけで、ストーリーはほぼみなさんの想像通りでいいんだけど、やっぱりアンディの変身ぶりやミランダの鬼っぷりは見ていてたいへん楽しい。メリルストリープもあそこまで冷たい役を演じたのはすごく楽しかったろうなぁと思う。"That's all."と冷たく言い捨てるとき、相当ストレス解消になったんじゃあないだろかってね。彼女の白髪は非常に美しく、夫と離婚することになったときの落ち窪んだ目での演技はさすがだった。

随所に先に書いたようなくすっと笑えるシーンもあったし、ナイジェルもいい人でスタンリートゥッチはいつもながらいい味出してたし、ファーストアシスタントのエミリーも結局はいい子でなんだか嬉しくなってしまった。ファッションには詳しくないんだけど、そういうことに詳しいにゃおからの受け売りの知識で会話に登場する人たちの名前もそこそこに分かったのがまた楽しかった。髪をひっつめてメガネをかけたジゼルにもちょっと魅かれてしまったな。

最後の自分の誤りに気付いてハッピーってとこについて少し考えてみたんだけど、アンディはずっと「I didn't have a choice.」と言い続けていた。「選択の余地がなかったんだからしょうがない」と。でも、実際にはミランダに言われたように彼女は自分で選んでいた。問題はそれに気付いていなかったこと。大切なのは「自分で選択すること」じゃない。そんなことは本当は常に誰もがしていることなのだ。大切なのは「自分で選択しているんだってことを自覚すること」なんだよね。