シネマ日記

超映画オタクによるオタク的になり過ぎないシネマ日記。基本的にネタバレありですのでご注意ください。

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キャデラックレコード

2009-09-18 | シネマ か行
1950年代のシカゴ。レナードチェスエイドリアンブロディはチェスレコードを立ち上げ、マディウォーターズジェフリーライト、リトルウォルターコロンバスショート、ハウリンウルフイーモンウォーカーなどのアーティストを擁し、黒人音楽を次々とヒットさせていく。まだまだ黒人が差別されていた時代。彼らはそれまでの“黒人”音楽という枠を取り払い、人種の枠を超えてのし上がっていく。黒人と白人は完全に分けられていた時代に彼らのコンサートではすっかり両人種を隔てるロープなんか超えちゃって黒人も白人もいっしょくたになってしまうんだから、やっぱり音楽の持つパワーってすごい。

彼らの成功の象徴はキャデラック。自身がポーランド移民であるレナードチェスは、成功のご褒美としてアーティストたちにキャデラックを贈る。でもこれ、ただのプレゼントというよりもどうやら彼らの給料の代わりって感じだった。車なんか何台もいらないからお金ちょうだいって思わないのかね?と疑問に思ったけど、まぁそれ以上に現金ももらっているのかなと思いきや、やっぱりマディがチェスにお金の無心をしたりもしていた。まぁそれだけもらう分以上に使ってしまっていたというのもあるんだろうね。みんなお酒やドラッグや女に溺れていたしな。こういうタイプの有名人を描いた映画では必ず、お酒、ドラッグ、女っていう問題が登場してちょっとイヤになっちゃうんだよね。彼らは偉大だったかもしれないけど、だからってそれでいいのか?ってね。かなり貧乏なところから這い上がってきて、それを忘れずに地道にやっていた人ってほとんどいない。ほとんどが成功に溺れちゃって悲劇の道を歩む。やっぱり人間って弱い存在なのかなと思わずにいられない。

途中から、チェスレコードの歌姫としてエタジェイムズビヨンセノウルズが登場するんだけど、ビヨンセはいまや、ただのアイドル歌手が客寄せパンダ的に映画に登場するのとはほど遠い実力を見せてくれる。「ドリームガールズ」でも感心したけど、今回も歌のシーンはもちろんのこと、演技の面でもやってくれちゃうんだから、たいしたもんだよね。

あの時代の音楽にはまったく詳しくないので、チャックベリーモスデフの名前くらいしか知らないんだけど、チャックベリーがお酒もドラッグもやらないし、無駄遣いもしないタチなのに、女の子にだけは滅法ヨワく、未成年淫行で捕まっちゃったときには、不謹慎だけどちょっと笑っちゃった。

いまの音楽の原点はビートルズだ、みたいなのが定説的になっちゃってる部分もあると思うんだけど、そんな彼らがあこがれていた存在である、チェスレコードの面々のことを思えば、ビートルズが原点なんて言っちゃったら、ビートルズ自身が恥ずかしがっちゃうんじゃないかなと思った。劇中にはビートルズじゃなくてローリングストーンズが登場するけど、彼らのバンド名だってマディウォーターズの曲からとったって言うしね。ミックジャガーとキースの若い頃を演じた役者さんがよく似ていてまたちょっと笑えた。

チェスレコードの盛衰を当時のスタッフだったウィリーディクソンセドリック・ジ・エンターテイナーが振り返るという構成になっているので、どうしても一人一人のキャラクターの掘り下げが甘くなって全体的に上っ面をなぞるだけのような印象になってしまったのが残念だった。一人一人で映画が一本ずつ撮れてしまうようなオールスターだから、それもしょうがなかったのかもしれない。

オマケ1レコーディング助手みたいな役でノーマンリーダスが出演していた。彼はもうちょっといい役者さんになってくれると思っていたんだけど、最近冴えない感じで残念だなぁ。

オマケ2あの時代のキャデラックがすでにパワーウィンドウだったから、めちゃくちゃビックリしたうちなんかいまだに手でぐるぐる回してるっつーのに。
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私は貝になりたい

2009-09-11 | シネマ わ行
1959年製作のフランキー堺が主演の作品です。最近のリメイクのほうではありません。先日ケーブルテレビで放映していたので、見てみました。

やはり、1959年の製作というだけあって、カメラワークとかセットとかそういったものは現代の映像を見慣れているワタクシたちにしてみれば、かなりちゃちい感じがしてしまうのですが、その辺は昔のことだから仕方ないので、あまり考えないで見ることにしました。

フランキー堺演じる主人公清水豊松は土佐の高知で妻新珠三千代と理髪店を営んでいる。戦時中ではあったが、土佐の片田舎ではなんとなくのんびりした空気が漂っていた。豊松が戦争時のスローガン「欲しがりません、勝つまでは」を息子に言ってきかせるときに「欲しがるまでは勝ちません」と間違えて言ってしまうシーンがあるが、このシーン一つとっても豊松の気持ちの中でそこまで切羽詰まっていたものがあったとは思えない。

だが、そんな豊松に対してもとうとう赤紙が来てしまう。

ここから前線での様子が語られるのかと思いきや、前線の様子を描いている時間は非常に短い。ただ、そこで、豊松が兵士としてはかなりドンくさく、上官にはにらまれていて、捕虜を無理やり処刑させられたということは端的ではあるが、きちんと描かれている。

戦後、戦争が終わって良かったなぁ、なぁんてのんきにお客さんと話している豊松のところにGHQがやって来て、戦犯として逮捕されてしまう。戦場で上官の命令に従って捕虜を処刑した罪であった。

裁判では、豊松が何を言ってもアメリカさんにはいまいち通じない。「上官の命令は絶対であるし、上官の命令は天皇陛下の命令である」といくら主張しても、日本軍の体質そのものを理解しない検事や判事には通じない。豊松は絞首刑を宣言されてしまう。

戦犯が入る巣鴨プリズンで、かつての上官が豊松に謝罪に来て、自分ひとりが責任を取ればいいことだと言ったことにより、豊松はこの上官と親しくなるが彼は処刑されてしまう。その後、処刑される人数は減っていき、日本とアメリカが講和条約を結べば戦犯も釈放となるだろうと楽観的なムードが漂っていたところへ豊松の突然の刑の執行の日が来てしまう。

この時代のことだ。高知と巣鴨はあまりにも遠い。一人で店を切り盛りしている奥さんはそう何度も面会に来られるわけではない。その数えるほどの面会の中でも、豊松は命令を聞いただけの二等兵の自分が処刑などされるわけはないと思っているから、そこまで重苦しいやりとりもない。妻と息子に会えない寂しさはあるが、いまがんばって店を守っておいてくれれば、自分もすぐに戻るからと思っているのだ。

そこへ突然の死刑執行。どうして急に刑を執行することになったのか、豊松には知らせられない。と同時に観客にも知らせられないから、「えっ?なんで?」となるところだが、それは豊松が感じた気持ちそのままなのだから、あえて観客にも説明がなくてもおかしくはないと思う。そこで豊松は有名な「もし生まれ変わるなら私は貝になりたい」という遺書を書く。貝ならば、戦争もない、兵隊もいない、家族のことを心配することもない。突然に明日処刑になる豊松は最後に家族に会うことすらできなかった。この“家族のことを心配する必要もない”というフレーズで豊松が冷たい人だと感じる人もいるだろうが、ワタクシは逆に豊松が家族のことをもの凄く心配しているからこそ出たセリフだと思う。自分は命令されるがままに戦争へ行き、そこで人を殺し、処刑される。なんと無念なことだっただろう。それを思うと涙が止まらなかった。ライバル店ができても女手ひとつで店を切り盛りしている妻、お父さんが帰って来るまではおこずかいをせびるのをガマンしている息子。そんな二人が豊松が帰って来ることを信じて暮らしている処刑当日の姿がまた涙を誘う。劇中何度も流れる「よさこい」のメロディーが悲しく響き渡る。

実際に、二等兵が戦犯として死刑に処された例はないという事実から、この映画を嘘っぱちだと言う人もいるだろう。それはそうなのかもしれない。しかし、二等兵でのちに減刑されたとはいえ、実際に死刑を宣告された人はいたわけだ。彼らの気持ちはいかばかりだったことだろうか。

東京裁判を否定することによって、日本の侵略戦争を正当化しようという気持ちは、さらさらない。ただやはり加害者側の国にも一番苦しい目に遭うのはいつも庶民だということだけは事実だと思う。
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クララシューマン~愛の協奏曲

2009-09-10 | シネマ か行
ワタクシはクラッシック音楽には詳しくないので、最初この作品のことを知ったときには、あんまり興味がなかったんですが、クララシューマンを演じるのがマルティナケデックだと知って見に行くことにしました。「マーサの幸せレシピ」を見てからファンになったので。

予告編を見ると、クララシューマンと夫のロベルトシューマンパスカルグレゴリー、そして、ブラームスマリックジディの三角関係のお話?って感じだったし、シューマンとブラームスならクラッシックファンでないワタクシでも名前くらいは知っているから、まぁそんなに予習はいらないかなぁと何も予備知識なしで見に行きました。

実際のお話はちょっと単純な三角関係の話とは違っていました。ロベルトはクララとブラームスの仲を疑っていたようですが、現在まで二人の不倫の証拠はないとされているみたいですね。監督がブラームスの末裔のヘルマ=サンダースブラームスだから、ブラームスの名誉を守るために、きちんと二人が肉体関係じゃなかったってことは明言しておきたかったのかな。

物語はロベルトがデュッセルドルフの音楽監督に招かれる直前から始まり、二人の自宅へブラームスが自分の曲をたずさえてやって来て、そこから3人の生活が始まる。ブラームスはクララを愛していたようだけど、クララはロベルトを愛しており、二人が不倫関係に進むことはない。そして、ロベルトもブラームスを自らの後継者と呼び、惜しみない賛辞を贈り、天才同士にしか分からない苦悩を分かち合う友人として、ブラームスを手元に置きたがっていた。この辺りが凡人には理解できないところかな。ロベルトは精神的に病んでいて、(梅毒が原因ということらしい)その痛みから逃れるためにアヘンに溺れてもいたし、そんなロベルトに苦労させられて、クララがブラームスに走るのかと思いきや、クララはロベルトへの愛を貫き通し、ブラームスもそれを尊重して、クララのことを一線を越えることなく生涯支え続けたらしい。ブラームスがクララのあとを追うようにして亡くなったというエピソードには感動したけど、「僕は君を抱かない」というセリフのところで、「なぁんや」と思ってしまったワタクシは、我ながらどんだけ俗っぽいのかと自分に突っ込みました…

映画のデキとしては、編集が随分雑というか、お粗末なもので、時間経過がよく分からないものになってしまっていた。作品中に語られる様々なエピソードも、編集の雑さゆえに、予備知識がないと「なんで、こうなるの?」みたいなことになってしまっていたのが残念だった。もうちょっと丁寧に描いてくれたらもっとグレードの高い作品になれたと思われるだけに本当に残念だ。まったく同じフィルムを使って、別のスタッフが編集したらもっと良い映画になったのではないかとイジワルなことを考えてしまうのでした。

オマケ1「ココシャネル」のときも書きましたが、どうしてわざわざフランス人の俳優を使ってドイツ語に吹き替えちゃってるんでしょうか?ドイツにも良い役者がいっぱいいるだろうに。

オマケ2ロベルトが梅毒だったということは1996年になって、カルテが公開されて分かったことらしいんだけど、ロベルトが梅毒だったのにクララにはうつらなかったのかな?梅毒って必ずうつるわけではないのかな。
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サブウェイ123激突

2009-09-08 | シネマ さ行
またトニースコット監督とデンゼルワシントンのコンビか~。またどうせ超トニースコットな感じの映画なんだろうなぁ、と思いつつ、最近社会派の映画ばかり見ていて、ちょっとこういう派手めなアクションに飢えていたし、大好きなジョントラボルタが久しぶりの悪役ということで見に行くことにしました。

デンゼルワシントン演じるガーバーは警察の人質事件交渉のプロでもなんでもなくて普通の地下鉄職員で、しかもスネにキズを持つ身で、というのはデンゼルワシントンが来日したときに話していて、「この映画のヒーローは従来のヒーローと違って、普通の人間で」って絶対言うねんなぁ、って思ってたんです。でも、今回は本当でした。スクリーンに現れたデンゼルはちょっと太ってて、めがねかけててどちらかと言うとどんくさそうで本当にただの人に見えました。デンゼルはもちろん昔から演技派なんだけど、最近それが普通になってきて彼の素晴らしい演技もそんなに意識せずに見ていたんですけど、この作品のデンゼルの演技はさらっと演じているようでいて実は結構すごいなぁと思わせるものでした。あの奥さんとのやりとりは不覚にもほろっときちゃったじゃないの。

対するジョントラボルタですが、「ソードフッシュ」以来の悪役かな?彼はいいもんもわるもんも違和感なくこなせる人だと思いますが、やっぱり悪役やってるときはなんか楽しそうですね。普段使わないようなfuckやmotherfuckerなんていう汚い言葉を思いっきり使えるっていうのはある意味気持ちのいいことなのかも。現場に駆けつけるカモネッティ警部補ジョンタトゥーロに「イタリア系、イタリア系」って悪口言ってたけど、アンタだってイタリア系じゃないのよってちょっと笑えたな。

物語はまぁいわゆる普通の人質立てこもり系で、そんなに目新しいことはないと思います。立てこもるのが地下鉄の中なので、派手なアクションにしにくいため、わざとあの現金輸送をバイクと車にさせたのかな。全然道を封鎖してないから事故っちゃうし。なんでやねーん!ってね。あとで、「どうしてヘリで運ばないんだ?」って言っちゃいますけど、なんかこのへんはまるで「踊る大捜査線」みたいな感じでしたね。ニューヨークなんちゃらアベニュー封鎖できません!みたいな。でも、あの映画みたいなおちゃらけ系じゃないので、観客としてもここで笑っていいんだかなんなんだかってちょっと困っちゃいました。

あと、あれだけの事件が起こってるのに、地下鉄が全面停止になっていないところが不思議でした。犯人の正体が分からなくて爆破テロとか起こすかもってなってるのに、違う線の地下鉄は運行してるなんて変じゃない?普通全部止めないかな。

それから、地下鉄内の彼氏とネットでつながっているカップルの女の子がその映像をテレビで流すっていうのをやっていて、そこから得られる情報っていうのはあるにしても、あのシークエンスが何か緊迫した状況につながっていくのかと思いきや、犯人グループにバレてもただ「アバヨ」って電源切られて終わりっていうのはなんかもったいない気がしたなぁ。

ジョントラ演じる犯人が、実はウォール街出身のエリートで市長ジェームズガンドルフィーニに恨みを持っててっつーとこまでは分かるんだけど、そんなウォール街出身の彼が刑務所に入ったことによってあそこまで悪人っぽい風貌になっちゃうのかな。あれじゃ筋金入りのその筋の人(変な日本語だ)にしか見えないよね。最後に彼がエリートだったころの写真とか見せて欲しかったな。あと、ラストの彼の選択はまったくもって意味不明だった。ただ、金や株の相場を自分の思い通りに動かしたことで、自分が計画したとおりに数字が動いたということが満足で、もうあとはどうでもよくなっちゃったのかな。そして、どうせならガーバーに殺されたかったってことなのか?

全体的なスピード感とか映像はもう100%トニースコットらしい作品でしたね。彼はここ何本も同じ調子で撮っているので、飽きたと言えば飽きたけど、あのスピード感はやっぱり面白いなぁとは思えるのでした。

オマケ最後にガーバーは地下鉄に乗って帰るのですが、(ここでも、全線ストップしてなかったんで、事件直後でも普通に地下鉄に乗って帰れます)そのシーンでガーバーが電車からのぞいている窓には雨がしとしとと当たっていて、窓も水滴でいっぱいなのですが、外から映る町の様子はまったく雨が降っていません。市長が乗ってるときもそうだったような…
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縞模様のパジャマの少年

2009-09-04 | シネマ さ行
ワタクシはいままでたくさんの映画を見てきた。「セブン」を見ても平気だった。「ソウ」も大丈夫。「ダンサーインザダーク」も「オールドボーイ」も全然平気だし、「ファニーゲームU.S.A」だって、そういう映画だと思えば納得できた。でも、この「縞模様のパジャマの少年」を見終わった直後の後味の悪さは他に類を見ない。いままで、映画を見て気分が沈んだことは何度もある。でも気分が沈むということとは絶対的に違う後味の悪さがそこにはあった。

お父さんデヴィッドシューリスはドイツ軍の偉い軍人で、今度昇格して郊外に引っ越すことになった。お父さんのお母さんシーラハンコックはその事に対してなぜか批判的だ。お母さんヴェラファーミガは引っ越してからしばらくすると、なぜか様子がおかしくなった。お姉ちゃんアンバービーティは、お父さんの部下の若い軍人コトラー中尉ルパートフレンドと仲良くなって、どんどんナチスに傾倒していっている。僕ブルーノエイサバターフィールドは新しい家が退屈で行っちゃいけないって言われている近くの農場に遊びに行って、鉄の柵の向こうにいるシュムールジャックスキャンロンと仲良くなった。シュムールはなぜ柵の向こうにいるの?と聞くと「ユダヤ人だからだよ」と言った。

僕にはどうしてシュムールがいつも縞模様のパジャマを着ているのか分からない。お父さんに農場の人たちのことを聞くと、「彼らは僕らと同じ人間じゃない」と言っていた。どういう意味だろう?

家には家庭教師の先生が来て、「ユダヤ人はロクな奴がいない」なんて書いた本を読まされたけど、シュムールは良いユダヤ人だよね。

ブルーノは8歳。自分の周りで起こっていることがなんか変だと思いつつも、その実態に気付けるほど成長していない。8歳と言えば小学校2年生。まだまだ幼稚園に毛が生えた程度だ。しかも、彼はユダヤ人収容所の所長の息子。あの当時、もっとものほほんと暮らしていた中の一人だったと言えるだろう。疑問に思ったことを聞いても大人たちが教えてくれるはずもない。お父さんはお母さんにさえ、任務の詳しいことは教えない。お母さんはある日、夫が本当にしていることを知り、喧嘩が絶えなくなりふさぎこんでしまうが、それもブルーノには何かがおかしいということしか分からない。

お母さんは収容所で行われていることを知り、この場所に子供たちを置いておくのを嫌い、子供たちを連れてまた引っ越すと言う。ブルーノは、最後の日、シュムールのいるところへ行こうとしていた。そこで何が行われているのか何も知らないまま。家族はいなくなったブルーノを懸命に探すのだが・・・

この物語の原作はジョンボインというアイルランドの若い作家が2006年に出版し、世界的ベストセラーになったということらしい。そして、それをイギリスが映画化。

もし、これがドイツの映画だったら、見た直後の後味の悪さというのはまだましだったと思う。あのラストをなぜ、わざわざイギリス人が?(あとから考えるとアイルランド人が?)いまさら?60年も経って?ドイツへの見せしめのようにこの映画を作る必要があったのか?もちろん、言うまでもなくあの時代ナチスがおこなったことを肯定しているのではない。ただ、あんな方法で8歳の子供を使って、昔の傷をえぐる必要があったのか?これが見た直後の正直な感想だった。いつもならエンドロールが流れ終わる最後まで劇場で座っているのだが、このときばかりは立ち上がって帰らずにいられなかった。ふつふつと怒りがこみ上げて、隣ですすり泣いている女性までもが憎らしく思うほどだった。



いま、見終わってから丸2日が経っている。あえて、自分からこの作品を別の角度から見てみようと思う。この作品を執筆したジョンボイン氏もこの作品に携わった人たちも、これをドイツ人への見せしめにしてやろうなんておそらく考えてはいないのだろう。

たった一人の大切なドイツ人を助けるために奔走する人たちと、何十万人ものユダヤ人を虫けらのように殺した人たちがまったく同じ人たちなのだ。やはり、別の角度から見るとすれば、この切り口しか考え付かない。ブルーノが彼らにとって大切な人だったように、シュムールもそしてその他のユダヤ人も当然誰かの大切な人だったはずだ。その「当然」が戦争という名の下に簡単に踏みにじられていく。その怖さ、人間の愚かさ。それを気付かせるためのあのラストだったと思えば、実際に人間が戦争で行う残虐行為に比べれば、あのラストなんて衝撃的でもなんでもないのかもしれない。ワタクシが感じた“後味の悪さ”などとは比較にならないほどの現実が戦争というものにはあるということなのだろう。

オマケ1ヴェラファーミガが、収容所での真実を知って夫から心が離れていく感じのお母さんを非常にうまく演じていた。「ディパーテッド」の記事には“きれいだけど、ちょっと微妙な感じ”と書いている。今回も美しさについてはそんな印象だったけど、演技に関してはかなり良かったと思う。これからも注目していきたい。

オマケ2シュムールを演じたジャックスキャンロン君。この映画のためにオーディションしたっていうことだけど、収容所に入っているわりにはふくよかなお顔でしたね。もうちょっと痩せた子を選んだほうが良かったような…
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3時10分、決断のとき

2009-09-03 | シネマ さ行
1957年の「決断の3時10分」のリメイクらしいのですが、その作品は知りません。ワタクシ、西部劇はあんまり好きではないので、レンタルなどで見ることはあっても映画館に見に行くということはほとんどしません。が、今回なぜこの作品に惹かれたかと言うと、やはりキャストがラッセルクロウクリスチャンベイルであることが一番大きいのと、予告編を見て、従来の西部劇とは少し違う感じがしたからです。

ラッセルクロウとクリスチャンベイルが西部劇に出るって、どちらも渋いし決まるだろうなぁと思ったのですが、考えてみたらラッセルクロウはオーストラリア人だし、クリスチャンベイルはイギリス人なんですよね。そんな人たちを西部劇の主役にキャスティングするとはハリウッドも国際的になったもんですね。

さて、このお話。悪名高き強盗団のボス、ベンウェイド(クロウ)を3時10分発ユマ刑務所行きの汽車に乗せるために駅まで連行することになった。その場にいたダン(ベイル)は生活苦から逃れようと、報酬目当てで護送に参加する。強盗団の部下たちはウェイドを取り返そうと護送する彼らを追ってくる。ダンたちは無事にウェイドを汽車に乗せることができるのか。

ダンは働いても働いても貧乏で借金があり、思春期を迎える長男ウィリアムローガンラーマンには軽蔑され、妻にも背中を向けられかけている。護送の報酬を得れば、家族の生活も楽になる。始めはそう思っていてダンだったが、この護送は徐々に彼の尊厳と人生を掛けたものに変わっていく。

ラッセルクロウ演じる強盗団のボスと、貧乏カウボーイ、ダンとの緊張感あふれる会話はしびれるほどにカッコいい。カリスマ性を備えたボスをラッセルクロウが非常にうまく演じていて思春期のウィリアムが惹かれてしまうのもよく分かる。しかし、この護送の旅を通して父親ダンはウィリアムに自分の生き様を見せ付けることになる。クリスチャンベイルは、貧乏カウボーイとはイメージがちと遠いと思うんですが、やはり彼も演技がしっかりしたものなので、違和感なく見れました。

この3人に、強盗団を追い続けてきた賞金稼ぎのバイロンピーターフォンダ、行きがかり上護送に同行することになった獣医師のポッターアランデュディックなどがからんで、男のドラマが展開して行きます。このへんのやりとりはねぇ、それぞれ自分の生き方があって、ぶつかることもあるけど、お互い尊重しあってるみたいな感じでいい感じなんですけどね。筋そのものがイマイチ良くないんだなぁ。

こんな悪名高き強盗団のボス、ウェイドを護送するのに、警備がなんだかユルユルだよねー。なんか銃を奪って殺してくださいと言わんばかりのユルさ。実際そのせいで警備の人間は殺されちゃったりするでしょ。なのに、特にがんじがらめに縛り付けることもなく、ボスを運んでる。なんで?

極めつけはクライマックスのシーンなんだけど、「これまで誇れることを何一つしたことがない」と言うダンに、何か誇れることをさせてやろうと考えたウェイドが、自分を無事に汽車に乗せるという行為を成し遂げさせようと協力するんだけど、これがなんだかおかしなことになっちゃうんだよね。だって、ダンをやっつけようとしているのはウェイドの部下たちで、彼らはウェイドを助けようとここまで追ってきたわけだよね。んでもって、汽車に向かって走る二人と部下たちの銃撃戦になるわけだけど、ウェイドは縄にも縛られず自分で勝手に汽車に向かって走って行っていて、そのウェイドとベンに向かってウェイドの部下たちがバカバカ撃ってて、その銃撃から必死でウェイドとベンが逃げてるっていう図が意味不明だった。ウェイドはボスなんだから、ひと言銃撃を止めろと言えばそれで済んじゃう話だよね?しかも、ベンを撃った腹心の部下をウェイド自身が撃って、その後次々に部下を殺していっちゃうんだよ。なんでーよ?部下たちはあなたを助けにここまで来たんだよ?なのになんで殺しちゃうわけよ?まったく意味が分からん。

最後の最後に来るまでは、結構良かったんですけどね。なんでこんなクライマックスにしちゃったんだろう?ジェームズマンゴールド監督、作ってるうちにワケ分かんなくなっちゃった?
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シリアの花嫁

2009-09-01 | シネマ さ行
1967年、第3次中東戦争でゴラン高原はイスラエルに占領され、、、


と映画の冒頭で説明文が出る。チッ、またイスラエルかよ!

説明は続く。

ゴラン高原に住むイスラム教ドゥルーズ派の人たちは、ゴラン高原の占有権を主張するシリア、イスラエル両国の間で、どちらの国にも属さない「無国籍」となっている。

えっ?無国籍?そんな人たちが公に存在するの?ワタクシ、勉強不足でゴラン高原のことも、無国籍者のことも何も知りませんでした。

実際、妹モナクララフーリの結婚式のために外国から村に戻ってきた兄マルワンアシュラフバルホウムのパスポートには「無国籍」と書かれてあった。案の定テルアビブの空港で執拗に検査を受けるマルワン。

モナは今日、軍事境界線を越えたシリアの男性と結婚する。一度もあったことのない写真だけのお見合い結婚。中東ではそういう結婚もまだ普通におこなわれているのだろう。そのことについては特に誰もなんとも思っていないようだった。

結婚を勧めたのはおそらく姉のアマルヒアムアッバス。村の中で結婚して子供が2人。妹には一生この村を出ることができないかもしれない自分のようにはなってほしくない。そう思ってモナに縁談を勧めたのではないかと思われる。そんな彼女もいまイスラム教的な女性支配から逃れて、大学へ進学しようとしている。

モナの二人の兄のうちもう一人のハテムエヤドシェティはロシア人と結婚しロシアに住み、イスラムコミュニティーからは完全に疎外された存在だ。イスラム教では異教徒と結婚することにはかなり難色を示されるだろう。そんな彼もモナの結婚のために村に戻ってきたが、父ハメッドマクラムJ.フーリは許してはくれない。

彼らの父ハメッドは政治犯として投獄されたこともある人だ。民族のために戦っている。保護観察中の彼が娘のモナを見送るために軍事境界地帯へ行くことをイスラエル側はななかなか許そうとはしてくれない。

モナが境界線の向こうに行くときがくる。軍事境界線では常に緊張があるから、その手続きも随分まどろっこしい。そこにはイスラエルの出国審査官がいる。彼は今日から決まりが変わって新しくスタンプを押すようになったと、イスラエルの出国スタンプを押す。それを赤十字のスタッフがシリアの入国審査官のところへ持っていき、シリア側が入国を許可すればモナはあちら側へ行ける。しかし、ここで、シリアの審査官は入国を拒否してきた。モナに問題があるわけではない。イスラエルの出国スタンプが問題なのだ。

シリア側の言い分はこうだ。「ゴラン高原地域は、あくまでも本来はシリアの領土だ。シリアの領土からシリアの領土に移動するだけなのに、どうしてイスラエルの出国スタンプが押してあるんだ。これを認めて境界を越えさせると、ゴラン高原がイスラエルの領土だと認めたことになる。これはこうやってなし崩しに既成事実を作ろうというイスラエルの陰謀だ」(いや、まったくもってその通り。いかにもイスラエルがやりそうなこった)

困った赤十字のスタッフはイスラエル側に戻り、スタンプを取り消すように言うが、自分は指示されてやっているだけだし、勝手に取り消せないと言う。上官に電話してもらっても、もう夕方で誰もオフィスにいない。(木曜の4時だからいるわけない。って言ってたけど、4時でもう誰もいないのか?)

赤十字のスタッフは両家の家族に詰め寄られながら、両国を説得するために何度も何度も往復するが、なかなか打開策が取られない。ついにシリア側が修正ペンで消すならいいよと言う。(っていいんかー???人のパスポートやぞー。修正ペンでいいんか???)ほんでまた早よ帰りたいイスラエルの審査官は(彼の息子が紛争地域で戦闘に巻き込まれてたから。ってさすがイスラエルな理由)、修正ペンで消しちゃうのよ。これで一件落着かと思ってほっとしてたらさぁ、赤十字のスタッフがそれを持ってシリア側に行くと、交代時間とか言って担当官が変わってて、また「こんなん受付られるかー」とか言ってきた。(さっきの担当官いい人そうやったのになぁ。ちゃんと引継ぎしといてよ!!!)

てか、ここまで読んだ方、この作品コメディじゃありません。ほんと笑っちゃうような展開やけど。物語はシリアスなんですよ。なんせ、モナはこの境界線を越えたら二度とゴラン高原には戻ってこれないんです。両国間の情勢が変わらない限り、一生です。それでもこの境界を越える。そんな決意を最後にモナが決死の覚悟で見せてくれます。モナは最後にシリア側の許可が降りないまま勝手に境界線を渡っていきます。勝手に出ても撃たれないの?ってそこは疑問だったんですがね。どのような状況下にあろうとも自分の人生を歩んでいく決意を持った姿を観客に見せてくれます。そして、その姿を満足そうに見つめる姉。彼女もイスラム社会にありながら自らの足で歩こうとする女性です。そして、その兄弟たちも。もう一人の弟はちゃらんぽらんだけど、それは保守的な社会に対抗して生きているからだろうなと感じました。個人的には好きになれないタイプですが。

父親が保守的なタイプでありながら、その子供たちはそれぞれに自分の人生を歩んでいる。それは逆に自分の信念を貫いている父親の影響なのかもしれないと思いました。最後にハテムを許す父親の姿は涙なしでは見ることができません。そこには宗教、慣習の違いを超えた普遍的な家族の愛が存在します。

ちなみに姉の“アマル”いう名前ですが、“希望”という意味があるそうです。彼女こそまさに“希望”の象徴と言えるでしょう。兄弟4人の歩む道、そしてその次世代の道に希望があることを願わずにいられない作品でした。

オマケ今回は「オマケ」というよりも、ただの言い訳ですが、最初に「チッ、またイスラエルかよ」と書いてしまいましたが、ワタクシこの作品の歴史的な背景についてはまったく調べずに見に行きましたので、実際のところ公平に見てどちらに非があるとかはまったく知らずに勝手に言ってますので、ご容赦ください。
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