シネマ日記

超映画オタクによるオタク的になり過ぎないシネマ日記。基本的にネタバレありですのでご注意ください。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

ポチの告白

2009-03-31 | シネマ は行
警察の組織的な犯罪とマスコミとの癒着などを描く作品。2006年に完成してはいるが、公開までに3年かかったのは、何かしらの圧力?

ワタクシはもともと警察なんてそんなもん、マスコミなんてそんなもんと思っているところがあるから、特にこの映画の内容にショックを受けることはない。いや、もちろん真面目にやっている人のほうが多いことは分かるけど、組織として見た場合、この作品で語られていることがそれほどまでにショッキングな内容とは思わない。逆にそう思えないことがある意味においてはショッキングなのかもしれないな。

親切で一般市民思いのお巡りさんだった竹田八生菅田俊が、三枝課長出光元に認められ、組織犯罪対策課に配属される。実直な彼は、上司に言われるがまま汚職に染まっていく。そして、5年後、彼はなんの罪悪感も持たずそれはそれは“立派な”汚職警官に成り下がっていた。

警察に関しては、あまり期待していないワタクシだが、やはり「こんなもんだろう」と思いつつもやはりガッカリしてしまうのは、マスコミの対応だ。新聞社は警察の“大本営発表”を当てにして記事を書いているから、警察からにらまれて記者クラブを追い出されてしまっては大変とばかりに警察に不利なことはなかなか記事にしようとしない。そんなマスコミを見ていると心底ガッカリするし、やはり警察組織とともにメディアの動向もきちんと見ていないといけないなと再認識した。

ワタクシは、竹田や三枝や、三枝の右腕である山崎刑事野村宏信の犯す罪よりも、いち派出所のお巡りさんたちが、住民たちの記録を見ながら、このオンナはヤラしてくれそうだとか、パトロールしながら、通りを歩く女性を物色したりだとか、スピード違反を見逃す代わりにヤラせろと言うとか、昔自分をいじめたヤンキーたちに暴行をくわえたりだとか、、、そういうほうが妙にリアリティがあって、ゾッとした。ここで、先輩の「撃たなきゃ抜いてもいいぞ」という言葉に従ってヤンキーたちに拳銃を抜いて脅すシーンがあるが、これはリアルじゃないと思われるかもしれないけど、ワタクシの知り合いの警察官が新人時代派出所で、先輩に拳銃を向けられた話を聞いたので、シチュエーションこそ違えど、ワタクシにとっては、ファンタジーじゃないエピソードだった。“警察バー”なるものの存在も妙にリアリティを感じたし、竹田がヤクザから紹介された風俗の16歳の子と浮気をしていたのも、結構ありそうな感じだなと思えた。

再三繰り返される「俺たちは家族だ」という言葉や、「俺たちにはクビがないから安心していい」だとか、「たとえ懲戒免職になっても、身内のネタを持って辞める人間を悪いようにはしない」という言葉にも独特の選民思想的なコワさを感じる。特に「家族」という言葉に表面上の温かさとは正反対の脅しのような響きが奥に潜んでいるようでとてもコワかった。

組織の悪に染まりきった三枝の普通の会話の中で、ものすごいエグいことを命令している姿は、あそこまでになったら逆にすごいな、などと変に感心してしまった。そして、そこで常に「これは君個人の判断でやることだろ?」と言われていて、「もちろんそうです」と答える部下たちが、組織にいつでも切り捨てられることを知りつつ、その組織を守っているという歪んだ構造が浮かび上がる。ここのへんの三枝と山崎の関係が絶妙なんですよね。山崎は三枝に借りがあるし、最後に良心のかけらみたいなものを見せるけど、だからって竹田みたいにはなりたくないっていうのがよく表れてた。

警察権力を相手に告発する側の自称(?)フリージャーナリストの草間川本淳市とカメラマンの北村井田國彦の行動をもう少しスリリングに描いてくれたら、もっと面白い作品になったと思うのだけど、その辺が少し単調なのと、草間の正義感に観客が少し疑問を持つような背景になっているのが残念だった。

最後の独白については賛否両論ってとこなんだろうけど、ワタクシはあれを法廷でぶちかましてほしかったな。それでも、完全に抹殺されちゃうみたいな展開のほうが良かった。でも、あの独白の中で「国民はバカですから~」ってハッキリ言ってくれちゃったんで、それはOKとしましょう。竹田が最後追い詰められて逮捕にいたるまでの部分が少し雑に描かれていて、警察の組織犯罪を描くことに必死になりすぎて、それを竹田個人の心情まで落とし込むことができていなかったのが、少し残念なことになっていたと思う。そう思う反面、それが描かれていないことで、全体的に乾いた感じがして逆に良かった部分もあったのかもしれないとも思える。

ほとんどの人が(希望的観測だけど)真面目にやってる中で、こういうのばっかだよみたいに見せることに反感を覚える人はいるだろうけど、ワタクシは娯楽としても告発映画としても3時間15分大いに楽しませていただきました。
コメント

いのちの戦場~アルジェリア1959

2009-03-30 | シネマ あ行
1954年から1962年にアルジェリア独立を阻止しようとするフランスと独立を目指すアルジェリアの国民解放戦線との戦争を描く。フランスはこの戦争に関して1999年まで公式に戦争だとは認めていなかったという。

フランス軍のテリアン中尉ブノワマジメルはアルジェリアに赴任してきて、戦場のひどさを目の当たりにする。始めは自らの良心に従って、フランス兵たちに拷問などを禁じていたが、戦場の過酷さに触れていき、徐々に彼も精神の均整を失っていく。

始めは拷問や子供に対する暴力に反対していたテリアン中尉。彼の部下のドニャック軍曹アルベールディポンテルも、百戦錬磨の鬼軍曹でありながら、拷問などの暴力には耐えられず、拷問が行われている夜には決まって泥酔して、悲鳴が聞こえないようにラッパをでたらめに吹き鳴らしていた。そんな軍曹もこの戦場の中で次第に正気を失っていく。

アルジェリア人たちは、独立を求めるゲリラ、フランスに味方する兵士、双方の犠牲になる村人と3つに分断されてしまっている。お互いに敵か味方かの区別がつかず、疑心暗鬼が広まり、犠牲者が増える。テリアン中尉が助けた村人のアマール少年もお兄さんがゲリラの一員であることから油断はできない。しかし、おそらく純粋に助けてくれたテリアン中尉に感謝していたアマール少年を寝返らせたのは、皮肉にもテリアン中尉の狂気の行動そのものだった。

第一次、第二次大戦時には、ともに“フランス兵”として戦ったはずのアルジェリア人たちが敵味方に分かれて戦うことになるこの戦場。第二次大戦時にはレジスタンスとして、ゲシュタポに拷問されたベルトー大尉マルクマルベも、いまでは自分が拷問を容認する側にまわっている。

非人道的な兵器として禁止されたはずのナパーム弾も、“特殊爆弾”と呼び名を変えて、アルジェリアで使用される。

テリアン中尉を中心に据えながらも、その周囲の状況や人々をうまく描いており、様々な背後関係が理解できるようになっていて、映画の作りとしてもうまくできていると思う。ただ、テリアン中尉がなぜあの戦争に志願したのか。彼はフランスが正義だと信じていたわけではなさそうだし、アルジェリアの独立を認めるべきだと考えていたのに、どうしてフランス軍に加担することを志願したのか。単純に“治安維持”に協力するためだと考えていたのか。その部分だけはもう少し語ってほしかった気がする。

なぜ、フランスはモロッコやチュニジアの独立は認めたのに、アルジェリアだけに固執したのか?なぜ、1999年までこの戦争を公式に認めることができなかったのか?そのあたりの疑問にはこの作品は答えてはくれないので、自分で調べるしかないのだが、中国などを公式に人権問題などで批難するフランスの大きな汚点であるこのアルジェリア戦争をフランス人が描くことに大きな意味があると言えるのだろう。
コメント   トラックバック (1)

マーリー~世界一おバカな犬が教えてくれたこと

2009-03-27 | シネマ ま行

試写会行ってきました。予告編を見ただけで泣けていたので、当日はもうどうなることかとヒヤヒヤもんでしたが…フタを開けてみると、そんなにいい映画でもないかな。んー、多分原作は面白いんだろうなぁって思うんですけどねー。映画としての演出はイマイチでした。

マーリーがおバカかどうかはちょっとおいといてですね、やっぱりマーリーがやらかしてくれるいたずらなんかはかなり笑えます。うちにも大型犬がいるんで、あれだけいたずらが豪快だということも分かるし、ネックレスを飲み込んじゃいそうになるシーンで、そうっと近づいて捕まえようとしたら、イスかなんかに足ひっかけて大きな音を出しちゃったがために犬が興奮して追いかけっこになって、ついにネックレスを飲み込んじゃう、(&その後ウンチから取り出す)なんてところは完全に共感ばっちりできちゃいますからね。その辺はみんなも楽しめると思うけど、犬を飼ったことがある人、特に大型犬を飼ったことがある人は、「あるある~!分かる分かる~!」って感じで盛り上がれるんじゃないかなーと思います。

が、、、思ったよりもこれ、犬と僕との物語じゃないのよねー。原題も「Marley & Me」なんてことにしてるわりに、実は僕と家族の物語で、そこにたまたまマーリーもいた。みたいな感じになっちゃってるのがかなり残念なんですよ。

最初、子供を持つ代わりに犬を買いに行って、仔犬時代を楽しめるのかと思いきや、マーリーは一瞬にして成犬になっちゃうんです。あの広告のかわいいパピーはどこへ?って感じで…それもそのはず、このお話その先この夫婦(オーウェンウィルソンジェニファーアニストン)が3人の子供を持って、マーリーが死ぬまでの10年以上を描かないといけないから仔犬時代を堪能してる時間なんてないんですよ。そこんとこ、ちょっと詰め込み過ぎたなーって感じしますね。父親として、母親として、ジャーナリストとして、男として、女として、みたいな現代人が持つ悩みをいっぱい表現しようとしてしまったために、マーリーとの絆はどこへやら?いたずらっ子ぶりも、world's worst dogぶりも分かったけど、それでもお互い愛し合ってるよ、みたいな描写はほとんどなくって、マーリーが歳を取って病気になって初めて「この犬は普通の犬とは違うんです」とか言われてもなぁ。え?そんなにマーリーが特別な仔と思えるシーンはあったっけ?って感じで。いや、そりゃ、自分ちのペットは誰しも特別と思ってるから、それでいいのかもしれないけどねぇ…ちょっと演出がうまくないですな。あと、3つくらいでいいから、“マーリーとの絆”を見せるシーンがあれば全然違ったんじゃないかなと。

訓練を受けようというシーンも、あれじゃ、ドッグトレーナーやってる人から苦情来ないかなぁ。一日目にして、何も教えてないのに、飼い犬失格!退学!なんて言うトレーナーなんて最低じゃん。しかも、飼い主もそれでマーリーの訓練やめちゃうし。他のトレーナー探すとかしない?普通。それで、みんなお手上げならマーリーがおバカっていうのも分かるけどさ。もうちょっと飼い主の努力ってやつも見たかったな。まぁそこんとこに重点を置いた映画じゃなかったってことだから仕方ないんだろうけど。

これは映画なので、もちろん仕方ないことなんだけど、マーリーを演じるラブラドールは22頭いたそうなんですが、やっぱり犬好きからすると顔が違うのが分かってしまって辛かったですね。
とかまぁエラそうなこと言ってますが、ワタクシも2年前に犬を飼い始めるまでは同じ種類の犬の顔なんてみんな一緒に見えたので、そんなに犬好きじゃない人にはなんの問題もないのでしょうね。どの仔もかわいいし、パピー時代のマーリーなんて掛け値なしに最高にかわいいっす。

犬を飼っている人間としては、、、というか、これは勝手にワタクシが感じたことですが、マーリーを飼うことに決めて、手元にやって来るまでに1ヶ月もあったのに、その間に二人で名前を考えていないところがちょっと変なの~と思ったのと、マーリーがいよいよ最期となったときに、どうして家族全員で病院に行かないの?ってちょっと不思議に思った。子供たちに安楽死の場面を見せたくなかったのか、夜遅かったからなのか…ここもなんか変なの~と思ってしまって、マーリーの死のシーンに集中できなかったよ。

「プラダを着た悪魔」は面白い映画ではあったけど、演出ちょっとイマイチと思っていたふしもあったので、デヴィッドフランケル監督と聞いて、少し不安があったんですが、それが当たってしまいました。いや、もちろん、最後は泣いたけどね。それは「子供と動物には勝てない」ってやつでして。

んー原作は面白いのかもしれないけど、ちょっとこの映画のせいで読む気まではおきないかも~。今回期待していただけに、結構辛口になっちゃいましたね。ネットのレビューなんかでは評判なかなかいいので、ワタクシのは参考にしないほうがいいのかもしれません(苦笑)

オマケ原作の訳だから、仕方ないんだけど、マーリーを「おバカ」と言っちゃうのはちょっと気の毒な気がします。どんな犬の場合でも、ほとんど悪いのは飼い主なんですよね。そう、、、我が家の“おバカ”な犬たちも…

コメント   トラックバック (1)

イエスマン“YES”は人生のパスワード

2009-03-18 | シネマ あ行

試写会に行ってきました。

ジムキャリーの映画は久しぶりです。離婚後のショックから(?)何事にも後ろ向きで「NO」ばかり言ってきた主人公カール(ジムキャリー)がどんなときにでも「イエス」と言おうという自己啓発セミナーに誘われ行ってみたところ、これから何事にも「イエス」と言うという誓いを立てさせられ…(このセミナーの教祖さまみたいのをテレンススタンプが演じていて、映画ファンとしてはビックリするやら、うれしいやら)

BBCのプロデューサーが実際にどんなことにも「イエス」と言うことを決めて過ごした7ヶ月のことを書いた本をベースにできた映画。そう言えばそんな人がいるっていう話、どっかで聞いたなぁ。そのときは「ふーん」ってたいして興味持たなかったんだけど、この映画を見て俄然その本家の本に興味が出てきた。いつか読んでみたいと思う。

さて、映画のほうだが、ジムキャリーって百面相の特技のせいか分からないけど、こういう無理やり何かをさせられる的な役が結構ある気がする。「ブルースオールマイティ」とか「ふたりの男とひとりの女」「ライヤーライヤー」そして、彼の出世作の「マスク」となんか自分の意思とは違うけど、勝手に動いちゃうのよーみたいな役が多い。今回はまさにウソがつけない「ライヤーライヤー」の「イエス」版で、今度はウソは言えるけど、イエスしか言えない。たとえ、心の中は「ノー」でも「イエス」と言わなくちゃいけない。

そのおかげで、彼が経験することの数々が結構笑える。そこはもうジムキャリーの独壇場の見せ場となるわけで、彼を主人公に置いたのは大正解。ひとつひとつのエピソードは書かないでおくけど、かなりの数あってどれも楽しいし、どれも伏線となって役立つときがやってくるっていうのがまたコメディらしくていい。途中でちょっと悪ノリ風になるのはまぁジムキャリーだから、それくらいはしょうがないって範疇で許しちゃいます。

彼がイエスマンになってしまったせいで、テロを企てていると誤解され捕まってしまうところは大爆笑してしまったのだが、そうやって、捕まってしまったことがきっかけでいい感じにいっていた恋人アリソンズーイーデシャネルに彼がすべてにイエスと言うと決めているということがバレてしまい、結果的に彼女を傷つけることになってしまうという出来事には、映画の中のロマンスの展開ということを越えて、普遍的なテーマが隠れている気がする。

様々なことにイエスと言うことによって、開けてくる人生があるというのは、実際そうかもしれない。ただやはり取捨選択しなければいけないのも事実。そりゃ、殺人を依頼されて何も考えずにイエスなんて言えるわけないんだし。カールも元妻からの誘惑にはがんばってノーと言ったしね。あれはエラかった。イエスと言うにしてもノーと言うにしても、自分が自分の人生をどのように生きたいかを考え、そして、自分の気持ちを大切にすること、オープンマインドにポジティブに、そんな生き方ができたら素敵だなぁと思わせてくれる作品でした。

オマケ1劇中でアリソンが歌うバンドの曲が、ぜんぜん人気がないっていう設定だったけど、ワタクシは結構いいと思った。サントラ買おうかな。

オマケ2そのバンド名がなんと「代理ミュンヒハウゼン」っていう名前で、ちょっと前なら「変な名前~」と思っただけかもしれないけど、数ヶ月前の日本での事件ですっかり有名になったシンドロームの名前ですね。なんだか変にタイムリー…

コメント   トラックバック (11)

ダウト~あるカトリック学校で

2009-03-12 | シネマ た行
んー、むずかしかったなぁ。なんて言うか、うーん、むずかしいっていうのとはちょっと違うか。結局は最後の最後まで、本当のとこが分かんないっていうことがこの感情の源なんだと思うけど、このスッキリしなさ感が「うーん」っていう気持ちになっているわけで、映画そのものがむずかしいとかつまらないということではない。

もともとが戯曲っていうのが、本当によく表れている映画ではあると思うけど、劇のほうを見ていないからなんともいえないけど、出演者の目の表情とか、カメラの角度とかそういったことが劇では表しきれない表現がしてあって、計算されつくしている感じがした。

主な出演者4人(メリルストリープフィリップシーモアホフマンエイミーアダムスヴィオラデイヴィス)が4人ともアカデミー賞にノミネートされたというのが、本当に納得の演技合戦。特にメリルとホフマン、メリルとヴィオラデイヴィスのやりとりは、もう見ていてゾクゾクするような、これでもかこれでもかという演技の応酬だった。メリルとホフマンのほうは、実に丁々発止という言葉がピッタリのやりとりで、あまりにも二人の迫力が凄すぎて、ときに会話の内容をスルーしてしまっている自分がいた。メリルとヴィオラデイヴィスのほうは、それとは対照的に静かなやりとりから徐々にヴィオラのほうが感情の高ぶりを見せるのだけど、そのときの彼女の演技が本当に素晴らしい。こんなに出番が少ないのに、ノミネートされたというのがよく分かる。

人間の中に渦巻く「疑惑」という感情をエグってみせる作品だが、人間が人間に対して持つ「疑惑」とカトリックの世界では人間が神に対して持つ「疑惑」というものがある。神に対して、人間は「疑惑」を持つことさえ許される立場ではない。ワタクシの勝手な解釈だが、最後のシスターアロイシス(メリル)が言った「疑惑」とは神に対するものじゃないのかなと感じた。性的虐待の疑いがある(シスターは勝手に確信している)フリン神父(ホフマン)は、学校を追放されるどころか、昇進してよそへ移っていった。自分がどんなに追及しても、どんなに訴えても、この組織の中で神父を失墜させることはできない。自分は正しいことをしても神はお救いにならないのか、と彼女は神に対して「疑惑」を持ったのではないか。そして、それは敬虔なカトリックである彼女にとっては、これ以上ないほどの苦しみであるだろう。神父は黒か白かは分からない。それを黒だと決め付けたのは彼女だ。つまり、その苦しみをもたらしたのは彼女自身に他ならない。人間の心に巣食う「疑いの気持ち」がどれだけ人間を蝕むか。それを表現しているということなのだろうか。

シスターアロイシスは厳格な人間ではあるが、年を取って目が見えなくなりかけているシスターへの気遣いなどを見ると、ただ冷徹な人間ではないことが分かる。フリン神父が他の神父と食事をしているときに神父としての品格に欠けるような会話をしている。そんなところからも観客にも同じように巧妙に「疑惑」を抱かせるような作りになっている。

シスターアロイシスに「疑惑」の種を植え付ける新人教師のシスタージェイムス(アダムス)は、フリン神父の言い分に納得したと言うが、果たしてそうなんだろうか?フリン神父が「不寛容な人たちに負けないで、“愛”を持ち続けることが大切だよ」と言ったとき「“愛”?」となぜか彼女は驚いたような顔をする。「神父様は何をもって“愛”とお呼びになっているのですか?」とでも言いたげな目をしていたように思えたが、これはワタクシ自身が疑心暗鬼になってしまっているせいなのか?

ある種の問題作という意味では非常に優れた作品であると考えられるが、映画的には、もう一歩踏み込んだ真実がどこかにかすかなヒントでも隠されていれば、もう少しスッキリしたかもしれない。この作品が素晴らしいものになっているのは、役者たちの力量によるところが非常に大きいと感じた。

オマケ1もの凄く力の入った演技だったメリルストリープには申し訳ないのだけど、あのシスターの衣装はぜんぜん似合ってなかったね

オマケ2映画にはまったく関係ないんですが、子どもの頃トランプで「ざぶとん」っていうゲームしませんでした?あれって、「doubtダウト」がなまってそうなったって本当ですかね?
コメント (6)   トラックバック (7)

チェンジリング

2009-03-06 | シネマ た行
主演アンジェリーナジョリー、監督クリントイーストウッドの映画。初めてこう聞いたとき、とても驚いたのを覚えている。イーストウッドはもうハリウッドの長老と言ってもいい存在で、昔はすごくワイルドだったけどそれは彼が若いころ演じた役のせいで、実際の彼は紳士的な初老の男性というイメージだ。一方アンジーのほうは、ブラピとの生活や子供たちや、彼女自身の人道的な活動のおかげで最近は丸くなったとは言え、やはりまだまだワイルドなイメージを持っていた。イーストウッドが自分の映画の主演にアンジーを選ぶなんて、ワタクシにとってはとても意外だった。アンジーがイーストウッドの期待に応えられるのか!?と彼女のファンとしては少し心配だったのだ。もちろん彼女の演技力はもうお墨つきなんだけど、イーストウッドテイストにはどうだろう?と疑問だった。

1920年代後半から1930年代にかけてのお話。人々は現代人とはかなり違う。女性は特に違っただろう。そんな時代の仕事のできるシングルマザーをアンジーは実にうまく演じた。彼女が演じたクリスティンコリンズは非常に難しい状況におかれるのだが、彼女の抑えた演技と、感情を爆発させるときの演技、どちらも本当に素晴らしかった。心配していた自分が恥ずかしい。

一人息子が失踪したというだけでもかなりまいってしまう状況なのにもかかわらず、まったくの他人を息子だと言って帰され、その子までが自分がウォルターだと主張し、警察に訴えれば訴えるほど頭がおかしいと扱われ、とうとう精神病院にまで送り込まれる。誰がどう考えてもおかしな状況で、歯医者や学校の先生が戻ってきたウォルターは偽者だと主張しているのに、警察は自分たちの非を認めたくないためにクリスティンを狂人扱いする。警察も自分たちのやっていることは重々承知の上だろう。それでも、そのパワーをフルに利用し、警察に刃向かうもの全てを押さえつけようとする。クリスティンの件がまかり通ったのは、このときのロス市警が腐敗しきっていて、市民も警察に不満は持ちながらも、警察ににらまれるのが怖いために行動を起こせなかったからだろう。

クリスティンは、はからずも結果的にこの警察権力と戦った女性というふうになってしまうのだけど、それはひとえに彼女の母親としての強さがあったからだろう。ウォルターはどこかで必ず生きている。その想いが彼女をそこまでさせたのだろう。本当は警察権力を失墜させることなんて彼女にはどうでも良かったのだと思う。でも、彼女はたった一人の息子を取り返すために警察と戦うはめになってしまう。そんな事態を招いたのは他でもない警察であり、結局警察は墓穴を掘ったということなのだが。

映画としては少しスリリングさに欠けるところがあるとは思うのだけど、クリスティンの母親としての強さにスポットを当てた場合、あのような演出になるのはある程度理解はできる。あの当時、特に女性がどれだけ警察だけでなく社会において、下等なものだと見られていたかということが、精神病院に入れられている娼婦キャロルエイミーライアンとクリスティンの会話において、垣間見ることができるようになっていたり、クリスティンの事件と重大なかかわりを持ってくる連続殺人事件が明らかになるシークエンスなどはさすがのイーストウッドの演出と言えると思う。静かではあるが、全体的にとても丁寧に作られていることが観客に伝わる素晴らしい演出である。(娼婦のキャロルに「適切な言葉で話さなきゃだめよ」と言われて、お上品なクリスティンが医者に「FUCK」という言葉を使うシーンは胸がスカッとしたな)

演技に関して言えば、先に書いたアンジーだけでなく、憎むべき警部役のジェフリードノヴァンも、観客が本当に心の底から憎ったらしいと思ってしまうほど良い演技をしているし、出番は非常に少ないけど、クリスティンに協力してくれるハーン弁護士ジェフリーピアソンも登場シーンすべてにおいて、大きな存在感があって、役のせいもあるけど、ものすごい安心感を感じさせてくれた。ジョンマルコヴィッチの演技についてはここで語る必要もないだろう。彼の普通に善人の役ってめずらしいな。しかし、彼が敵役だと絶対に勝てない気がするけど、今回味方で本当に良かった。

最後にウォルターと一緒に誘拐されていた少年が5年たって出てくる場面では、クリスティンはそれがウォルターではなかったことに大きな落胆を覚えたに違いないのに、同じ立場であったその子の母親を祝福し、彼が戻ってきたことが、ウォルターが生きているかもしれないという希望につながったというのが、母って偉大だなぁと思わせた。

ウォルターをかたっていた少年が最後に警察に自分がウォルターだと言えと言われたという場面が少しだけあるけど、そこの部分があまり突っ込まれていなくて、本当にあの子は警察に脅されたかうまいこと言われたかしたのかどうかよく分からないまま終わってしまったのが、唯一残念だった。

オマケChangelingってどういう意味?と思って調べると「取り替えられた子、すりかえられた子」とあった。え?なんでそういう言葉にひとつの単語が独立して与えられてるわけ?と思ってもう少し調べると、西洋の伝説で人間の子供がフェアリーやトロールの子と取り替えられるというお話の伝承があったらしく、事実としては発達障害や自閉症の子が昔は理解されていなかったため、この子はトロールの子に違いないというふうに思われていたということらしい。
コメント   トラックバック (9)

オーストラリア

2009-03-04 | シネマ あ行

この作品、映画館で見るつもりはなかったのですが、にゃおが「話はどうでもいい。美しいニコールが見たい」というので、見に行ってきました。

結果、見に行って良かったです。結構泣けたー!

いやー、しかし、これ、ヒュージャックマンのファンめちゃくちゃ増えるでしょうねぇ。だって、もうこれでもか、これでもかと、カッコいいシーンが登場するんですもんねぇ。おいしすぎますよ。あ、でも最近の草食男子(???)とやらが好きな人はダメですね。ワイルドすぎますもんね。ワタクシのフランス人の友人がヒュージャックマンのおかげで、毛深い男が認められるようになって嬉しいと言ってたことは前に書きましたかね?おフランスでも毛深い男はイヤがられていたけど、彼が出てきてワイルドさが見直されたらしいっす。それにしてもあの筋肉はなんでしょうね。どんだけプロテイン飲んでるんでしょうか?

最近2時間47分の「ベンジャミンバトン」を見たばかりで、今回も2時間45分というから、「え~もうええよー」と思っていたんですが、「ベンジャミンバトン」は途中でちょっとダレましたが、今回は全然長さを感じなかったです。サラアシュリーニコールキッドマンがイギリスからオーストラリアに渡ってきてドーローヴァー(ジャックマン)と出会う導入部から前半は牛を船の乗せるところまでの大冒険と、二人の幸せな時期を経て後半は戦争に突入していくという怒涛の展開で、まったく飽きることなく見れました。

実際レビューなどで批判があるように白豪政策についての描写は相当甘いです。それについては「裸足の1500マイル」という映画を見てもらうといいかな。実際、そこに目をつぶれるかどうかでこの作品の評価はかなり分かれるんじゃないでしょうか。その事実について目をつぶるわけにはいかないんだけどね。確かに。でも、ごめん。映画そのものはかなり楽しんでしまいました。ほら、監督がバズラーマンだからさ、見る前からそこんとこのシリアスさは求めてなかったっていうのもあるのかも。(日本軍のことについて反日だーとかいうのはワタクシはそんなふうに捉えなかったので、特に目をつぶる必要もありませんでした)

前半の牛騒動が終わり、雨季を迎え、サラとドローヴァーが結ばれるシーンでは「あ~こんな往年のハリウッドみたいな映画が21世紀にも撮れるんだなぁ」と感動を覚えました。ファラウェイダウンズという土地にこだわっているところなんかは「風とともに去りぬ」を彷彿とさせるよね。とにかく、全部よくあるパターンの映画なんだけど、それでもやっぱり感動しちゃうんだよ。コミカルなシーンもたくさんあって楽しめるし。ワタクシとしては前半の牛追いのくだりが一番楽しめたかな。すごく迫力があったし、サラとドローヴァーがうちとけていく感じもいいしね。

アボリジニの少年ナラブランドンウォルターズがものすごく良かったな。ナレーションの声もかわいいし、彼とサラの関係は当時のオーストラリアだと絵空事なのかもしれないけど、個人と個人のつながりという意味ではこういうことも描かれてもいいかも~と、これもワタクシかなり甘いですね。でも実際感動しちゃったので。

主役の二人だけでなく、ナラのお母さんのくだりとか、会計士のキプリングジャックトンプソンだとか、脇役にまつわるエピソードもきちんと描かれていたところが、なかなか良かったんじゃないかな。泣かせよんなぁ、もう、と思いながら本当に泣いちゃう。

あらためて、ハリウッドでもたくさんのオーストラリア人が活躍しているのが分かる映画でしたね。これで、ナオミワッツがカメオ出演でもしておいてくれたらワタクシとしてはカンペキだったな。

オマケニコールが撮影中、妊娠していたので、衣装によってはお腹がポッコリとして見えるときがありますね。決して、ニコールが実は中年のお腹をしているわけではありません。

コメント   トラックバック (8)