シネマ日記

超映画オタクによるオタク的になり過ぎないシネマ日記。基本的にネタバレありですのでご注意ください。

パブリックエネミーズ

2009-12-25 | シネマ は行
ここでは何度も書いているのですが、ワタクシはジョニーデップが好きではないので、この作品は見に行くつもりはなかったのですが、前売鑑賞券が当たったので見に行ってきました。

マイケルマン監督って「インサイダー」は面白かったと思うんですが、「ヒート」とか「コラテラル」とかはイマイチだったなぁという記憶があって、いわゆる“男の世界”ってやつを描くのが好きな監督なんでしょうけど、なんか上っ面だけなイメージなんですよね。

今回のこの作品は、ワタクシ個人的にはジョニーデップ目当てではなく、リスチャンベイル目当てでした。彼は昔から好きなので。

んー、中身はどうかなぁ。これは実際の話だし、本当にあったことなんだから仕方ないんだろうけど、描き方の問題かな。デリンジャー(デップ)が何かポリシーがあって、銀行強盗をしていたって感じでもないし、いくら銀行のお金しか盗らないとか言っても別にそれを貧乏人に分けていたわけでもないしなぁ。ビリーマリオンコティアールのことだって「俺が守る」とか言ってたけど、じゃあ強盗やめれば?って元も子もないこと思ってしまいました…まぁ、ビリーがそれでいいなら別にいいんだけどね。

ジョニーデップの映画だけあって、スティーブンドーフとか、ジョバンニリビシとかデビットウェンハムというような注目したい俳優陣が結構揃ってるんだけど、一人一人のキャラクターの掘り下げもないし、背景もデリンジャーとの関係もイマイチ分からないし、デリンジャーはすごく仲間を大切にした人みたいな言い方されてたけど、それを表現するには仲間の扱いがぞんざい過ぎるんですよね。

デリンジャーにとっては敵役のFBIのメルヴィンパーヴィス(クリスチャンベイル)のほうも、仕事に関してはいいけど、彼の人となりとか家族とかそういった背景を示すような表現がなかったために、彼にもいまいち感情移入できない。結局誰にも感情移入できないままに終わってしまった感があったなぁ。これで、それぞれの背景がうまく描かれていたら「アンタッチャブル」のような名画になりえたのかもなぁと思いつつ見ていました。しっかし、本当のことだから仕方ないけど、捜査当局どんくさ過ぎ。

唯一すごいなと思ったのはマリオンコティアールかなぁ。彼女ってフランス人だけど、普通に英語話してて違和感なかったもんなぁ。フランス人でここまで普通に英語話してハリウッド映画に出てる人ってそうそういないような気がする。まぁ、フランスにはフランスの映画界があるからその必要はないんだけど、彼女のチャレンジ精神はすごいなぁと思いましたね。顔はそんなに好みではないんですが、女優としてはすでにアカデミー賞とってますけど、これからもっともっとすごい役をやってくれるんじゃないかなぁと期待しています。

ジョニーデップのファンの方にとっては「キャー、かっこいい~」ってなるんだろうなぁと思います。そうでない方はDVDでもいいかも。

ジュリー&ジュリア

2009-12-18 | シネマ さ行

ノーラエフロン監督と言えば、ワタクシはロブライナーの女性版だと思っていて、とても良いけど、ちょっと詰めが甘いかなと思う作品を作っている人というイメージがある。いや、決して嫌いではない。ロブライナー好きだし。作品を見ているだけで、この人たちってきっとええ人なんやろうなぁと思わせる雰囲気を持っている。ただ、今回も良いけど詰めが甘い感じの映画かなと思いながら見に行った。

1つの物語は1949年から始まる。外交官ポールチャイルドスタンリートゥッチの妻ジュリアチャイルドメリルストリープは夫の転任のためパリにやって来る。暇をもてあましたジュリアは色んな習い事を試してみるがどれもしっくり来ず、ル・コルドン・ブルーのプロ養成コースで料理を習い始める。始めはタマネギのみじん切りさえできなかったジュリアだが、持ち前の明るさと根性でみるみる上達。人に料理を教えるまでになっていく。

もう1つは現代。9・11の後処理をしている公務員のジュリーエイミーアダムスはうまくいかない鬱屈した日常を過ごしつつ、日々の料理でストレスを発散させていた。そんな折、夫エリッククリスメッシーナにブログを始めることを薦められ、どうせなら好きな料理のことをと、かねてからファンだったジュリアチャイルドのレシピ本の524品の料理を365日で完成させるという目標を立てる。

この2つの物語が交互に語られるのだけど、この二人の物語はまったく交わることがない。現代を生きるジュリーのほうは、もちろんジュリアをお手本にしているわけだけど、ジュリアのほうは当然ジュリーのことなど知るわけもない。そんな2つの物語が交互に語られるのにも関わらず、まったく違和感もないし、無理やり感もないというユニークな構成になっている。

ジュリアチャイルドという人はアメリカでは相当に有名な人らしく、身長が188cmもあり、料理本の出版のほかにテレビの料理番組のホステスを務めていたらしい。映画の中でも現代のジュリーがテレビの再放送を見ているシーンがあるが、メリルストリープが少しオーバー目に(?実際の彼女を知らないからオーバーかどうか分からないんだけど)声が大きくて大らかで、番組で失敗しても「あ~ら、悪い例を示しちゃったわね~。でも大丈夫。キッチンにはあなた一人しかいないんですもの。誰も見ちゃいないわ~」なぁんて言ってのけちゃうジュリアをとても魅力的に演じていて、作品の中で彼女の夫が言う「ジュリアはみんなに好かれる」というのがとてもうなづける。

一見、まったく関係性のない2つの物語を見せながら、なぜかうまくリンクしているようにも思える天才的な脚本の運びで、ジュリアチャイルドの人間性とユーモアにとても微笑ましい気持ちにしてくれる。現代を生きるジュリーがこのブログを通して人間的に成長し、夢を叶えていく姿にも共感できる人は多いんじゃないかな。

演技のほうは演技派揃いで、もう言うことなし。エイミーアダムスは正式にメリルストリープの後継者を名乗ってもいいんじゃないかなとさえ思える。そして、スタンリートゥッチも素晴らしかったなぁ。このキャストを聞いたときには「大丈夫か?」と思ったけど、いつまでも変わらない優しい愛情でジュリアを包む夫ポールを違和感なく演じていた。ジュリーの夫エリック役のクリスメッシーナは食べ方が汚くてちょっとイヤだったけど、まぁアメリカ人ならこんなもんか。

料理が題材の作品なので、もう少し調理のときに観客に香りが伝わってくるほどのカメラワークを見せてくれると良かったんだけど、そこまでするには、物語だけでお腹も尺もいっぱい過ぎたかな。最後のほうにジュリーのブログのことをジュリアは気に入らなかったと人づてに言われるシーンがあるけど、実際のところどうだったのか、最後のテロップでもいいから出してほしかった。それだけがいまでも気になるところだけど、「パイレーツロック」に続き、年末に来て今年最高の1本のひとつに出会えた。


こわれゆく世界の中で

2009-12-16 | シネマ か行
近年亡くなった映画人の中では、ワタクシがもっとも惜しいと感じたうちの一人、アンソニーミンゲラ監督の作品。(もう一人はシドニーポラック)

彼の作品はいつも内容が最高というわけではないんだけど、とにかく作品の持つ雰囲気がとってもポエティックで美しい。

この作品も他の彼の作品と並んで、全体的にとても美しい作品だったと思う。内容としてはまぁ“不倫もの”であり、それでも主人公のカップルは最後にはうまくいってしまうところから、「何それ?」って思ってしまう部分も当然あるのだけど、この二人の関係をどうにかしようともがく二人には、不倫嫌いのワタクシにも“都合が良い”と一刀両断にできないものがあった。

ウィルジュードロウとリヴロビンライトペンのカップルはリヴの13歳の娘ビーポピーロジャースが医師から確定はされていないが、自閉症のようななんらかの障がいを持っていることから生活に疲れ、ウィルは仕事に逃げ、リヴはビーに執着するようになり、ぎくしゃくするようになる。そんな折、ウィルの仕事場に盗難が続き、ウィルは犯人の少年ミルサドラフィガヴロンの母親でボスニアから移民してきた未亡人アミラジュリエットビノシュに惹かれるようになる。

ウィルとリヴのカップルのぎくしゃく感とウィルのオフィスでの盗難事件がどのような関連性を持つのかと見ていくと、ウィルはアミラに惹かれ、アミラは息子を守りたい一心でウィルの気持ちを受け入れるという展開になっていく。この構成がとてもうまくできていると感じた。物語はとてもゆっくりとしか進まないが、ウィルとリヴがビーのことで本人たちの気持ちとは裏腹に心が少しずつ離れていってしまうさまを丁寧に見せることで、アミラに惹かれていってしまったウィルの気持ちも、それを最後には許したリヴの気持ちも受け入れられるようにできていると思う。ボスニアという状況を持ち出すことで、アミラの息子の状況にも観客が同情できるようになっていて、彼がただの窃盗団のワルという位置付けではなかったことから、アミラの行動もうなづけるものとなっていた。

リヴがウィルを許した気持ちが受け入れられたと書いたが、最後の彼女の爆発がなかったら、「え?そんなんで許せんの?」と思ったと思うけど、最後にあの爆発があったからこちらの気持ちも納得がいったような気がする。

ウィルが会社の盗難にたびたび遭い、夜中に自分の車を会社の前に停めて見張りをしていたときに絡んでくる売春婦のオアーナヴェラファミーガがこの物語の中でどんな役割を果たしていたのかということを考えてみたのだけど、彼女はウィルの人柄を表現するための役割だったのかなと思う。少しお金を渡せばなんでも好きなことをしてあげると言うオアーナにはウィルはまったく見向きもしない。ウィルは連日、彼女が寒さをしのぐために車に入れてやるが彼女を買うことはしない。それどころか、リヴに疑われるのをイヤがって、リヴと同じ香水をオアーナにつけてもらおうとさえする。ウィルがだれ彼構わず手を出すようなタイプの男じゃないということを示しておいて、それでもアミラに惹かれてしまったやむを得なさを表現したかったという解釈でいいのかな。あと、ビーがウィル自身の娘ではなかったこともウィルの浮気を許す気持ちになれた一因かもしれない。

まぁ、とにかくアンソニーミンゲラが作り出す世界とジュードロウとロビンライトペンの美しさにやられてしまう。ポエティックな世界を好んだアンソニーミンゲラが美しいジュードロウを多用したのがよく理解できる。(彼の私生活は残念ながら、それに泥を塗るようなものだけどね…)一般的な評価は低めの作品だけど、ワタクシは結構好きでした。

プルートで朝食を

2009-12-15 | シネマ は行
アイルランドを舞台にしたニールジョーダン監督の作品。ニールジョーダンと言えばやはりアイルランド。そして、ニールジョーダンと言えば、ワタクシは何と言っても「クライングゲーム」なのだけど、奇しくもこの作品もアイルランドとゲイが絡んだ作品だった。

赤ちゃんのときに母親に捨てられたパトリック“キトゥン”ブレイデンキリアンマーフィーは男の子として生まれながらも、心は女の子だった。そんな彼女は青年に成長し、本当の母親を探しにロンドンへ出発する。

キトゥンの半生がずっと語られるお話なんだけど、なぜか彼女はどこに行っても、周囲の人に恵まれる。と言っていいのかな。悲惨な目にも合いつつも、なぜか彼女は人に面倒をみてあげなくちゃという気にさせるというか、見知らぬ人に「自分を大切にね」と言われたり、知り合ったばかりの人に仕事をもらえたり、そういう不思議な魅力があるようだ。物語の中のキトゥンがそうであるように、実際の映画を見ているこちら側もなぜか分からないけど、妙にキトゥンに惹かれてしまう。どこか守ってあげたいというか、なんだか可愛いというか、行く末がとても気になるというか…

やはり、60年代末期から70年代にかけてのアイルランドが舞台とあって、当然IRAも物語に絡んでくる。もちろんキトゥンが直接IRAに関係しているわけではないけれど、周囲の人や時代背景からキトゥンも避けては通れない。先にも書いたようにキトゥンはなぜか人から大切にされるのだけど、一度ロンドンでのディスコ爆破事件に遭遇してしまい、アイルランド出身であることからIRAの一味だと間違われて警察に捕まりこっぴどく拷問を受けることがあるのだけど、そのときの刑事たちでさえ、最後にはなぜかキトゥンのことが気がかりになって、最終的には仕事まで紹介してしまうくだりには、ウケたな。それも、より暴力的にキトゥンに接していたほうの刑事イアンハートが面倒を見てしまうのだから。変に男心をくすぐるというのかな。彼らは決してゲイではないんだけど、キトゥンのことは気になるんだよね。まぁ、でもワタクシもそれはすごくよく分かったな。それが、ただいわゆる“オカマ”の悲哀だけではないような、キトゥンのたよりないながらも、自分の思ったことを突き進めて行く人間的な魅力がそう思わせるのだと感じた。

そんなふうにキトゥンを見ているものだから、彼女が母親エヴァバーシッスルに会いに行くシーンは泣けてしまった。「ママ!」と胸に飛び込みたい思いを抑えて、電話会社の社員といつわって会いに行ったキトゥン。結局、母親に打ち明けることはできなかったけど、キトゥン自身が「母親を探しに行って父親を“見つけた”」と話したとおり、そのおかげで父親リーアムニースンとは和解することができて、本当に良かった。

物語の中の人物同様に観客にもキトゥンに想いを寄せさせたというところにこの作品の成功があったと思うが、それはもちろんキトゥンの人物像というものは原作に書かかれてあるというのもあるんだろうけど、キトゥンを演じたキリアンマーフィーの魅力が大いに関係していると思う。彼のことは「バットマンビギンズ」などで見ているはずなんだけど、知らなければ「この人は本当にニューハーフの人?」と勘違いしてしまいそうなほどの演じっぷりだった。(これがまた最初はあんまりなんやけど、どんどんキレイになっていくのです)

60~70年代で、アイルランドで、IRAで、オカマでっていうシチュエーションが揃いながらこう言うのも少し変かもしれないけど、なんだかおとぎ話を見ているような気分になる作品でした。

キャピタリズム~マネーは踊る

2009-12-14 | シネマ か行

これはちょっと見に行こうか迷った作品なんだけど、行ってみました。マイケルムーアという人のことは好き嫌いがあるだろうし、彼の主義主張についても賛成派反対派と分かれるだろう。ワタクシはどちらかと言えば、彼の作品は面白いと思うし、彼の主張していることに関して、間違っているなと思うことはいままでなかったと思う。“ドキュメンタリー映画”としては、彼の撮るタイプのものは彼の主張を全面に押し出したものであるから、ただ何かを捉えたというタイプのドキュメンタリー映画とはまた違うジャンルのものと言えるかもしれない。

毎回、突撃取材でお馴染みの彼だけど、今回も国民の税金をつぎ込んで立ち直った大手証券会社などに袋を持って、「僕たちのお金を返して」とやる。ご大層に現金輸送車まで借り出して、「これで直接財務省に返しに行くから」と。こういうところの演出が彼の映画の特徴なのだけど、やっぱり観客は笑わずにいられない。映画の最後のほうで彼がこれらの企業の敷地を例の「クライムシーン」と書かれた黄色いテープを張り巡らせていくシーンなんかはかなりクスクス笑いがひろがっていた。

そういったハタから見れば楽しいシーンや、工夫を凝らして過去のテレビ映像などを編集したシーンなど「資本主義に反論するドキュメンタリー映画」を見ていることを忘れさせるようなシーンと、さまざまなデータを持ち出したり、実際の被害者や活動家などの姿を映し出すシーンのバランスがとてもよく取れている。

サブプライムローンの破綻で家を追い出される人々、会社に知らないうちに生命保険をかけられていて、夫が死亡したことによって企業が儲けていることを知らされる人々、給料の支払を求めて会社に座り込みのデモをする人々、資本主義そのものがキリストの教えに反すると主張する司祭たち。上位1%の人たちが残りの99%の人たちの富を全て合わせたよりも多くの富を支配するアメリカで99%の人たちの反撃が始まる。上位1%が残りの99%全員の富よりも多くの富を支配するってやっぱり異常事態だよね…ロビンフッドとか、ゾロとか、日本で言うならネズミ小僧みたいな、金持ちのお金を盗んで貧乏人に配るみたいなヒーローってどこにでもいるけど、それを実際に主張すると「この社会主義者め!」っていきなり批難されちゃうんだよねー。確かに、社会主義勢力であった国々は崩壊してしまったわけだけど、社会主義そのものはそんなに悪い発想には思えないんだけどなー。まぁもちろん完璧なシステムではないと思うけど。

これは結果的にリーマンショックのアメリカを映し出した映画ということになったけど、実際にはリーマンショックは彼がこの作品を撮影中に起こったらしい。そして、その最中に大統領選があり、オバマ大統領が誕生する。人々は希望に胸を高鳴らせるが、これからオバマさんはアメリカをどこへ導いていくのだろう。このあたりのことは、これからってとこですかね。経済問題って難しくてよく分かんないんだけどね…一時期“デリバティブ”を理解しようとしたけど、まったくできなかったことがあって、この映画を見ていたら専門家が説明できないどころか、税務署に理解されないための商品であることが分かって変にほっとしたりなんかしてしまった。いや、と言うかほっとしてる場合じゃないよね。こうやって大企業にだまくらかされていくわけだから。

いろんな数字のデータとか、いわゆる“大物”たちの名前とか役職とか膨大な情報が次々と現れては消えるので、1回見ただけではちょっと分かりにくい作品かも。ただ、何回見ても面白い作品だと思うので、何度か見ることをオススメします。


戦場でワルツを

2009-12-10 | シネマ さ行
アカデミー外国語映画賞を「おくりびと」と争い、むしろこちらのほうが本命視されていた作品である。

映画監督のアリフォルマンは友人から悪夢に悩まされていることを聞く。そして、それが1986年のレバノン侵攻のときに出兵したときの後遺症だとも。そして、フォルマンはその話を聞いて、自分もあの時出兵したのに、そのときの記憶がぽっかりと抜け落ちていることに気付く。フォルマンは悪夢を見る友人に「自分じゃなくて誰か他の人(専門家)に打ち上げたほうがいいんじゃないか?」と言うが、その友人は「だからお前に話してるだろ」と言う。映画監督である自分に友人はそのことを打ち明けた。当時同じように出兵していた彼に。そして、そのときの記憶のない彼に。ここから彼の映画監督としての“旅”が始まる。

フォアマンはまずどうして自分の記憶がないのかを精神科医の友人に相談する。そこで人間の記憶とは実に曖昧なものであることを知り、断片的なレバノン侵攻の記憶の中に登場する友人たちをたどって、あそこで自分が本当に見たものはなんだったのかを調べ始める。

この作品はアニメーション作品。と言っても、記憶や空想以外の場面は実際に人間が演技をした映像をアニメのように処理してる。「ウェイキングライフ」という映画があるけど、あんな感じと一緒なのかなと思う。この作品では主人公が記憶をたどる旅なので、それぞれの記憶や夢や空想がアニメで表現されることで違和感なく見ることができる。さまざまな再現を用いなければいけない作品なので、アニメにしたのは正解だったのかも。

さて、主人公はレバノン侵攻で何が起きたのかを探り、自分のゆがんだ記憶の再生に努めるわけだけど、最終的に話は「サブラ・シャティーラ虐殺事件」というものに辿り付く。フォルマンが友人たちに話を聞いてまわりながら、過去の戦争を辿っていくという手法は非常に興味深いもので、フォルマン自身の記憶が抜け落ちてしまっていることから、観客も主人公と同じ目線で記憶を辿っていけるようになっているところはエンターテイメントとしてもレベルの高いものになっていると思う。ただ、最終的に辿り付く「サブラ・シャティーラ虐殺事件」というものについて知識がなかったために、いまいちよく分からない展開になってしまった。それ自身はワタクシの勉強不足なので仕方ないことだったと思う。実際に虐殺を行なったのはイスラエル軍ではなく、レバノンの民兵だったことに頭が少し混乱した。

最後にアニメから虐殺事件の被害者たちの実写映像に変わるところで、観客は一気に現実に引き戻される。変な言い方になってしまうけど、とても賢いやり方だと感じた。これが、現実にあった戦争の話だということが分かっていても、やはりアニメだけで終わってしまうより、最後の実写映像があることによって、観客の受ける印象は随分変わったと思う。

フォルマン監督がこの作品を制作している最中にまたイスラエルはレバノン侵攻を始めてしまった。なんという皮肉だろう…

脳内ニューヨーク

2009-12-08 | シネマ な行

「エターナルサンシャイン」「マルコビッチの穴」の脚本家チャーリーカウフマンの初監督作品で、フィリップシーモアホフマンが主演で、キャサリンキーナーも出てるしね。そりゃ見に行くさ、あぁ、見に行くさ。チャーリーカウフマンだもの、多少難解でしょうけど、それでもやっぱり面白いと言える何かがあるに違いないって期待するさ。

うん、もうさ、ごめんやけど、ケイデンが“脳内ニューヨーク”を作り始めたところあたりから、

分ーかーらーん!!!

凡人には分からん作り?ってやつですかい?日本語題も悪くってね。“脳内ニューヨーク”ってちょっとオシャレな感じするけどさ、別にニューヨーク関係なくね???ニューヨークじゃなくて“脳内ケイデン”?自分自身の日常を全部演劇で再現しちゃうわけよね。それが「生」で「死」で、「人生の主役は自分自身」?みたいなことなのか?つーか全然分からんし。

なんかねー、評論家たちはこれを面白いと言わないとダメみたいな空気がないですか?やっぱカウフマンだし。オタク、分かんないの?みたいなこと言われそうな気がしてつい分かると言っちゃうみたいな。

ワタクシなんか途中からもう眠くて眠くて睡魔との闘いですよ。家でDVD見てるなら確実に寝てたな。もちろん、「エターナルサンシャイン」も「マルコビッチの穴」もワケ分かんないと言えばそうだけど、そこここに面白いシーンとか意味深なところとかあって楽しめたんですけどね。今回はダメだったなぁ。フィリップシーモアホフマンも気持ち悪くって。ってそれは彼がケイデンを演じているからなんですけど。あんなのと寝たい女がわんさかいるってウディアレンかっ!って突っ込みたくなっちゃう。前半は悪くないんですけどねー。もうちょっと妻との関係がなんとかなったりするのかと思ったけど、妻はドイツに行ったっきりだし。それにしても、なんか妙にほっとしたのはフィリップシーモアホフマンとキャサリンキーナーのベッドシーンがなかったことでしょうか。夫婦役だから、ベッドシーンがあるのかなと思ったですけど、なんかなくて良かった。なんで?って分かんないんですけどね、キャサリーンキーナーってすごく好きな女優さんだけど、そういうのは似合わないし、フィリップシーモアホフマンとのベッドシーンなんて絶対見たくなかったからなぁ。って本編とは全然関係ないこと書いてます。だってそれくらいしか書くことないねんもーん。

ま、分からんかったワタクシがゴメンなさいです。あの、結局脳内ニューヨーク中でのケイデンを演じて最後には自殺したずっとケイデンのことを見張ってた(?)おっさんサミートムヌーナンのこととか全然分からんかった。なんで、ケイデンのこと2年間も見てたの?他の出来事とか、登場人物の小さいときの話とか、ケイデンの病気とかとにかく何もかもワタクシには分からん。ってこれ、ヒドいレビューになったな。ワタクシのせい?カウフマンのせい?


ブタがいた教室

2009-12-04 | シネマ は行

公開時から気になっていた作品だったのだけど、先日ケーブルテレビで放映されていたものをやっと見た。

大阪の小学校で本当に行われた「授業」新任教師妻夫木聡が持ってきた課題は「クラスでブタを育てて卒業するときにみんなで食べよう」というもの。実際には900日ブタを育てたということだったが、映画では1年に短縮されている。

みんなでともに育てたブタのPちゃんを食べるか、食べないか?

普段ブタ肉を食べているのに、Pちゃんだけは食べないのか?
もうみんなのペットで家族、友達みたいなPちゃんを食べることなんてできない。

生徒26人の考えは13対13の真っ二つに分かれる。そりゃそうだよね。小学校6年生だもん。大人だって答えなんて分からない。先生は「正しい答えはない」って言ってくれるけど、それでもどちらかに決めないといけないんだから。

この映画を作るにあたって、大人には結論やセリフの書かれた台本が渡され、子供たちには結論の書かれていない台本が渡されたという。実際、この作品の「学級会」のシーンはとても素晴らしい。13対13に分かれて子供たちが真剣に話し合う。彼ら一人一人がPちゃんのことを真剣に考え、「食べるとは?」「命とは?」「生きるとは?」という議論を戦わせる。その中で感極まって泣いてしまう子、取っ組み合いのケンカにまで発展してしまう事態。見ているこちらも同じように心が揺さぶられる。最初のほうは「そう、小学校の学級会ってこんなだったな」なんて大人の目線で見ている自分がいたんだけど、だんだんそんな余裕はこちらにもなくなってまるでこのクラスの一員として学級会に参加しているような気分になり、こちらまで感極まって涙があふれてくる。弱いから泣くのでも、アピールしたいから泣くのでもなく、「感極まる」ってまさにこういうことだなと感じた。この演出には本当に脱帽だし、それに応えた子供たちもとても素晴らしかった。

感動したのは、彼ら26人全員が食べる派も食べない派もどちらも一人残らず、Pちゃんのことが大好きで、Pちゃんのことを真剣に考えているところだ。彼らは誰一人「どっちだっていい」なんて思っていない。誰一人、「Pちゃんなんてどうなったっていい」と思っていない。食べない派は当然食べる派の子たちがPちゃんのことを考えていないと思いがちだけど、食べる派だって、Pちゃんの世話を下級生に引き継いで、その子たちに食肉センターに送られるなら、いま自分たちの手でそうしてあげたほうがPちゃんにとっては幸せだと考えている。

なにがPちゃんにとって幸せか?それを人間が考えるという時点ですでにそれは傲慢というものなのかもしれないけど、それでもやっぱりこの子たちの一生懸命な姿を否定することはできない。「犬と猫と人間と」の記事でも書いたけど、人間がエゴというものを認識できるだけの脳を持ってしまった動物である以上、このような苦悩はどこまでも続くと思う。たとえ、ヴィーガンになったところで、「じゃあ、植物は命じゃないのか?」という苦悩はつきまとうと思う。ライオンは鹿を食べることについて罪悪感を持つだけの脳は持ち合わせていない。自然の摂理として、ライオンは鹿が絶滅するほど食べないし、人間以外の動物の中では調和が取れているのだとは言うけれど、じゃあどうして人間だけがその自然の摂理を超越するほどに発達してしまったのだろう?「自然の摂理」が働いてないじゃんかよ、と思ってしまう。

話がズレました。映画に戻します。子供たちは一生懸命にPちゃんのことを考えに考えますが、結局13対13の構図は解けず、先生もクラスの一員だからということで先生が最後の1票を入れることになる。先生は当初の予定通りPちゃんを食べることに決める。ここで、子供たちは誰も反論はしない。先生がどちらに決めても納得すると最初から決めて先生に託したとはいえ、実際には誰も反論しなかったのかな?でも、あそこまで議論を尽くして結論を出せなかった自分たちだったから、そこに結論が出るということに対してはどちらに転んでもどこかでホッとするということはあったかもしれない。

結局Pちゃんは食肉センターに送られるんですけどね、ということは実際子供たち自身がPちゃんを食べるわけではないわけです。もし、自分が小学校6年生だったら、Pちゃんを食べたくないかもしれないし、それを子供たちにやらせるのはやっぱり残酷というものなのかもしれない。中にはトラウマになる子もいるかもしれないし。でも、いま大人の目線で考えると、もし、食べることに決まったのなら、自分たちで食べたいかも。他の知らない誰かに食べられるくらいなら自分たちで食べたい。と言って、他の知らない誰かに殺されるくらいなら自分たちで殺したいとは言えないところが偽善的なのかもなぁとは思うのですが。田舎の風景としては普通なのかもしれませんがね。日本でも鶏を絞めて食べるとかヨーロッパの田舎とかだとウサギとかも絞めるだろうし。この映画を牧場の子供なんかが見たら、「なぁに、涙流して必死になってんだよ」と思うのかもしれない。うぅ、なんか取りとめがなくなってしまった。

もう少し教師自身の苦悩も見せてくれても良かったかなぁとは思いますけど、あくまでも主役は子供たちでってことでしょうかね。「ブタは食べるために生まれてきたんだから」という子供のセリフと「もうあの子たちは十分にがんばったから、もういいと思う」という教師のセリフはちょっと引っかかるもんがあったんですけどね、また取りとめがなくなっちゃうんでこの辺でやめときます。ブッキーは新任教師の役をうまく演じていたと思いますね。子供たちのおかげなのかなんなのか、彼も本当の教師っぽかったです。

結論がどっちに転ぶのであれ、彼らの出した結論を支持してあげたいという気持ちになるくらい彼らの心情が伝わってくる映画でした。ワタクシたち人間には考える脳みそがあるんだから、思考停止しないで考えるところは考えようよってあらためて思いました。