これはただのヒモの話?そうかもしれん。
子供の頃憧れていた“髪結いの女”を夢見て大人になった少年ジャンロシュフォールは本当に“髪結いの女”アンナガリエナに出会い結婚する。しかも、子供の頃憧れていた“髪結いの女”よりも数段若くてきれいな女だ。この男のすることといえば、彼女が客の髪を切る間その周りでダンスを踊ることだけ。それがまた、奇妙に体をクネクネさせるアラブの音楽に合わせたどちらかと言えば気持ちの悪いダンスだ。ワタクシはこの男のダンスは嫌いだった。他にこの男がすることといえば、この“髪結いの女”を愛することだけだ。そして、彼女もこの男を死ぬほど愛している。そう「死ぬほどに」だ。
またこの“髪結い”という表現がとてもいいではないか。「美容師」でも「パーマ屋」でも「理髪師」でもなく“髪結い”である。この言葉の響き。なんかそそられるではないか。主人公は“髪結い”に憧れたが、ワタクシはこの“髪結い”の亭主というポジションに憧れずにいられない気持ちになる。
この彼女の最後の選択に関しては、疑問を感じながらも完全に分からないわけではない気持ちにもなる。ワタクシ自身は絶対にそんなことはしないけど。この男にしても、彼女が取った行動に対して、幸せそうに最後にあの気持ち悪いダンスを踊ってみせるのだ。この男の気持ちも分からなくはない。
愛の表現の方向性というのは様々なわけで、これが究極の愛とか言われると抵抗を感じるけど、これも一つの愛の形と思うと受け入れられる気がする。
ただ、単なるヒモの話やん。と言わずに、そういう概念を捨てて見てほしい。