電脳筆写『 心超臨界 』

真の発見の旅は新しい景色を求めることではなく
新しい視野を持つことにある
( マルセル・プルースト )

生きるための杖ことば 《 聖朝無棄物――松原泰道 》

2024-07-16 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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京都千本の安居(あぐ)院正念寺の住僧が、千宗旦(せんそうたん=1658年没)に、寺庭に咲いた椿の一枝を小僧に届けさせた。ところが小僧は途中で粗相(そそう)をして、花を枝から落としてしまった。彼は宗旦に正直にわびた。宗旦はやさしく小僧をなだめ、しばらくして彼を茶席へ導く。


◆ 聖朝無棄物(聖朝(せいちょう)に棄物(きぶつ)なし)
 ――后山陳師道(こうざんちんしどう)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p198 )

中国宋代の后山陳師道作詞の一句で、明君が上にあれば、万民みな処を得る天下泰平をたたえている。

釈尊の教えからすれば、聖朝は「ほとけのこころ」であり、仏心を得れば、棄てるものは何一つないとなる。かりに棄てろと言われても、棄てることの出来ない道理が明らかに理解出来るからだ。マッチ一本、紙一枚でも、みな永遠のいのちとこころの不思議な光明である。棄てるものは一つもない。もし棄てるなら、それは自分そのものの存在の放棄となる。

小布(こぎれ)一つそまつにせでしまいありし亡母(はは)の手箱を涙してみる――との一首を、かつて新聞の読者歌壇で見うけたことがある。“消費の美徳”に酔いしれた悔恨はだれにもある。小布一枚も、一滴の水も、今わが目前で一瞬のうちに、すべてのはたらきをして、その一生を終ったのだ。

京都千本の安居(あぐ)院正念寺の住僧が、千宗旦(せんそうたん=1658年没)に、寺庭に咲いた椿の一枝を小僧に届けさせた。ところが小僧は途中で粗相(そそう)をして、花を枝から落としてしまった。彼は宗旦に正直にわびた。

宗旦はやさしく小僧をなだめ、しばらくして彼を茶席へ導く、見ると席の床の間の軸をはずし、祖父利休作の「園城寺」の花入れを柱にかけ、かの花のない椿の枝を投げ入れ、その下に、落ちた椿花を置き、小僧に自ら一服の茶を点じて、その労をねぎらった。(井伊直弼『閑夜茶話』)

花を失った枝、枝から落ちた花、ともに棄てるほかない存在のように思える。しかもその中に真・善・美を凝視する、みごとな“人生のお手前”であろう。

私の知人、精進料理の「あじろ」の主人は、野菜屑(くず)に「ありがとう」と合掌して、最後は「土にお返しする」と言っている。
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