電脳筆写『 心超臨界 』

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( マハトマ・ガンジー )

日本史 古代編 《 歴史とは「民族共通の記憶」である――渡部昇一 》

2024-06-26 | 04-歴史・文化・社会
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日本史の一大特徴は、有史以前にすでに同一言語の民族が成立していたことであり、歴史がはじまったときは、すでに日本人は自分たちを一民族と考えていたことである。戦後は天孫族と出雲族を対立させたりしているが、それはあくまでも推測である。『古事記』や『日本書紀』が出来たころには、少なくとも、天孫族も出雲族も姉弟の神々の子孫であり、同族と考えられていたのである。それ以上のことを推測するのは、考古学的な興味であって、本来の歴史的関心事ではない。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p331 )
1章 神話に見る「日本らしさ」の原点
――古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの
(2) 実証万能主義・戦後史学の陥穽(おとしあな)

◆歴史とは「民族共通の記憶」である

以上は久米事件を手がかりとして、戦前の日本史研究の状況について、発表のタブー、研究の寛容、実証の精神という三点から考えてみたのであるが、これに比べると、戦後の史学の動向も比較的明らかになろう。タブーは消え、実証精神は残った。それに強力な唯物史観の台頭があったことを付け加えたらよいと思う。その結果として、手に触れ、目に見えるものを根拠とする論説がきわめて重視されることになった。特に歴史の考古学的側面の比重が急増した。土器や石器、あるいは住居の跡。歴史を論ずるにこれほど確実なものはないように思われた。

考古学の進歩は、もちろん歓迎されるべきものであり、その価値は疑うべくもない。しかし考古学による研究で歴史がわかると考えるのも、はなはだ危険である。

たとえば南部イングランドにストーンヘンジという巨石文化の遺跡がある。これは紀元前のブリテン島に、強力な権力の下(もと)に共同作業するために結合して働いた多数の住民がいたことを証明するものである。英国史家はこの人種はイベリヤ人と称し、スペインから来たと考えている。そしてマルタ島の巨石文化を作った人たちと同質の文明を持っていたと結論している。その遺跡に関する研究は面白いものであり、私も何冊かの文献を持っている。

しかし、その文明がどんなものであり、その文明の担い手がどんな人間であったにせよ、イギリス史とは何の関係もなかったのに気が付いてびっくりする。ストーンヘンジの研究は英国の島の歴史ではあっても、英国民の歴史ではないのである。

同じことは日本史についても言えるのではあるまいか。日本列島の地質学的な研究もおおいに面白い。日本の原住民らしいものの住居や、土器、石器もそれぞれに面白い。しかし、それはイベリヤ人の研究とイギリス人の研究とがほとんど関係ないように、日本史ともあんまり関係ないのではあるまいか。

日本史の一大特徴は、有史以前にすでに同一言語の民族が成立していたことであり、歴史がはじまったときは、すでに日本人は自分たちを一民族と考えていたことである。戦後は天孫族と出雲族を対立させたりしているが、それはあくまでも推測である。『古事記』や『日本書紀』が出来たころには、少なくとも、天孫族も出雲族も姉弟の神々の子孫であり、同族と考えられていたのである。それ以上のことを推測するのは、考古学的な興味であって、本来の歴史的関心事ではない。

「歴史は民族の共通の記憶」であると言われるが、日本民族の共通の記憶は記紀万葉をもってはじまる。そこに書かれてある話は、今から見れば神話も多いが、当時の人にはリアルに、つまり現実的に考えられていたのであるから、これからが日本人の歴史である。それ以前のことを研究する考古学は、歴史的には神代以前のことに属するといってよい。

英国史では、ケルト人やスカンジナビア人やノルマン人やローマ人の研究は、英国史の実質的な一要素になるが、日本ではクマソやエゾはそれだけの意味を持たない。日本史の研究は、まず記紀などの文献で見られることに関係ある限りにおいて、考古学的発掘も歴史的価値があるのである。

考古学的発見から出発して日本史を再建するのは、排泄物から、それをやった者の思想を推測するようなことになるのではないだろうか。

記紀万葉に登場する者は、神も人間も、日本語を語り、考え、感じ、悲しむ。だからわれわれは、「日本人」と関係あるかないかわからない原住民からはじめないで、明かにわれわれの先祖であり、われわれの言葉を語った者たちから考察をはじめてゆきたい。
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