電脳筆写『 心超臨界 』

人生の目的は目的のある人生を生きること
( ロバート・バーン )

日本史 古代編 《 日本人にとっての仏教とは――渡部昇一 》

2024-08-03 | 04-歴史・文化・社会
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先祖崇拝をドイツ語ではアーネン・クルトと言うことを知ったのはもっとあとになってからである。日本の家庭においては、カミもホトケもアーネン・クルトという一つのカテゴリーに属するのである。そして平均的日本人は、たいてい、こういう神仏の理解の仕方をしているのではないだろうか。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p145 )
2章 上代――「日本らしさ」現出の時代
――“異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した
(3) 用明(ようめい)天皇が果たした歴史的役割

◆日本人にとっての仏教とは

普通の家庭に育った人ならば、神棚と仏壇が同じ部屋に置かれていることを不思議に思わない。「カミ・ホトケ」というのは、ほとんど一つなぎの言葉になっていた。

私も子どものときは、毎朝、神棚の左端にある天照大神(アマテラスオオミカミ)から拝みはじめて、右端の天満宮まで、いろいろな神様を拝んだ。それから仏壇を拝んで、庭に出て稲荷様の祠(ほこら)を拝んだものである。それから正月などには、かまどの神、便所の神などにそれぞれ榊(さかき)とモチを供えて拝んだ。

私のうちは特に信心深くもない普通の家だったが、今から見ると、驚くほど色々な神様や仏様を拝んだことになる。

私の周囲の家も、だいたい、似たり寄ったりのことをしていた。家族の中に、特に不動さんを信仰する者があれば、それにもう一つ加わることになる。こんなことをやっていたので、近所の戦死者が招魂社(しょうこんしゃ)に祀られるのと同時に、お寺の供養を受けるのを不思議にも思わなかったのである。つまり、靖国神社と菩提寺は相反するものではなかった。

空気や水のように親しんできたこの習慣が、たいへん特異なものであることを知らされたのは、やはり大学で宗教学の授業などを受けるようになってからである。一軒の家、一人の人間の頭の中に複数の宗教が存在して平気なのは、日本人が本当に宗教的でないからだろうという外人の宗教学者の話を聞いて「そうかな」と思ったこともある。また、レヴィ・ストロースの『原始神話学』で、未開人は矛盾を気にしないという言葉を読んで、日本は宗教的に未開なのかなと思ったこともある。

しかし、そのいずれでもないと考えるようになったのは、ラフカディオ・ハーンを読んでいたとき、先祖崇拝(アンセスタ・ワーシップ)という言葉を知ったことによる。私が子どものときに体験したのは、神であれ、仏であれ、要するに先祖崇拝であったと思い当たったからである。子どものころに私が神様であるとして拝んだのは日本人の遠い先祖で、しかも偉い人である。私が仏様として拝んだのは自分の身近な人で、あまり偉くない人たちであった。

こういう先祖崇拝をドイツ語ではアーネン・クルトと言うことを知ったのはもっとあとになってからである。日本の家庭においては、カミもホトケもアーネン・クルトという一つのカテゴリーに属するのである。そして平均的日本人は、たいてい、こういう神仏の理解の仕方をしているのではないだろうか。

二つばかり例を挙げてみよう。

私が一時、下宿していた家のおばさんは、離婚者で子どもがなく、ある仏教系の有力な新興宗教に属していた。その宗教に入信した理由は、「ご先祖様に水をあげに行きませんか、と誘われましてね」ということであった。

釈迦は名門の生まれでありながら妻子を捨てて出家なさった方である。先祖の祀りがその教義の中心になることは常識的に言ってもおかしい。しかし、こういうのが私も体験してきた仏教であった。先祖崇拝は日本人の古来のシャーマニズム的信仰なのであって、仏教はシャーマナイズされてしまったのではなかろうか、という疑問がそのとき起こったものである。

最近の例では、ある新興仏教団体が、伊勢神宮の遷宮費用の募金では一番の成績を上げているという。神宮は日本のカミのカミである。その遷宮のための募金に仏教関係団体がハッスルしているというのは、まことに日本的な光景である。

では、日本人にとって仏教は何であったのだろうか。
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