電脳筆写『 心超臨界 』

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( アラン・ラケイン )

不都合な真実 歴史編 《 「敗戦革命との戦い」を踏まえた戦後史を――江崎道朗 》

2024-07-15 | 04-歴史・文化・社会
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先の戦争は、英米を始めとする連合国との「軍事の戦い」であるだけでなく、連合国内部に入り込んだソ連・コミンテルンの協力者たちによる「敗戦革命との戦い」でもあった。「敗戦革命との戦い」というインテリジェンスの視点を踏まえて戦中・戦後史は、大きく書き換えられるべきである。


◆「敗戦革命との戦い」を踏まえた戦後史を

『日本占領と「敗戦革命」の危機』
( 江崎道朗、PHP研究所 (2018/8/18)、p498 )

1948年、エリザベス・ベントレー女史とウィテカー・チェンバーズがアメリカ連邦議会の下院非米活動委員会に呼ばれ、証言を行なった。彼らの証言から、国務省高官のアルジャ―・ヒスがソ連軍情報部のスパイであるという疑惑が飛び出すことになる。

チェンバーズは『タイム』誌の記者で、コミンテルン工作員だったが、1939年に、ルーズヴェルト政権内部にソ連の工作員が多数浸透していることを、ホワイトハウスの治安専門家であったアドルフ・バール(当時j、国務次官補に報告していた。

一方のベントレー女史は、元々アメリカ共産党員だったが、スターリンの大粛清に幻滅して党を離れた人物で、1945年にFBIにソ連工作員の動きを告発していたのである。

彼らの証言がきっかけとなり、ヤルタ会談を仕切ったソ連軍情報部の工作員、アルジャー・ヒスが偽証罪で有罪になるなど、アメリカ政府においても、ようやくソ連の工作員に対する警戒心が強まっていく。

1949年の中国共産党の内戦勝利と中華人民共和国の成立、1950年の朝鮮戦争の勃発といった国際情勢の急変を背景に、ローゼンバーグ夫妻が核開発の機密情報をソ連に提供したローゼンバーグ事件をはじめとして、アメリカでは「赤狩り」旋風が吹き荒れることになる。

これを主導したジョセフ・マッカーシー上院議員の手法があまりに荒削りだったため、このとき全容が解明することはなく、最終的にはむしろ誰かをソ連・コミンテルンのスパイと批判することがタブー扱いされるようになってしまった。

しかし、この「赤狩り」によってソ連の息がかかった工作員は次々とアメリカの枢要部から放逐されていった。連動してアメリカ政府の対日政策も急激に変わっていくことになる。

帰国後、カリフォルニア大学バークレー校での客員教授となっていたトーマス・ビッソンも1951年、アメリカ連邦議会上院国内治安小委員会のIPRに関する公聴会に召集された。その影響もあってバークレー校でのビッソンの契約更新は行なわれず、その後、1968年まで大学の教職に就くことができなかった。

府中刑務所にいた日本共産党の幹部たちを釈放したハーバード・ノーマンは1950年にカナダに帰国したあと、駐ニュージーランド高等弁務官や駐エジプト大使兼レバノン公使を歴任したが、1957年、アメリカ連邦議会上院国内治安小委員会でジョン・エマーソンと都留重人がノーマンが共産主義者であるかどうかについて質問された直後、任地のカイロで投身自殺した。

野坂参三も、その晩年は哀れなものであった。1991年12月にソ連が崩壊すると、ソ連時代の機密情報が公表されるようになったが、それによって野坂参三が1939年に「日本共産党の同志・山本懸蔵がスパイだ」とソ連当局に密告し、結果、山本が粛清されていたことが露見する。日本共産党も「独自調査の結果、野坂はソ連の赤軍情報総局に直結する工作員という任務をもって日本に帰国した事実が明らかになり、本人も認めた」として、1992年に野坂参三を除名した。

工作員の末路が、悲劇的に終わることも多い。日本の「敗戦革命工作」を進めた人々も、その例に漏れなかった。

その一方で、戦時中から戦後すぐの時期に「ソ連・コミンテルンの工作員」を告発したエリザベス・ベントレーやウィテカー・チェンバーズ、そしてジョセフ・マッカーシーらはその当時、必ずしも全面的に受け入れられたわけではなかった。むしろ非難に晒(さら)され、不当な評価を受けてきたといえよう。

だが、繰り返し述べているように、1995年にヴェノナ文書が公開された結果、半世紀の時間を必要としたが、現在では彼らの告発が概ね正しいものであったことが明らかになりつつある。

その再評価に際しては、歴史の真実が明らかになっていなかった段階で危機に気づき、その危機に立ち向かっていったこれらの人々の先見の明を大いに讃えることを忘れてはなるまい。

日本もそうだ。

たとえ、その時は圧倒的な少数派であったとしても、インテリジェンスを重視し、敵の意図を正確に把握しようと努め、なによりも国民の安全と生活を重視した指導者たちが、日本を終戦から占領期の亡国の危機から救ってきたのだ。

その危機とは、本書で縷々説明したように日本を敗戦から共産革命へと追い込む「敗戦革命」であり、昭和天皇をはじめ、重光葵、吉田茂、石橋湛山ら保守自由主義者が敢然と立ち向かわなかったら、戦後の日本は、いまの北朝鮮のようになっていたかも知れないのだ。

同様にトルーマン政権をして「対日無条件降伏」を断念させた硫黄島、沖縄の奮戦、さらに、スターリンによる北海道侵攻を食い止めた占守島でも奮戦がなければ、日本はどうなっていたことか。先人たちに、心より敬意を表したい。

先の戦争は、英米を始めとする連合国との「軍事の戦い」であるだけでなく、連合国内部に入り込んだソ連・コミンテルンの協力者たちによる「敗戦革命との戦い」でもあった。

「敗戦革命との戦い」というインテリジェンスの視点を踏まえて戦中・戦後史は、大きく書き換えられるべきである。
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