電脳筆写『 心超臨界 』

真の発見の旅は新しい景色を求めることではなく
新しい視野を持つことにある
( マルセル・プルースト )

イスラムと中国は「古代」を蹂躙しにかかっている――西尾幹二教授

2020-03-04 | 04-歴史・文化・社会
 「東京裁判史観(自虐史観)を廃して本来の日本を取り戻そう!」
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《 いま注目の論点 》
英国は同盟を揺るがすな――産経新聞
防疫より中国に忖度したのか――古森義久さん
戦勝国史観見直しの好機逃すな――江崎道朗さん
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●イスラムと中国は「古代」を蹂躙しにかかっている

『あなたは自由か』
【 西尾幹二、筑摩書房 (2018/10/5)、p371 】

イスラムとヨーロッパの関係は中国と日本の関係のいわば一種の比喩です。

歴史を口実にした中国や韓国の日本に対する政治的挑戦に「歴史戦」という言葉が最近よく使われます。そういうこの百年の歴史のことだけだと考えるのは早計です。歴史の根はもっと深い。

ヨーロッパがイスラム世界に縛られたように、日本は中国大陸(朝鮮半島はその一部)に、古代以来のきわめて長い期間、文化的にも政治的にも制縛(せいばく)されていました。そこからの「解放」がいわば「近代」なのです。「解放」はまた再学習と並行して行われるのが特徴で、古代像の先取り争いでもあり、最終的には奪い合いでした。ヨーロッパも日本も強大なイスラム文明や中華文明から学習しつつ、解放されて近代の進歩と自由を獲得し、歴史の第一線に躍り出たといっていいのです。

自分の方が優越していると信じていたイスラムと中国は、さっきも述べたようにこの逆転が許せない。下に見ていた相手の優勢を認めたくない。それがしつこい歴史戦になり過激テロになっています。イスラムと中国はいま「近代」を踏みつぶし、ゼロに戻そうとしています。

さて、「近代」の出発点はどこでも古代の再獲得にあります。ヨーロッパはもともと、その「近代」に本当の自信を持っていなかった。ヨーロッパには古代がないからです。ヨーロッパ人は自分の聖典の由来がわからないという根源的不安があると再三述べてきましたが、一方、日本はどうかといえば、日本も仏教は漢訳仏典を唯一の頼りにしたので、原語サンスクリットは明治になってやっと知ったのです。長い間、古代中国から高度宗教や法体系を学んで自足していました。

ユーラシアの東西の端にあったヨーロッパと日本にとって、根源的不安の克服こそが「近代」なのです。ヨーロッパ人には人文主義の歴史があり、ギリシャ=ローマをアラビア人に学んで自分の歴史に奪い取るルネサンスがあって、やっと「近代」の戸口に立ったと申しましたが、日本も江戸時代に「近代」に近づくためには、中国に学び直し、自分の歴史を確立する必要に迫られました。江戸時代に水戸光圀(みつくに)が古代中国の『詩経』を真似て『万葉集』の編纂(へんさん)、『史記』をモデルに『大日本史』の編纂を企て、いかにも中華依存に見えますが、じつは自分を確立するために古代中国を学び直したのです。

その証拠に、江戸の儒学は同時代の清朝の学問からは大きな影響を受けませんでした。室町までの中国への接し方とは異なり、江戸の儒学は、同時代の大陸の学問の新傾向に学ぶことで自己充足するという方法態度を放棄していました。もしそうでないなら、清朝考証学(正式には考拠学)を、江戸の学者は学習の主舞台としていたはずです。しかしそうはならなかった。政治的にも対中交流を謝絶していました(江戸の市中に中国人は立ち入り禁止でした)。そしてひたすら中国人も忘れかけた古代中国を再学習した。伊藤仁斎も荻生徂徠(おぎゅうそらい)も反朱子学でした。

仁斎の「哲学的文献学」(源了圓(みなもとりょうえん)氏による)はルターが各自聖書そのものに対面するように求めた態度にも似ていますし、徂徠の学問への態度はもっと徹底していて、儒学のテキストそのものを懐疑した近代的解釈学にも類似した方法論的対応でした。同時代の中国の学問に頼らないこうした江戸の儒学は、やがて本居宣長の国学や水戸学への道を開きました。つまり、中国研究であった儒学が、日本は中国とは別の国であるとの意識をかえって高めたのです。中国の儒学に国境の観念はありませんが、江戸の儒学は逆に日本人に国境の観念を与えたといってもいい。日本もかくして「近代」の戸口に立ったといえるでしょう。

日本は明治維新で初めて「近代」を獲得したのではありません。それ以前に日本史の内部に「近代」は胚胎(はいたい)し、醸成されていました。明治の日本人があまり抵抗なしにヨーロッパを受け入れたのは発展段階が似ていたからであって、世界では例外です。その代わりに明治日本は維新の直前まで地上に覇を唱えていたイスラム世界の全体の姿を視野に入れることを怠りました。ギリシャ=ローマをヨーロッパ史の唯一の祖先と見なすキリスト教文明の閉ざされた歴史プロパガンダを受け入れてしまったのです。

一方、ヨーロッパの方でも長い間、江戸時代の日本は封印された暗闇で、日本が古代像を中華の歴史から奪い取り、自国の古代像を蘇生させた国学者たちなどの精神のドラマが「近代」を生んだのだという事情にまったく気がつきませんでした(今も気がついていない)。最近でこそノーベル賞の科学部門が欧米と日本に集中することに暗示を感じている西洋人がいますが、数世紀に及ぶ歴史背景があってのことなのです。

日本人はイスラム教徒のことが遠い世界でよく分かりません。ヨーロッパ人も中国人のことが分かっていない。中国による南シナ海の人工島の造成を違法とした仲裁裁判所の裁定を「紙くず」と罵倒した中国政府は、「近代」の法秩序を頭ごなしに否定したのですから、その点は「イスラム国」のテロリズムと同類です。イスラムと中国は近代以前の愉悦の記憶を盾に、暴力で「近代」をいっぺんに白紙に戻そうとしています。それがいま目前に起こっている文明の争奪戦の実相です。

しかるに最近起こった次のような逸話があります。ドイツのメルケル首相が(あとで否定はしましたが)、「南シナ海の人工島は、東南アジア各国がみんなで使えばいいんじゃない?」と無邪気に発言したとされるのは、唖然(あぜん)とさせる無知ぶりでした。膨張する「中華帝国」に対する、あまりに幻想的なメルケルの現実認識は信じがたいのですが、この甘さに「民族大移動」にも似たドイツへの大量難民を引き起こしてしまった真の原因がありましょう。

現代ヨーロッパの移民問題は、8世紀からの宿命の対決の現代版です。イスラムと中国は「古代」を蹂躙(じゅうりん)しにかかっているのです。

日本はヨーロッパの轍を踏んではなりません。長い時間をかけて日本は中国文明に学び、自分の文明を探り出し、魔圏から自らを解き放ち、「近代」を獲得しました。そうやすやすと城を開け渡すわけにはいかないのです。この城は単に物質文明の城なのではなく、中華文明から離脱するために苦闘した日本人の歴史の痕跡を示す精神の城砦なのです。

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