電脳筆写『 心超臨界 』

自然は前進と発展において留まるところを知らず
怠惰なものたちすべてにののしりを発する
( ゲーテ )

セレンディビティの予感 《 滄浪の水――五木寛之 》

2024-05-05 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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  セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
  予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
  いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
  ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
  [ ウィキペディア ]


ひとつの扉が閉じれば、もうひとつ別の扉が開く
しかし、人は閉ざされた扉を悲観的にながめるだけで
ほとんど開かれた扉に目を向けることをしない
( ヘレン・ケラー )
When one door closes, another opens.
But we often look so regretfully upon the closed door
that we don't see the one that has opened for us.
( Helen Keller, American author, 1880-1968 )


◆滄浪の水

『大河の一滴』
( 五木寛之、幻冬舎 (1999/03)、p55 )

むかしきいた話である。

古代の中国に屈原(くつげん)という人がいた。たぶん紀元前何世紀かの戦国時代の人だろう。彼は乱世のなかで国と民を憂(うれ)い、さまざまに力を尽くしたが、それをこころよく思わぬ連中に讒訴(ざんそ)されて国を追放され、辺地を流浪(るろう)する身となった。屈原のすぐれた手腕と、一徹な正義感、そしてあまりにも清廉潔白(せいれんけっぱく)に身を持(じ)そうとする生きかたが、周囲の反撥(はんぱつ)を買ったものと思われる。

長い流浪の歳月に疲れ、裏切られた志(こころざし)に絶望した屈原は、よろめきながら滄浪(そうろう)という大きな川のほとりにたどりつく。彼が天を仰いで濁世(じょくせ)をいきどおる言葉を天に吐きながら独り嘆いていると、ひとりの漁師が舟を寄せてきて、身分の高いかたのようだが、どうなさいました、とたずねる。

そこで屈原は答えた。

いま世間は、あげて皆すべて濁りきっている。濁世のきわみだ。そのなかでこれまで
自分はひとり清らかに正しく生きてきた。そしてまた人びとはいまだに、みな酒に酔い痴(し)れているような有様だが、そのなかで自分はひとり醒(さ)めているのだ。だからこそ、私はこのような目にあって官を追われ、無念の日々を送っているのだ、と。

それをきいた漁師は、うなずきながらふたたび屈原にたずねる。

たしかにそうかもしれません。しかしあなたは、そのような濁世にひとり高くおのれを守って生きる以外の道は、まったくお考えにならなかったのですか。

屈原は断固(だんこ)として答えた。潔白なこの身に世俗の汚れたちりを受けるくらいなら、この水の流れに身を投じて魚の餌(えさ)になるほうがましだ。それが私の生きかたなのだ、と。

すると漁師はかすかに微笑(ほほえ)み、小舟の船ばたを叩(たた)きつつ歌いながら水の上を去っていった。その漁師の歌は、次のように語り伝えらている。

滄浪之水清兮(滄浪(そうろう)の水清(みずす)まば)
可以濯吾纓(以(もっ)て吾(わ)が纓(えい)を濯(あら)う可(べ)し)
滄浪之水濁兮(滄浪(そうろう)の水濁(みずにご)らば)
可以濯吾足(以(もっ)て吾(わ)が足(あし)を濯(あら)う可(べ)し)

     滄浪(そうろう)の水が清らかに澄んだときは
     自分の冠(かんむり)のひもを洗えばよい
     もし滄浪の水が濁ったときは
     自分の足を洗えばよい

そして漁師は二度と背後をふり返ることなく、流れをくだって遠く消えていってしまうのである。

この屈原と辺地の一漁師とのやりとりは、さまざまな説話として中国に語りつがれてきた。郭沫若(かくまつじゃく)にも戯曲『屈原』の作がある。

屈原のような人は、いまでも少なくない。有能で、理想家肌で、そしてまっすぐ正直に生きようとする。そういう人にとって、この現代の濁世は、真実、耐えがたいものだろうと思う。首脳部に命じられて、汚れた仕事を当然のように押しつけられる企業の社員のなかには、刑務所にはいったり、自殺したりする者もいる。

屈原は見事な人物である。しかし、名もない漁師のふてぶてしい言葉にも、この世に生きる者の、ある真実があるように思われてならない。汚れて濁った水であっても、自分の泥だらけの足を洗うにには十分ではないか。

大河の水は、ときに澄み、ときに濁る。いや、濁っていることのほうがふつうかもしれない。そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るのは、はたしてどうなのか。なにか少しでもできることをするしかないのではあるまいか。私はひそかに自分の汚れた足をさすりながら、そう考えたりするのである。
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