電脳筆写『 心超臨界 』

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日本史 鎌倉編 《 京都に「流された」将軍——渡部昇一 》

2024-07-11 | 04-歴史・文化・社会
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当時の史書『増鏡(ますかがみ)』は、「将軍が都に流されたということであるが、奇妙な言い方もあればあるものである」と言っている。通例、「流す」というのは「島流し」のことで、僻地に流されるのが普通であるのに、「都に流された」という奇妙な言い方があったことを指摘していて面白い。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p29 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(1) 「善政」は万能ならず――北条一門の破滅

◆京都に「流された」将軍

実朝のあとは、頼朝の妹の嫁ぎ先であった九条家から聟(むこ)を取って、四代将軍とするが、まったくの飾りものであることは、はじめからわかっている。なにしろ、この四代将軍の頼経(よりつね)(幼名は三寅(みとら))が将軍職に就いたのはたった9歳だったのだから。この頼経はその後約20年間、将軍の位にあったが、27歳になったとき、将軍を辞めさせられた。

そして五代将軍になったのは、まだたった6歳だった自分の子である。これが頼嗣(よりつぐ)である。この頼嗣も14歳になったときに位から追われて、そのあとに第六代将軍として迎えられたのは後嵯峨(ごさが)上皇の第一皇子の宗尊(むねたか)親王であるが、この新将軍もまだ11歳の子どもであった。この六代将軍も25歳になると将軍職を追われて、第七代将軍になったのは、自分の子の惟康(これやす)親王である。この新将軍もたった5歳であった。

この七代将軍も在位約20年、26歳になったときに将軍を辞めさせられて、京都に帰らされた。

当時の史書『増鏡(ますかがみ)』は、「将軍が都に流されたということであるが、奇妙な言い方もあればあるものである」と言っている。通例、「流す」というのは「島流し」のことで、僻地に流されるのが普通であるのに、「都に流された」という奇妙な言い方があったことを指摘していて面白い。

こののち八代将軍として迎えられたのは、後深草上皇の皇子の久明(ひさあき)親王であるが、そのとき、歳は14歳であった。その後、約19年間、将軍の位にあったが、33歳のときに辞めさせられたのである。そして九代将軍に任ぜられたのはその子守邦(もりくに)親王であるが、この新将軍の歳は7歳であった。そして約25年後には、幕府がなくなってしまったのである(1333年)。
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