電脳筆写『 心超臨界 』

自由とは進化向上のチャンスにほかならない
( アルベール・カミュ )

日本史 古代編 《 記紀抜きで日本人の「現実」は理解できない――渡部昇一 》

2024-03-15 | 04-歴史・文化・社会
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古代史は何といっても書かれた歴史を中心とし、それをそのほかの分野の研究で解釈する考証的史学のほうが誤るところが少ないのではないかと思う。これを超えて「科学的」ということ自体が、すでに非科学的なのである。われわれは、6世紀以前のことに関する記紀の記述は、ほかを以て替えがたく貴重な、われわれの先祖の現実(リアリティ)の描写と考えて解釈していくべきであろう。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p80 )
1章 神話に見る「日本らしさ」の原点
――古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの
(5) 日本的アイデンティティの出発点

◆記紀抜きで日本人の「現実」は理解できない

ここで、われわれは歴史上の事実(ファクト)と現実(リアリティ)の区別について考えてみよう。

キリストは神の子でなかったと普通の日本人は考える。またある学者は、キリストが存在したという事実をローマの文献から立証できないとして、その存在を否定する。これは事実による歴史研究法といってよく、科学的といってもよい。

ところがキリスト教徒にとってはキリストは神の子である。それだからこそ、ネロの時代をはじめとして多くの殉教者が出たわけだし、日本ですらキリシタンの例がある。この人たちにはキリストが神の子であることは、心の中で現実であり、リアルであり、ヴィルクリッヒであるといえよう。そいう人たちが集まって、いつの間にかヨーロッパじゅうに教会を建て、神学部のある大学を建てていたことになる。

すると聖書の記事は事実として科学的に証明できなくとも、その後の2000年間のヨーロッパの歴史は、聖書を現実として見ないと絶対に説明できないことになる。

同じことは日本の記紀についても言われよう。記紀の伝承は日本人の先祖にとって一つの現実なのであって、これを抜けば、つい最近までの日本人の考え方も生活も、まったくわからなくなるのだ。しかも記紀の場合は歴史書であり、事実の記載に満ちている。それらの事実は、記紀以外のものによる証言はないものが多いし(古代の文書はだから貴重なわけだが)、御陵や神社などの裏付けがあるのもある。

しかし、今、挙げた仁徳天皇や景行天皇まで日本史年表から落されるのは、記紀の現実性のみならず、事実性まで、著しく軽んじられていると言わねばならない。その理由は、現代の日本古代史はその座標軸をシナや古代朝鮮の記録に移したからである。

たとえば、戦後盛んに論ぜられている邪馬台国についても、「魏志倭人伝」を絶対正確の史書という発想で、それから日本の古代を説こうとする。しかし岡田英弘(ひでひろ)氏の明快な指摘にもあるように、シナの歴史書には日本の実状を書く意図はまるでなかったのであり、シナの皇帝と周辺の国とがどんな関係にあったかを書けばよいのであって、倭人朝貢という事実を臣民に誇示すれば、あとの記述は問題ではない。書く当人が問題にしていなかった記述を、いくらいじっても真理には関係がない。

倭寇や秀吉の朝鮮出兵のため、日本に対する関心がひじょうに高まり、日本に関する情報もうんと増大したはずの明の時代の日本伝は、次のような調子のものだという(岡田氏による)。

  「日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えら
  いのだった。当時関白だったのは山城守(やましろのかみ)で信長で
  あって、ある日、猟に出たところ木の下に寝ている奴がある。びっ
  くりして飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀
  吉(たいらのひでよし)といって、薩摩の国の人の下男だという……」

16、7世紀にこういう正史を書く習慣の国の人が、3世紀の日本について何を書いたところで、史実として信用できるわけはない。ただ交渉があったことと、不正確極まる記述の中から何かのヒントを探す程度の価値にとどまろう。

「魏志倭人伝」を文字どおりに信ずるくらいなら、『日本書紀』を丸ごと信用してもそれほどおかしくはないであろう。またシナの歴史で倭王としても、それが日本の天皇であった証拠にはならない。

足利義満も日本国王との称号を受けたし、秀吉もその称号を受けて立腹したことは誰でも知っている。倭王と呼ばれたのは北九州の豪族か有力者であったかもしれず、記紀の天皇家と関係があったという保証はない。

ただ女王ヒミコが鬼道に仕え、夫なく、弟が国の統治を助けたなどという記述から、古代のシャーマニズムを考える参考になるといった程度である。

だから古代史は何といっても書かれた歴史を中心とし、それをそのほかの分野の研究で解釈する考証的史学のほうが誤るところが少ないのではないかと思う。これを超えて「科学的」ということ自体が、すでに非科学的なのである。われわれは、6世紀以前のことに関する記紀の記述は、ほかを以て替えがたく貴重な、われわれの先祖の現実(リアリティ)の描写と考えて解釈していくべきであろう。
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