電脳筆写『 心超臨界 』

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( ダライ・ラマ )

不都合な真実 歴史編 《 橋本・エリツィン クラスノヤルスク会談――日経新聞 》

2024-09-11 | 04-歴史・文化・社会
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橋本と静岡県伊東市で開いた「川奈会談」は「領土問題が最も解決に近づいた瞬間」といわれる。橋本は①択捉とウルップ島の間に国境線を引く②四島に対する日本の「潜在主権」を確認したうえでロシアの施政権を当分の間認める――と提案。エリツインは「ダー(よろしい)と即答したが、大統領報道官が止めに入ったとされる。結局、橋本は同年7月の参院選に敗れ退陣、エリツィンは99年に辞任し、川奈提案はうやむやになった。


◆1997年11月2日 クラスノヤルスク合意――北方領土交渉 つかの間の進展
( 2006.10.26 日経新聞(夕刊)戦後政治 あの日あの時 )

「東京宣言にもとづき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」。1997年11月2日、ロシア・東シベリアのクラスノヤルスク市。首相の橋本龍太郎とロシア大統領のエリツィンとの非公式首脳会談で、両国は初めて期限を区切って平和条約交渉を進めることに合意した。

東京宣言は93年10月3日に日本を公式訪問したエリツィンと首相の細川護熙が交わした。北方四島の島名を列挙したうえで「その帰属問題を両国間の合意文書、法と正義の原則を基礎に解決し、平和条約を締結する」と明記し、今でも四島返還を求める日本側の根拠となっている。

クラスノヤルスクで橋本は「今世紀中に起こったことは、できれば今世紀中に解決したい」と提案し、2000年の期限が設けられた。両首脳が「ボリス」「リュウ」と呼び合う日ロ蜜月時代の始まりだった。

領土交渉が進展の兆しを見せた背景には、市場経済への移行が思うように進まず、日本の協力を切望していたロシア側の国内事情があった。クラスノヤルスクでも領土問題に先立ち、エネルギー協力などを柱とする「橋本・エリツィン・プラン」に合意した。

期限を切ったことで領土交渉には弾みがついた。98年4月にエリツィンが訪日。橋本と静岡県伊東市で開いた「川奈会談」は「領土問題が最も解決に近づいた瞬間」といわれる。

橋本は①択捉とウルップ島の間に国境線を引く②四島に対する日本の「潜在主権」を確認したうえでロシアの施政権を当分の間認める――と提案。エリツインは「ダー(よろしい)と即答したが、大統領報道官が止めに入ったとされる。結局、橋本は同年7月の参院選に敗れ退陣、エリツィンは99年に辞任し、川奈提案はうやむやになった。

後任の大統領に就いたプーチンは「領土保全」を掲げて支持を集めただけに、領土交渉は棚上げを余儀なくされた。日本と旧ソ連の国交回復を定めた日ソ共同宣言の署名から50年。原油高を背景にロシアが好況に沸くなか、領土交渉は厳冬の時代を迎えている。

(敬称略)
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