電脳筆写『 心超臨界 』

ひらめきを与えるのは解答ではなく質問である
( ウジェーヌ・イヨネスコ )

「非まじめ」のすすめ――森政弘 博士

2024-07-02 | 03-自己・信念・努力
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禅の公案集「無門関」のなかに、つぎのような雲水のやりとりが登場する。

風になびく旗を見ながら、二人の僧が言い争っていた。
「これは旗が動いているのだ」
「いや違う。風が動いているのだ」

そこに通りかかった慧能がいった。
「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」

人は常に相対的にしかモノをみることができない。そのことを慧能は、「心が動く」と言い表した。すなわち、「動く心」こそが絶対で、相対的にモノをみるかぎり、対立やゆきづまりを解消することはできない。

森政弘博士は、相対的にしかモノをみることができない人間をさらにまじめと不まじめに分類する。まじめと不まじめの概念だけでこの世を生きようとすると、あちこちゆきづまりだらけになってしまう。そこで次元をあげて、まじめ、不まじめを超越した「非まじめ」という概念を提案します。「非まじめ」とは、慧能のいう「動く心」に気づく見識をいいます。

では、『「非まじめ」のすすめ』から、その序文を紹介してみましょう。


◆ゆきづまりの原因は低次元のまじめさがもたらす――森政弘 博士

『「非まじめ」のすすめ』
( 森政弘、講談社 (1984/2/1)、p3 )

文明も爛熟期をむかえた今日、われわれはすべての面で行きづまったかに見えだした。

教育、経済、新製品開発、人口、食糧、エネルギー、行政……など、どの道においても予期しなかった難問をかけこんでしまっている。

ここで考えなければならない点は、かつては、事柄がうまく運ばない原因は、関係者のまじめさの不足、つまり不まじめにあった。だが、今日のゆきづまりの原因は不まじめにあるというよりも、むしろ逆に、低次元のまじめさによってもたらされているのではないかということである。

不まじめはもちろん困る。かといってまじめにも問題があるということで、ここに進退まさに窮まれりである。それはそれで仕方がないとして、中途半端な態度で進むというのも一法だろうが、そういった態度からは自信などわいてこない。自信のないところから、充実した人生や良い社会が生まれてくるわけはない。なんとかしてこの窮地を抜け出し、自信をもって進むことできる姿勢はないものだろうか。

窮地を脱するための一つの方法は次元をあげることである。弁証法にもその例が見られる。

1次元の直線道路上で、2台の車がぶつかりかけたとしよう。このままだと衝突するほかはないのだが、次元を追加して2次元にし、平面を導入すれば、2台は互いにすれちがうことができて衝突しない、さらにまた平面上に車がびっしりになって身動きがとれなくなったら、さらに1次元を追加して3次元の立体を導入すれば解決はつく。つまり空を飛べばよいのである。

こうした次元の増加による窮地の脱出は、車の場合だけとは限らない。どの問題にも応用できる。この原理をまじめと不まじめとに応用してみた発想が「非まじめ」なのである。まじめでも駄目、不まじめでも駄目なのだから、1次元追加して非まじめを導入し、それによって解決を得ようというわけである。

「非まじめ」は、字面からも発音からも、不まじめと混同されやすい。だが、この両者はこのような理由によって、まるで次元がことなるのである。本書を読まれるにあたっては、常にこれを念頭に置きながら読んでいただきたい。

私は、けっして不まじめにこの本を書いたのではない。現代の行きづまりをなんとか超えられないかという、あがきの結果が本書である。ぐうたらの不まじめでもなく、頭から湯気を立てるまじめでもなく、ピンチに際してもゆうゆうとして、透徹した眼力と冷静な頭脳をもって解を求める姿勢、それが非まじめである。

われわれは今、窓ガラスにぶち当たって遮二無二もがいているハエのようなものではなかろうか、不まじめなハエはガラス窓を見ようともしない。まじめなハエは頑張りさえすればガラスが通過できるとしか思っていない。では非まじめなハエならどうするか。――透明なガラスと空気とちがいを見極め、押してだめなら引いてみなの態度で一歩退く、そうすれば本当にあいているガラス窓のすき間が発見でき、そこから外へ出られるのである。

1977年11月                 森政弘

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