電脳筆写『 心超臨界 』

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( ブリガム・ヤング )

活眼 活学 《 近代科学文明と人間の自己喪失――安岡正篤 》

2024-07-01 | 03-自己・信念・努力
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人類が証明しつつあるように、文化的になるということは、やがて滅びるということなのでありますから、今後人類の一番の大問題は、文明の進歩ということが、人間生命の進歩ということにならねばならないということであります。不幸にして、過去の人類の歴史は20幾つかの文明の滅亡史である。このままいくと、現代文明も遠からず、過去の文明と同じように、世界史の中の一つの物語、歴史学・考古学等の材料になるに過ぎないということが、決して杞憂ではないのであります。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p36 )
[1] 活眼・活学
1 肉眼と心眼

◆近代科学文明と人間の自己喪失

この機械文明、都市生活のために人間生活が集団化・大衆化して、群集心理なるものが横行し、個人などの主体性、生活内容を失っていくということは、おそろしいことであります。だんだん集団が全部になって、個人がゼロになる傾向が強い。つまり文明が発達するが如くに見えて、人間が無内容になりつつある。この恐ろしい事実が、あらゆる学者、批評家、芸術家、文学者等によって、さまざまに描かれ、警告されておるのが、今日の思想界や評論界の痛ましい事実であるということができましょう。

事実、仮に皆さんが日曜に家にでもおられて、朝から晩までラジオやテレビに対しておられたら分かると思います。例えばラジオは、朝から夜までなり続けておって少しも休む暇がない。初めから終りまであのラジオを聞いておったなら、頭が変になるでしょう。それから新聞・雑誌などというものも、我々、1週間ほど旅行しますと、ゾッとするほど机の上にたまりますが、そんなものを仮に皆さんが5つも6つも購読されて、それを毎日全部読むとしてごらんなさい。恐らく、ものを考える余裕などは全くなくなるでしょう。自分の思考力なんていうものはゼロになる。そういうものに全部頭を支配されてしまう。

家庭にラジオとテレビと面白そうな新聞・雑誌も揃えてごらんなさい。子供はほとんど勉強できないでしょう。暇さえあればラジオとテレビに齧(かじ)りつき、雑誌を操るでありましょう。大体、そういうことで毎日を暮らしたら馬鹿になってしまいます。自分の思考力だの判断力だの批判力だのというものが全然なくなってしまいます。

それから、まだそれくらいの年齢なら宜しいが、東京とか大阪、あるいはニューヨークとかロンドンとかへ行って、あの宣伝と広告と各種の刺激、それも強い感覚的な刺激、あれを毎日受けていると、刺激だけに圧倒されて、本当の個性というもの、内面的自己というものがなくなってしまうのであります。

全く、新聞とラジオと雑誌とテレビに映画、それにダンスだのスポーツだのというものをほしいままに享楽してごらんなさい。皆さんはすぐに、自分の内容というものをなくしてしまいます。朝からラジオを聞いて、新聞を見て、それから事務所に出て雑務に追い回され、終わったら競輪とか競馬とか野球とかを見て、そうでなければ映画館へ入って映画を見、帰ってラジオを聞き、テレビを見、雑誌を読んでいったなら、もう何の某(なにがし)というものは一つもなくなってしまって、全く感覚的な刺激に反応する一機関になってしまいます。

だから、物質文明、享楽文明が発達するほど、文明人、都市人、知識人は無内容になるのであります。そうして皆、何ほどか肉体的・精神的に病的になる。気の弱い者は神経過敏、神経衰弱になり、精神分裂になり、だんだん異常人格になっていくのであります。その弱い者がアドルムとかヒロポンとかに走って、そういう禍が民族的・社会的大問題になりつつあるという現状であります。

そこで、そういうことをしておると、戦争などのためでなく、その機械的・享楽的文明そのもののために文明人が滅んでしまう。みんなが慢性的病人、精神異常者になって、健全な判断力も思想力も道徳力も何もかもなくなってしまう。つまり肉眼は開いても、心眼が寝付いてしまう。少し心眼の開いた人間は、どうして文明をこの滅亡の悲劇から救おうかということで、本当に心配しておるのであります。が、それは単なる政策や宣伝では駄目なものでありまして、やはり個人がその生活、その自己を回復するために、その人々が自覚してやらなければならない。どうしても、他人の力や政策の如きではいけないのであります。

個人が私生活や内面的自我というものを喪失してしまったら、やがて自己のすべてを失ってしまいます。肉体も人格も崩壊します。各細胞が無内容になり、死滅する時には、いかなる大きなマンモスのような体でも、たちまち滅亡してシベリアの土を肥やすようになってしまうのと同じことでありまして、文明人というものも、やがては地球の土を耕すだけのものになってしまう。そうなったら、20世紀までせっかく文明を発達させたものが、もろくも再び野蛮人の世界に帰ってしまう。

その野蛮人がまた急速に文明の没落の後を追って、人類が滅亡した後は一体どうなるか、そんなことまで心配しておる学者があります。多分その後は鼠の世界になるだろう、なんていうことを言ったり、いや、そうでなくて猫の世界になるだろうという説もあります。それは猫が鼠を取るからというような意味ではなく、猫というものは、いくら手を掛けて優生学的改良を加えても、どうしても種の改良ができない。せっかくいい猫と猫を掛け合わせて新種をつくろうと思って苦心をしても、三代目か四代目になるとまた原種に戻ってしまって、どうしても文化的にならぬ奴が、この猫なのだそうであります。

人類が証明しつつあるように、文化的になるということは、やがて滅びるということなのでありますから、今後人類の一番の大問題は、文明の進歩ということが、人間生命の進歩ということにならねばならないということであります。不幸にして、過去の人類の歴史は20幾つかの文明の滅亡史である。このままいくと、現代文明も遠からず、過去の文明と同じように、世界史の中の一つの物語、歴史学・考古学等の材料になるに過ぎないということが、決して杞憂ではないのであります。

どうしても、文明が進歩すればするほど、我々は心眼を開いて、我々の生活、自己というもの、我々の内面的自我というものを、もっと健全にしながら、その上に本当に理性的な、道徳的な、堅実な社会生活、集団生活、組織を持つようにせねばなりません。それを各人が、各人の責任において努力しなければならない。これが恐らく今日の文明の一番根本的な課題でありましょう。世界を挙げて、あまりに目先のことに追われて、だんだん今まで申しましたように心眼が衰えてきております。こういう現代は危機でありますから、そこで今度は「肉眼と心眼」という題で、こんなお話をした次第でございます。
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