電脳筆写『 心超臨界 』

一般に信じられていることと全く逆のことに
真実があることがしばしばある
( ブリュイエール )

生きるための杖ことば 《 他是非我——松原泰道 》

2024-06-28 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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夏の暑い日ざかりに、典座寮の老僧が汗だくになって椎茸(しいたけ)を干している。道元が見かねて「あなたがなさらなくとも、誰か他の人にさせたらよろしいでしょうに」と言ったとき、道元にはねかえったことばが、「他は是れ我に非ず」だ。他人がしたことは他人がしたことで、私がしたことにはならない。


◆他是非我
 他(た)は是(こ)れ我(われ)に非(あら)ず

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p188 )

「他是非我」とは、道元禅師が若いころ中国に渡ったとき、天童山(てんどうざん)の典座(てんぞ=雲水の食事を担当する役)の老僧から受けた教訓である。

夏の暑い日ざかりに、典座寮の老僧が汗だくになって椎茸(しいたけ)を干している。道元が見かねて「あなたがなさらなくとも、誰か他の人にさせたらよろしいでしょうに」と言ったとき、道元にはねかえったことばが、「他は是れ我に非ず」だ。他人がしたことは他人がしたことで、私がしたことにはならない。

百七歳の彫刻家、平櫛田中(ひらくしでんちゅう)翁に「わしがやらねば、誰がやる」との名言がある。道元が受けた老典座の「自分がすべきことを他人がしたのでは無意味だ」の教えと、田中翁の箴言(しんげん=教訓となる短い語句)とが二重写しになって、私たちの心中に深くつきささる。責任を自分の双肩に担って生きぬく逞(たくま)しさが、私たちの胸を打つからだ。

道元は、また別人のやはり老典座から、「さらにいずれの時をか待たん」と戒められている。それは、「そんなになさらずとも、また後になされたら」と老僧をいたわっての発言に対する老僧の答えだ。

さきの田中翁は、おそらくこの老典座の言葉をふまえてと思うが、「いまやらねば、いつ出来る」と言いきる。百七歳翁の一言に、私たちをふるいあがらせるものがある。田中翁が百歳のとき、向こう三十年間分の木彫の材料を仕入れたという世間周知の逸話がある。この逸話の底に「他は是れ我に非ず、さらにいずれの時をか待たん」のことばが脈動している。田中翁は、こうも言う。

  六十、七十は鼻たれ小僧
  男ざかりは、百から百から
  百歳倬太(たくた)も
  これからこれから
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