電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスではなく
一方が降伏するからである
ダニエル・パイプス

「台風娘」のあだ名の通り、小布施で働き始めて次々と改革を打ち出す――セーラ・マリ・カミングス

2024-07-13 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


98年4月、内外の専門家が集まった第3回国際北斎会議を小布施で開催した。「海外では北斎はミケランジェロ、レンブラントなどと同様に評価され、外国文献には小布施という地名も出てくる。90年と94年にベネチアで北斎会議が開かれたことを知った。4年後は北斎150回忌に当たり、長野五輪もある。ぜひ小布施でと思ったら、走り出していました」。木桶(きおけ)仕込みの日本酒醸造を約半世紀ぶりに復活させた立役者でもある。


◎[日本文化を廃れさせない]セーラ・マリ・カミングスさんに聞く
(「シニア記者がつくるこころのページ」09.12.03日経新聞(夕刊))

  ………………………………………………………………………………
  セーラ・マリ・カミングス
  桝一市村酒造場、文化事業部(会社名)各代表取締役。1968年
  米ペンシルベニア州ステートカレッジ生まれ。91~92年関西外
  国語大交換留学生として日本に。93年ペンシルベニア州立大卒、
  長野五輪ボランティアとして再来日。94年小布施堂入社。日経ウ
  ーマン誌「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」大賞受賞。
  ………………………………………………………………………………

伝統継承 行動あるのみ――酒・農業…改革次々と

◆期待するからしかる

葛飾北斎と栗(くり)菓子の長野県小布施町。人口約1万2000人の田舎町に、年間約120万人の観光客が集まる。その看板の一つがセーラ・マリ・カミングスさん。金髪碧眼(へきがん)の米国人。ただでさえ目立つが、「台風娘」のあだ名の通り、小布施で働き始めて次々と打ち出した改革で、町の知名度を飛躍させた。

「エキゾチックな日本に興味があって、大学時代、夏の集中日本語講座を受けた。今も仲良しの日本人交換留学生が大学にいて、ますます日本にあこがれた。猛勉強して日本への交換留学生に選ばれた。両親は『何も地球の裏側でなくても』と大反対。自分が決めた以上は失敗できないと、日本で意地になって踏ん張った。米国に戻って、長野五輪の招致活動をしていた経済人と知り合い、準備の手伝いをすることになった。1994年、日本からリレハンメル五輪見学団に参加、通訳などの仕事をしました」

「長野市の民間会社に勤めながらの二足のわらじ。中心になって日本と世界をつなぐ仕事がしたいという夢と、翻訳や通訳などの仕事に明け暮れる現実とのギャップに悩んだ。外国人としての特別扱いは無し。上司にしかられてばかり。でも期待しているからこそ厳しく扱い、しかってくれた。その時の経験が今、役立っている。まちおこしに熱心だった小布施堂という栗菓子の老舗会社を紹介してくれたのもその上司です」

◆手をこまぬけば古い文化は廃れる

小布施堂に入社すると、関連会社が酒造場。日本酒に興味を持ち、研究を深めた。96年、欧米人初の利き酒師に認定された。

「桝一(ますいち)市村酒造場を支える市村家は、先祖の市村作左衛門が天命の大飢饉(ききん)の時、庶民に酒蔵を介抱して食料を提供したり、新しい蔵や庭園を造って仕事を与えた。先祖に倣って、経済危機があった97年ごろ、仕事を創造しようと酒造場の再構築を社長に提案しました」

「簡単に改造した酒蔵に、普通のレストランを開く計画があったが、私が香港在住の米国人設計者に直談判、土壇場で計画を練り直した。酒造場や隣接する本店店舗なども統一性を持たせて大改造。予算は10倍以上に膨れ上がった。『時期が悪い』と猛反対に遭ったが、10年先になれば、技術を持ったベテラン職人はいなくなる。次世代への技術継承のためにも今しかないと訴えた。古い建物や骨組みを残しながら、100年先を見据えた施設を完成させた」

98年10月に開業したレストラン「蔵部(くらぶ)」だ。

「酒蔵の一部という意味と、私が倶楽部(くらぶ)という日本語が好きだったから。パトロンとして北斎を支え、師と仰いだ先祖の高井鴻山(こうざん)が、サロンを設けて小布施の文化を発展させた。日本酒を酌み交わしながら、人々が交流する現代の文化サロンをつくりたかった」

98年4月、内外の専門家が集まった第3回国際北斎会議を小布施で開催した。

「海外では北斎はミケランジェロ、レンブラントなどと同様に評価され、外国文献には小布施という地名も出てくる。90年と94年にベネチアで北斎会議が開かれたことを知った。4年後は北斎150回忌に当たり、長野五輪もある。ぜひ小布施でと思ったら、走り出していました」

木桶(きおけ)仕込みの日本酒醸造を約半世紀ぶりに復活させた立役者でもある。

「日本酒かつて木桶仕込みが常識だった。それが衛生管理の難しさ、税務署の指導などで廃れてしまい、日本中の蔵元でホーローやステンレスのタンクに取って代わられた。日本酒は日本の文化。放っておけば廃れてしまう日本文化を、次世代に継承するためには誰かが行動しないと。木桶仕込みの日本酒が飲みたいと思いだしたら再び走り始めていた。木桶職人はもはや全国に数人しか残っていない。桝一の木桶仕込みの経験がある大杜氏(おおとうじ)の知恵を借りて、新潟県の木桶職人を見つけました」

桝一は約10年前、ついに木桶仕込みの酒を復活。さらに全国の蔵元に呼び掛けて、2008年にはNPO法人(特定非営利活動法人)「桶仕込み保存会」を設立した。

毎月ぞろ目の日に開く、一流の各種専門家と若者の交流の場「小布施ッション」、毎年海の日に開催する「小布施見に(ミニ)マラソン」、瓦文化の再生「瓦なくちゃ」、「1530(市ゴミゼロ)運動」……。セーラさんが小布施でまいた種は多い。

◆世界の若者が集う農業拠点をつくる

今、セーラさんの最大の関心事は農業。約2年前、小布施から近い長野の里山にある古い農家と休耕地を買い、農業再生の実験を始めた。

「農業も後継者難で深刻な状態。今やらなければ農地は消えていき、美しい田園風景も失われてしまう。世界中から若者を呼んで、宿と食事を提供する代わりに農作業をしてもらうWWOOF(ウーフ、世界に広がる勇気農場での機会)という仕組みを利用することを考えている。改造した農家を拠点に、周辺の休耕地を耕して野菜や果物を栽培する。農業という優れた生活文化を残し、若者には汗をかく喜びを味わってほしい」

「日本に関心を持っている人は世界中にいる。だから外国人観光客の増加には、一人ひとりの水準で日本に来たいという機運を広げていくことが回り道のようで近道。例えば私が小布施にいるから、反対した両親も友達も日本に来てくれた。彼らが口コミで友達を連れてくれば、さらにその友達も。どんどん輪が広がっていくはず。労働ビザを緩和することも大事。外国人が労働ビザを取りやすくなれば、日本に働きに来る若者が増える。特に米国人。オバマ大統領と鳩山首相の良好な関係で、米国人の労働ビザ緩和を実現してほしい」

(編集委員・木戸純生 )
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 伊藤の名誉を守ってくれた宮... | トップ | 心の琴線に響く人類共通のマ... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事