電脳筆写『 心超臨界 』

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見えないものを見えるようにするための第一歩
( トニー・ロビンズ )

用意ができたとき師が現われる 《 「姿三四郎」——篠田正浩 》

2024-05-11 | 04-歴史・文化・社会
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禅の中に、「用意ができたときに師は現われる」という教えがあります。自分に準備がなければ、すべては無意味な存在でしかないということです。意志が生まれたとき、手をさしのべる師は現われる。師はいたる所にいる。ふと目にした新聞の記事や子供の質問に答えた自分の言葉であることもある。「師はどのように現われるのか?」との質問への答えは、「これがそうだ」という以外にない。たとえば死にかけた虫を見て、自分の中に同情心がかき立てられた瞬間に、師が出現したことになるのである。


当時の柳ケ瀬は日曜祭日になると近在から驚くほどの人々が群がる悪所で、中学生には禁足地であった。映画館で視学に見つかると停学処分になる。小学校は卒業したがまだ中学に入学していない内に映画の見納めにという母の発案で、私は柳ケ瀬に足を踏み入れた。見たのは黒沢明のデビュー作の『姿三四郎』であった。この世にこれほど面白い物が存在するのかと、私は映画の魅力に圧倒された。


◆姿三四郎

私の履歴書 篠田正浩 ③
「映画の面白さに感動――中学入学前、黒沢作品を見る」
( 2005.08.03 日経新聞(朝刊))

《 柳ケ瀬 》

尾崎秀実が密(ひそ)かに共産主義者であることを胸中に秘めて故郷の白川に帰省していたころ、父は飛騨川流域の発電事業で出資者たちと不和になり、長い裁判沙汰のあげく敗訴して事業から撤退した。私が4歳になった頃は岐阜の郊外で自動車工場を経営していた。水力発電のタービンを作る技術と精密機械を利用して、フォードをはじめとする自動車の部品製造や修理で生計を立て直していた。

この父の事業を支えながら母は9人の子供を育てた。父は家の中に一間幅の廊下を巡らして、子供の遊び場にした。兄は蓄音機にしがみついてクラッシック音楽を、4人もいる姉たちは嫁入りのための三味線、琴、オルガンを習っていた。私は門前の小僧でベートーベンの月光の曲や長唄勧進帳に親しんだ。だが次女が結核に感染したら次々と三女、四女に感染し、戦中戦後の食糧難にも苦しめられて早世していった。最初の姉の葬儀は痛切な悲哀を我が家にもたらした。出棺の刻限になると意外なことが起こった。あれほど文学から遠いはずの父が懐から紙片を取り出し、声涙とともにあの世に旅立つ娘に短歌と俳句を詠み上げたのだ。人間は死ぬ生き物だという厳粛な事実をこの時悟った。そして父に寄り添う母がいつ死に出会うのかという恐怖が私の心の底に棲(す)みついた。母が存在しない、という状況を想像することは私にはできなかった。

その日、母が映画を見に行かないかと誘った。私が県立二中に合格したお祝いだというのである。映画館は市内随一の歓楽街である柳ケ瀬にあった。美川憲一によって歌われた「柳ケ瀬ブルース」でその名が全国にしられるのは20年以上後である。当時の柳ケ瀬は日曜祭日になると近在から驚くほどの人々が群がる悪所で、中学生には禁足地であった。映画館で視学に見つかると停学処分になる。小学校は卒業したがまだ中学に入学していない内に映画の見納めにという母の発案で、私は柳ケ瀬に足を踏み入れた。

見たのは黒沢明のデビュー作の『姿三四郎』であった。この世にこれほど面白い物が存在するのかと、私は映画の魅力に圧倒された。これ以前、私の記憶に残っている映画は1936年のベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』であった。授業の一環として先生に引率されて見学した。おそらく私が陸上競技に興味を持ったのは、この記録映画で人間が走る極限を目撃したからである。百メートル走り幅跳びの黒人選手ジェシー・オーウェンスのみごとな姿態や西田修平の棒高跳びの見事な飛翔に興奮した。『姿三四郎』にも柔道というアクション劇はあったが、姿三四郎がライバルの娘と恋に落ちる光景に立ち会ったほうが衝撃的であった。三四郎は山嵐という荒業で次々と現われる敵をなぎ倒してきた。その日の三四郎は湯島天神の坂の下を通りかかるとお百度を踏んで石段を駆け上がり駆け下りる娘と遭遇する。彼の山嵐で打ち砕かれた父の平癒を祈る娘のひたむきな姿を演ずる轟夕起子さんに私はすっかり心を奪われた。この気持ちは耽溺(たんでき)してきた小説では決して味わえないものだった。同時に、中学当局がなせ映画を禁じたかを理解したのである。
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