電脳筆写『 心超臨界 』

ひらめきを与えるのは解答ではなく質問である
( ウジェーヌ・イヨネスコ )

般若心経 《 こだわらずに相手を受け入れる――松原泰道 》

2024-06-20 | 03-自己・信念・努力
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心経に限らず大乗仏教の空(くう)のこころは、まずあらゆる執着の根源であるエゴを否認した宗教的死・大死にあります。茶碗が空っぽになった状態が大死の空(くう)です。しかし茶碗の中に何も入っていないのでは、茶碗の用をなしません。空(から)になってはじめて、新しいお茶を受け入れることができるのですから、これを大死に対して大活(だいかつ)――大きな生の躍動といいます。私は、それを“空(くう)とは充実したゼロ”であると受けとめます。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p156 )
4章 空(くう)のこころ――かかわり合い、持たれ合いの真実
行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
(2) 雲の晴れたところ、空(くう)がある
照見五蘊皆空 度一切苦厄

◆こだわらずに相手を受け入れる

物理学では、空気などの物質がまったくない空間を「真空」といいます。真空の空間へは反射的に空気などの物質が入りこんで、真空の空間をいっぱいにします。この理を応用したのが掃除機などの電気器具です。

物理学の真空と仏教思想の空(くう)とはまったく次元が異なります。仏教思想の空(くう)は「有るに対する空という対立ではなく、有と空との対立を超えた状態」をいいます。対立や相対の考え方は、それぞれ相手を押しのけたり、取り除こうとする敵対意識を起こしやすいからです。こだわらずに相手を受け入れるためには、空(くう)の状態が大切です。

明治の中期から昭和のはじめにかけて、京都・建仁寺(けんにんじ)の管長をつとめた竹田黙雷(もくらい)師(1930年没)は、すぐれた禅者であるとともに、漢学にもよく通じていました。ある日、儒教の学者であると自称する中年の男が黙雷を訪れて「禅を知りたい」と言いながら、黙雷の言も聞かずに、自分の学識を得意顔にひけらかすのです。

黙雷はそれを聞き流しながら、茶器の急須のお茶を入れ替えては、彼の茶椀に茶を注(つ)ぎ足します。彼は議論に熱中のあまり、最初に出されたお茶を飲んでいません。黙雷はそこへ茶を注ぐのですから、やがてお茶は茶碗に溢れます。かの学者はしゃべりながら、もう結構です、と手を振って止めるのですが、黙雷は委細かまわずに茶を注ぎ続けます。茶碗から溢れたお茶は茶卓からさらに畳の上にこぼれて、学者の穿(は)いている袴が濡れそうになります。

あわてた学者は議論を止(や)めて、「なぜ、こんなことをするのか?」と黙雷をなじります。黙雷はすましたもの。

「茶碗にお茶がいっぱいあると、後のおいしいお茶はみな外へこぼれてしまう。人に教えを聞くときも、心を空っぽにしておかないと、人の言うことを受け入れることはできないさ……」と。

さすがの自称大学者も、黙るより仕方がなかったでしょう。

先の清水公照長老の名言と通じるものがありますが、黙雷はとくに我見(がけん)に執(とら)われるのを戒めるのです。自分を成長させようと思うなら、まず「おれが・私が」というエゴを徹底的に否定する、つまり空ずる必要を黙雷は具体的に示すのです。

このエゴの存在を完全に否認するのを“宗教的死”といって、キリスト教でも仏教でも、入信や修行に欠かせない大切な関門です。禅では宗教的死を「大死(だいし)」といいます。

心経に限らず大乗仏教の空(くう)のこころは、まずあらゆる執着の根源であるエゴを否認した宗教的死・大死にあります。茶碗が空っぽになった状態が大死の空(くう)です。しかし茶碗の中に何も入っていないのでは、茶碗の用をなしません。空(から)になってはじめて、新しいお茶を受け入れることができるのですから、これを大死に対して大活(だいかつ)――大きな生の躍動といいます。

私は、それを“空(くう)とは充実したゼロ”であると受けとめます。空は常識的には、空(むな)しく・うつろで無常です。しかし、空っぽであって、はじめて充実することができることは、いま学んだところです。また、はかない無常の人生であるからこそ、いま・ここに、かけがえのない、生の事実があり「新生」があるのです。その点で、空(くう)は虚無思想の「無(む)」とは、まったく趣きが違います。
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