電脳筆写『 心超臨界 』

忍耐は知恵の付き人
( アウグスティヌス )

不都合な真実 歴史編 《 支那事変に辛丑条約が関係した事実が隠されている――古荘光一 》

2024-07-23 | 04-歴史・文化・社会
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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誰が「南京大虐殺」を捏造したか[2]
古荘光一・フリージャーナリスト
『WiLL』2012年3月号、ワック出版、p282 】

  ◆司馬遼太郎の暴論
  ◆日本史、三つの錯覚
  ◆サボタージュした歴史家
  ◆日本を脅かし続けるロシア
  ◆キリスト教と義和団事件
  ◆宣教師が略奪に走る
  ◆支那の崩壊を食い止めた
  ◆対ロ同盟案を聞き流す


(辛丑条約により)、日本は天津に約三千五百人、北京に約八百人、山海関と秦皇島の間に約八百人など、五千人を超える軍隊の駐留が認められた。のちの支那事変は見かけ上、1937年(昭和12年)7月7日の夜、北京郊外の盧溝橋で訓練中に何者かが銃撃を加えたことからはじまった。しかし、史書の多くは、この日本軍が合法的に駐留していた事実を無視し、それまでの支那側とのいざこざを並べたあとに事件が発生したとする記述が目立ち、「日本が悪い」との印象を読者に植え付けた。


◆宣教師が略奪に走る

義和団の接近で北京の外交団に危機が迫ったが、すんでのところで米英露独ほか日本を含む八カ国の軍隊が救援にかけつけ、外交団は救出され、戦争は清国側の敗北となった。

この事件で目立ったのは、宣教師の醜い姿である。「右の頬を打たれたら、左の頬をも出せ」というキリストの教えもものかは、復習の鬼となり、軍隊も顔負けの略奪に走った。

たとえば、アメリカから来ていたプロテスタント系のエイメントと名乗る宣教師は、助手や現地の改宗者を率いて諸宮殿を略奪し、村々から金を脅し取った。しかも、エイメントは略奪で稼いだ金で穀物投機をやり、教会を建てるため北京に広大な土地を買ったというからあきれる。

宣教師の略奪はアメリカの新聞に知れ、強い批判を巻き起こした。しかし、これに屈しない宣教師がいた。その一人であるリードは、略奪物は戦利品であり、支那人は略奪されたくなかったのなら戦争を起さなければよかったのだと嘯(うそぶ)いたそうだ。また、「戦争の恐ろしい記憶を通じて事実を良く知っている人々にとって、略奪は高度の倫理である」とも主張したという。

この連中の衣鉢(いはつ)を継ぐ宣教師らが、数十年後には180度立場を変え、日本軍が南京で略奪や虐殺を働いたとデタラメを言いふらす。

義和団鎮圧で日本軍は軍紀を守った。ある支那人は、《この義和団事変で、われわれ青年が大きな衝撃を受けたのは当然である。ロシアやドイツの進駐軍が乱暴狼藉、略奪放火をほしいままにしたのに反し、日本軍は宮城を守っていたが、規律厳正で一物も犯さなかったから、国人みな非常に好感を表していた》と書き残している。

敗れた支那は翌年、列強と結んだ辛丑(しんちゅう)条約により、義和団関係者の大量処刑を強いられた。また、巨額の賠償金支払いも義務付けられた。

ところが、戦後の日本に現れた史書はこの辛丑条約について、後年の支那事変と関係する重要事項を隠していることが多い。

それは、この条約により、北京城内に「東交民巷」と呼ぶ区域が設けられ、そこから支那人を追い出し、各国の外交団が公使館などを構えたことである。格好は北寄りの街路に面して兵営を設け、銃眼のある塀をめぐらし、塀の外には練兵場も作った。さらに各国は、北京―天津間、北京―山海関間の鉄道沿いに外国軍隊の駐留も認めさせた。

日本は天津に約三千五百人、北京に約八百人、山海関と秦皇島の間に約八百人など、五千人を超える軍隊の駐留が認められた。

のちの支那事変は見かけ上、1937年(昭和12年)7月7日の夜、北京郊外の盧溝橋で訓練中に何者かが銃撃を加えたことからはじまった。しかし、史書の多くは、この日本軍が合法的に駐留していた事実を無視し、それまでの支那側とのいざこざを並べたあとに事件が発生したとする記述が目立ち、「日本が悪い」との印象を読者に植え付けた。
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