電脳筆写『 心超臨界 』

自分の人生を変えられるのは自分だけ
代わりにできる人など誰もいない
( キャロル・バーネット )

19世紀の最後の年である1900年、支那ではいわゆる義和団事件が勃発した――古荘光一さん

2012-02-28 | 04-歴史・文化・社会
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誰が「南京大虐殺」を捏造したか[2]
古荘光一・フリージャーナリスト
【「WiLL」2012年3月号
http://tinyurl.com/6sk94ur、ワック出版、p281 】

  ◆司馬遼太郎の暴論
  ◆日本史、三つの錯覚
  ◆サボタージュした歴史家
  ◆日本を脅かし続けるロシア
  ◆キリスト教と義和団事件
  ◆宣教師が略奪に走る
  ◆支那の崩壊を食い止めた
  ◆対ロ同盟案を聞き流す

◆キリスト教と義和団事件

と、こんな調子で話を進めたら、本題である「南京大虐殺」にいつまでも辿りつけないから、途中経過を飛ばしてあといくつか、史書があまり触れたがらない史実に言及しておく。

19世紀の最後の年である1900年、支那ではいわゆる義和団事件が勃発した。

義和団とは、義和団という拳法を習得した人々の集団を言うが、19世紀がおわりに近づいた支那、とくに揚子江以北では、この拳法を修行する人々が急増した。

原因ははっきりしている。支那でキリスト教の布教に当たっていた宣教師の横暴に対する反感である。

キリスト教の宣教師は、治外法権に守られていた。のみならず、清朝は宣教師を保護するよう布令を出し、官吏なみの待遇を与えていた。

これを笠に着た宣教師は、豪壮な教会を建てるため、支那の農民から土地と建築資材を強奪した。

当然、生活を圧迫された農民は怒りだす。そこで苦情を役人に告げるが、官吏待遇を受けている宣教師に対し強いことが言えない。それでも苦情を受けた宣教師は、北京にいる外交使節に通報するので、報告を聞いた外交官は、理非を問わず清朝に圧力をかける。やむなく清朝官吏は、農民を取り締まる。

ドイツ人宣教師のなかには、支那人の女性を弄(もてあそ)ぶものがいた。一人で十人もの女性を毒牙にかけた人物もいた。子供ができると密かに堕胎させ、胎児を教会の片隅に埋めて隠した例もあった。

それに教会は、犯罪者やお尋ね者を好んで構内に匿(かくま)い、その人数を信者獲得として本国に報告した。また、教会の力が清朝官吏より強いことを知って、これを利用しようとする人間が出てきた。教会をバックに、同胞の農民に対して悪事を働く連中である。これも一般農民の怨みを買った

義和団はこれに対する反発として、自然発生的に発生してきた。拳法を身に付けることによって、教会の横暴に立ち向かおうとしたのでる。拳法を身に付ければ、槍で突かれても負傷せず、鉄砲玉も弾き飛ばすことができると、人々は信じ込んだ。

教会は義和団の攻撃に対して、銃や大砲で対抗した。それでも義和団はひるまなかった。山東省など教会と対立の激しい地方では、拳法塾があちこちに開設され、揉め事があるたびに修行者は激増していった。

義和団は勢力が強まると、二百人といわれる宣教師を家族もろとも殺し、首都の北京を包囲するまでに戦闘的になった。さらに「扶清滅洋(ふしんめつよう)」、つまり清朝を助け、外国人を滅ぼせというスローガンを掲げた義和団は、北京駐在の外国人外交官区を襲う勢いを示した。

この時の清朝の支配者は、西太后と呼ばれる満州族の女性であったが、義和団に外国と戦わせることを決め、宣戦を布告した。

長い間、皇帝を差し置いて独裁者の地位につき、甥の光緒(こうしょ)帝を幽閉してまで権力の座にしがみついた西太后は、外国を追い払うための手段と方法を準備することなく、文字どおり、徒手空拳で人々を外敵に立ち向かわせようとした。

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