映画的・絵画的・音楽的

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ペルシャ猫を誰も知らない

2010年09月18日 | 洋画(10年)
 予告編を見て興味をひかれたので、イラン映画『ペルシャ猫を誰も知らない』を見に渋谷のユーロスペースに行ってきました。

(1)映画は、ポップ・ミュージックが厳しく規制されているイランにおける若者たちの音楽活動を、ヴィヴィッドに描き出しています。
 ネガルとそのボーイフレンドのアシュカンは、ともにインディー・ロックをやるミュージシャンですが、メンバーを集め出国してロンドンでライブ演奏する、という夢を持っています(イラン国内では到底無理なので)。
 便利屋のナデルにそのことを相談すると、まず国内でCDを制作し、ライブ演奏をして資金を集めてから外国へ行くべきであり、それに協力すると言われます。そこで、ナデルを通じて、パスポートやビザの偽造を専門家に依頼する一方で、メンバー探しにテヘラン中を動き回ります。
 何とかメンバーは集まり、秘密裡のコンサート開催まで漕ぎつけます。



 ですが、偽造の専門家が警察に捕まって万事休す、責任を感じたナデルは、ネガルらの前から姿を消してしまいます。
 そんなナデルが見つかったとの知らせで、アシュカンは現場に赴くものの、そこは秘密のアジトで、ナデルは酒浸り状態。としたところ、警察に踏み込まれて、……。

 この映画は、実際のイランのミュージシャンらを使いながら、イラン国内で撮影して出来上がったもので、物語もかなり実話に近いとされています。
 イラン当局の厳しい規制のことを考えれば、よくこんな映画が製作されたものだと驚いてしまいます。なにしろ、ナデルらがバイクにまたがってテヘランの市内を走り回る姿が公然と撮られていたり、ネガルとアシュカンが車で移動中に警察による尋問を受けますが(ペットを外に持ち出したことが見咎められました)、その様子が映し出されたりするのですから。
 結果として、監督のバフマン・ゴバディ氏は現在イランから出国しており、またネガルとアシュカンを演じた二人も、今はロンドンに住んでいるようです。

 にもかかわらず、映画では、アンダーグラウンドで演奏されている各種の音楽(ヘビメタ、ロック、伝統音楽、ヒップホップなど)が上手に紹介されているだけでなく(注)、物語自体も、実際のテヘラン市の街並みを背景としながら、ラブ・ロマンスとして展開され、悲劇的なラストに向かって巧みに綴られています。

 こうなると、映画の中でヒップホップが歌われるからというわけではありませんが(Hichkasというグループが歌っています)、先日見た『SRサイタマノラッパー2』と比べてみたくなります。
 というのも、映画に登場するグループはどちらも、なんとかしてライブ演奏をと望みますが、結局は挫折してしまうという点でよく似ているからです。
 ただ、その理由が異なっているようにみえます。すなわち、『SRサイタマノラッパー2』のB-hackの場合には、資金不足という経済的な問題によって、『ペルシャ猫』の場合には、政治的理由に基づく規制によって、ライブコンサートの開催が困難になります(第1作の『SRサイタマノラッパー』に登場するSho-gungの場合は、仲間割れが直接の引き金でした)。
 とすると、ここが一番よく分からないところなのですが、『ペルシャ猫』におけるミュージシャンは、どのようにして日々の生活の糧を得ているのでしょうか?
 エレキ・ギターなどの楽器とか様々の音響機器を、どうやって購入しているのでしょうか(牛舎の中で練習しているヘビメタのグループが映し出されますが、機材は一応揃っている感じです)?
 確かに、アシュカンは、パスポート等の偽造に必要な費用は、ドイツにいる母親からの送金で大丈夫だと言ったりします。あるいは、アンダーグラウンドで音楽をやっている若者らは、裕福な家庭の出なのかも知れません。
 ですが、一方で、ナデルは、費用の捻出のために愛用のバイクを売り払ったりしています。
 さらには、イラン経済は、慢性的なインフレと高い失業率(特に若年層の)苦しんでいて、親からの援助も早々期待できないのではと思われるところです。

 むろん、音楽映画ですから、何もかもを期待するのは無理とはいえ、わずかでもいいからそうした方面が分かる事例が描き出されていればなと思いました。


(注)この映画のサントラ盤に関する感想については、たとえばこのサイトの記事を参照。


(2)イランと西欧文化の関係というと、以前読んだことのある『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著、市川恵里訳、2006年、白水社)が思い出されます。
 この著書は、イラン人の女性英文学者の著者が、1997年にイランを出国するまで3年間ほど続けた秘密の研究会(著者の自宅で、ナボコフやオースティンなどが書いた西洋文学を、女子生徒たちと一緒に読む)のことを中心に書き綴った文学的回想録です。

 同書には、イランの厳しい状況がいくつも書き記されています。
 たとえば、映画との関連から、音楽会に関するものを拾い出してみましょう。
 「演奏は厳しく監視され、登場するのは、その夜、私たちが見に行ったようなアマチュア演奏家がほとんどだった。それでも会場はつねに満員で、チケットは売り切れ、プログラムはいつも少々遅れてはじまった。……まず登場したのはひとりの紳士で、たっぷり15分から20分も聴衆を侮辱し、われわれは頽廃的な西洋文化に毒された「金持ちの帝国主義者」の聴衆を楽しませるつもりはない、と言った。……出演したのは、いずれも素人の、若いイラン人男性4人のグループで、ジプシー・キングスの演奏で私たちを楽しませてくれた。ただし歌うことは許されず、楽器演奏しかできなかった。そのうえ少しでも演奏に熱中している様子を見せてはいけないときている。感情をあらわにするのは反イスラーム的だからだ」(P.410~411)。

 また、たとえば次のような記述もあります。
 「ここ20年ほどのあいだに、通りは危険な場所になった。規則に従わない若い女性はパトロールカーに放りこまれて監獄に連行され、鞭打たれて罰金を科され、トイレ掃除をさせられ、屈辱的な扱いを受け、自由の身になったとたんに、戻ってまた同じことをする」(P.45)。

 こうしたエピソードの記述は、10年以上も前の事柄ですし、また著者が現在はアメリカ在住だということも考え合わせる必要があるでしょう〔今回の映画『ペルシャ猫』自体も、イランの核開発に対する西欧諸国の制裁という状況の中で制作されていることも、考え合わせる必要があるでしょう〕。

(3)イラン映画に関しては、アッバス・キアロスタミ監督の作品がよく知られています。
 なお、同監督の作品については、時点はヤヤ古くなり、かつまた同監督作品を直接論じたものではありませんが、この記事が多少参考になるのではと思われます。

(4)この映画については、「映画ジャッジ」の評論家の論評はありませんが、映画評論家の村山匡一郎氏は、8月6日付け日経新聞に掲載された記事において、「当局による欧米文化の厳しい規制を逃れてアンダーグラウンドで音楽活動をする若者たちの姿を生々しく活写している」として「★★★★☆(見逃せない)」の評価を与えています。
 また、恩田泰子氏(読売新聞東京本社文化部記者)は、8月6日付け読売新聞に掲載された記事において、「素晴らしいのは、心揺さぶる音楽を鮮やかにとらえ、作り手たちの苦境を描くことでイランの矛盾をあぶり出したこと。変革を叫ぶため音楽を利用するのではなく、表現のために変革が必要だと自然に伝える」と述べています。




★★★☆☆







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1 コメント

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Unknown (ふじき78)
2010-09-19 07:03:17
こんちは。
CDやコンサート等の闇ルートでの収益があるなら生活できるかもしれないですが、そこまでいかない人たちだったら日本の自称ミュージシャンと同じでバイト生活で食いつなぐんじゃないでしょうか(自称ミュージシャン定番バイトのコンビニはないだろうから単純にガテン系とか)
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