映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

悪人

2010年09月25日 | 邦画(10年)
 この映画に出演した深津絵里がモントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を獲得したということもあって、『悪人』を渋谷のシネクイントで見てきました。

(1)この映画は、出会い系サイトで知り合った佳乃(満島ひかり)を殺してしまった清水祐一(妻夫木聡)が、これも同じようにして知り合った光代(深津絵里)と逃避行を続けるも、最後は逮捕されてしまうという物語です。
 こう書いてしまうと、殺人犯の祐一が「悪人」であって、随分と単純なタイトルでありその内容ではないかと思われてしまうかもしれません。

 ですが、この映画には、そもそも悪人など一人も登場しないとも言えるのではないかと思います。
 一見「悪人」と見える祐一は、実は、余りに佳乃が自分のことを詰るので、逆上してつい殺してしまったものと思われます。もちろん、実際に手を下したわけですし、死体を道路から崖下に投げ落としもしていますから、罪には問われるでしょう。ですが、計画的な殺人というわけではありませんから、そんな長い刑期にはならないのでは、と思われます。
 むしろ、佳乃が祐一を激しく詰るきっかけを作った増尾圭吾(岡田将生)の方が、ヨリ問題といえるのではないでしょうか?彼は、何不自由のない旅館のボンボンで、ちょっと引っかけて車に乗せたに過ぎないにもかかわらず、佳乃が姦しく喋り出すので、煩わしくなって、彼女を真っ暗の車外に蹴り出して、そのまま置き去りにしてしまったのですから。
 また、佳乃も、そんな惨めな格好を祐一に見られたことで、酷く自尊心が傷ついてしまい、ツイツイ言い過ぎてしまったのでしょうが、随分と激しい言い方で祐一を詰るものですから、祐一が逆上してしまうのも無理からぬものがある、と観客としては思ってしまいます。
 とはいえ、佳乃は被害者そのものですし、増尾も明示的に犯罪を犯したわけでもありませんから、「悪人」とまでは言えないでしょう。
 他の登場人物にも、そこそこ悪いことをするものもいますが(イカサマ漢方薬販売人など)、厳しく咎めだてをしなければならないほどのものかというと、どうもそのようには見えません。

 ですが、この映画のタイトルは「悪人」です。
 その点は、この作品が、原作の中でも、祐一と光代とのラブ・ストーリーに力点を置いて描き出そうとしたことから、若干曖昧になっているのではと思われるところです。
 確かに、ラストで、祐一が、「自分はあんたが思っているような男ではない」と言って、光代の首を絞めて殺害しようとします。ここをクローズアップすれば、やはり祐一は、平気で人を殺してしまう「悪人」ということになるでしょう。
 ですが、警察に逮捕されるとき、祐一が光代の方に手を伸ばしてつかもうとしたこととか、光代を見るめ目つき、それに、ラストのラストで、祐一と光代が夕陽を眺める回想シーンを見れば、祐一が本気で光代を殺そうとしたわけではないこと、決して祐一は「悪人」ではないことが観客には痛いほど理解できます。
 あるいは、自分のことにもうこれ以上かかわりあわないでくれ、自分についていても幸せになどなれない、などと言った気持ちから、むしろ光代の幸せを思って、警察関係者が大勢見ている前で、そうした演技をしてみせた、ともいえるかもしれません。
あるいは、ボーと生きてきたこれまでの人生とは手を切って、自分で自分のことをはっきりさせようと思って、自分は殺人者で悪人なのだ、ということを自己納得させようと思って、光代に手をかけたのかもしれません。
 いずれにしても、裕一は根っからの「悪人」ではないでしょう。

 ただ、原作本のように、ラストで光代が、そうした祐一の行為を疑うような独白(注)をするのであれば、「悪人」というタイトルの意味合いはもっとよく理解できるのではと思われます。
 とはいえ、そんなことをしたら、映画にならない恐れもあります。
 映画では、ラスト近くになって、タクシーの中で運転手に向かって、光代は、「世間で言われている通りなんですよね?あの人は悪人やったんですよね?」と言いますが、そのあとに、二人で灯台から夕日を眺める回想シーンが挿入されるために、観客としては、結局、ラブ・ストーリーとしてこの映画全体を捉えざるを得ないのではないでしょうか?

(注)「出会い系サイトで会ったばかりの女を、本気で愛せる男なんておらんですよね?」とか、「世間で言われている通りなんですよね?あの人は悪人やったんですよね?その悪人を、私が勝手にすきになってしもうただけなんです。ねぇ?そうなんですよね?」〔P.420〕

(2)この映画の出演者は、皆素晴らしい演技をしていると思います。
 主演の妻夫木聡は、このところ私の中ではCMの印象の方が強くなっていますが、さすがに自ら出演を望んだだけのこともあって、一皮むけた演技を披露しているのではと思いました。
 また、相手役の深津絵里も、モントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を獲得したのが十分に頷けるすばらしい演技です(原作では光代は30歳の想定になっていますが、37歳の深津絵里の方がずっと説得力があると思いました)。
 そして、ファンとして一番注目したのが、祐一に殺害される佳乃を演じる満島ひかりです。出演時間はそれほど多くはないものの、さすがにこちらにドシッとくる演技をするものだな、と感心してしまいました。友達に見栄を張っているところ、増尾との車内でのやり取り、車外に蹴り出された姿を祐一に見られた際の逆上ぶりなど、どこをとってみても非の打ちどころがありません。



(3)この映画を見ると、最近見た映画にいろいろ連想が繋がってしまいます。
 たとえば、
a)主人公の殺人犯・清水祐一は、叔父が営む解体工事会社の作業員なのです。
他の作業員たちと一緒に叔父が運転するバンに乗って、長崎市内の解体工事現場に行って、壁の取り壊し作業などに従事しています。
 とすると、最近では、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』の冒頭がハツリの現場でした。
〔ドキュメンタリー『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』でも、冒頭で解体工事の場面が長々と映し出されるので驚いてしまいましたが、こちらは立て直しのための解体であって、ネガティブな感じは余りしません。とはいえ、解体したはいいものの、美術館のリニューアルは杳として進まず、無残な姿をさらし続けているのです!〕

b)『悪人』では、祐一はに凝っていて、スカイラインR33型GT-Rを物凄いスピードで運転したりしますが、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』では、逆に車に凝っている先輩がケンタやジュンを酷く虐めることもあって、彼らは、所属する解体工事会社を逃げ出すにあたって、先輩の愛車をめちゃくちゃに破壊した上で、さらに小型トラックを奪い網走を目指して進みます。
〔『悪人』の最初の方で、増尾が佳乃を車の外へ蹴りだすシーンが、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』のラストの方で、見知らぬ車からカヨちゃん(安藤さくら)がおっぽり出されるシーンとダブってしまうというのは、こだわり過ぎなのかもしれません!〕

c)ラストで、祐一と光代が逃げ込む場所が灯台なのです。
 この装置もまた、『ハナミズキ』で何度も登場します。
 ただ、『悪人』の場合は、母親に置いてきぼりにされた祐一が、見上げたところに灯台があったのと、ラストで逃げ場がなくなって入り込んだ先が灯台脇の小屋ということで、酷くマイナスのイメージを持っています。



 他方、『ハナミズキ』の場合、北海道の灯台は、紗枝(新垣結衣)と康平(生田斗真)とのファーストキッスの場所ですし、またしばらくして再会した紗枝と康平がそれぞれ進んでいく別々の道を確認し合う場所でもあります。
 さらにカナダの灯台も登場しますが、それは亡くなった父親の思い出の場所であり、かつ離れ離れになっていた紗枝と康平とが再会に至るきっかけを作る場所でもあります。
 このように『ハナミズキ』の場合、むしろ灯台にプラスのイメージが与えられています。

 とはいえ、いずれにしても、そうした物語が紡ぎ出されるのは、その場所が機械化によって無人となっているからではないでしょうか?『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)とか『灯台守の恋』(2003年)のように、その場所に人が住んでいたら、灯台にとても近寄れないでしょうから!

d)ここで、佳乃の父親(柄本明)が増尾の友人に向かって「今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎる」云々と言いますが、それをある意味で象徴しているのが、無人の建物を壊す解体工事であり、無人の灯台であるとしたら、こじつけになるでしょうか?

(4)最後に2人が逃げ込む灯台については、もちろん原作においても述べられていますが、ページ数にして全体の1割ちょっとであり、映画での扱いに比べたらずっと小さいのではと思われます。
 映画は、原作から湧き上がってくるイメージの中で、灯台が懐かせるものを最大限に活用しようとしているといえるかもしれません〔なにしろ、五島列島の福江島にある大瀬崎灯台に、わざわざ灯台小屋を建てて撮影したほどなのですから!〕。

 他方、女性現代美術作家の束芋氏は、朝日新聞に連載されていた原作の挿絵において、何度も「」のイメージを描いています。あたかも、映画が原作から「灯台」を切りだしているのと同じように、束芋氏は原作から「手」を掴みだしたのではといえるのではないでしょうか?
 いうまでもなく、こうした内容の連載物ですから、「手」以外のものを描いている挿絵の方が多いのかもしれません。ですが、朝日新聞出版から刊行された束芋氏の『悪人』(朝日新聞に掲載された挿絵を絵巻物風に綴り合わせた文庫本サイズの本です)において、冒頭の数ページは、専ら手の指が描かれていますし、ラストのページも、露出した脳の中に手の指が組み込まれたイメージが描かれているのです。





(束芋『悪人』P.56~P.57)

 こうした手の指のイメージは、このブログの本年2月の記事でも触れましたように、束芋氏が横浜美術館の「ゴス」展(2006年)に出展された映像インスタレーション「ギニョる」で初めて見ました。同じころから朝日新聞の『悪人』の連載が始まり、挿絵も掲載され出したわけですから、束芋氏の「手」のイメージが『悪人』の影響を大きく受けているのは確実ではないかと思われます。

 なお、本年2月の同じ横浜美術館で開催された束芋氏の個展「束芋―断面の世代」においては、新聞連載の挿絵の原画が、まるで絵巻物のように連続して全点が展示されていました。
 さらに、この9月11日まで、銀座の小柳ギャラリーでは、「て て て」と題する展覧会が開催されていて、朝日新聞出版から刊行された束芋氏の『悪人』にさらに手を加えた特装本などが展示されていたり、映像作品≪ててて≫が上映されていました。
 ところで束芋氏は、2011年6月より開催される第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ美術展の日本館出展作家として参加することになったようですが、これまでの展開を踏まえて、さらにどのような方向に発展するのだろうかと楽しみになります。

(5)映画評論家はこの作品に対して好意的です。
 前田有一氏は、「重層構造となった善意と悪意。それと違法合法がまったく対応しないことに、観客はやるせない思いを感じるだろう。誰が悪人で、だれが善人なのか。その答えを簡単に出せないところに、現実世界、そして法治社会の不完全さがある。その矛盾を受け入れる器用さをもてず、ただただ必死に生きる弱者たちの姿に深く共感できる。そんな人の目に、本作は見ごたえのある傑作と映るだろう」として75点を、
 渡まち子氏は、「やるせないほどの愛情で結びつく男女を体当たりで熱演する妻夫木聡と深津絵里が素晴らしいが、加えて、祐一の祖母を演じる樹木希林が抜群に光っ」ており、「殺人という絶対的な悪とその周囲の相対的な悪をえぐった物語は、現代社会を生きる私たちに「大切な人はいるか」と激しく問いかける」として75点を、
それぞれ与えています。



★★★★☆


象のロケット:悪人