映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

不灯港

2009年09月02日 | 邦画(09年)
 渋谷ユーロスペースで「不灯港」を見ました。

 それなりの資金が投下され有名俳優も出演し商業ベースに乗って公開されている映画ばかりでなく、ミニシアターで細々と上映される劇映画も少しは見てみなければと、出かけてみました。

 制作されても公開されずに〝お蔵入り〟になってしまう映画も随分あるとのことですから、こうしてミニシアターながら公開された映画はそれなりの出来映えなのだと思います。加えてこの映画は8月末まで40日間ほど上映されましたから、評判もマズマズなのでしょう。

 監督の内藤隆嗣氏は、弱冠29歳、都立大学理学部数学科卒という変わりダネで、「ぴあフィルムフェスティバル」にて企画賞を受賞したことからスカラシップを受けられることとなって、長編物としてはデビュー作となるこの作品を制作したとのことです。

 初めての作品となると誰しも肩肘が張って、独りよがりのシーンが多くなりがちなところ、この映画にはそういった面は余り見受けられず、オシマイまで違和感なく見ることが出来ます。
 とはいえ、監督の意図として、「とことんお芝居をおさえる、抑揚をおさえる」ようにしたことから、主人公の台詞回しが幾分不自然な感じになっていますが(主人公に扮するのは、作家・演出家・役者の小手伸也氏〔36歳〕)。

 もう少し申し上げると、映画の主人公の万造(38歳)は、父親の残した漁船に乗って漁師稼業をやっていますが未だ一人暮らし。風貌は漁師そのものながら、身のこなし方などはダンディという妙な人物に設定されていて、漁師町で開催された集団お見合いパーティーに、洋品屋の口車に乗せられて超ダサイ格好で現れ、誰にも相手にされない悲惨な目にあったりします。
 その彼が、ある日思いもよらない偶然から都会的な女性に出会い、一緒に暮らすことになります。可愛い女性をゲットできたために有頂天になり、彼は彼女の要求を何でも黙って聞いている内に…、というよくある話の通りに事態は進んでいきます。

 まさに〝面白うて、やがて悲しき〟というありきたりのストーリーなのですが、そしてこの映画のストーリーの難点をいくつも挙げることは簡単なのですが、そんな野暮なことをせずに、今や殆ど見かけなくなってしまったこんな朴訥なロマンチストがいたらなという若き監督の思いを素直に受け止めてあげるべきなのかもしれません。

アマルフィ

2009年08月09日 | 邦画(09年)
 吉祥寺で「アマルフィ~女神の報酬」を見てきました。

 この映画は、フジTVが盛んにPRするので見る気が次第に失せてきていました。とりわけ「トリビアの泉」(7月18日放送)では、なんとこの作品が取り上げられていて、その中には、映画の冒頭のシーンだけで11回も取り直しが行われたこと(イタリア人ボーイの台詞回しに監督が気に入らなかったため)など、本当にトリビアなことがいくつも紹介されていました!

 しかしながら、友人がこの映画を見て、「「画面が綺麗なほかに、ストーリーが割合しっかりしていて、娯楽大作ということでは合格点を与えてよいのではないか」との感想を持ったとのことなので、それならば映画館に行ってみようと思った次第です。

 実際にこの映画を見てみますと、友人の意見の通りの感想を持ちました。

 さらに評論家の服部弘一郎氏は、「この映画のコンセプトは、織田裕二主演の和製ジェームス・ボンドかもしれない」として「このキャラクター設定はユニークなので、まだまだ新しい話が作れそうではないか」と述べていますが、この点についても同感です〔織田裕二扮する外交官・黒田のプロフィールが、今回の映画の中では殆ど描かれていないのは、今後のシリーズで小出しにしていく意図があってのことではないでしょうか?〕。

 そうだとしても、前田有一氏のように90点もの高得点を挙げるまでのことはないのではと思われます(せいぜいのところ70点くらいでしょうか?)。
 確かに、前田氏が言うように、「とにかくお話が面白くて、かつハイペース」であり、さらには「たくさんお金がかかったであろうイタリアロケや、そこで記録した素晴らしい景色に、なんとこの映画はまったく頼っていない」などの点は評価すべき思われます(アマルフィーがなぜ世界遺産に登録されたのかは、この映画からはそれほどハッキリとは分かりませんでしたから)。

 ただ、50点しか与えていない渡まち子氏が言うように、「途中でプツリと途切れる編集スタイル」は問題です。例えば、ラスト近くの日本大使館でのパーティーの場面も、終わり近くになってブツッと乱雑に切れてしまいますが、やはり余韻を残しつつフェードアウトしてもらいたかった気がします。

 それに、話の展開にドウカナと思われる点もないわけではありません。
 態々言挙げするまでもないトリビアな点ばかりですが、例えば、
・佐藤浩市扮する商社員の藤井がロンドンから駆け付けた場面で、観客の方では彼の挙措に何となく胡散臭さを感じますから、サスペンス的な興味が幾分削がれてしまいます。
・その藤井達の外務大臣襲撃の動機―大臣が嘗て主導した海外援助への恨み―ですが、大臣が藤井の妻らを自らの手で直接殺害したというのであればともかく、妻が殺されたのは援助を受けた軍事政権の仕業であり、大臣はその事実を隠蔽しただけだ、というのでは酷く回りくどい話であって、果たして動機になり得るのか疑問に思えます。
・藤井と一緒に大使館襲撃に参加した仲間達は、単に藤井を支援しようとするのではなく、自分らの家族も殺され藤井と同様に恨みを懐いていることからグループに加わったにもかかわらず、藤井が納得するとどうして彼らも手を引いてしまうのか、ヨク理解できないところです。
・映画のタイトルが「アマルフィ」とされているので、同地が映画の中で重要な役割を果たすのかなと思いきや、単に誘拐犯が指定した場所の一つにすぎず、確かに美しい港町だろうと は分かりますが、タイトルに掲げるまでもないのではと思いました(それに、なぜアマルフィが選定されたのでしょう?)。

 と言っても、40点しか与えていない福本次郎氏のように酷評する気はマッタク起こりません。
 福本氏は、「後半のあまりにも杜撰な展開に稚拙な脚本が馬脚を現す。無理やりなこじつけに近い犯人グループの計画には呆れてしまう」として、具体的に次のような点を挙げています。
・「犯人側の本当の狙いは日本の外務大臣なのだが、彼と紗江子母娘の訪伊スケジュールをどうやって合わせたのか」。
・「コンピュータのセキュリティを解除するために紗江子を(警備会社の中枢部に)送り込むなどというのは、もはや何をかいわんや。娘のためなら殺人も厭わない母の気持ちを犯人が利用するのはわかるが、一介の看護師に拳銃で警備会社を脅迫させるなど成功の可能性があまりにも低く、こんな不確定要素に頼りすぎの作戦に命をかける犯人たちの気がしれない」。
・「アマルフィには何しに行ったのだ?大臣の予定が一日延びたから時間つぶしをしたことになっているが、外交官の特権の如くロケ隊も予算を使い切りたかっただけなのでは」。

 これらの点については、次のように思いました。
・第1の点に関しては、“ロンドンの藤井と連絡を取って、飛行機のチケットやホテルの予約もしてもらった”と紗江子が黒田に話していましたから、問題はないでしょう。
・第2の点に関しては、確かに、それまで手にしたはずのない拳銃を扱って警備会社を脅迫するなど、「一介の看護師」に出来ることではないと思われます。
 しかしながら、セキュリティ解除に成功したのを確認した上で藤井達は日本大使館に侵入するのであり、闇雲に突入するわけではありませんから、「不確定要素に頼りすぎの作戦に命をかける犯人」とはいえないでしょう(セキュリティ解除に失敗すれば、今回の作戦を中止するだけのことです)。
・第3の点に関しては、福本氏が言うように、「大臣の予定が一日延びたから時間つぶしをした」ためにアマフフィが登場したのでしょう。むろん、「大臣の予定が一日延び」なければそんな港町を藤井達が選定する必要はありません。これは「犯人グループの計画」の杜撰さと言うよりも、単に状況の変化に対する対応の仕方の問題でしょう。

 福本氏は今少し映画をじっくり見てから批評をすべきではないか、と思いました。

 とはいえ、福本氏が挙げる問題点の第3の点に関連し、上記でも触れましたが、「時間つぶし」の場所として、ミラノとかフィレンツェなどではなく、なぜアマルフィが選ばれたのかという疑問は残ります。

 劇場用パンフレットの冒頭には、「ギリシャ神話の英雄ヘラクレスは、愛する妖精の死を悲しみ、世界で最も美しいとされる場所に、その亡がらを埋め町を作った。彼女の美しさを、永遠のものとするために・・・。その町の名は、アマルフィ。英雄はこうして町を作り伝説になる。だが、そうではない人間はただ悲しみを背負って生きていくしかない。」と、わざわざ記載してあります。
 
 これからすると、制作するにあたってアマルフィが選ばれたのは、この作品が、子供を失った母の悲しみを描いている悲劇であることを暗示するため、と受け取られかねません。「愛する妖精の死」とは、誘拐された紗江子の娘は既に殺害されていることを、さらに「人間はただ悲しみを背負って生きていくしかない」とは、母親の紗江子が、娘を失ってしまった悲しみを背負って生きていくしかないことをそれぞれ意味している、とも読めてしまいますから。
 ですが、実際の映画では、むろんそんな事態にはなりません。

 となると、アマルフィーをわざわざ選定した理由、それにこのようなアマルフィに関わる文章をパンフレットの冒頭に掲載する理由がよく分からなくなってきます。
 まして、タイトルにある「女神の報酬」の意味については、様々に考えられて絞りきれません。

 ですが、本来的には娯楽として制作されている映画なのですから、細かな点まで明瞭な辻褄合わせを求めても仕方ないでしょう。一番重要なのは、ラストまで観客の興味をきちんと持続させることであり、その点ならこの映画は、大いに成功しているといえると思います。

ディア・ドクター

2009年07月15日 | 邦画(09年)
 有楽町のシネカノンにて「ディア・ドクター」を見ました。

 予告編などから、もしかしたらこの映画はニセ医者の話で、最初は周囲に気づかれなかったもののある時点でその事実が明るみになって云々、という筋立てなのではと思っていました。
 ところが、鶴瓶扮する主人公がニセ医者であることは、映画を見ているとそんなに時間が経過せずとも観客に分かりますし、看護師(余貴美子)や営業マン(香川照之)もハナから知っているように描かれています。そればかりか、村の人々がある程度気づいているような素振りをします。
 そうだとするとこの映画は、いつどういう経過で真実が明かされるのかというサスペンス的な要素は重要ではなく、何か別の狙いを持っているのではと見る者に思わせます。
 予告編でも強調されているように、一つは“嘘”を巡るお話といったことでしょう。主人公は、ニセ医者という大きな“嘘”をつきながらも―毎日の診断が、細かい“嘘”の集積となるでしょう―、八千草薫の病状について周囲に“嘘”をつき通そうとする、という具合に“嘘”の中にさらに“嘘”があるという構造になっているようです。

 とはいえ、主人公の人間性・人柄によって、それが悲惨な状況に陥る前に事態が丸く収まるように描かれている点で、訴えかけるものがやや弱いような感じがしてしまいます〔「ゆれる」の場合には、香川照之は本当に真木よう子を殺したのかどうか等に関する解釈は、観客が様々に受け取ることが出来るように描かれていました〕。

 それに、この映画は、主人公を演ずる鶴瓶の演技力というよりも、むしろ鶴瓶という落語家自身の人間性・人柄に相当依存しているように思われます。
ですが、程度問題ながら、フィクションとしての映画に“地”が全面的に出てしまうのは“禁じ手”ではないのか、“嘘”を演技力で“真実”らしくみせるのが映画ではないのか、演技力という点では研修医を演じる瑛太がかなり優れているな、などと余計なこと事を考えてしまいます。
 〔なお、『週刊文春』の「本音を申せば」で小林信彦氏は、「テレビでちらちらと見かける風貌からして、人気はあるのだろうが、この人は善人ではない、と思っている。その暗さが、「ディア・ドクター」では、アップの眼鏡の奥の細い目に生かされている」と述べて、普通の受け取り方とはかなり違う人物像を提示しています!こちらは、撮影ロケ地の村人全員と親しくなった、などというマスコミ情報を鵜呑みにしているだけで、小林氏のような、長年鋭く人を見てきた情報通の話の方が信用できるのかもしれません!〕

 しかしながら、ラストの入院シーンでお茶を配るところがあります(それも鶴瓶が八千草薫に)。私が一時入院していたときにも、マッタク同様に朝昼晩3回、お茶が派遣職員によって配られました(その後暫くしてから食事が始まります)。
この場面がキチンと描かれていたことから、何はともあれ私にとっては、この映画は○となりました〔ですが、このシーン自体は、見る者に一意的な解釈を迫っていて、蛇足ではないかと思っているところですが!〕。

 それから、八千草薫と井川遥との親子関係において、親は子供が立派になるよう最大限のサポートをしながらも、だからといって子供の負担になるようなことはしたくない、というように描かれているところ、その点は随分と共感するところがありました(マア当たり前と言えば当たり前の親心なのでしょうが)。

 総じて言えば、この映画では、八千草薫の存在感と演技力に一番目を惹きつけられました〔小林信彦氏が鶴瓶について言うのを真似ると、彼女は、いつまでも“可愛らしく弱々しいお嬢さん俳優”で通っているものの、実は随分と強かな計算の出来る女性ではないか、と思っています〕。

 なお、NHK番組「鶴瓶の家族に乾杯」で、大女優で年齢もかなり離れている八千草薫に対し、鶴瓶が随分親しそうに接していたのにチョット違和感を感じていたところ、この映画を見て腑に落ちました。

ウルトラミラクルラブストーリー

2009年07月12日 | 邦画(09年)
 渋谷のユーロスペースで「ウルトラミラクルラブストーリー」を見てきました。

 6月上旬のTV番組「タモリ倶楽部」において、鉄道マニアで俳優の原田芳雄氏が、寝台特急「カシオペア」に乗車したときの様子を実に愉快に話していたところ(何しろ鉄道マニアが殺到して、滅多に切符が入手出来ないそうです!)、この列車に乗ろうとしたのも、映画の撮影で青森に行っていたのが契機になったとのことでした。

 そこでどんな映画なのかなと調べてみたら、「人のセックスで笑うな」で好演した松山ケンイチが主役で、また滅多矢鱈と邦画で見かける麻生久美子が出演する作品であるとわかり、かつまた、「青森出身監督×青森出身俳優×全篇津軽弁×オール青森ロケ」というキャッチフレーズでもあり、そんなことなら是非見てみようと思いました。

 この映画では、松山ケンイチが生命力溢れた動きをするのに対して、麻生久美子の静謐な演技が対照的で(躁と欝との関係のように見えました)、また、所々シュールな映像が挿入されていながら、見る者はそれを違和感なく受け入れることが出来、それでいて不思議な感じが残ったままで映画館を後にしますから、振り返って様々に解釈したくなる、そんな作品でした(例えば、映画では、農薬が様々な形で登場しますが、これをどのように解釈するのかが一つのポイントではないかと思いました)。

 津軽弁に関しては、冒頭、野菜の作り方を話している声がカセットテープから流れてくるシーンがあり、殆ど内容が聞き取れないためこれは大変な映画かなと思ったところ、出演する原田芳雄にしても藤田弓子、渡辺美佐子にしても、いわゆる「田舎言葉」(演劇で使われる方言)に近く、かつまた発音が標準語的ですから、映画を見る際の障害にはなりませんでした(青森出身の松山ケンイチも、農山村に残る純粋の津軽弁―殆ど理解不能です―ではありません。麻生久美子の役は、東京から流れてきた人という設定です)。

 なお、評論家の福本次郎氏は、「退屈しないけど意味不明だった」と述べ(「意味」については自分で考えるべきでしょう)、ブログ「蚊取り線香は蚊を取らないよ」の“つぶあんこ”氏は星一つ(「メジャー1作目にして既にマンネリ」との注記←“マンネリ”とはそれこそ意味不明)ながら、一方で映画ライターの渡まち子は「この作品が好きかと問われると疑問なのだが、何か新しい流れが生まれる気配を感じてしまう」と述べているところ、このあたりが私の実感に近いところです。

劔岳 点の記

2009年07月05日 | 邦画(09年)
 「劔岳 点の記」を渋谷TOEIで見ました。

 公開後暫く経つのに観客が多かったのには驚きました。木村監督による八面六臂のPR活動も大いに与っているのでしょうが(ラジオにまで出演しています!)、とにかく邦画が盛況なのは何よりです。

 映画自体の仕上がりも素晴らしく、浅野忠信香川照之の演技も出色であり、そのほかの配役も総じて良かったと思いました。 また、至極単純な筋立てながら、陸軍測量部と山岳会との初登頂競争の物語に引っ張られ、最後にチョットしたどんでん返し(一部の見方からすれば、努力が水泡に帰してしまう訳ですから)もあったりして、なかなか楽しめる作品だなと思いました。

 さらに、立山信仰と修験者・猟師などの活動について知識があればモット楽しめたでしょうが、そうした方面に疎い私にとっては、やはり自然が良く撮られていて映像が綺麗だという点に大いに惹かれました。
 前田有一氏は、「その撮影風景を思えば「凄い」と思える映像が続出するが、実のところ、そうした観客の「親切な」想像力がなければ、さほどの驚きはない」と断定していますが、決してそんなことはないと思います。特に、立山から富士山が見える光景は凄いなと思いました(監督が事前に「撮影隊の苦労」を強調したのは、単にPRの仕方の問題に過ぎないでしょう)。

 なお、多少感じた疑問点を挙げるとしたら次のようなものなるでしょうか。
・撮影監督出身の監督が制作した作品だけに、どのシーンも実にヨクきっちりと画面に収まっているものの、かなり横長な画面だけに、尾根歩きといった「横」に動く場面が多く、山岳映画にもかかわらず「縦」の動きが十分に捉え切れていないのではと思われました。特に、ラストの山頂まで登り切る肝心のシーンがカットされてしまっているのは象徴的ではないでしょうか(それに、山頂に取り付くまでの雪渓斜面の急角度もあまり強調されていなかったように思われます←一番大変とされていたのにイトモ容易に登頂してしまった感じでした)?

・長治郎の息子の手紙とか先輩古田の手紙の読み上げなどかなり甘ったるい場面(あるい は定型的なシーン)が色々と挿入されているなと思いました。  
興業的観点から仕方がないとはいえ、極端に言えば、この映画から喋りの部分をかなりカットしてしまったら、随分と骨太の映画―人間と自然との格闘を劇映画として作ったという意味で―が出来上がったのではないでしょうか?

・流れる音楽がすべて通俗的なクラシック音楽というのも、かなり興味を削がれるところです(なぜ今時ヴィヴァルディの『四季』なのか、そのセンスが疑われます)。どうして現代の音楽家に作曲を依頼しなかったのでしょうか(木村監督が師と仰ぐ黒澤明も、こんな音楽の使い方はしていないのでは)?

・モットつまらないことですが、なぜ柴崎が選抜されたのかの説明があっても良かったのでは(実際の行動を見れば、大層優れた人物であることはヨク分かるのですが)?  
 また、陸軍の命令は“山岳会に負けるな”であったはずなのに、千年前の行者の登頂が判明すると、どうして“登頂はなかったことに”との態度に急変してしまうのでしょうか(四等三角点の設置しかできなかったために、元々『点の記』には記録されないにもかかわらず)、他の日本の山もそれまでに陸軍測量部が初登頂していたのでしょうか(なぜ剣岳初登頂にこだわるのでしょうか)?

鈍獣

2009年06月21日 | 邦画(09年)
 渋谷のシネクレストで「鈍獣」を見てきました。

 予告編を見た段階では積極的に見る気は起きなかったものの、「蚊取り線香は蚊を取らないよ!」の“つぶあんこ”氏の評価は星4つで、かつまたご贔屓の浅野忠信が出演していることもあって、やっぱり見てみようと出かけてきました。

 この映画で特に面白いなと思った点は三つあります。
 一つ目は、冒頭近くのシーンで、凸川が小説を書いている場所が、なんと三鷹天命反転住宅なのです!この1点だけで他はどうあろうとも本作品は◎となりました(何しろこの住宅の中は本年2月に最近探索済みで、映画の舞台探しマニア〔!?〕としては内心“ヤッタ!”と叫ばずにはいられませんでした!)。

 二つ目は、浅野忠信が演じる凸川がホストクラブにやってきて「もうお終い?(閉店?)」とエレベーターの中から尋ねるシーンが何度かありますが、予告編で見たときは、このセリフは「もう(俺を殺すのは)お終い?」と言っているとばかり思っていました。おそらく両用に受け取れるように脚本が書かれているのでしょう(とはいえ、浅野忠信は、この映画の場合あまり印象がよくありませんでした〔何かこの役にそぐわないような感じです〕)。

 三つ目は、ユースケ・サンタマリアが「川田っち」と言いながら川田に始終くっついている様は、TV深夜番組の「音楽寅さん」で「桑田っち」と言いながら桑田佳祐に纏わり付いている姿と二重写しになりました。ユースケ・サンタマリアにとり、この役は地で行けて凄くノリが良いように思えました。

 なお、脚本の官藤官九郎が、映画公式サイトにおいて、「この作品を書くにあたって意識したのは「分からない」ことの怖さです。その象徴が凸川という男」云々と述べています。 原作者の見解は勿論尊重すべきでしょうが、そんなふうに言われると、余計に訳が分からなくなってしまいます。
 私の場合、この映画を見ている最中は、「凸川という男」が、そんな“「分からない」ことの怖さ”を象徴しているなどとは思えず、単に“過去の記憶”といったものを表していて、それはどんなにしても消せないのだ、といったようなメッセージがあるのでは、との理解で済ませていました(その程度の浅い理解の仕方でも、マアマア辻褄が合い、この映画を楽しめましたから)。

 また、この映画は戯曲の映画化とのことですが、このような変化に富んだストーリーをどうやって舞台で演じたのか至極興味のあるところです。

インスタント沼

2009年06月14日 | 邦画(09年)
 渋谷のHUMAXシネマで「インスタント沼」を見てきました。

 この作品は、監督の三木聡がお気に入りなので、是非見たいと思っていました(前作の「転々」は、映画の舞台探しファンとしてはこの上ない贈り物でしたし、その前の「図鑑に載っていない虫」等も大層面白い映画でした)。
 この映画でも、舞台設定がどこかという点が最後まで気にかかりましたが、こちらの知識不足で、どのシーンについてもそれがどこで撮影されたのか全然わかりません。そこで、そんな追求は途中で諦めて、いつもの三木映画の面白さを味わう方に方針転換にしました。

 今回の映画では、麻生久美子が全開で、実に愉快なキャラクターをうまく演じている一方で、「重力ピエロ」で至極真面目なキャラクターを演じていた加瀬亮がコテコテのパンクロッカーを演じ(尤も格好だけのことで演奏などしませんが)、また松坂慶子の出演もあったりして(松坂慶子と言えば“銀ちゃん”こと風間杜夫でしょうが、なんとその彼も出演しているので驚きです)、ラストになって教訓じみたシーンが設けられてはいるものの目くじらを立てるほどのこともありませんし、総じて至極面白い映画だなと思った次第です。

重力ピエロ

2009年06月07日 | 邦画(09年)
 新宿武蔵野館で「重力ピエロ」を見てきました。

 映画を見ている内に、ああこの舞台は仙台だなとわかり〔原作者の小説『ゴールデンスランバー』を以前読んだこともあり〕、安心して映画の中に入っていくことが出来ました(映画を見ると、舞台はどこかという点が直ぐに気になってしまうのです!)
 こうした点に加え、久しぶりに鈴木京香を見ることが出来、また若い岡田将生のフレッシュな演技にこれからの成長を期待出来そうなこともあって、実に良い映画を見たなと思いました。

  ただ、渡部篤郎が演じる人物がかなり酷いヤツだとしても、人を殺したわけではありませんから、まず兄の加瀬亮が彼を密かに殺してしまおうとして準備に取りかかったり、次いで弟の岡田将生が実際にバットで殴り殺してしまったりするのは、かなり短絡的な行動ではないかと私には思えました。

 まして、弟が自首しようとするのを、「警察や検察にあれこれ云われる筋合いはない」として兄が止めてしまうシーンには、随分と違和感を感じました(憎いヤツに私的制裁を加えることは、相手にどんなに非があろうとも現代社会では許されないのでは〔ブッシュの始めたイラク戦争に通ずるところがあるように思えてしまいます〕?←勿論、こんなモラルを個々の映画に振り回しても意味がないのかもしれません。むしろ、自分たちで殺さなくてはと兄弟が思い詰めずにはおられないほどの極悪非道さが描き出されているかどうか、この私的制裁を観客が納得出来るような仕上がりになっているのかどうか、という点を問題にすべきなのでしょう)。

おっぱいバレー

2009年05月20日 | 邦画(09年)
 「おっぱいバレー」を渋谷TOEIで見ました。

 単に、時間が丁度当てはまったため映画館に入っただけのことですが、予想以上に楽しい気分で映画館を後にすることが出来ました。

 「自然な流れでごくまともな教訓が出てくるので、自然な形で受けとめた」との評がありますが、まさにその通りではないかと思います。

 ただ強いて言えば、綾瀬はるかは、戸畑の中学校で担任のクラスを持っていないのかとか(授業はせずに、男子バレー部だけ見ていたかのごとく描かれています!)、女子中学生がもう少し男女関係のレベルで話に絡んできたらストーリーの単調さを救えたかもしれないのにとか、NTVの「11pm」のことなど若い観客は知らないでしょうから、この映画はどの年齢層を当て込んで作られたのか、などつまらないことを思ってしまいました(それにしても、このところの綾瀬はるかのTV露出度はすさまじいものがあります!)。

Goemon

2009年05月10日 | 邦画(09年)
 「Goemon」を渋谷シネパレスで見てきました。

 日本のCG技術がどのくらいのレベルになっているのかとか、かなり奇想天外とされるストーリーはどんな内容なのか、といったことを確かめてみたいという気もあり、出かけてきた次第です。

 実際に見てみますと、前田有一氏が言うように、「退屈しらずのアクション時代劇」であることは間違いありません。

 ただ、こうした類の映画を余り見ていない私にも、スターウォーズまがいの場面がいくつも出てくることくらいわかり(「ET」にオマージュを捧げているシーンもあります)、CG映画といえども大枠はどれも変わらないのだな、と思えてしまいます(出来上がりの優劣は、制作費としてどれだけの資金が調達できるのか、という点にかかってくるのでしょう)。

 それなら、ストーリー展開はどうかと言いますと、石川五右衛門とか霧隠才蔵、猿飛佐助、などといった講談本の世界に登場するキャラクターが活躍する映画ですから、「妄想を大爆裂」させたといった評語が当てはまる訳のものではあり得ません。
 粉川哲夫氏は、「思い切りフィクショナルに脱構築した石川五右衛門と霧隠才蔵をからませた歴史解釈」と述べていますが、歴史の外にいる「フィクショナル」な人物をいかに「脱構築」しようと、「歴史解釈」とは無関係ではないでしょうか?

 それに、前田氏は、「主人公が戦いながら、唐突に反戦テーマを語りだす紀里谷演出も絶好調。せんそうはんたいの地球市民・ゴエモンは、みんなの幸せのため、こなみじんになるまで戦うというわけだ」とストーリーの矛盾点を突こうとしていますが、その程度の話ならばどこにでも転がっていること(「平和のための戦争」!)、そう目くじらを立てるほどでもありません。

 むしろ、些細な点ながら、次のような問題があるのではと思いました。
貧民窟の道端で倒れている男を指して、“これが「自由」のもたらす結果なのだ、ごく少数の強い者しか勝ち抜けない世の中なのだ”などと猿飛佐助が唐突に叫びます。
 これは、直接的には当時行われていた楽市楽座を批判しながらも、間接的には小泉改革(市場原理主義!)に対するあからさまな非難でしょう。
 そのあとでは、信長→秀吉→家康という天下人の交代に対して、“勝手に支配者が何人も入れ替わりおって”などといった台詞も飛び出します。これも、明らかに、与党内での政権たらい回しに対する揶揄でしょう!

 いうまでもなく、「自由」に対する批判はいくら行おうとそれこそ「自由」ですが、その結果として、自分の発想の「自由」さが縛られてしまっては意味がないのでは、と思った次第です〔例えば、粉川氏が言うように、この映画は最近の流れを踏襲し、秀吉を悪役(明智光秀と結託して主君信長を葬った、など)にし、信長を理想化して描いているに過ぎません〕。

 とはいえ、最後まで退屈せずに見ることが出来ましたから、『週刊文春』今週号の尻馬に乗って映画の酷さを論う(「5分のPVを延々と2時間見せられているよう」などと言う)気は毛頭ありません。
 また、あるブログでは、「特に酷いのは千利休の平幹二朗である。頬の弛んだ薄気味悪い笑い顔は、もう醜悪としか表現のしようがない」云々と述べられていますが、だからこの映画が駄目だということにならないでしょう。この映画の中での位置づけを考えずに、従来の千利休像で判断しても全くのムダというものです。

 なお、近日公開される『五右衛門ロック』にも、「Goemon」で主役を演じた江口洋介が、五右衛門ではない役ながら出演しているのも興味深いことだなと思います。