映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

アバター

2010年01月17日 | 洋画(10年)
 『アバター』をTOHOシネマズ日劇で見てきました。

 予告編からそのストーリー展開は十分推測できるように思えるところから、わざわざ見に行かないつもりでしたが、アニメ監督の押井守氏が、「あれには10年かけても追いつけない」と言っていたりして、そんなにすごいのならば見てみようという気になり、銀座の大劇場まで出かけてきました。

 実際に映画を見てみますと、ストーリーは、やはり事前に予想がつくくらいの単純なものでした。地球からある星の衛星パンドラに派遣された民間の資源開発会社が、その衛星で見つかる貴重な鉱物を大量に採掘・確保しようとして、採掘場所に住む原住民ナヴィ族と死闘を繰り広げる、というものです(原住民ナヴィ族は、鼻が低く有色で、尾を持っているものの人類に属すると思われます)。
 これに、この会社に雇われた主人公が原住民との恋に落ちるというラブストーリーが絡みます。

 見るとすぐに気がつきますが、どうもこの映画は宮崎駿監督のアニメとの関係が深そうです。貴重な鉱物が埋蔵されている場所が、空に浮かぶ城「ラピュタ」に似ていたり、原住民たちが、その星に生息する様々な異様な生き物にまたがったりして民間会社の傭兵と闘うというのも、雰囲気としてナウシカに似ているのではと思えてきます。なにしろ、ナヴィ族は、その星の自然と実にうまく調和して生活しているというのですから。
 もっといえば、原住民が矢を射る格好は西部劇のインディアンそっくりですし(頭の飾り物も類似しています)、ナヴィ族がまたがっているその星の生き物の顔は、映画『エイリアン』に登場する異星生物によく似ています(あるいは、『ジェラシック・パーク』に登場する恐竜でしょうか)。
 また、原住民が執り行う宗教的な儀式の様子は、アフリカとか東南アジアに住む未開人を描いたハリウッド映画でよく見かけたものに似ているといえるかもしれません)。
 ですから、資源開発会社の傭兵たちが先端兵器を手にしてナヴィ族とたたかう様は、銃を手にしてインデアンと闘う騎兵隊さながらに見えてきます。尤も、そういった原住民の方が地球人(文明人)に打ち勝つという点が、従来の西部劇とは異なっていると言えるかもしれません。

 また、いつも違和感を感じてしまうのが、地球からこの星にやってきた主人公たちが英語で話しても、ナヴィ族とコミュニケーションが簡単に取れてしまうのです。無論、全員とではなく、ナヴィ族の幹部クラスとの間でだけですが(これらのナヴィ族は、どこでどうやって英語を習得したというのでしょうか?)。

 ともあれ、この映画は、そんなストーリーを追いかけるよりも、やはり3Dを楽しむべきではないか、と思われます。
 最近、3Dについては、『クリスマス・キャロル』と『カールじいさんの空飛ぶ家』の2本の映画を立て続けに見たばかりです。この二つとも実写場面のないアニメですが、前者は、パフォーマンス・キャプチャーを使って、登場人物の映像を徹底的にリアルなものにしていますし、後者はCGアニメそのものといった作品です。ただ、両者とも、これまでの3Dアニメに比べたら格段に優れた出来栄えなのでしょうが、いまいちの感じがなきにしも非ずでした。
 今回の『アバター』は、ジェームズ・キャメロン監督が、満を持して制作しただけのことはあって、実にすばらしい映像を見ることができます。
 民間会社の関係の場面は、ほとんどが実写のところ、その画面が実にスムーズにナヴィ族が動き回る場面(パフォーマンス・キャプチャーが駆使されています)や衛星パンドラのCG場面につながって、それらの出入りが何回繰り返されても、どの画像にもリアルさを感じてしまいます。

 それにしても、CGを駆使して描かれたパンドラの自然の光景は、息をのむ綺麗さで、「聖なる木の精」がフワフワと句中に漂う様はこの世のものとも思えません(尤も、CGの世界のことですから、「この世」でないことは当然なのですが!)。
 そして、そうした自然を味方につけて戦うナヴィ族と、地球からの傭兵軍との戦闘場面は手に汗握るシーンの連続で、最後まで観客を見飽きさせない迫力に満ちていました。
ストーリーは別として、3Dの技術的成果だけでも一見の価値はあるのではと思いました。

 映画評論家も、この映画の技術的な面を高く評価する向きが多いと思います。
 小梶勝男氏は、「アバター」は、単なる3D映画ではなく、「映像革命」だと伝えられてきた。果たして「革命」は成功したのか? 答えはイエスだ」、「モーション・キャプチャーと実写が、一つの画面の中で全く違和感なく融合している。CGと実写の「ベルリンの壁」が崩壊したのである。これこそ、「アバター」がもたらした映像革命だろう」として、「悔やまれるのはストーリーだ。せっかくの映像革命に、なぜもっと夢のある話を用意しなかったのか」としながらも、93点もの高得点を与えています。
 また、渡まち子氏も、「異文化との共存や環境保護を訴えること自体に新味はないが、ここまで先端的で美しい映像で語られたら、そのメッセージは否が応でも力強く響く」などとして90点を与えています。
 他方、福本次郎氏は、やはりストーリーに拘泥して、「筋金入りの海兵隊員だったジェイクの心境の変化に説得力が弱く、スパイ活動中に敵と恋に落ちるなどあまりにも通俗的だ」などとして、60点しか与えていません。ですが、そんなことまで描いていたら、ただでさえ長めのこの映画(上映時間162分)は、常識的な時間内では収まりきれなくなってしまうことでしょう!

 なお、前田有一氏は、一般の見解とは逆に、「この映画でもっとも驚くべきは、CGや立体の出来栄えなどではない。そんなものは枝葉の問題」だとキッパリ断定した上で、この映画で「大事なことは、気持ちの悪いブルーマンの世界を、いつの間にか観客が現実の世界のように感じ、受け入れてしまうことだ。それを綿密な計算の元にやりとげたキャメロン監督の、手綱の引き具合が凄いのである」などと毛色の変わった見解を示して、福本氏と同じように60点しか与えていません。
 むろん、前田氏のような映画評論を専門とする方しか見えてこない部分はあることでしょう。ですが、「多くの人々は自分が物凄いテクニシャンの監督の手の上で転がされ、翻弄されたことなど気づく事さえないだろう」と前田氏がひとり悦に入られても、だから何なのだと対応するしかないでしょう(別に疑問点が氷解するわけのものではありませんから!)。


★★★★☆


象のロケット:アバター


ロダンと光太郎

2010年01月16日 | 美術(10年)
 パリにあるロダン美術館の「マティスとロダン展」で展示されているマチスやロダンの作品に関連して、ブログ「はじぱりlite!」の12月25日の記事の中では、次のように述べられています
 「考えてみれば、動く身体とは何でしょうか。それは「完全な身体」の移動でしょうか。もしそうであるならば、それは、静止した身体の位置が変化したというに過ぎません」。
 「実際には、私たちは、動きつつある身体を完全には把握しきれません。運動とは、身体の形態がA地点から消えてB地点に現れるといった出来事ではなく、A地点からは消える途中で、B地点には現れる途中であるような、きわめて宙ぶらりんの状態なのです」。

 大変興味深いことに、ロダン自身もそれらしいことを述べているのです。
 もしかしたら、上記の前半に対応するのが次の言葉かもしれません。
 「若し本当に早取写真は、如何に運動の最中に取られても、其人物が急に空気の中で氷結した様に見えるものとすれば、其は即ち、其の体のすべての部分が正確に1秒の20分の1乃至40分の1で表されていて、其処には、藝術に於けるような、姿勢のだんだんにほぐれて行く開展が無いからです」(注1)。
 そして、上記の後半に対応するのが次の部分でしょうか。
 「画家や彫刻家が自分の作る人物を動かさせるに行うことは、要するに此の種の変行(メタモルフォズ)なのです。一つの姿から他の姿勢への経過を表すのです。如何に気もつかない内に第一のものが第二のものへ辷り込んでいくかを指示するのです。其作品のうちに、人はすでに過ぎ去った部分をまだ見とめながら又此からの部分をも発見するのです」(注2)。

 ここでなお一層興味深いことに、この文の翻訳者が、なんと高村光太郎なのです(『ロダンの言葉』1916年出版)。
 高村光太郎(1883~1956)は、若い頃パリのロダンのもとに彫刻の勉強に行っていますが(1908.6~1909.3)、そこら辺りのことは、このブログの以前の記事で取り上げました鹿島茂著『吉本隆明1968』(平凡新書。2009.5)でも述べられています。
 ただ、前の記事の場合、「知識人の転向」とか「終戦の受容の仕方」といった側面で同書に触れてみましたが、ここでは、高村光太郎に少し焦点を当ててみましょう。

 同書において鹿島茂氏は、「芸術の普遍性、世界共通性」と「日本の後進性、個別性、特殊性」との乖離という問題にまともに直面して苦しんだ高村光太郎が、その問題をどのように解決していこうとしたのか、という点につき、吉本隆明氏の所論を追跡しています(注3)。 

 こうした問題に直面する上で高村光太郎にとり大きな転換点になったのは、「フランスへの留学体験、とりわけロダン―数世紀に一人現れるか否かの大天才―に師事しての彫刻家修業」です。その際に、自分の出自の特殊性、「卓越した江戸職人に過ぎない父―高村光雲―の息子であること」によって、通常の明治の留学生が感じた落差(「先進国たる西欧と後進国たる日本の目もくらむような彼我の差」)以上のものに直面することになりました(注4)。
 すなわち、西洋が持つ「世界共通性」(了解可能性)―勉強すれば理解出来る―と「孤絶性」(了解不可能性)―隣に住むフランス人のこころがわからない―との乖離に高村光太郎は強く苛まれたわけです(注5)。

 この乖離の問題の解決法として高村光太郎が導き出したのは、「かなり倒錯的なにおいのするデカダンスに沈潜すること」でした(注6)。
 ただ、同じように欧米に留学して、帰国後「下町情緒のデカダンスに沈潜」した永井荷風と比べると、後者が直面したものは中途半端なものでしかありませんでしたが、高村光太郎の場合は、酷く過剰な様相を呈しました(注7)。
 「高村光太郎のデカダンスは、永井荷風のようなインテリ階級出身の脳髄的なデカダンスでは収まり切らないストレートな生理的性欲の巨大さを特徴としてい」たというわけです(注8)。

 鹿島氏の追跡は、ここからさらに一層深い所に降りていきますが、ブログの記事としてあまりに長くなるので、次の機会を期して、ここらで止めておきましょう(注9)。

 『道程』や『智恵子抄』などの作者として知られる高村光太郎が残した彫刻は、数が少ないながらも、「手」(1918)など美術書などでよく見かけます。そして、講談社文芸文庫版『ロダンの言葉』の解説を書いている湯原かの子氏によれば、冒頭に掲げた十和田湖畔に据えられている「乙女像」 (1953)こそが、「光太郎のロダンをめぐる長年の格闘を証言する彫像であり、西洋文化の受容と葛藤を物語る記念碑」ということになるようです。
 すなわち、ロダンの彫刻の根本は「動そのものの中にある美」としながらも、高村光太郎は、その最後の彫刻において、裸婦という西洋的なものの中に東洋的な自然観―自然との調和、言ってみれば「静の美」―を融合させようとしたといえるかもしれません(注10)。

(注1)『ロダンの言葉』(講談社文芸文庫)P.221~P.222
(注2)前掲本P.219〔「動かさせる」「見とめる」は原文のママ〕
(注3)『吉本隆明1968』(平凡新書。2009.5)P.176〔以下の文章は、鹿島氏が、吉本氏の見解を要約したものに基づいています〕
(注4)前掲本P.159~P.160
(注5)前掲本P.204~P.206
(注6)前掲本P.185
(注7)前掲本P.189~P.190
(注8)前掲本P.191
(注9)なお、高村光太郎は、雑誌『スバル』1909年9月号に「アンリ マチスの画論」を訳載していることが注目されます(山口泰弘編の年譜による)。あるいは、高村光太郎を結び目としてもロダンとマチスとの関係を議論できるのかも知れません。
(注10)前掲注1の著書P.304

海角七号

2010年01月13日 | 洋画(10年)
 『海角七号/君想う、国境の南』を銀座のシネスイッチに行って見てきました。

 この映画については、タイトルの意味が分からず余り関心もなかったところ、前田有一氏の映画評に「台湾で爆発的にヒットした(同国映画としては史上一位)」とあったことから、ベルギー映画『ロフト.』を見に行ったときと同じ感覚で(その映画に馴染みのない国のものという点で)、映画館に出向いてみました。

 実際に見てみますと、地方都市に誕生した急ごしらえのロックバンドが聴衆に感動を与える演奏を行った、という最近よく見かける筋立てのものに過ぎません。

 ですが、見ていくうちに、年末に見た何本かの映画と雰囲気的にかなり類似する側面をいくつも探し出せたりして、結構楽しい気分でこの映画を見終わることが出来ました(個々のエピソードの中には、日本人的感覚からするとやや荒削りな感じがしてしまうものがあるとはいえ、暫くして慣れてくるとそれもまた良しとなってきます) 

 まずこの映画には、慌てて作られた音楽集団が、短期間の内に一定の成果を出せるまでに成長するという中心的なテーマがあると思いますが、その点からすると、前回のブログで取り上げた『のだめカンタービレ』がすぐに思い浮かびます。
 いうまでもなく、一方はクラシックの名門オーケストラであり、もう一方は急ごしらえのしがないロックバンドですから、違っている所の方が大きいかも知れません。
 ですが、聴衆に感動を与える演奏をするには、濃密な練習ばかりでなく、演奏者を適任者に入れ替えることや団員の意欲の向上を図ることなども必要だという点が二つの映画で同じように描き出されていて、大変興味深いと思いました〔実際には、いくらロックバンドと言えども、あんなに短期間にあそこまで腕が上がる事などありえないでしょうが!〕。

 次に、映画の構造面では、昨年末に見た『ジュリー&ジュリア』と共通するものがあるのではと思いました。
 というのも、この映画においては、一方に、1945年の敗戦で日本への引揚を余儀なくされた日本人教師とその教え子との関係があり、他方に、主人公・アガと日本人マネージャー・友子との関係がありますが、この二つの関係は、ジュリーとジュリアの関係と同じように、直接的に交わることがないからです(『ジュリー&ジュリア』でも40年ほどの間隔があり、この映画の場合は60年の間隔です!)。
 さらにいえば、マネージャー・友子が、教え子・友子にあてた日本人教師の手紙を読むことによって、両者の関係が意識の面では濃密になるのは、ジュリーがジュリアを頭の中に作り上げてそれとのコミュニケーションを作り上げている関係とよく似ているのではとも思いました。
 二つの映画とも、見ている最中は、それぞれの二つの関係がどこかで実際に交わることになるのではないか、という期待を抱かせながらも、結局はそんなことは起こりません。一つは実話もう一つは物語と言う違いはあるにせよ、その点は、作品にリアリティを持たせるために必要な節操ではないかと思いました。

 さらに、映画で使われている言葉の面からみると、さまざまな言語が飛び交うという点で、これも昨年末に見た『イングロリアス・バスターズ』を思い起こさせました。
 そちらでは、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語などが話されますが、この映画でも北京語・台湾語・日本語が入り混じります。そして、このようにたくさんの言語が映画の中で話されることが、どちらの映画でも重要な意味合いを持っていると思います(そういえば、『千年の祈り』でも、英語、中国語、ペルシア語が話されていました!)。
 それに、この映画の日本語字幕が、台湾語の場合と北京語の場合を区別して表示したのは画期的なことではないかと思います。なにしろ、台湾語で話されると理解できない中国人が登場するのですから(仮にこの映画が吹き替えで公開されるとしたら、この映画の面白さは半減してしまうでしょう)!
 これに、中孝介氏の沖縄方言が加わったら、もっと面白くなったかもしれません!

 一見したところ、至極地味そうな作品ですが(台湾の地方都市での出来事)、このように現代的な映画とも強い結びつきがあると思うと、また大いに興味が湧いてきます。

 なお、女優の田中千絵氏は、この映画で初めて見ましたが、なかなかの美貌で、かつ中国語も大変上手そうで、これからの活躍が期待されます。

 ところで、評論家諸氏は次のような感じです。
 まず、前田有一氏は、「本作を理解するのにもっとも重要なことは、こうした内容のドラマが台湾で万人に受け入れられたという事、台湾の人々がこのストーリーに感動したという厳然たる事実」と指摘しつつ、この作品は「素朴なつくりの映画だが、だからこそ、その中に込められた愛情の純粋さが際立つ。この冬、全日本人が見るべき、いや、日本人だからこそ見なくてはならない傑作である」として90点もの高得点を与えています。
 確かに前田氏が声高に言う側面はあるとはいえ、そういった政治的なことを余り強調せずとも、描き出されている内容自体で優れた映画だなと思えるところです。

 渡まち子氏は、「やはり音楽の持つ力は素晴らしい。台湾南部の海辺の街・恒春のロケーションも魅力的だ」とし、「切なくてみずみずしい恋物語を描いたこの映画を、美しい絵葉書のように大事にとっておきたくなった」として70点を与えています。
 こうした論評は私の感覚にヨク馴染むところです。

 他方で、福本次郎氏は、「日本語の手紙の主とアガ・友子の因縁が希薄で、運命に導かれた出会いというような展開がないのが残念。また、いくらアガに責任感を自覚させるためとはいえ、本番直前に手紙を届けさせるのはマネージャーとして友子はいかがなものか」など、いつものように変な難癖を付けて50点しか与えていません。
 ですが、本番直前にもかかわらず主人公に友子が手紙を届けさせたのは、果たして、「アガに責任感を自覚させるため」というような在り来たりのつまらない理由によるものなのでしょうか?


★★★☆☆(星4つに近いかも知れません)

象のロケット:海角七号

のだめカンタービレ(前編)

2010年01月10日 | 邦画(10年)
 本年の劇場鑑賞映画の第1番目として 「のだめカンタービレ/最終楽章 前編」を、吉祥寺の映画館で見ました。

 この映画は2部作の前半に過ぎず、後編は4月中旬の公開を待たなくてはならないということで、それではあまりに間隔があきすぎではないかと思えて、余り観る気が起きなかったところ、マスコミに掲載されている映画評が概して好意的なので、それでは観てみようかという気になり、暇なこともあって正月明け早々近くの映画館まで行ってきました。

 私も以前、フランスに留学するまでの原作漫画を読んだことがありますが、それ以降については、漫画もTVドラマも知らず、それでいきなりこの映画に臨んだところ、映画の中で演奏される音楽の質の高さもあって、ラストで上野樹里が雨の中にたたずむ姿には心が残りながらも、総じて大変面白く見終わることができました。

 特に、冒頭で演奏されるベートーベンの交響曲第7番第1楽章と、クライマックスで演奏されるチャイコフスキーの序曲「1812年」とは、劇場の大音響で聞くと随分と聴きごたえがあり、かつまた玉木宏扮する千秋の指揮ぶりも大層見事だと思います。
 これに、バッハのピアノ協奏曲第1番の弾き振りも加わるのですから、上野樹里が主役でなかなか良くやっているとしても(昨年は「キラー・ヴァージンロード」を見ました)、私には、玉木宏の方が強く印象に残りました。
 確かに、上野樹里が弾く「トルコ行進曲」(実際の演奏は、著名な中国人ピアニストによっています)も面白い演奏ですが、私には、強弱を強調しすぎて、やや奇をてらったものではないかという感じもしたところです(“分かったようなことを言って”との陰の声)。

 といっても、問題がないわけではありません。団員の3分の1がやめてしまい危機に瀕しているマルレ・オケの常任指揮者に千秋が就任すると、あっという間に見事な演奏を披露できるまでになりますが、ちょっと出来過ぎの感がしないでもありません。
 「ボレロ」のめちゃくちゃな演奏の後、オーディションで団員を入れ替えるだけであれほどの演奏ができてしまうというのは、実際にはあり得ない話でしょう。
 とはいえ、元々のボロボロの演奏自体が、素人分かりするようにギャグとして演じられているために―いくらなんでもあの程度の演奏しかできない団員では、どんなに練習しても上達はしないでしょうから!―、その後の演奏との格差が大きく感じられるだけなのかもしれません。
 そうだとしたら、有能な団員が加わりさえすれば、千秋の名指揮ぶりとあいまって、あのような素晴らしい演奏につながったとしてもおかしくはなさそうです。

 それに、再建ぶりをはじめて公開する演奏会で演奏されたのが、虚仮威しによく使われる「1812年」ですから、なおのこと印象が深くなってしまいます(なにしろ、ナポレオンがロシアに侵入しまた退却する様が、両国の国歌とか大砲の音を交えて演奏される体のものですから!)
 ですが、元々この映画は、主にクラシックなどなじみがない若い人向けのものでしょうから、そういう観点から考え直してみれば、それはそれでよく作られていると言ってみてもいいのでしょう。

 ところで、もうひとつ面白いなと思った点は、言語に関することです。このところ洋画でも、一つの作品の中で様々の言語が使われている映画がよく公開されるようになってきました。
 今回の映画は、舞台がパリですから言語の問題の処理の仕方には興味深いものがあります。この映画では、外人が話す言葉は、吹き替えによって日本語に置き換えられているだけでなく、なんと外国人を日本人が演じることでその問題を処理している場合もあります(竹中直人やなだぎ武など)!元々がファンタジーなのですから何でもありだとしても、いくら何でもという気がしないわけではありませんでしたが。

 とはいえ、今回の映画はあくまでも2部作の前半でしかありません。4月に公開される「後編」をも見た上で全体を評価しなおす必要があるでしょう。
 また、楽しみが一つ増えた感じがします。

 評論家の面々は次のような感想です。
 前田有一氏は、「全体的にコメディ色が強く、いまさらいうまでもない上野樹里の怪演により爆笑確実。この世界観に慣れている人なら、十分満足できる仕上がりだ。ヨーロッパロケによる美しい映像も、もちろん注目」として55点を、
 渡まち子氏も、「今回は劇場版にふさわしく、ウィーンやパリなど、欧州の華麗な都を舞台にする豪華なもの。TVドラマの安易な劇場版が氾濫する中、本作は名曲の数々を劇場のクリアな音響で堪能できる点に映画版ならではの説得力がある」などとして55点を、
 福本次郎氏は、「人気テレビドラマの延長線上にある前半部分は笑えないコメディだが、真摯に楽曲に向きあおうとする後半は思わず聞き入ってしまった」として50点を、
それぞれ与えています。
 この中で福本次郎氏は、「騒々しいエピソードの連続で綴られる」とか、「人気テレビドラマの延長線上にある前半部分は笑えないコメディ」だという具合に、かなり否定的です。このような書き方をする人は、シリアスなところが何もないこうしたたわいのないコメディが元々肌に合わないのでしょう!


今年は☆マークの評価をしてみようと思います(満点は★5つ)。
この映画は、後編とあわせて評価し直したいと思いますが、取り敢えずは、
★★★☆☆

象のロケット:のだめカンタービレ

松本清張原作映画

2010年01月09日 | DVD
 お正月のお昼の時間に、松本清張生誕100年記念と銘打って、WOWOWで彼の小説を原作として制作された映画が連続して放映されました。

 その中で興味があったのは、昨年見たばかりの映画『ゼロの焦点』の旧版のものですが、時間があったので1日に放映された『砂の器』も見てしまいました。



 この『砂の器』は、1974年に野村芳太郎監督の下で制作されたものです。映画の公開時には丁度秋田県の大館市にいましたので、わざわざ列車に乗って秋田市に出かけ、そこの映画館で見た記憶があります。

 その後、何回かTVで放映されたものを見たこともあるのでしょう、今回実際に見てみますと、かなりイロイロな場面を覚えていました。特に、幼い和賀英良が父親(加藤嘉)と手を取り合って雪の日本海沿岸を歩くシーンと、世界的な指揮者・作曲家となった和賀英良(加藤剛)が自分が作曲したピアノ協奏曲「宿命」を演奏するシーンとが交互に映し出されるクライマックスは、何度見ても感動します〔ただ、このピアノ協奏曲は、余りのロマンチックで古めかしく、主人公が現代作曲家ならば、こんなベタベタした曲など書かないのでは、と当時思ったことでした!〕。
 今回見てもう一つ印象深かったのは、和賀英良を追い詰める刑事役の丹波哲郎が、随分と颯爽としていたことです。

 さて、2日に放映された『ゼロの焦点』です。この映画は1961年に上記の野村芳太郎監督によって制作されています。面白いことに、この映画の脚本を書いた橋本忍・山田太一もまた、上記の映画を手がけています。過去に大きく囚われる人間が引き起こす悲劇といった点で共通するところがあるからでしょうか?



 それはともかく、この旧版と昨年公開された新版とはかなり違っているところがあります。新版でも鵜原禎子(広末涼子)が事件の謎を追いかけますが、旧版では禎子(久我美子)の役割がもっと大きくなっています。新版では、むしろ室田佐知子(中谷美紀)のウェイトがずっと重くなっているところ、旧版の主役の久我美子の存在感は、映画の中で遙かに大きなものなのです。
 これは、広末涼子と中谷美紀との演技力の差、久我美子と旧版で室田佐知子を演じた高千穂ひづるとの女優としての力量の差によるところもあるかも知れませんが、もう一つは、新版は、旧版なら常識とされていたことを説明的に描き出さなくてはならないということも与っているのではと思われます。
 例えば、「パンパン」です。1961年当時であれば、戦後15年くらいしか経過していませんから何も説明せずともかまわなかったと思われます。ですが、新版が公開された2009年時点では、「パンパン」についてきちんと説明しないと、実際の様子が分からない人が大部分となっています。
 そのためもあって、新版では、海岸の崖の上で室田佐知子と田沼久子(木村多江)とが対決したときに、回想シーンを長々と挿入せざるを得なかったと考えられます。その結果、室田佐知子を演じる中谷美紀の存在感が新版では増大したのではないでしょうか?

 この他、新版では、室田佐知子の夫である室田儀作(鹿賀丈史)は、唐突に拳銃自殺してしまいますが、旧版ではそんなことはありません(この点は、旧版の方が良いでしょう。なお、興味深いことに、『砂の器』で父親役を演じていた加藤嘉が、旧版でこの室田儀作を演じています)。
 また、新版では、室田佐知子は、原作通り日本海に小舟で漕ぎ出し自殺してしまいますが、旧版では自動車もろとも崖下に転落するとされています(これはどちらでも構わないでしょう。とはいえ、日本海に小舟で漕ぎ出すのを崖の上から夫が見守ると言うのが原作のラストですから、その前に夫が拳銃自殺してしまうのでは、この光景の意味がないことになってしまいますが)。

 こうした違いを取り出せばいくらでもありますが(旧版はモノクロで新版はカラーなど)、この辺で止めておきましょう。
 何も説明なしに映画造りに邁進できた1961年という時点と、何故今頃このような映画を制作する必要があるのかを問わざるをえない2009年という時点との差を、TVを見ながら感じざるを得なかったところです。

医学と芸術展

2010年01月07日 | 美術(10年)
 年中無休とのことなので、お正月休みを利用して「医学と芸術展」を見に、六本木ヒルズの最上階にある森美術館に行ってきました。



 本展は、「医学と芸術、科学と美を総合的なヴィジョンの中で捉え、人間の生と死の意味をもう一度問い直そうという試み」と謳われているところ、私としては、円山応挙、河鍋暁斎、それに松井冬子の絵を見ることが第一の目的でした。

 実際にはそれだけでなく、英国ロイヤルコレクション所蔵の「ダ・ヴィンチ作解剖図」3点や、ミケランジェロの「脚の解剖図習作」があったり、また、象牙製妊婦解剖模型も数点陳列され、ジャック=ファビアン・ゴーティエ・ダゴティの「切開された赤ん坊を抱く女性の解剖図」(下の画像)が展示されたりしています。
 こういうものを見ると、やはり東洋と西洋とは昔から関心の持ち方が酷く違うのだな、人体といった一つの客観的な物の細部の細部にまでこんなに偏執狂的に拘る西洋とは一体何だろうか、などと思わされたところです(注1)。



 なお、出口近くでは、思いがけずフランシス・ベーコンの「横たわる人物」(富山県立近代美術館)にも出会ったりと、この展覧会ではいろいろ収穫はありました。特に、日本には数少ないF・ベーコンの絵の実物を見ることが出来たのは何よりでした。

 とはいえ、何と言っても円山応挙、河鍋暁斎、松井冬子です。
 ただ、円山応挙は、「波上白骨座禅図」の1点だけですし(上の画像)、河鍋暁斎も2点の「骸骨図」だけです(開催時期によっては4点ほど加えられるようです)。ですが、前者は、波の上に骸骨姿の行者が座禅をしているという至極変わった絵ながら、骸骨の詳細なところまで描かれていますから、応挙には解剖学の知識がかなりあったように思われ、後者も、即興で描かれたにしては構図が実にしっかりしていて、これまた解剖学等の知識を十分に持っていたように思われ、驚きでした。

 最後は松井冬子です。彼女については毀誉褒貶が激しく(例えば、安積桂氏による酷評)、一昨年の上野千鶴子との対談も興味深いものがありながら(注2)、実際の絵はマダ見たことがありませんでした。それで、今回出品される絵はどんなものだろうと、いたく興味があったわけです。

 今回出展された作品は『無傷の標本』(下の画像)と題されています。裸の若い女性が中央に描かれていて、その女性の顔はかなり不気味ですし(白眼!)、右側には肋骨や胎児が置かれており、また絵の上部を占める大木も決して緑豊かな樹木というものではありません。ですが、従来のようにグロテスクな雰囲気が濃密に漂うものとはなっておりません。明るい色彩がふんだんに使われ、彼女の絵についてヨク言われる「死の影の隠喩」といったものよりも、むしろ生命力を感じさせるほどです。
 そういうところから、展覧会カタログは、若い女性の「姿は、ある段階の胎児の姿の隠喩であ」って、「この少女は、人間の進化の流れのある時点での「今」を描いている」と決めつけていますが、果たしてそんな単純なものなのかどうか、疑問なしとしませんが(P.280)。



 ブログ「Fujisaka Flesh」より

 なお、松井冬子氏については今更紹介するまでもないと思われるところ、1974年生まれの女流日本画家で、2007年に東京芸大・大学院・博士課程を出ています。在学中から注目され、既に様々な賞を受けるとともに、その画集も3冊ほど刊行されています。
 これだけ注目されるのは、その美貌と、描く絵の特異さによるところが大きいのではと思われます。それで1作毎に様々な評価に晒され、また彼女の言動が偏ったりしていることもあって、いろいろ非難を浴びたりしています。
 ただ、どのように言われようと、その絵が何かしらの鋭いインパクトを見ている者に与えることは事実であり、例えば「日展」などに出品されている気の抜けたような絵画(従来からの枠組みをただなぞっているだけの)などに比べれば遙かに優れているのでは、と思えるところです。
 
(注1)この展覧会に出品されている展示物のいくつかは、『「性」の表象』(サンダー・L・ギルマン著、大瀧啓裕訳、青土社1997)にも掲載されており、もっと違った文脈でこれらを読み解くことも出来そうです
(注2)一昨年のNHK・ETV特集「痛みが美に変わる時~画家・松井冬子の世界~」の中では、上野千鶴子氏と松井冬子氏の対談がありましたが、番組のナレーションで、「傷つき苦悶する松井の描く女たち」に「現代の女性に共通する心の葛藤を読み解く社会学者」と紹介されたからでしょうか、上野千鶴子氏は、松井氏の絵画を「自傷系アート」と名付け、「描かれているものから伝わる痛み、怨み、苦痛」の背後には彼女に中にそれを生み出すものがあるに違いないとして、「絵を描いている最中には何を考えているか」と質問します。ところがそれに対する答えが、「なにも考えていません。絵に集中していますから。考えているとしたら、技法のことだけです」との回答を得ると、「私は、その答えは不満だ」などと言い出す始末です。今をときめく上野氏であっても所詮社会学者であり、「芸術」のことは余り分かっていないのだな、と思ったところです。

謹賀新年

2010年01月03日 | その他
 明けましておめでとうございます
 今年もよろしくお願いいたします。

①風邪を引いてしまって実に冴えない年末でしたが、それでもお正月は、例年の如く、杉並の「大宮八幡宮」と渋谷の「氷川神社」に初詣に行ってきました。
 大宮八幡宮は、いつもは本殿に向かって鳥居の辺りまで人の行列が出来るところ、まだ午前中のせいか参詣人は少なく、参拝後、去年の破魔矢を納め、今年の破魔矢を買って帰りました(下は、2日の大宮八幡宮境内です)。



 氷川神社の方は、境内は広大なものの参詣者などいつもは殆どいない寂しい神社ですが、今年は本殿に向かって2列の行列が数十メートルも出来ているので驚きました(下は、2日の氷川神社境内です)。



②振り返ってみると

 昨年は5月の末から6月の初めにかけて「帯状疱疹」で10日近くも入院するという一大アクシデントに見舞われましたが、逆にそれで時間が取れたこともあって、それまで書き貯めてあった映画感想を基にこのブログを立ち上げてみた次第です。
 
 そういうこともあって、年初から半年余りの間の映画レビューは、単なる感想文に過ぎないものが多くなってしまっています。ただ、6月後半に掲載しました『愛を読む人』についてのレビューあたりからは、身を入れて書くようにしてきたつもりです〔一つは、映画評論家の見解を簡単にサーヴェイすることで、他の人の見方にもできるだけ耳を傾けようとしました〕。

 むろん、いくら身を入れようと一人で頑張ってみても、それだけで出来上がりが良くなる訳のものではありません。皆様からのコメントやTBによって、様々に指摘していただいたり様々の見解を知らせていただくことによって、一層の向上が図られるものと考えます。
 どうか今後ともよろしくお願いいたします。

③2009年のベスト3を挙げてみたら

 映画を観た数が昨年は89本(邦画40本、洋画49本)に過ぎず、またそれぞれの映画に評点を付すことをしていませんので、ベスト10を挙げるとなると重荷となりますが、まったくのお遊びということでベスト3を挙げてみたら例えば次のようになるでしょうか。

イ)邦画
・『空気人形』(ペ・ドゥナが素晴らしく、また映像という点でも、様々なことを考えさせるという点でも、随分と大人の映画になっていると思いました)
・『クヒオ大佐』(昨年大活躍した堺雅人の良さが一番出ている映画ではないかと思いました)
・『ドロップ』(監督第1作としては出来すぎではないでしょうか)

ロ)洋画
・『スラムドッグ$ミリオネア』(活気に溢れるインドの様子が随所に窺われるだけでなく、お伽噺として至極楽しい映画だと思いました)
・『グラン・トリノ』(イーストウッド自身が主役を演じている実に重厚な映画だと思いました)
・『イングロリアス・バスターズ』(大衆操作のため映画を巧みに使ったナチスを映画自体でやっつけてしまうという実に破天荒なストーリーで、大層楽しめました)

④新春にあたって

 今年は年間鑑賞映画の数を100本にするという目標をたて、あわせてより充実した映画レビューを書いていこうと思っています。
 また、映画のみならず、展覧会や音楽会にもこれまで以上に顔を出そうと考えております。

 どうかご贔屓のほどをよろしくお願いいたします。