映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

怒る西行(Ⅰ:映画編)

2010年01月19日 | 邦画(10年)
 ドキュメンタリー映画『怒る西行~これで、いーのかしら(井の頭)』をポレポレ東中野で見ました。

 時々覗いているに過ぎないブログ「映画をめぐる怠惰な日常」の昨年12月11日の記事に、この映画のことが取り上げられているのが偶然目に留まり、その記事からたぐっていくと、監督自身が、自分で「玉川上水沿いに井の頭公園に至る迄の散歩道を色々解説しながら歩いていく、ただ、ただ、それだけの映画」だと言っているようです。
 とはいえ、玉川上水のスグ近くに住んでいる者としては、それを取り扱っている映画があれば、どんなものであれ是非とも見たいという気になってしまいます。
 加えて、その映画が公開されるのが、これまで入ったことがない映画館「ポレポレ東中野」。出来るだけ数多くのミニシアターに顔を出せたらと思っているところ、これは格好の作品が見つかったものだと、密かに悦んだところです。

 映画館の方は、JR東中野駅のスグ近くで、『The ダイエット』を見た渋谷のUplinkのような雰囲気の建物(1階は飲食店)の地下にあります。ロビーは酷く狭いものの、客席数は100位あってマズマズの感じでした。

 さて、映画の方は、昨年4月に撮影されたもので、それこそ監督の沖島薫氏(1940年生まれ)が、アシスタントの女性と一緒に玉川上水の緑道を久我山から井の頭公園まで歩き、その間、随所で監督のおしゃべりが入るものの、殆ど全編、新緑の玉川上水を映しているだけのドキュメンタリー作品なのです。
 とりわけ目覚ましい風景や建物、遺跡といったものがあるわけでもなく、どこにでもありそうな川が細々と流れていて、その川岸の木々は繁茂していると言っても、格別珍しい植物が見つかる訳のものでもありません。この地に格別関心のない人にとっては、退屈きわまりない映画でしょう。

 その点は間違いありませんが、ただ、ジックリ見出すとなかなか強かな映画だとも言えそうです。
 というのも、監督のおしゃべりにはメロディライン(旋律)といえそうなものが3つ判別でき、それがフーガのように絡み合いながら玉川上水の映像に覆い被さっているのです。

 一つのメロディラインは、「冗談」でしょう。例えば、冒頭近くのカラスに頭を「どつかれ」た話→以前東京女子大があった場所を見て「夢がなくなりましたね」→ラストの駄洒落「これでいーのかしら(井の頭)」という具合。

 二つ目は「案内」です。
 冒頭で、出発点付近の地理を解説します。その後も、ところどころで、国学院久我山高校の方角を示したり、人見街道と交叉するところで「これから古い、今まで通りの玉川上水沿いの道に入っていく」などと、周囲の風景について簡潔に説明します。

 3番目は広い意味の「哲学」。
 出発点近くで、杉の木が少しまとまって並木を形成しているところを見て「神聖なもの」の存在を思ったり、「兵庫橋」に“既視感” を感じたり(ヴラマンクの風景画からも「いつもここにあったんだよな」という感覚を受け取ります)、赤松を見ると「必ず中世を思い出す」と言い、カーブしていて先が見通せない場所にさしかかると「この先どっかの庭園に入っていくのじゃないかという感じ」がし、チョッとした三叉路に差し掛かると「横尾忠則のY字路」をそこに見てしまったり(映画に、横尾氏の絵が挿入されます)、緑が濃いところに対して「山とか森の怖さ」を感じたりしてしまいます。
 こんな具合に、沖島監督は、周囲の風景の中に超越的なもの(宗教的なもの)をいくつも感じ取ってしまうのです。

 上で触れたブログ「映画をめぐる怠惰な日常」では、ブログ制作者のモルモット吉田氏のレビューが掲載されていますが、その中で氏は、この3番目の「哲学」めいた事柄に関して、概略次のように述べています。

 “冒頭から監督の「沖島自身が画面に姿を現す。事前に分かっていたこととは言え、恐怖を覚えた」が、それと言うのも、「沖島自身が時空間を歪める特殊能力を持っているゆえ、役者で起用すると映画全体の世界観に影響を与えかねない」からだ。”
 “元々、「こちら側とあちら側で違う時間や空間が存在しているような恐怖感に観る者を誘うのが沖島作品」なのだが、「川に沿って歩を進めながら沖島は川の向こうに建つ旧家を指差し、その時代を超越した家屋の構えに「これ、時間飛びますよ」とその異物感を語る。川の向こうへの幻惑を口にし、ありきたりの自然に囲まれた散歩道が異世界へと塗り替えてられていく」のだ。”

 やや生硬な語り口ながら、この論評から、沖島氏の手にかかると「ありきたりの自然に囲まれた散歩道が異世界へと塗り替え」られてしまう様子が理解いただけるのではと思います。

 ついでに言うと、この映画に対しては一部の評論家がかなり熱心にサポートしているようです。 ブログ「映画芸術DIARY」でも、監督の沖島勲氏と詩人の稲川方人氏のトークが掲載されています。その中で、稲川氏は、例えば次のように述べています。

 “沖島さんは「映画は哲学だ」と定義なさいましたけれども、西行法師の歌を援用しながら「人間はリセットできるかもしれない」という言葉を見出すところが非常に進歩主義的だなと、進歩的な哲学があるんだなと感じました。”
 “そういった非常にスリムな沖島さんの哲学がこの映画の中央に軸として流れているとすると、つまり玉川上水の中央に哲学が流れているとすると、その脇を平気で地元の人たちが自転車で通り過ぎたり、散歩の人たちが通り過ぎたりしていくことですね。あれが、この映画のダイナミズムだと思うんです。”

 稲川氏が言うように、この映画では、沖島氏がしゃがんで喋っているスグソバを、イロイロな人たちがひっきりなしに通り過ぎていきます。中には自転車に子どもを乗せて通り過ぎる母親もいます。こういう人たちにとっては、沖島氏の思いなど全然どうでもいい事柄でしょう。ですが、そういう人たちがあわせて映し出されている映画に、まさに「ダイナミズム」を感じざるをえないところです。

 こうしたフーガ的構造もあって、この映画を見ると大変不思議な感覚に囚われ、ソウであればなかなか優れた映画といえるでしょう。

 ただ、問題がないわけではないと思っています。
 
 というのも、『怒る西行』というタイトルを付けているからには、現在進行している「放射5号線」の建設工事に対する“怒り”が強く表現されているに違いないと期待したわけです。ですが、実際には、そのことについて監督はごく僅かに述べるに止まり、映画で専ら映し出されるのは、現在進行中の「放射5号線」の工事が及ばない三鷹市牟礼から井の頭公園までの道沿いの風景であって、その手前の杉並区久我山側の無残な光景はほんのチラッととしか映し出されないのです。

 ですが、映画では、玉川上水を取り巻く素晴らしい自然の姿が映し出されているのですから、それでいいのかもしれません。 
 実のところ沖島監督は、映画の中で、「余計なものを作ると、余計なものなのだから、100年も経てば、また木っ端微塵に消えちゃうと思っている」などとかなり過激なことを述べています。
 また、上で触れた稲川氏とのトークの中でも、「ちょっと古い家があっても「文化遺産」であったり、「ナントカ記念館」であったりして、今生きている家屋じゃない。黒々としたコンクリートやアスファルト の土台の上にオモチャのようにそうした家が立ってるんですね。そんなところには夢や幻想が生きていくための僅かな敷地すら残ってない。もう危機もどん詰まりまで来ちゃったなと、そういう怖さは感じます」とも語ったりしています。
 ですから、あえて開発の現場を映さずとも、むしろ残されている自然の素晴らしさの方を映し出すことで、そういう自然の破壊をする事業に対する抗議を行っているのだ、と考えるべきでしょう。

 ただ、現在保存されている道沿いの自然は、決して原生林などではなく、江戸時代に玉川兄弟が上水を開発した際に人の手によって作られたものに過ぎません。ですから、その維持管理に、現在でも多くの人手がかかっています。

 こうした自然の保護を強く主張するのは構いませんが、実際にはソウした事実があること(武蔵野の自然の景観が残っている場所と簡単に言えないのではないでしょうか)をまず前提にする必要があるのではと考えられるところです(極論すれば、人の都合で造成された自然なのだから、人の都合で改変することに何ら問題はないのでは、と行政当局に簡単に言われてしまいそうです)。

 とはいえ、一本の水路を巡ってこうした映画が制作され、上映回数が少ないものの一般に公開され、まずまずの観客を集めているというのは、画期的なことではないかと思いました。


★★★★☆